動物の権利


ピーター・シンガー『動物の解放』
Singer, P. 1973. Animal Liberation. The New York Review of Books, Section 20 (April):17-21. Reprinted by permission of Peter Shinger and The New York Review of Books.

M・A・フォックス『「動物の解放」−−一つの批判』
Fox, M.A. 1978. "Animal Liberation : A Crtique." Reprinted from Ethics88 (January) 106-118,. by permission of the University of Chicago Press. 1978 by the University of Chicago. 0014-1704/78/8802-002801. 16.

国広創
「動物の解放」 ピーター・シンガー

○目的
 「本書は、人間以外のものに対する我々の態度を完全に改めることを求めている。ほかの生物種の搾取を自然で不可避なことと見なすのをやめ、かわりにそれを打ち続くどうと苦情の犯罪と見なすように求めている」
一般に人間以外のものを不当に扱う理由
 「正義を求めるのは等しいものを等しく扱うことだけだから、人間と人間以外のものを等しく扱わなくとも、決して不正なことにはならない」
 ・・・人間は知性、統率力や合理性といった知性や能力において平等であり、その点で人間以外のものは人間と同等ではないといえる。そこから、人間と人間以外のものは平等ではないのであり、そのために等しく扱わないことは不正にはならないとする。
 ○それに対するシンガーの反論
 「人種や性の間にこの種の遺伝的差異がないというのはあくまで想定である」p189
 ・・・人間自体が平等であるというのは、実はあくまで想定であるという。そのような想定によって、動物を不当に扱うのはよくない。
        ↓
 そこから、平等の本質的基礎としてベンサムの
「各人を一人と数え、だれのことも一人以上には数えない」p189
 つまり、利害を持つすべての存在者の利害を配慮し、どの存在者の利害も他の存在者の同様な利害と等しく扱うべきだということである。そして、動物を道徳的平等に扱うことの根拠として、動物は苦痛を感じることであるとしている。
●動物が苦痛を感じる根拠として・・・
 「他の哺乳類と鳥類が苦痛を感じると信じる根拠は、他人が苦痛を感じると信じる根拠にきわめて類似している」p194
 ・・・他人が苦痛を感じるという推測によって、他の哺乳類と鳥類が苦痛を感じる根拠としている。

「種差別の論理がもっともよく現れているのは、人間の利益のために人間以外のものを使って実験するという慣行である」p197
「研究者達の振る舞いは我々全体の種差別的な態度が許しているものだということである」p198
・・・人間以外のものには実験を行うが、人間の幼児にはしない。

「我々の他の主に対する態度の核を成しているのは食料としての動物の利用である」p201
「人間以外のものは実用品、我々の目的のための手段であるという考えは、我々の思考のすみずみにまでいきわたっている」p201
・・・人間は動物を手段としか見ておらず、その例としては工場畜産があげられている。そして、その生産に携わらなくとも、その生産物を買うことで、工場畜産を人は支えているとしている。
 ●それに対して・・・ 
 「すべての家畜が、最低限自由に向きを変えることができる空間を与えられるべきであるとしている」p203
 ・・・「家畜は家畜としての状態しか知らないのだから、それを苦しいとは感じない」(p204)という主張にも、鶏という家畜といえども羽を伸ばしたりするものであるとして、それができないとうことは苦痛であるからすべきでないとしている。
結論
「だがそれは、人間以外のものに対する自分の態度が偏見の一形態であり人種差別や性差別に劣らぬ避難に値する態度であることに、一人一人気付いてもらおうという挑戦なのである」p206
「動物解放には、他の解放運動以上に人間側の利他主義が必要である」P206

