環境 対 貧民


サム・ラヴ『エコロジーと社会主義』
Love, S. 1972. Ecology and Social Justice : Is there a conflict? Environmental Action 4 (August 5)3-6. Copyright 1972 by Environmental Action, Reprinted by permission of Environmental Action, 1346 Connecticut Avenue, N. W., Washington, D.C. 20036. A one-year subscription is $15.

ネイサン・ヘア『黒人にとってのエコロジー』
Hare, N. 1970. Black Ecology. The Black Scholar 2 (April) : 2-8. Reprinted by permission of The Black Scholar and Nathan Hare


大頭一仁
 ここで紹介する2つの論文の主張は、環境問題を考えている人間が見落としていると思われる問題の提出である。
 一見、正義そのものであるような環境保護運動にたいして、その運動のなかに、昔から提出され続けてきた未解決の問題が含まれているという点を見いだしているのである。たとえば、人種差別や性差別などの問題である。これらは環境問題が叫ばれる始める以前から問題として認識されているものである。また、現在も多数の活動家が、この問題にたいして運動をおこなっている。
 ここで誤解してはいけない点が二つある。
 一点は、サム・ラブもネイサン・ヘアも決して彼らが論文にあげた社会的な問題よりも、環境問題の問題としての優先順位が低いといっているわけではないという点である。
 そしてもう一点は、自然環境問題と人種差別、性差別といった問題は、別々の原因に起因する、別々問題ではないという点である。これは、人種、性差別の構造がそのまま自然環境問題の構造と同じであるということである。
 たとえば、サム・ラブは「エコロジーと社会主義」のなかで、人間の自然にたいする搾取や植民地主義と、白人の黒人にたいする搾取の構造は同じであるといい、その原因は資本主義にあるとしている。
 また、ネイサン・ヘアも「黒人にとってのエコロジー」のなかで、公害に住む白人よりも、都市の中心部にあるスラムに住む黒人のほうが、より深刻な環境問題にさらされていると主張し、この構造を植民地になぞらえている。
 つまり彼らは、資本主義も含む現代というシステムから生まれる問題のうち、環境問題のみを矢面に立て、人種問題や、それらの根本にある資本主義体制の問題から目を背け、体制そのものは生き延びさせるという姿勢にたいして疑問を提出するのである。

エコロジーと社会主義 サム・ラブ

 アメリカでは、マイノリティ集団の社会において、環境保護運動にたいする不信は深く行き渡っている。エコロジー運動と、マイノリティ集団の利益は相反するものであり、一致しないという考えである。
 その理由はさまざまで、たとえば、スラムに住む子供たちが飢えの苦しみをなめている一方で、裕福な白人が自然を守るという名目で莫大な金を使ってきたという歴史があること。ありふれた人口抑制論にまとわりついているジェノサイドの陰におびえていることなどがある。
 しかし、マイノリティ集団のもつ多くの問題もエコロジカルな問題も根は同じであり、本来は相反するものではないとサム・ラブは主張する。
 ラブは、人間や自然の福祉よりも、利益のほうに高い優先順位をおく資本主義的な現代の社会システムこそが、この不一致を生み出している原因であるという。
 たとえば、環境を守るために必要な費用をどう集めるか?という疑問がでたとき、現代においては環境税などを上乗せされた高価格という形で、消費者に転嫁されることになるというのである。この従来よりも高価格になった商品は、平等に、低所得者も買わねばならないのである。同じ金額を負担するとはいえ、裕福な白人と低所得者との間には、格差が存在し、明らかに低所得者の方が重い負担を強いられることになるのである。
 この上乗せという発想は、あきらかに企業の利益を減らさないことが前提となっている。一方で、上乗せは消費者にいっそうの負担を強いるのである。これでは、いつまでたってもマイノリティ(低所得者層)は搾取され続けるばかりである。
 この問題にたいしてラブは、環境保護のための費用を消費者から株主へと移すべきであると主張する。つまりは、富の再分配を主張するのである。
 しかしこの主張は、資本主義に根ざした今日の経済的現状を脅かす。もちろん、ラブはこのことも承知していて、資本主義経済にかわるシステムを提唱する。
 それが「停滞状態」である。
 この概念を説明するのにラブは、J.S.ミルを引用する。
「いうまでもなく、富が力であり、できるかぎり裕福になるということが誰でも抱く野心の対象である以上、公平無私に富の獲得の道があらゆる人に開かれているということは、非常に好ましいことである。しかし人類にとって最善の状態は、貧しい人が一人もいない一方で、誰もこれ以上裕福になりたいとは思わず、また他人が全面に出てくることによって、自分が押し戻されのではないかという恐れるような根拠を何ももたないような状況である」
 むろん、この考え方は反進歩的であるという批判をうけることを、ミルもラブも予想しており、そういった批評については、
「資本と人口の停滞状態は、何ら人間の停滞状態を意味してはいないということは、ほとんどいうまでもないことである。あらゆる種類の精神文化や、道徳的社会的社会的進歩の余地はいくらでもあるだろう。生活技術の改善の余地はあるだろうし、うまくやっていくための術に夢中にならなくなれば、それが改善される可能性はもっと大きくなるだろう。産業技術でさえ同じようにまじめに、また同じようにうまく育成されるかもしれない。その際唯一の違いは、産業技術の改善が、富の増大という目的にのみ奉仕するというのではなくて、労働の節約というその本来の効果を生み出すことになるだろうというのである」という。
 これは、いかに我々が物質的な進歩という限定された意味で、進歩という言葉を使っていたかということを明らかにする。
 いっけんファナティックな社会主義的思想と思えるラブの発想は、資本主義が抱える問題にたいして強烈な批判を投げかけるものである。しかし、一方でこのような発想を政策化することはほぼ不可能に近いだろう。というのも、この発想からすれば国家は、社会主義経済という形態をとらざるをえず、ラブも自覚しているのだが、現在のところ人類はまだ、資本主義経済を破壊するような行為を奨励できない段階にあるからである。 

