動物の権利の擁護論


トム・レーガン『動物の権利の擁護論』
Tom Regan, "The Case for Animal Rights", Chapt.9, in Implications of the Rights View, pp.330-334,347-351,359-363,392-398


吉本陵
 「動物の権利を与える」といっても、その論じる内容はそれぞれの立場によって微妙に異なる。動物には生存権があるので、動物を意図的に殺すことは一切許されないことであるとし、肉食は動物の生存権の侵害であるから、人間は菜食主義になるべきだ、と主張するトム・レーガンのような論者もいれば、そこまで極端ではないが、少なくとも、ブロイラーなどの工場畜産や、一部の動物実験は、動物の権利の侵害になっているので、やめるべきであると主張するピーター・シンガーのような立場の論者もいる。
 しかしながら、全ての動物開放論者の主張に共通していえることは、人間による動物の搾取(程度の差はあれ)は、動物の権利の侵害であり、それを違法とする法システムを作り上げるべきである、とする考え方である。このような考え方の基盤にあるのは、人間による動物の支配構造は人間社会における支配構造(人種差別、性差別など)とパラレルなものであり、この支配構造が、科学の技術の進展によって強化されてしまったことが近代市民社会の影の部分である、とする考え方である。
 例えば、工場畜産を批判する論者が、畜産産業に見出す支配構造とは以下のようなものである。
 遊牧民も、畜産産業も、家畜をその生活(もしくは利潤)の元手にしているところは共通である。しかしながら、この二者の間では、動物にたいする考え方が決定的に違う。
 遊牧民にとって、家畜はいわば「資本」である。「資本」が生み出す所得(乳製品)は消費するが「資本」自体を消費することは基本的にしない。人間にとって家畜はその生活を支える食糧を生産してくれる存在である。「ふれてはならないもの」としての「資本」である家畜は、人間社会において尊重される。
 反対に畜産産業にとっては家畜そのものを利潤を生み出す源としてみる。家畜は、所得を生み出す手段にすぎない。そして畜産産業は手にした科学の知見と技術でもって、最小のエネルギー投入で、最大の利潤を得ようとする。ここを動物開放論者が批判するのである。すなわち、効率性を追求することはすなわち動物を手段としてしか見ていないことを意味するからである。これが人間による動物の支配でなくて、何であろう。
 ここから、動物開放論者は「動物の権利」という概念を持ち出す。「動物の権利」の根拠付けとして、シンガーは「苦痛を感じる能力(1)」であるとか、「権利の拡張(2)」であるとかを挙げる。しかし、彼らにとって、「動物は権利主体でありうるのか」という問題は本質的な問いとしては考えられない。事実、彼らはヨーロッパ人がフランス市民革命で手にした「人権」が人間社会にとっていかなる影響を持っているのか、そしていかなる意味を内包しているのか、またそもそも「権利概念」とはいかなるものなのか、については論じることはない。何故なら彼らの意図するところは他のところにあったからである。その意図とはすなわち、これまでに何度もふれてきた支配構造を脱却することなのである。動物開放論者にとっての「動物の権利」とは人間による動物の支配構造をなくすための手段だったのである。
 この意味で動物開放論者が持つ視野は非常に短期的なものである、といえる。確かに「権利」とはいかなるものであるか、を問うことは、耳を覆いたくなるような動物実験(3)をやめさせることに関しては直接役立つことはない。だから、ディープ・エコロジーを主張する人々はそういう問いをたてることはない。彼らがなすべきことは、権利概念について思考をこらすことよりもまず、動物が権利を持っていることを前提にした上で、人間と動物はいかなる関係性の下に共存できるかを考えることだったのである。



(注) (1) 「手始めに、他人が苦痛を感じていると個々人が考える根拠は何だろうか、と問うのが一番よい。苦痛というのは意識の一つの状態、、「心的出来事」であるから、直接観察することは絶対に出来ない。行動に現れる身悶えや叫び声といった兆候であろうと、生理学的、神経学的な記録であろうと、どんな観察も苦痛そのものの観察ではない。苦痛とは自分が感じるものであり、他者が感じている苦痛は外部に表れる様々な指標から推測することしかできない。他者が苦痛を感じることを疑ってみたのがこれまで哲学者だけだったという点からも、人間についてはこの推測が正しいと考えられていることが分かる。」p.191

(2) 「黒人解放や同性愛者の解放、その他の様々な解放運動のことはよく知られている。女性の解放が成し遂げられたとき、解放を目指す我々の歩みは終わるのだと考えた人もいる。性に基づく差別は人種差別反対の伝統を自負するリベラルな集団にさえ見られるもので、普遍的に受け入れられ堂々と行われている差別の最後の形態だといわれてきた。だが「差別の最後に残った形態」と言おうとするときには、いつでも慎重でなければならない。我々が解放運動から何がしかを学んだのなら、厳しく指摘されるまで自分がどんなふうに差別しているかなかなか気づかないものだということが分かっているはずである。解放運動は道徳の地平の拡大を求めるものであり、その結果、それまで自然で不可避だと思われていた慣行が今では許し難いこととみなされるようになったのである。」p.187

(3) 動物実験の例
「ピッツバーグ大学のO・SレイとR・Jバレットは、一〇四二匹のマウスの足に電気ショックを与えた。次に、この動物の目にお椀型の電極をあてがうか、耳にバネばさみをとけて、そこからさらに強い電気ショック与えて痙攣を起こさせた。不運にも、幾匹かは「初日の訓練を成功裡に終了したものの、第二日目のテストに入る前に病気になったりしてしまったりした。(「比較・生理心理学雑誌」、Journal of Comparative and Physiological Psychology, 1969, vol.67, pp.110-116)

「多くの非常に多様な物質によって、(猫に)反復性の反応パターンが得られた。吐き気、嘔吐、排便、唾液の増加、息切れを起こす呼吸作用の増進が共通した特徴であった・・・(猫の脳内に多量のツボクラリンを注入すると猫は)台から床に飛び降りまっしぐらに檻に跳び込んだ。檻の中で猫は落ち着きなく発作的に動き回りながら、ますます騒々しく鳴きはじめた・・・最後に足と首を折り曲げて倒れて、小刻みな間代性の痙攣を起こしたが、その症状は「癲癇性」の痙攣であった・・・二、三秒して猫は起き上がり、二、三メートル疾走してから、また発作を起こして倒れた。そのあと十分間、この経過がそのまま数回繰り返されたが、その間猫は下痢をし、口から泡を吹いた。・・・この動物(猫)は、結局脳への注入から三十五分後に死んだ。」(Journal of Physiology, 1954,Vol.123, pp.148-167)

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