環境に関するもう一つの倫理学


K・S・シュレイダー=フレチェット『「フロンティア(カウボーイ)倫理」と「救命ボート倫理」』
Shrader-Frechette, K.S. "Frontier Ethics" and "Lifeboat Ethics." Written especially for inclusion in this volume.

K・S・シュレイダー=フレチェット『宇宙船倫理』
Shrader-Frechette, K.S. "Spaceship Ethics." Written especially for inclusion in this volume.

堀川敏寛

フロンティア倫理

 17世紀から19世紀にかけ、アメリカ大陸において地理上のフロンティアを拡大し、新しく領土を獲得していった事実に象徴される環境倫理。これは人間の自然に対する優位性が正当化される支配的な発想で、人間は自然をコントロールするものとして捉えられる。この見方が地球の破壊と資源の枯渇とを助長してきた。
 又フロンティア倫理は、フロンティア消滅後は科学至上主義の考え方へ転換された。それは地球の資源は限られているが、いずれ科学技術が汚染と資源の枯渇の問題を解決してくれるに違いないので、人間のフロンティア拡大精神は今まで通り成立するということである。

評価

 これは、ありあまるほどの資源の豊富さと,、際限の無いフロンティアが存在する状態でのみ実行可能な倫理である。実際に地球の人口が少なく、機械産業が未発達だった時期は、人間が資源を使っても自然は再生可能であった。ところが、自給自足社会から大量生産へと産業転換がなされ、人口が幾何学的に増加した時代において、通用しない倫理である。
 また、フロンティア消滅後における、科学への期待に対しても疑問を覚える。科学が一定の目標に向かって進歩しているのならば、今欠けているものから、いずれ真理や完成に到達することが出来るだろう。だが、トマス・クーン著の『科学革命の構造』によれば、科学とは一貫性をもって、累積的に真理へ向かうものではない。つまりいずれ新資源が開発されるだろうと、科学の将来に期待する事は確信が無い事である。
 古代時代や、イギリス人がアメリカに渡った当時に代表されるように、人間に力が無く、大きな力を持つ自然に打ち勝つ精神が必要とされた時代において、この発想は正当性を持っていた。だが我々は、この古代に通用した発想が、現代のように人間が自然に対し力を持った時代そのまま当てはまると解釈してはならない。旧約聖書において、人が自然を支配せよと叙述されている事も、同時の時代状況を考えての啓示である。

救命ボート倫理

 地球を海と仮定し、我々の国を海に浮かんでいるたくさんの救命ボートに例えた考え方。世界の中で貧しい国の者達は、自国の満員のボートから落ち、まだ空いているボート、つまり先進国の豊かな救命ボートまで泳ぎ着こうとしている構造が、今存在する。
 ここで、貧しい国の人間を自分たちのボートへ引き入れ助ける事は、結果的に自分たちのボートをも静める事になるので実行不可能と考える。 この倫理の基本理念は、個々人が自分の福利を求めて共有物である資源を使えば、希少性のある地球の資源は尽きてしまうので、個々の人間の福利よりも前に、環境の福利のために尽くそうというものである。

倫理の政策への適用

 豊かな先進国のメンバーは、強制的な人口コントロール、低開発国に対する援助の計画的拒否、共有の資源の管理、世界食糧銀行へのあらゆる拠点の撤回、厳格な移民政策などの行動をとるべきである。

評価

 この考え方は、豊かな国と貧しい国が一つの海に浮かんだボートと例える事により、両国が同じ土俵にいるという設定の基において、議論が進められえている。しかし、実際に豊かな国は、資源を他のボートから輸入する事により生存が確保されている訳であり、又これらの国の方が資源をより多く消費しているという事実が述べられていない。
 救命船ボート倫理は、先進諸国が貧しい国をうまく制御するという発想なので、豊かな国から見た視点での倫理であり、欧米が開発途上の国の上に立っているという歴史的な構造は変わっていない。これは即効性の求められる状況において、政策実行に適用する考え方である。
 また、「最大多数の最大幸福」の言葉で表されるように、社会の総合利益を大きくするために、質の小さい利益(開発途上の国の人間をボートに入れる)よりも質の大きい利益(全体が破局に陥らないために進んで救援はしない)を求めるJ.S.ミルの功利主義の考え方が前提とされている。

宇宙船倫理

 地球を有限で閉じられた宇宙船のようなシステムと捉え、人間も自然もその中で共存しているとの考え方。これは、人類と自然の本来的な福利は双方とも密接に結びついているため、他方を徹底的に損なうこと無しに、いずれか一方に優越性を与えるのは不可能と考える倫理である。
 又歴史的に豊かな国は貧しい国の資源や人材を強奪していた訳で、それが現在における絶望的な状況に起因しているのであり、前者は後者を援助する義務がある。
 救命ボート倫理における、先進国主導の強制的な色彩の強い環境保護は、非民主的方法であると批判する。人類は支出を縮小し、貧しい国も公平な配分を保証しなくてはいけない。そのためには人間の行動を変える事を求め、友愛なしでは環境危機を解決できないと認識する考える。だがその手段が人間の自発性という不覚的要因に頼るため、政策によって制御可能な倫理とはいいがたい。

倫理の政策への適用

 適当でバランスの取れた消費や、保存節約の実行を世界中で促すことや、化石燃料などの有限資源ではなく水・風・太陽からエネルギー収入を得る、又資源を有料で貸し出すなどの施行を試みる。人口コントロールには、税制上で小規模の家族を奨励したり、個人の老後の面倒を適切に見る政府レベルの手段を講ずる。  だが、これらのアイデアは人間の意識改革はなされない。これらは自然枯渇の増長傾向に対する調整に過ぎない訳で、システムそのものの根本的な改革が必要である。

評価

 宇宙船倫理では、先進国主導で問題を解決しようとする救命ボート倫理の発想の転換を求め、この支配関係を否定し、個人や国家レベルで優越を付けない倫理である。さらに、アイデアによる問題解決、人間による制御を批判し、人間の意識の根本的改革を必要と考える。
 だが、結局宇宙船倫理は人間の自発性に頼るため、夢想的で実行可能性が薄いように捉えられる。しかし、強制による行動規制は、即時的な解決には有効だが、問題の根本解決には至らない。次世代の人間の状況を考慮する上でも、長期的な視野は大切であり、その上で必要不可欠な考えこそが宇宙船倫理である。
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