ここでは、様々な環境思想を考察する際の基本的なスタンスを述べます。
万仲龍樹
◎自然学の本質は人間学である。
人間の自然に対する態度は、人間の人間に対する態度は酷似している。近代に入り、科学のめざましい発展があったとされる。近代の科学の特徴は「物事の予測と制御」(『グリーン』P.33)である。それは機械論的自然観という表現の裏返しである。自然を機械としてみることで、それを制御し、支配しようとする。このような思考構造で自然だけでなく、人間をもとらえる。例えば、心理学が人間の心の動きをとらえ、予測しようとする。そのような人間支配の欲望はナチスによる大衆操作というかたちで実現された。ソーシャルエコロジーはこれを指摘し次のようにいう。「ヒエラルキーが続くかぎり、エリート制度によって人間が支配されるかぎり、自然支配の企図は存在しつづけ、必然的にわれわれの惑星をエコロジー的絶滅へと導くだろう。」(『グリーン』P.55)
◎他者の問題==自然、将来世代
一つの大きな問題として、他者をどのように考えるか、がある。共同性の崩壊、個人性の突出と言い換えられる。例えば、ハーディンの『共有地の悲劇』であろう。合理的に行動する個人が、自分の利益を最大化しようとしたときに起こす行動は、自分の思考の枠の中のみのものなのである。一人の牧人が牛を一頭増やしたとしても、共有地である牧草地にかかる負荷は、わずかなものである。だから増やしてもかまわないという判断をとる。しかし、どの牧人も自分個人にとって都合よいように合理的に判断するのだから、だれもが同じことを考える。したがって共有地の悲劇が起こるのである。
この悲劇は自分のことしか考えず、他者のことを考慮に入れないために起こるのである。これは共同体の崩壊による問題と考えられる。ここでの他者はさらに、南北問題における先進国の途上国に対する問題ということができる。同様に、現代世代と将来世代の資源の配分の問題という世代間倫理にもつながってくる。
また、他者を人間と人間の関係の中で考えると、「他人」を指すことになるが、人間と自然の関係の中で考えると、人間にとって自然は他者となる。自然に対する配慮のない行動、すなわち、資源と見なし、支配しようとする行動は自然と人間の共同体である、生態系の破壊につながるであろう。
◎近代の重要概念==自由、権利、平等、科学
この考察の中で、近代性ということについて問題視しているわけだが、近代において生まれてきた概念、意味がそれ以前と変化した概念について注目する必要がある。例えば、個の自由、様々な権利、平等、科学、といったものがあるであろう。
これらが西洋近代の思考構造として問題となるものである。われわれはこれらの概念の上に生きているため、あまり意識的にそれらを考えることはない。しかし、個の自由(権利や平等によって強化される)や科学という概念が環境破壊を引き起こした源泉であると考えられる。だからこそ、これらの概念を再考する必要性があるが、それを行なうわれわれ自身が近代の思考構造をもっているため、どこまで徹底した再考ができるかが問題となる。
例えば「樹木の当事者適格」では、いかにして樹木(自然物などに拡張される)は法廷に立てるか、つまり、人間と同じような権利を持つことができるか、ということを述べる。それは、現状の権利概念の拡大ということでわれわれが自明と考える「人間は法廷に立つ権利を有する」という思考方法に対する相対化とみることができる。しかし、一方で現在の権利概念自体の問題点を考慮しないという点で現状肯定、近代性を強化しているとみることもできる。
また、「ディープエコロジー」は、生命圏中心主義という概念を提出する。人間も他の動物や植物と同様に生命の網のなかにいる存在である、と述べることによって、自然を資源としてみる人間中心主義的な思考構造からの脱却をめざす。だが、その構想を実践にうつす際に、近代の個人性の一つの特徴である個からの構築という枠の中にとどまることになる。