W・C・ワグナー 『未来に対する道徳性』
Wagner, W.C. 1971. Futurity Morality. The Futurist5(October) : 197-199 Reprinted by permission of THe Futurist, the World Future Society, 4916 St. Elmo Avenue, Washington, D.C. 20014
K・S・シュレーダー=フレチェット 『テクノロジー・環境・世代間の公平』
Shrader-Frechette, K.S. 1979. Technology, the Environment, and Intergenerational Equity. A much shorter version of this essay, "Technology Assessment, Future Generations, and the Social Contract," appeared in Journal for the Humanities and Technology.1(1979):3ff
吉本陵
世代間倫理の基本的な考え方は、現代世代に未来世代の生存可能性に対する一定の責任を認めよう、というものである。
逆に言うと、現代の倫理システムにおいては未来世代の生存可能性は必ずしも考慮に入れられているとは言えない。例えば、原子力発電所をどこかに立地するとき、その地域に住む住民の同意が得られれば基本的に原発を建設することは許される。そこには一定の契約関係がある(つまり、原発を建設する代わりに、補助金を支給する、等)。しかしながら、その契約関係は現在そこに住んでいる人に限られているのであって、原発から出る放射性廃棄物を処理しなくてはならない、将来世代の人間は契約関係から排除されているのである。
我々が現在持っている倫理システムは「相互性」をその特徴としている。つまり「私がして欲しくないことをあなたはにはしないので、あなたも同様にあなたがして欲しくないことを私にしてはならない」という原理を備えているのである。これは「共時的」なシステムである。すなわち、私とあなたが相互的な関係の下にその契約に同意するのである。従って、もし「あなた」が私と相互的な関係にないならば、私は契約に縛られることはない。
未来世代は私にとって相互的な関係には、ない。私は未来世代に何がしかのことはできても(自分の土地を残したり、きれいな川を残すなど)、未来世代は私に対して何もすることはないからである。従って、現在我々が受け入れている倫理システムでは、将来世代に対する現代世代のエゴイズムを制限することはできない。
我々が行う決定によって、将来世代の生存に関して重大な危機を起こしうる場合が現実に存在する。そうであるならば、現代世代のエゴイズムを押さえるために、現代世代と未来世代の間に一定の倫理関係を結ぶことが必要なのである。ここに世代間倫理を考える意味がある。
しかしながら「世代間倫理」を提唱するに当たってはいくつかの難点がある。
1.まだ現実に存在しない主体に対しては我々は義務を有することはない。
2. 未来世代の利害を我々の世代は知りようがないのであるから、我々は彼らに対して義務を背負いようがない。
これらの問題点について、どのように論じられているのかについて見ていくことにする。
パシフィック大学のウォルター・C・ワグナーは、我々は未来世代に対して義務を負うと断言する。彼によると、人間はその本性として「社会性」「自己愛」「未来への関心」を持つ。そして、社会性のゆえに人間は自分の属する社会の中で「役割取得」を学び「役割遂行」を行う。「役割取得」とは社会において、自分が自分の位置を定めることである。「役割遂行」とは取得した役割を社会の中で果すことである。
また人は「自己愛」を持つゆえに、自己実現の欲求を満たそうとするときに、いくつかの直接的欲求を断念する。そうすることによって、社会の中に生きる人間は相互の犠牲の上に乗って、より効率的に自己実現を達成することができるからである。すなわち、自己愛に忠実であることは利己的であることなのだが、徹底的に利己的であろうとするならば、人は利他的に行動する、というのである。
この二つの本性の働きによって、人間は他の人間と社会契約を結ぶことになる。すなわち、人は「自己犠牲を払ってでも社会における役割を果せ」という道徳的命令に従うべきである、という規範を受け入れることになる。それは、人間の本性に従うことであり、人間にとて全く合理的な行為の結果なのである。
しかし、この段階の倫理ではまだ「共時的な倫理システム」を脱しきれていない。そこでワグナーが持ち出すのは三つ目の人間の本性である「未来への関心」である。
未来に関してあれこれと考えることは「輪廻転生」の考え方や「最後の審判」などの例があるように、人間の本性なのである。未来のことを考えるという人間の本性が現代世代と未来世代の間を媒介するのだが、この時人は自分自身を未来世代の中に投影させているのである。これは一種の役割取得なのである。ここに時間軸をも含み込んだ擬似社会が成立する。この社会の中における道徳的命令「自己犠牲を払ってでも社会における役割を果せ」は「通時的な倫理システム」として成立する。
