上野山晃弘
現代環境倫理を概観した上で、わたしたちに残された課題は、まずは次の1点に絞られる。
「近代性を背負うわたしたち自身がどのように近代性を反省するのか」
わたしたちがこれまで既にみてきたように、さまざまなレベルで表現される倫理思想を、ただ一義的に評価することはできない。なぜなら、思想が扱うのは、実践の局面において見過ごされる価値の多層性であり、そこには、歴史や文化の違いを超えた多角的なアプローチが必要だからである。すでに倫理思想においても、古代的な価値観や、非西欧世界の価値観が提出されていた。また、環境倫理としては出版されていなくとも、宗教、芸術、哲学、文化論などさまざまな場で近代に囚われない発想の泉を垣間見ることができる。わたしたちはそこから、どのような意味を受け取るのか、そこに今後の大きな課題がある。
これまで見てきたように、知が、他者との連関過程において、環境世界が織り成す多様な意味に耳を傾け、己の位置を自覚するという本来の意味を失ったとき、それは同時に、そのような他者との親密な関係を無価値なものとして切り捨て、己を絶対化する事態への転ずることとなった。そのとき、知は、他者を操作するための手段として、道具的知へと貶められてしまった。そのような知のあり方を問いなおす学のあり方が、さらなる課題として挙げられる。
学とは、独断へと傾く知のあり方を絶えず反省する任務を背負ったものである。そうである以上、人間学において問われている課題は、他者との親密な関係を、自らが背負う近代的知との緊張関係の中で、いかに表現していくか、ということにかかっている。構築的な思考構造にとっては、制御的な発想は意味をなしえないものであった。というのも、いかなる条件にも左右されずに自らの構想を完全に実現することが、構築者の目的であるからだ。その目的にもとに、すべては収斂され、手段として搾取されることとなる。反面、制御的な発想にとっては、まさにそのような構築的思考構造を一手に引き受ける個の意志の沈静と、同時に広がる共同の世界の快復がイメージされる。それがイメージである限りにおいて、実践の局面に至っては、後者もまた、支配構造の解体という能動的作業へと着手することになる。そのとき根源的な問いとしての近代性そのものは忘れ去られてしまった。どちらも、片方だけでは欠けるところがある。上に述べた近代的な知のあり方からの解放という緊張関係のただなかにこそ、わたしたちは踏みとどまる必要がある。
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