プラトン『プロタゴラス』


1. プロタゴラスにとって「徳」とはいったいどのようなものなのでしょうか。それが現れているところを本文より抜き出してください。

吉本の答:
 「・・・私から学ぶものは何かというと、身内の事柄については最もよく自分の一家を斉える道をはかり、さらに国家公共の事柄については、これを行うにも論ずるにも、最も有能の者となるべき道をはかることの上手というのが、これである」37


 プロタゴラスはソフィスト(徳の教師)とされる。民主政治がすでに成立していたギリシア時代には、民主社会における理想的な能力こそが徳であるとされていた。

2. ソクラテスにとって「徳」とはいったいどのようなものなのでしょうか。それが現れているところを本文より抜き出してください。

吉本の答:
 「しかし、かんじんの彼(われわれの国民のうちでも最も知恵があり、もっとも優れた人物)自身が知者であるゆえんのものについては、自分でも教えないし、誰かほかの物にゆだねるということもしていないのでして息子たちは放し飼いにされた神社の羊のように、どこかでひとりでにその徳に行きあたりはしないかと、自分たちだけで徘徊して草をはんでいる状態なのです。」39


3. プロタゴラスにとっての「徳」とソクラテスにとっての「徳」が、同じだとすると、なぜ二人の態度は異なるものになっているのでしょうか。また、異なるとすると、その二つはどのように異なるのでしょうか。

引用:
 「私としては、あなたのおっしゃるような事柄(徳)は、人に教えることのできるものとは思っていなかったのです。」37
 「・・・いったい、徳というものはある一つのものでありながら、他方しかし、それを構成するさまざまの部分として、正義とか節制(分別)とか敬虔とかいったものが、別々に分かれているのでしょうか、それとも、私が今あげたこれらすべてのものは、まったく同一のものにつけられたさまざまの名前に過ぎないのでしょうか?」64


吉本の答:
 ソクラテスとプロタゴラスとの明らかな相違点は、「知」に対する見解である。ソクラテスは「知」を知らないという。少なくとも知っているとはいわない。しかしプロタゴラスははっきりと「知」を知っているという。だからこそ、彼は「徳」の教師として君臨していられるのである。ソクラテスはここを攻撃する。ソクラテスにしてみれば「徳」を教えているとされるプロタゴラス自身、「徳」がなにものであるかを知っているとは思えない。そのために「徳は教えられるのか」という問いは「徳とはそもそも何か」という問いへと変化することになる。

4. 『プロタゴラス』にはソクラテスのソフィストに対する皮肉が随所に見られますが、それはソクラテスにはソフィストの立場を受け入れることが到底出来なかったためだと考えられます。では、ソクラテスはソフィストのどのような立場を批判しているのでしょうか。いくつか例をあげ、説明してください。

引用:
 「君、最高の知をそなえたものが、より美しく見えなくてどうする。」10
 「君はいま、ほかならぬ自分自身の魂の世話を、あるひとりの男――にゆだねようとしているということだ。」19
 「そもそもソフィストとは、ヒッポクラテス、魂の糧食となるものを、商品として卸売りしたり、小売したりするものなのではないだろうか。」22
 「かくいう私も、自ら信ずるところでは、そういう者のひとりなのであって、ひとがすぐれて立派な人間になるのを助けることにかけては、他の人々の及ぶところではなく、私の要求する報酬の値打ちだけのもの、いやむしろ、それ以上のものを与えているつもりである。」60