このような議論を通じてワグナーは世代間倫理は成立しうる、と主張した。
K・S・シュレーダー=フレチェットも「現代世代と将来世代の間で社会契約が存在しうる」ということを四つの視点から支持する。
最初の二つは、現代世代のと未来世代の間に相互性は成立する、という主張であり、あとの二つは、そもそも相互性がなくても社会契約は成立する、という主張である。
第一の視点はワグナーの主張と同じものである。すなわち自己愛に徹することで、我々は利他的であるべきだ、という倫理を導くことができる、という考え方である。フレチェットはワグナーの意見にも一定の理解を示すが、それよりも重要な概念として「恩」という言葉をあげる。これが第二の視点である。
「恩」が導く相互性は、一対一の個人間の相互性ではなく、そこに時間軸を取り入れて、前の世代にしてもらったことに対してそのお返しをあとの世代にする、というものであり、このようにすれば、世代間にわたる相互性の原理が成立するのだ、という。
第三の視点として、フレチェットは相互性に基づかない道徳的共同体の例を挙げる。ここで援用されるのはジョン・ロールズの議論である。ロールズはその著書「正義論」の中で次のような議論を展開する。すなわち、もし人が「原初状態(1.我々は各自が自分の可能な利害を護ろうとそこで努めるが、2.そこでは我々のうちの誰もが社会における自分の特殊な場所を知らないし、自然的能力、資産、負債を知らない、という状態)」にいると仮定すると、その人が合理的に行動するならば「基本的な権利と義務の割り当ての平等」を選択するであろう、と考えられる。とするならば、現代世代には未来世代に対して「公正」という観点から未来世代の利害を考慮する必要が生まれ、道徳的推論に基づく社会契約を結ぶべきである、といえるのである。
第四の視点としてフレチェットはダニエル・カラハンの見解を提示する。カラハンは、契約というものは必ずしも相互性に基づくものではない、ということを親と子の関係を例にして主張する。親は子どもを育てるという義務を負っているという意味で子に対して契約を結んでいるのだが、それは自ら一方的に義務を受け入れているのであって、そこに相互性があるわけではないのである。未来世代が、現代世代を選択することができないのと同様に、子も親を選択することはできない。しかしながら親は子に対する義務を放棄することは許されない。また、子の利害を完全に知ることが出来ない、という理由も子に対する義務の放棄を正当化することにはならない。このような原理があることを認めるならば、少なくとも相互性がない、という理由だけで現代世代が未来世代に対して契約関係を結ぶことができないという主張は整合性を欠く議論となる。
次に、現代世代と未来世代とが、一定の社会契約を結びうることを認めるならば、それはどのようなものであるのだろうか。未来世代の利害を原理的に知りようがない私達は、いかにして未来世代と契約関係を結ぶことができるのだろうか。
未来世代が何を欲するのか、私達の世代は知らない。私達が未来世代にとって良いであろう、と思うことをするとしても、そもそも価値観というものは時代によって変遷するものなのだから、結局は私達の価値観の押し付けに終わってしまう可能性もある。そのような高圧的な関係を持つくらいなら、現代世代は現代世代の価値観を持って、未来世代は未来世代の価値観を持って、それぞれが抱える問題に対処した方が、よりよい関係であるといえるのではないか。また、かりに、放射性廃棄物のような価値観の変遷に関わらず有害であろうと考えられるようなものであっても、急速な発展を遂げている科学技術によってそれを解決することさえ達成すればよいのだから、「放射性廃棄物が将来世代にとって有害である」と想定するのは過ちであるかもしれない。
このような主張に対して、フレチェットは以下のように反論して、世代間倫理の正当性を擁護する。
上の主張は、ある前提をその中に持っている。その前提とは「未来世代の価値観を我々は知りようがないのであるが、それはおそらく我々の価値観と異なっているであろう」というものである。このような前提があるからこそ「価値観の押し付け」という言葉が出てくるのである。しかしながら、私達はあることを「知らない」という事実からは、そのことが特殊なものか、特殊でないものか、という判断は下せないのである。このことを上の主張に照らし合わせてみると、我々が将来世代の価値観を知らない、という事実からはその価値観が我々のそれと同じものであるとか違うものである、という判断は下せないのである。上の主張は、その判断を下してしまっており、その意味で過ちを犯している。
では、いかなる判断を我々は下しうるのであろうか。ここでもフレチェットはロールズの議論を援用する。つまり、原初状態にある人間ならいかなる振る舞いをするのか、を考えるのである。原初状態の人間なら、資源の不公平な分配と、「負債」を過去に残す、という行為を受け入れないであろう。このことから、我々が未来世代に対してすべきことではないことが浮かび上がってくる。
