ディープエコロジー



アルネ・ネス『手段は質素に、目的は豊かに』
Arne Naess, "Simple in Means, Rich in Ends", in Environmental Philosophy, pp.182-192

ビル・デヴァル/ジョージ・セッションズ『ディープ・エコロジー』
Bill Devall and George Sessions, Deep Ecology: Living As if Nature Mattered, pp.65-70

ワーウィック・フォックス『トランスパーソナル・エコロジーに向けて』
Warwick Fox, Toward a Transpersonal Ecology: Developing New Foundations for environmentalism, pp.249-258


吉本陵

 「ディープ・エコロジー(deep ecology)」はノルウェーの哲学者であるアルネ・ネスがその論文の中で発表した造語である。彼は「ディープ・エコロジーの本質は、科学としての生態学(エコロジー)や私がシャロー・エコロジー運動と呼ぶものに比べ、より深く疑問視することにあります。『深い(deep)』という形容詞で強調される点は、なぜ、いかに、と他人が問題視しないことを私達はするということです。」という。
 ここで、彼がいう「深く疑問視する」というのは例えば「豊かであるとはどういうことなのか」と問うことである。通常の解答は「GNPが増加した」ことであるとか「所得が増加した」とかということであろう。このように「豊かである」ということは経済的に豊かであることとして通常使われる。しかしそのことをディープ・エコロジーでは疑問視するのだ、というのである。
 では、ディープエコロジーにとっては何が「豊か」なことなのか。それは「自己実現」を果すことである。「自己実現」の「自己」とは単純な「私」とか「あなた」とかいう個別的なものではない。「自己」とは家族、友人から始まって、人類、さらには人間以外の全ての存在物との一体性の産物なのである。その一体性を感じることがディープ・エコロジーの言う「自己実現」なのである。
 また、ディープ・エコロジーは、「あらゆる生命体は原則的に生きる権利と繁栄する権利を持つ」ということをその規範の一つとする。このことは、生命の多様性を保持しようとすることであり、多様性に価値を置くことである。こうして、全ての存在物と一体感を感じる契機が現れることとなる。 これらのディープ・エコロジーの主張は端的に言うと何を表しているのであろうか。それは、価値観、世界観の変革なのだ。ディープ・エコロジーがその仮想敵とする対象はデカルト主義的な心身二元論であり、人間と自然を対立的な構造のもとにとらえる見方に代表される近代性なのである。
 ネスは、「ディープ・エコロジーには宗教的要素や根源的な直感があると言ってもいいでしょう」という。近代科学がその権威を失墜させ、また蔑んでもきた「宗教」や「直感」こそが価値あるものだ、というのである。ネスのいう「直感」とは近代的な考え方をする人にとっては不完全な情報だけで、判断を下す能力のことなのだが、このような発想が出てきたことの裏には直感を軽視し、合理性を神格化した近代にたいする反省があるのだ。
 近代における個人というものは理性を持ち、それを用いて判断(理性的な判断)を下すことができる主体である、とされる。ここでいう「理性的な判断」は「あやふやさ」を許さない。「あやふやさ」を一切排除して、ありとあらゆる情報を自分の手元に置き、そこから「正しい」判断を下すことこそ「理性的」である、といえるからである。すなわち、近代人は判断を下すべき根拠となる情報を手にしなくてはならない。ここに、人間が対象にたいして能動的に働きかけることとなる出発点があるのであり、それがつまるところ対象(自然)への操作性に行き着くのである。特に、近代以降は科学技術の急速な発達によって、人間が自然に対して持つ操作能力は爆発的に向上した。このことの帰結が、現代顕在化している深刻な環境問題なのである。
 ディープ・エコロジーの人間観は、「人間は全体の中の一部分であり、その意味では特別な存在ではない」というようにまとめられる。だからこそ人間は、他の動物や植物、さらには生態系全体、宇宙全体との一体感を感じることができるのである。もちろん人間の地位が他の存在物より低いということではないが、全ての存在物は等しく自己実現を果すこと権利を持つのである。この権利は、個別の存在物に与えられるものとは考えられない。これは全体主義的な考え方であり、動物の開放論者の批判するところでもある(「動物の権利」参照)。

評価
 ディープ・エコロジーは人間の「直観」を重視する。それは、近代性の申し子たる合理性に対するアンチテーゼであった。しかしながら、その直観はどこから出発するのであろうか。個人の直観する能力からなのである。ディープ・エコロジーは、人間中心主義を脱却し、全ての存在は互いに連なる一つのまとまりであるという世界観を提出したのだが、その出発はあくまで個々人の個別的な能力に頼るものなのである。これはあくまで近代に生き、その価値観の下で人生を歩んだアルネ・ネスの超えようのない限界であったのである。
一方で、ディープ・エコロジーはあくまでも「直観」を「理性」の上に置く。「理性」で世界をとらえるにはあまりにも世界は複雑であるからであり、その複雑さの前に人は謙虚に制御不可能性を認めるべきである、という。そしてディープ・エコロジーにおいて制御不可能な世界を前に、人が頼るべき能力こそが「直観」する能力なのである。
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