学術的自己紹介

 

 「規範って一体何なんだ?」これが私の問いである。
 二、三年前、あるテレビ番組で一人の高校生が「何故人を殺してはならないかが分からない」というようなことを口にした。周りにいた大人達や高校生は、かなり驚いたみたいでその高校生に意味不明の返答をしていた(少なくとも私にとっては意味不明の返答だった)。彼ら(彼女ら)にはこの高校生の発した問いの意味を理解できなかったのだと思う。
 この高校生の問いの意味を私なりに解釈してみる。
 今まで人を殺してはならないというふうに教わってきた。人を殺してはならないということは当たり前のことである。何故当たり前なのか。
@「人間はみな平等だから。」
A「もし誰かをあなたが殺したり、誰かがあなたを殺したりしたらあなたの周りにいる人が悲しむでしょう。そんなことしていいわけがありません。」
B「あなたは殺されたくないでしょう。だから同じようにあなたも他の誰かを殺してはならないのです。」
以上が想定される答の例だが、これらは全て問題のすり替えに他ならない。すなわち、@ABのような答は
@'「何故人はみな平等なのか。」
A'「何故周りにいる人を悲しませることをしてはならないのか。」
B'「私が殺されたくないからといって何故人を殺してはならないといえるのか。」
等々の疑問を新たに生むにすぎないのである。
 あの高校生は後者の方の疑問について問うていたのだと思う。しかし周りにいた人はその疑問を疑問として受け付けていなかったのだ。だから意味不明の答しか発することができなかったのだ。何故あの疑問を疑問と思えなかったのか。それは彼ら(彼女ら)にとって@'A'B'は当たり前のことだからである。しかしあの高校生や、私に言わせればそれらは全然当たり前のことではない。
 そもそも「当たり前だ」という言葉は、「それ以上の理由は聞くな」というふうにしか私には聞こえない。そこに私はある種の圧力を感じるし、それに怖さを感じる。
 では、私にとってそれはどのように当たり前ではないのか。
 私という人間のあり方と、その他の人間、他者のあり方というのは全く違うものである。私は私の痛みを感じることはできても、他者の痛みを(実際に)感じることはできない。私の手は自由に動かせても、他者の手は自由に動かせない。あなたは人間のように見えるけれどもその実「本当に」人間であるかどうかはよく分からない。
 このように私と、あなたは違う人間(人間でさえないかもしれないが、少なくとも違う存在)である。
 ところで、「人を殺してはならない」という人でも、目の前を飛ぶ蚊を殺すことはある。何故人は殺してはならず、蚊は殺してよいのか。その人はこう言うだろう。人は同じ人間であり、蚊は人間とは違う動物だからだ、と。
 ちょっと待てよ、と思う。自分と他者は違う人間だったはずだ。「私とあなたは同じ人間だ」と人はいう。「私とあなたは違う人間だ」とも人はいう。何故全く相反する言葉が平然と使われるのか。
 もちろん「私とあなたは同じ人間だ」と人がいうとき、それは種として同じ人間だといっているのであり、「私とあなたは違う人間だ」と人がいうとき、それは個人として違う存在だといっているのである。
 規範というものは常にそれが適用されるカテゴリーというものを持つ。「人を殺してはならない」という規範は「ヒト」という種のカテゴリーの中で適用されている。何故か。「人は同じ」だからである。しかしヒトの中でも「わたし」と「あなた」は違うカテゴリーにいる。では、「人を殺してはならない」という規範を「わたし」のカテゴリーにおいて適用することは何故できないのか。少なくとも「ヒト」という種で分類することと「わたし」という存在で分類することに決定的な差を見出すことはできない。
 それどころか、種による分類においては、種は進化論からいえば連続的な存在であるのに対し、「わたし」と「あなた」の違いは連続的ではなく、決定的な断絶がある、といえる。「わたし」は「わたし」でしかありえないからだ。この断絶を意識するなら、「同じ人間なのだから、殺してはならないのだ。」という規範はピンとこない。「全然違うじゃないか」と私は思うのだ。そして、あの高校生もこのような事を感じていたのではないか、と私は想像する。

 では一体「人を殺してはならない」という言葉は何故過去から現在にいたるまで、こんなに受け入れられているのだろうか。そこにはきっと何かがあるはずだと思う。
 その「何か」を見出すために、少し考える方向性をかえてみようと思う。
 「何故人は人を殺してはならないか」と問う私は、決して自分を殺したり、自分を傷つけたりしない。私の周りにいる人達を殺したり、傷つけたりもしない。何故か。「人を殺してはならない」という規範があるからではない。「殺したくはないし、傷つけたくはない」からだ。この「〜したくない」というのが手がかりになると思う。
 私が他者(周りにいる人)を殺したくはないという感情と、私が私を殺したくはないという感情は全く同一ではないかもしれないが、連続性を持っていると思う。この連続性はどこから来ているのか。私は実際には自己を唯一点としての存在として捉えているのではなくて、空間軸、時間軸の下で「わたし」という存在を捉えていることに由来するのだ思う。すなわち、無時間的、無空間的な「わたし」ではなく20世紀の日本における吉本陵という名前を持つ存在として自己を捉えているのだと思う。
 このように考えると、自己と他者は確かに異なる存在ではあるが、前に触れたような決定的な断絶はなくなり、連続的な存在になる。自己と他者の関係性が時間軸、空間軸を取り入れることで、有機的、相互連関的なものになるのである(「私だけがいる」のではなくて「あなたがいて、私がいる。」「私がいて、あなたがいる。」という関係性が生まれる)。ここに倫理とか規範と呼ばれるものを生む基盤が生まれてくるのだと思う。それらはア・プリオリに私達の世界に存在するものではなく、「〜したくない」という感情から生まれてくるもの、作り出すものなのではないか、と思う。
 このように、自己と他者とを相互連関的に捉えることから何が生まれるのか。私はここに我々の規範の基本的な原理である、相互性の原理が成立すると思うのである。上で見たように自己を唯一点として捉えた場合、「あなたは殺されたくないでしょう。だからあなたも他の誰かを殺してはならないのです。」という相互性の原理に則った言明は力を持たない。「私は殺されたくないが、あなたを殺したい」とか「私は殺されてもいいので、あなたを殺したい」という反論に対していう言葉を持たないからである。
 しかし、自己と他者を連続的なものとしてとらえると相互性の原理が成立しうる。個と個との間では相互性の原理は成立しないが、集団と集団の間では相互性の原理は成立する余地があると私は思う。すなわち「私達があなたたちの誰かを殺さないように、あなたたちも私達の誰かを殺してはならない。」というように。この時、「人は人を殺してはならない」という規範を受け入れうる場が出現するのではないか、と思う。

 しかしながら、仮に集団間の相互性の原理が成立するとしても、まだ問題は残る。自己を唯一点としてみる見方よりも自己と他者を連続的に見る方が正当性があるとはいえていないし、そもそも正当性とは何なのかが言えていない。さらに人が人を殺すという極限状態で果たして倫理や規範は有効でありうるのか。すなわち、「人が人を殺してはならない」ということをそれらで根拠づけるのに何程の意味があるというのか。ここまで来ると、一体私は何を問うていたのかも分からなくなる。

 謎はまだまだ続くのである。