また、我々は未来世代の利害に無知であるからこそ、我々がなすべきなのは未来世代の利害は現代世代のそれと変わらないであろう、と措定することなのである。例えば、極端な話、私が他者に暴力を振るった場合、その他者が本当に苦痛を感じているのか、ということは私には分からない。すなわち、私は他者の苦痛に関しては全くの無知なのである。この時、私がなすべきことは何なのであろうか。他者は苦痛を感じていない、と想定することであろうか。それでは、私と他者は契約関係を結ぶことは出来ない。私は他者は私と同じように苦痛を感じている、と想定するべきなのである。この時はじめて私と他者は社会の中で共存することができるのである。現代世代と未来世代の間の関係もこれと同じことなのである。
最後に、今までのフレチェットの議論を全て受け入れるとしてもまだ問題が考えられる。一つ目の問題点は、我々には全ての未来世代の利害を考慮することは不可能であるし、それを満たすことはいっそう不可能である、ということである。二つ目の問題点は、現代世代における貧困者や市民権を持たない人達の権利が侵害されうる、ということである。
これら二つの問題に関しては、フレチェットは一定の解答を与えるのではなく、解答にいたるための視座を提示するにとどまる。
一つの眼の視座として、フレチェットはもう一度ロールズの議論を持ち出す。すなわち、全ての世代にわたる公平性を達成することに徹するのである。こうすることによっては、確かに現代世代の貧困者達の苦痛を取り除くことにはならないが、それをしない場合の害の方がより大きいであろう、とするならば、このことは選択の余地なく受け入れるべきである、という。
二つ目の視座として、現代世代と未来世代の利害とは必ずしも対立する概念ではない、ということをあげる。現実の状況はもっと複雑なものであって、単純なゼロサム構造では捉え切れないものである、という。
三つ目の視座として、地球の資源を現代世代と未来世代の間でどう分配するか、を考えるのではなく、利益の観点から分配するのか、必要の観点から分配するのか、ということを考えるべきだ、という見方を提示する。つまり、利益の観点から地球の資源を分配するべきだ、とすると先進国に石油などのエネルギー消費を認め、より効率的に生産するべきだ、ということになるであろうが、この場合、貧しい都市の貧困者が自分が(必要の観点からすると)不平等な扱いしか受けていないのに、どうして未来世代のことまで考慮に入れることができるであろうか。従って、もし、世代間の利害の対立、世代内の利害の対立の両方を問題とするならば、直接に緊急な必要に迫れられている人々を、遠く離れた人々(将来世代の人々)よりも先に救うべきである、という結論を導くことができる。
評価
フレチェットの議論は世代間倫理が社会契約の下に成立しうる、という可能性を提示したに過ぎない。
フレチェットは、ロールズのいう「原初状態」を何度も持ち出す。フレチェットは「原初状態」という概念を論文に挿入することで、何を意図していたのであろうか。
それは出発点の平等である。全ての世代にわたって、等しい権利を認めることによってそれは達成される。これは現代世代の未来世代へのエゴイズムを制御するものとして有効であるし、現代世代と未来世代をつなぐ倫理システムの構築につながる。
アメリカに生まれたフレチェットにとって「平等」「公平」といった概念は所与の前提であった。そのフレチェットにとって「原初状態」を考えることは自然な流れであった。
もう一つフレチェットが持つ前提としては人間は合理的な判断を下せることができるし、合理的な判断を下すべきである、というものである。だからこそ「原初状態」にある人間は「平等」「公平」を選択するのである、という。
しかしながら、そのような選択を行う人間は、合理性を武器にして自然を支配し、操作してきた「近代的個」以外の何者でもないのである。
環境倫理は「近代性」を問題視し、それを乗り越えようとしたものではなかったのか。だが、アメリカ人フレチェットはそれを乗り越えることは出来ない。自分自身を作り上げてきた前提を捨てることは誰にも出来ないからである。フレチェットが「世代間倫理」を通して行おうとしたことは、結局のところ近代的個から離れようのない人間が、いかにして将来世代に対して「合理的に」権利を承認することができるのか、ということだったのである。
近代人であるフレチェットが、その近代的思考から逃れられず、しかしいかにして未来世代に対する義務を負うのか。自らの近代性を甘んじて受け入れ、その中でありうる解答への道標を作り上げたことはフレチェットの功績といえる。
最後に
現在の倫理システムは共時的なものであって、あとの世代の人はその範囲に入っていない。これまでの我々の社会は、成長をすることが当たり前の社会であった。そのために、あとの世代に対する倫理を我々は考える必要がなかった。我々の活動の延長上には、より豊かな生活が待っていると考えられていたのである。確かに、そのような時代には世代間倫理は語られる必要はない。しかし、現在は無限への成長という神話を信じることのできる時代ではない。人口問題、環境問題など、このままでは今よりも将来世代の方がより大きな問題を抱えるのではないか、と我々は危惧している。我々が行う何がしかの決定が、将来世代に対して決定的な悪影響を及ぼしかねない。このことに一定の信憑性を認めるのならば、そこに倫理という「決定の原理」を導入する必要があるといえる。その倫理こそが世代間倫理なのである。
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