黒人にとってのエコロジー ネイサン・ヘア
 
 ネイサン・ヘアは、本来、エコロジー問題と黒人の完全な解放の問題とは密接に関連しているという。しかし、黒人と彼らの環境への利害がなおざりにされてきたせいで、現在では黒人とエコロジー運動は相矛盾する状態にあるという。
 ネイサン・ヘアの問題意識は、人間社会のあいだの分離と、そこで行われる政策の一面性にある。具体的には、同じ都市においても、郊外に住む白人と、都市の中心部にあるスラムに住む黒人との環境の決定的な分離の問題に焦点を当てている。
 つまり、白人が求める良い環境と、黒人が求める良い環境とは隔たりがあり、いくら白人が自分たちの利害にのみ基づいてエコロジー運動を展開しようとも、自然環境も、黒人も完全に救われることはないというのである。
 具体的に郊外に住む白人と、中心部のスラムに住む黒人との環境の違いをあげると、
1)大気汚染、水質汚濁などの問題 
2)人口の爆発集中の問題
 という2つの問題が、この論文では提出されている。
 1)は、汚染や病気などの物質的な問題で、郊外に住む白人が吸う空気や水と、汚染の進んだ都市の中心部に住む黒人の吸う空気や水とは同じではないということである。
 2)は、社会的精神的問題である。たとえば常に車が行き来する都市の中心部は、郊外に比べてやかましく、大きなストレスの原因となる。人口過密な状態にすむ黒人たちは、他の家族との「同室」生活を余儀なくされることが多く、このこともストレスをうむ原因になるという。
 
 ヘアは、郊外にすむ白人と都市の中心部にすむ黒人との関係を、植民地になぞらえる。
「スラム街の問題は、植民地になぞらえることができる。中規模都市の企業と住宅は商業地域が所有し、税を負担している。そして、その見返りとして与えられるのは、外部の利害関係のニーズによって決定された再開発計画と商業地域を活性化させる輸送ネットワークだけである・・・労働市場は、中規模都市のスラム街の住人には買う余地がなく、時には望みさえしない商品を製造するように指令する外部の企業のニーズによって決定されるのである」
 つまり、植民地の支配者である白人が、被植民地であるスラムを全くの低開発のままにしておく一方、自分自身の居住環境を発展させ改良するために、被植民地の住人の資源と労働を搾取するという構図を想定しているのである。
<評価>
 これが黒人だけの問題にとどまらないことは明らかである。ヘアが示した構図は、まさに地球規模でいえば、南北問題や、COP3でも明らかになった先進国と発展途上国との軋轢と同じである。
 地球環境問題は、まさに現代社会のもつ全てのシステムを揺さぶるものである。
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