吉本の答:
 まず第一に、ソフィストが自らを「徳」の教師である、とする点である。ソクラテスにとっては「徳」は「教えられる」ものではないからである。だからこそソクラテスは問答形式を採用する(5参照)。ソクラテスは「徳」を教えることができるというソフィストたちの能力を「超人間的智慧」と皮肉をこめて呼ぶ(『ソクラテスの弁明』p.19)
 第二は知に対する姿勢である。プロタゴラスは、自分が何事かを知っていることを決して疑わない。疑わないからこそ自ら教師と名乗ることができるのである。また、物事を人から教えられることを好まない。それゆえにソフィストは「弁論術」を発達させることになるのである。
 第三は「魂(プシュケー)の商品化」と「知の手段化」である。ソクラテスにとっては「知」はそれ自身目的であるはずなのに(愛知の営み)、ソフィストはそれを生活の手段とし、また魂を善に導く(徳を授ける)と称して報酬を受け取っている。そして、ソフィストにとって究極的には「知」自身の内容よりも、人に自らが言うところの「知」が真の「知」であることを納得させることが目的となるのである。この時、「知」の内容自身は省みられることはない。
ソクラテスが人よりも自分が優れているのだ、と認めるのはただ自分には「無知の知」がある点においてのみである(『ソクラテスの弁明』p.21参照)。そして知を愛するものであるソクラテスは、彼と話をする人間とともに、知の探求をしようとするのである。この点で、ソクラテスは自分とソフィストとの間にはっきりと一線を画している。

5. プロタゴラス(ソフィスト)とソクラテスとの違いは端的にいうと弁論術(レートリケー)と問答形式(ディアレクティケー)の違いなのですが、この二つの違いを説明してください。

引用:
 「私が吟味するのは、何よりも言説そのものですけれども、しかしそうすることによって、おそらく、質問するほうのこの私も、答えるほうのあなたも、ともに吟味を受ける結果になることでしょうから。」79
 「私はすでにこれまで、多くの人々と言論をたたかわしてきたものだが、もし君がいま命じているようなことをしていたとしたら、渡しはだれに対しても優位に立つことはできなかっただろうし、プロタゴラスの名がギリシア人の間に広まることもなかっただろう。」84
 「ぼくとしては、互いに対話しながらつきあうことと、演説をぶつこととは、別のことだと思っていたのだからね。」87
 「私たちは詩人たちに向かって、その語るところについて質問することもできません。そして,多くの者が彼らを話の中に引き合いに出して,ある者は詩人の言葉の意味はこうであると言い,ある者は,いやこうなのだと主張しながら,はっきり確証できない事柄について,がやがや論じ合うだけなのです。すぐれた人々なら,そんなつきあいはまっぴらだと言うでしょう。」120


吉本の答:
 二つの議論の違いは,「知」に対する姿勢の違いが原因である。ある事柄について弁論術を持って議論するときは議論する人は,その事柄が何かを知っていることが前提となっている。そして相手の議論を打ち負かして自分の主張を相手に受け入れさせることが目的となる。民主政治がすでに成立していたギリシアにおいては、多数の人間を同時に魅了するような弁論が力を持ちえたのである。このような弁論に対してソクラテス自身次のように語っている。「アテナイ人諸君、諸君が私の告発者の弁論からはたしていかなる印象を受けたか、それは私には分からない。が、彼らの言葉はとにかく私をしてほとんど私自身をさえ忘れさせたほどであった、それほどの説得力をもって彼らは語ったのである。それにもかかわらず彼らはひとことの真実をも語らなかったといってよかろう。」(『ソクラテスの弁明』p.13)
 一方で,ソクラテスが取る問答形式には,対象となる事柄について何事かを知っているという前提はない。この前提がないために,そもそも「教える」という契機自体が存在しえない。あるのは、問う側と答える側がともに協力して「知」のほうに向かってゆく愛知の営みなのである。

6. プロタゴラスはソクラテスの問いに対して長大な弁論(320D-328D)を繰り広げるのですが、ソクラテスの問いに対しては答を直接には出していません。この「答えなかったこと」という事実にプロタゴラスの思想が持つ特徴の一つがあると考えられますが、それはどのようなものでしょうか。そして、プロタゴラスの弁論のあとソクラテスが取った対応(348C以降)の意図はどのようなものだったのでしょうか。

