ボードリヤール『消費社会の神話と構造』


 1)「消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。」(P.14)といいますが、これはどのようなことを指しているのでしょうか。

「いかに豊かさを誇ろうとも、モノは人間活動の産物であって、自然の生態学的法則によってではなく交換価値の法則によって支配されているという事実を決して忘れてはならない。」(P.12)
「ここでは商品がさまざまな種類別に並べられているのではなくて、記号を−−消費の対象としての記号の一部をなすあらゆる財を−−混合する。」(P.15)
「今や、『消費』が全生活をとらえ、あらゆる活動の組み合わせ様式に従って連鎖し、欲望の充足に達するための通路が一時間ごとに前もって引かれて、『環境』が全面的にエアー・コンディショニングされ整備され教養化されるに至った。」(P.17)


 モノは使用価値と交換価値を持つ。現在、モノが消費されるのはその使用価値のためではなく、交換価値のために消費されるのである。ドラッグストアーなどにおける、様々なモノのあふれかえった様子を見ると、そこでは、エアーコンディショニングによって、常に一定の雰囲気がかもし出されて、季節感さえもが均質化されているように、モノも均質化されている。モノの均質化、これこそまさに、ひとつの文化なのだが、そのなかで、モノは象徴として、記号として交換可能なものとなる。そこでは、使用価値という質を捨象することによって交換価値へと数量化されているのである。

 2)「あらゆる物質的(および文化的)欲求が容易に満たされる社会という、われわれが豊かな社会について抱いてきた固定観念は放棄されなければならない。」(P.77)と言いますが、では「豊かな社会」とはどのような社会なのでしょうか。

 現在の消費には差異化という要素がある。それは、ヒエラルキーを構成する原因となる。しかし、この差異化に基づく消費は、コードへの服従に他ならない。それは、「操作万能という立場を選び取る自由」と「操作万能の中での自由」のちがいと、非常に似通ったものである。自ら、他人と違うのだということを示したくて様々なものの消費を行うのであるが、それは差異化というもののなかで、あがいているに過ぎないのである。
 その差異化という消費は限度がない。なぜならば、どこまでいっても満たされることのない相対的な欲求だからである。(食物なら、満腹があるが)だからといって、ものを作れば作るほど、この傾向を助長することになり、豊かになると思われていたことが、一転、貧しさへと進むのである。
 では、豊かな社会の例として、原始時代を上げる。なぜか。そこにおいては所有、独占といったものがなく、労働による生産物は均等に分けられる(原始共産制)そこでは、不透明な独占といったものがなく、相互扶助によって成り立っている。モノの交換は差異を生み出すことはなく、互いに豊かさを増すだけである。所有という観念がないため、消費は差異化という側面を持たないのである。

 3)「幸福」とは何でしょうか?「現代社会では幸福の神話は平等の神話を集大成し具体化したものであるという事実に由来している。」(P.48)などを参考に考えてください。

 現代社会において幸福とは計算可能なものを意味する。なぜならば、平等な福祉社会が、現代の幸福と考えられているからである。その実現のためには、「幸福は、モノと記号によって計量することができる福利、物質的安楽でなければならない」からである。しかし、経済成長が豊かさと考えられている社会においては、経済成長による不平等の再生産が行なわれるのである。

 4)「『欲求は現実には生産の産物である』とガルブレイスは何げなく述べている。」(P.89)とありますが、ボードリヤールはこれを違うといいます。彼はどのように反駁していますか?

 ガルブレイスのこの命題は、欲求が「完成されたモノ」との関係において現われることを前提にしている。しかし、ボードリヤールの分析から考えると、「欲求のシステムは生産のシステムの産物」という。欲求は、使用価値の捨象された、均質化したモノとの関わりによって生まれるものなのである。したがって、個人とモノの関係によって欲求が生み出されるのではない。

 5)「ところで、リースマンはこう書いている。『今日最も求められているもの、それは機械でも財産でも仕事でもなく、個性(パーソナリティ)である』。」(P.111)とありますが、個性とはどのようなものでしょうか。

 個性が大きくもてはやされるのは、消費が差異化と密接な連関があるからである。モノの使用価値ではなく交換価値によって消費するというのは、自分と他人の差異を消費に求めるからである。したがって、相対的な差異は終わりのない消費を生み出すことになる。それは、逆に言えば、個性というものが存在しないことを意味する。

6)「広告は真と偽の彼方に存在している。」(P.184)といいますが、広告とはどのようなものというのでしょうか。

 広告とは何か意味内容のあるものを伝達するのではなく、「呪文(spell)」なのである。広告の具体的な内容はもはや問題ではなく、広告というもの自体が広告なのである。つまり、シニフィアンとシニフィエ(意味するものと意味されるもの)が同一なものになっているのである。

7)「もっとはっきりいえば、かつて性として隷従を強いられていた女性が今度はやはり性として『解放』されるわけで、この混同は現代でも姿を消すどころか、あらゆる形で取り返しのつかないほど深刻化している。」(P.201-202)とあります。どのような状況がこの『解放』を導き、そして、この混同がどのような問題につながっていくのでしょうか。「肉体」、「美」などをキーワードとして考えてください。

8)「ところがこの種の暴力は、新聞の第一面をにぎわすような流血事件やセックスが社会的・倫理的秩序にとってちっとも危険ではないように、危険なものではない。」(P.266)といいますが、では、どのような暴力が問題となるのでしょうか。




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