万仲龍樹
政策という点が強調される総合政策学部の中で、「なぜ、環境思想なのか」。一般に「環境政策」といったときに出るイメージは、炭素税や取引可能な排出許可証制度などであると思われる。それらの政策は短期的視野に立った政策であると思われる。どのような意味で短期的なのかというと、「環境破壊がおこっている、それをいかにして解決するか」、ということに力点が置かれ、その環境破壊の生じた源泉と思われる西洋近代の人間の思考構造自体はさほど(ほとんど)考慮に入れない点である。そのような短期的視点の政策の重要な点は、現前している問題の解決に対して、即効性のある対処が行なえることである。一方、問題として考えられる点は、対処療法(特効薬)であるため、問題の根本的なものに対しての対策が取れないのではないか、ということである。
他方で環境思想は、二酸化炭素の排出量の増大やフロンガスを減らすことのような、直面している問題に対して直接的で有効的な対処が取れないが、それらの問題を生み出している根本的な問題である、近代人の思考構造や社会構造などに対して目を向けることができる。そのような考察は、古代、中世、近代、現代と続く歴史の流れの中や、東洋、西洋といった空間的な枠組みの中で、現在を相対化し、その問題点を見出すという長期的なものなのではないか。そのような態度は対処療法に対して、体質改善(漢方薬)ということができるだろう。
このように、環境思想の必要性について考えているわけだが、それは決して短期的な視点からの政策に取って代わるものであるとか、優越しているものであるというものではない。それらは自転車の2つのタイヤの様になくてはならないものである。逆にいえば、政策立案においても思想は必要不可欠なのである。政策立案の際に、われわれは真空状態でなにものにも依存しないというわけではない。その時代の人間観、世界観、科学観などの価値観の中から立案するのである。したがって、思想的な領域からの反省を伴わない政策立案は一つの価値観を普遍的なものと考える、一面的なものにしかすぎないであろう。
ここでは、西洋近代の思考構造を問題としているわけだが、その思考構造は決して普遍的なものではなく、歴史の流れの中で出現したものである。それをいかにして乗り越えるか、というときに西洋近代の思考の枠組み自体から解体していくのか(それは脱構築と呼べるだろう)、もしくは外から、換言するならば、非西洋、非近代的な思考の枠組みから解体していくのか、という問題が出てくる。
今回は、西洋近代の思考の枠組み自体がその解体をどこまで行なうことができるのか、という点を追求していく。
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