評価

 人間と動物は異なるものであるという壁をいかにして取り払うか。そこでシンガーは、すべての人間と動物は苦痛を感じるという想定によって、両者を連続的に捉え、類似性を持たせようとする。そうすことによって人間の自己中心性からの脱却の糸口を見いだす。もっとも、動物が本当に苦痛を感じているのかと疑問を持つことはできる。が、むしろ人間の自己中心性にシンガーなりのアプローチで糸口を見いだしたことこそ評価に値する。なぜなら、動物の解放とはすなわち人間の解放を意味するからだ。シンガーの理論は動物に何かをする権利を与えるのではない。動物に何かをする権利を与えるのであれば、人間の権利の拡張だけであって、人間の自己中心性になんら疑問を投げかけるものではない。シンガーの理論は、苦痛を与えられることのない権利を想定するということであり、それは人間の盲目的な権力行使の拡大ではなく沈静を意味する。


奥野将彰
「動物の解放」ー一つの批判 マイケル・A・フォックス
著者はピーターシンガーの「動物の解放」をうけて、次のように主張している。
「シンガーとレーガンは、快適さを感じたり苦しんだりする動物の能力が、彼らの主張するこれらの論理的帰結と道徳上本質的に関連のある唯一の事実だと考えているのである。(p.209)」
「われわれが動物の福祉や搾取に関心を持つべきであるからといって、動物に権利があると認めねばならないということが正当化されるわけではなく、また、それが論理的に導き出されるわけでもないのである。(p.210)」

つまり、動物に快・不快があるからといってそれが動物に権利があるという唯一の事実としていいものかどうかと問いを発している。

「シンガーとレーガンの主張するところでは、人間に道徳的権利を付与するための基礎として用いられる特徴はすべて普遍的な特徴でなければならない。つまり、例外なくあらゆる人間が持っている特徴でなければならない。(p.215)」
「苦痛と快楽を経験する人間の能力でさえ、すでに述べたように、完全に普遍的であるというわけではない(p.216)」

果たして、苦痛と快楽というものは人間に普遍的な特徴なのだろうか。もし、そうだとすれば、確かに動物も人間と同等の普遍的特徴を持つのであるから、動物に権利があるといえるかもしれない。しかし、著者は「先天性全身無痛覚症」などの例を挙げ、その問いを否定する。

では、人間が権利を持つに至るために必要な能力というのは何であると筆者は述べているのだろうか。それは以下のことである。

「私が論証しようとしていることは、(苦しんだり楽しんだりする能力以外に)人間が権利を持つ理由を説明するのに本質的な点で関連している特徴は、ある種の意識、特別の認識能力や言語能力、責務を理解し、引き受け、実行し、そして、同様の存在に同じ責務を期待する能力であるということである。(p.219)」

なんのことはない。単に「まっとうな社会生活を営む」それしか言っていないのである。別な言葉で言えば「コミュニケーション能力がある」といえばいいだろうか。従って、動物の道徳的権利について語ることは無意味であるといえる(彼らに一連の能力はないのだから)。

著者は、シンガーの次のような言葉から自身の結論を導き出している。
「正当化の責任は常に、快苦を感じる能力のある生き物に対して無視し得ない不当な苦痛を与えるとわかっている行いを支持する側にあるのであって、この側に立つ人は自分は何一つ不正なことをしていないのだということを示さなければならないのである(p.229)」

「適切な食事や世界の食糧危機、さらに平均的生活費を考慮した場合、どれだけの肉の量なら消費することが許されるのか、また、どんな種類の薬品や化粧品が不可決であるのかを関係者一人一人がよく考え、工場畜産を廃止し、動物を用いた実験や製品検査に対して厳しい規制を制定するよう議会に働きかけるべきだ(p.229)」

この二つの論文を読んで思うことだが、やはり、動物の解放を言いながらその実、「人間の正しい在りよう」みたいなものを解明させようとしているのではないだろうか。ただ、それが「社会における人間の在りよう」というだけでなく、動植物等、人間の周りの環境社会も組み込んだ上での「環境における人間の在りよう」を問いただしたかったのではないか。ボクはそんな気がしてならない。

「人間とは何か、動物とは何か、その違いは?」「道徳的権利とは?」「道徳的権利を獲得するとはどういうことか?」

その意味で言えば、真の「動物の解放」というものはまだまだ先のことになりそうだ。

BACK