引用:
 「・・・もしあなたが、得が教えられうるものであるということを,もっとはっきり私たちに示すことができるのでしたら,どうかそれを示すことに吝かにならない下さい。」40
 「以上私は,ソクラテス,物語のかたちでも議論のかたちでも得が教えられうるものであり,また事実アテナイ人たちはまさしくそのように考えているということ,・・・」61
 「他方プロタゴラスはプロタゴラスでまた、さっきは徳が教えられうるものだと決めてかかっていたのに、今では反対に、それが何でもいいから、とにかく知識以外のものであることが明らかになればよいと、懸命になっているように見受けられる。これもまた、もしそのとおりだとしたら、徳が教えられる可能性はほとんどなくなってしまうだろうにね。」163


吉本の答:
 ソクラテスの問いは「徳を教えることはできるか否か」であった。それに対するプロタゴラスの答はよく読んでみると、「(アテナイ人は)徳を教えることができると考えている。」ということに過ぎない。プロタゴラスは「徳が教えられると考えられている」から「徳は教えることが出来る」を導き出す。これを当然視するのがプロタゴラスの特徴(「知=実践」型の思考→知っていることと実践することは同値である)。だから、逆に徳は教えられているのだから徳を知っているとプロタゴラスはいい、「徳とは何か」ということを詳しくは問わない。そこでソクラテスはその部分を問うことになる(348C以降)。ソクラテスは「知っている」に疑問をもつ。そこでプロタゴラスのいうところの「知っている」ことは「徳」とは言えないということをいうために「教えることが出来ない」という立場に立ち、プロタゴラスのいう「徳」が持つ矛盾を明らかにしていく。プロタゴラスの矛盾は二人の対話の最後になって暴かれる。ソクラテスの意図は「徳」の教育者たるプロタゴラスが「徳」について矛盾した(その意味で正しくない)考えをもっていることを明らかにすることであった。一方、弁論術の達人であるプロタゴラスにとっては相手に言い負かされないようにすることこそがその役割であった。プロタゴラスはソクラテスの問いかけに答えることで、最終的に自らが持つ矛盾をつかれることになる。そこで、この対話篇は終わりを迎える。ソクラテスはまたも「徳」とは何かを知っていると称する人間から「徳」とは何かを教えられることはなかったのである。

7. ソクラテスは対話の中で相手に説明するときにしばしば比喩を用います。またソクラテスに限らず、聖書、老子、中論などにも活き活きとした比喩表現があります。比喩の効果としては、もちろん分かりやすさというのがあるのですが、その他に比喩という言語形式自身が持つメリットはどのようなものなのでしょうか。考えてみてください。

引用:
 比喩の例:p.15, p.35など.
「こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そしてこの世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何一つとしてないのである。だから、徳についても、そのほかいろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりを持っていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを思い起こしたこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだがーーその想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。」(『メノン』p.47-48)
「われわれは、『最高の真実から見れば、自我は存在しない(主張)。生滅しないものであるから(論拠)。兎の角のように(生滅しないものは存在しない)(喩例)』と論じうることになる。」(「知恵のともしび」 『大乗仏典』所収 p.292)


吉本の答:
 比喩の特徴は、その内容は「語られない」ということである。そして、比喩が持つ意味はこの「語られない」ことの中にこそある。ある事柄を表現するにあたって、言語化という機能が必然的に持つことになる「対象の規定」を比喩は避けることができる。
 このことと「想起(アナムネーシス)」とをあわせてみると次のように言える。
 『メノン』の82B以降において幾何についてまったく知識のないメノンの召使がソクラテスの問いに答えていくにしたがって正しい答に導かれていく。この時、ソクラテスは正しい答を直接召使に教えたわけではない。それは召使によって想起されたのである。比喩の場合も、その内容は言語化されているわけではない。その内容は比喩の形式によって想起されるのである。



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