学術的自己紹介
万仲龍樹


  私は経済学に興味がある。しかし、現在の主流の経済学と呼ばれる学問の考え方とは異なったものであると思っている。どのように異なるかを今現在の私のあやふやな経済学に対する理解から考えると、まず一つはその人間観にある。
  有名な経済学者のJ・Eスティグリッツがこう述べている。「多くの経済分析の基礎を成すのは、人々はどんな機会に置いても費用と便益を比較検討するという合理的選択rational choiceを行なうという基本的な仮定である。」(J・Eスティグリッツ「スティグリッツ入門経済学」藪下史郎他訳 東洋経済新報社 P.46)このような仮定はおそらくどの経済学者でも浸透しているものであろうと思われる。
  しかし、ここでいう合理的選択とはどのようなものなのかについて、深い追求がなされているのかという点が常に疑問なのである。この合理的選択の仮定は人々が行動する際に、例えば、大阪へいくときに電車と自動車どちらで行くかという時にその費用と便益を比較検討するということだと思われる。電車で行けば「往復で500円程度ですむし、運転しなくよいから本も読めるし、酒を飲んでも大丈夫、渋滞に巻き込まれない。」などを考えるだろう。自動車でいけば、「電車賃よりもガソリン代のほうが少々高いけれど、4人ぐらいで行くことを考えると安くなるし、終電や時刻表などを気にすることはないし、予定外の行動が取れるという柔軟性がある。」などを考えるだろう。そして、その時の天気や時間帯や何のために行くのかなどを考慮に入れてどちらで行くかを決定するわけだが、その判断が人々によって異なるはずである。同じ合理的選択という言葉を使ったとしても、その人の持っている価値観によって費用と便益に分析が異なってくるはずである。
  ある人は「環境に配慮してなるべく電車などを使うべきだ。」として電車を選ぶかもしれない。また「電車は人込みだから嫌だ。」と言って自動車を選ぶかもしれない。このような判断は各人によって合理的だと思うか、非合理的なものだと思うかが異なるものである。しかし、我々の選択とは多くの場合このようなものではないだろうか。また、どのような食事を選ぶか、おなじカレーであってもなぜこの店を選ぶか、などはその値段などの目にみえるものだけではなく、「おいしい」といった主観的な感情が入り込んだ判断ではないだろうか。
  また、別の見解の異なると思われる点は、その学問の領域である。これは社会学や心理学などの分野でも共通していえることかもしれないが、そのような限定された枠組みはどうしても面白味にかけるのである。先程のスティグリッツの中ではこれについて、「経済学者は、人々はなぜ異なった見解を持つのか、またはなぜ嗜好が時間とともに変化するのかを研究対象にしたりはしない。これは重要な問題であるが、心理学や社会学や他の社会科学の分野の対象である。」(同上 P.47)と述べている。
  なぜ、このように自分達の学問領域を制限するのかは今の私にはわからないが、一つだけ言えることは自ら重要であると認識している分野があるにもかかわらず、それを別の学問領域のものであるから、と捨て置くことは私にとってどうしても納得できない、ということである。そして、総合政策学の重要性や必要性はそのような諸学問間の領域の狭間にある、大きな断絶に橋を架けることであると思われる。
  そのようなことをふまえて、私が構想するものは人々の感情(どのように人間は意思決定を行なうのか、合理性とはなにか、無意識とは何かなど)や風土性(これには地理的・気候的な差異のような自然環境だけでなく、人間社会という社会環境も含まれる。)、大衆消費社会論倫理学などを基軸にして、経済とはどのようなもので、そのシステムが社会環境や自然環境とどのような関係にあるか、などを分析することができるのではないかと思っている。
  このようなものの理論的な追求は、学問的な価値は十分あると考えられるし、また総合政策学の一つの類型となりうるのではないかと思われる。また同時に実践的な面でも、一方で経営学と経済学の隙間に入り込むことができるだろうし、また他方で政府の政策立案の過程などにも大いに入りこむ余地のあるものではないだろうか。そう考えると、よく言われる理論と実践の問題にも立ち入ったものであるだろう。



以上の構想を記すことで、私の学術的自己紹介としたいと思います。