ジンメル『社会的分化論』




第一章 社会学の認識論
1:社会学が探求の対象として認識する「社会」が単一的(P392下「社会は多くの単一体からなる単一体であるということができる」)であるとみなされるのは、どのような理由からであるとジンメルは述べていますか。
引用:
「あらゆる対象について、それらが少なくとも相対的に客観的な単一体であるといえるのは、それらの各部分に相互作用が生じたときのみである。」P392 上1行目
「諸因素はそれ自体、真の意味では実在的単一体とはいえないが、しかしこの場合、それが相互の関係においては単一的に作用するということから、より高度の構成物にたいしては実在的単一体として取り扱うことができるのである」P392 下8行目
答え:
 社会学が研究の対象とする社会的現象あるいは社会的状態はすべて、それを細かく分析すると認識論的な立場から確実にとらえうる存在として、個々の人間と、その状態と運動、究極的な意味では真の単一的・原子論的因子のみであるということになってしまう。これは認識の理論においては正しいが、認識することの実践の場においてはあり得ないことである。社会学は、他の諸科学の所産を材料とする点で、一つの折衷的科学である(P386 3行目)という立場に立つと、相互作用の関係において単一的に作用するということから、「社会」を単一的なものとして社会学の探求の対象として認識することを是としている。
 社会を学問の対象として単一体として認識できるということで、ジンメルは社会学が他の諸科学と同様科学的学問であるといいたいのではないか?


2:「社会」が一つの実体となるために、ジンメルは「社会」をどのようなものだと規定していますか、P393などを中心に考えてください。
引用:
「結局社会の概念は次のように規定されるであろう。すなわち、個々人の相互作用が、たんに彼らの主観的態度や行為の中に存在しているというだけでなく、さらに個々の成員からはある程度まで独立した、ある客観的な構成物がつくりだされるというような場合に、われわれは真に社会といえる存在がそこに存在している、といえるのである。」P393 上14行目
答え:
 社会とは、社会からの脱退や社会への加入とは関係のない、その社会を構成する成員による団結が生じ、個々の成員からは独立している共同的な所有物、つまり知識や倫理的生活内容といったものが存在し、また、その社会の他人と空間的な共存を行なっていこうとする人々が必ず従わなければならない、法律、慣習、交際の形式が完成しているとき、これらすべてを含んでいる場合、相互作用の凝集として社会が一つの実体として存在しているということができる。

第二章 集団的責任
3:「未開時代においては、個人が罪を犯した場合でも一族、部族といった社会圏全体が罰せられるべきだとする傾向があった。」(P395)とジンメルは述べています。こうした傾向の原因はどのようなものだとジンメルは分析していますか?
引用:
「(p393)一つは客観的な側面であるが、それは個人の行為が厳密にいうと個人的なものではなく、各人相互の連帯責任から生じているとおもわれるほど、個人と全体との統合が緊密であるということである。他の一つは主観的な側面であって、それは判決をくだそうとする者が、その罪に関してだけは関係していないが、他のすべての点で関係している集団から、罪を犯した個人を区別する能力をもっていないということである。」「(p396上)つまり、ある個人が全面的に依存できる集団が小さければ小さいほど、したがって、…個人はそれだけ強く集団を融合せざるをえないのである。」
「(p401上)すなわち、分化が十分に行われていないと、客観的側面で、ある部分の機能を目的論的にみればまったく不必要な他の部分の機能と融合させてしまうということだけでなく、さらに主観的側面では、ものを判断するにさいして物事を区別して考える可能性を生じささない、…」
「(p402)さて、われわれは、個人を集団から区別できない形で出現させる関係には、個人の心の中に観念の連合をもたらすさい主要な誘因とも一致する二つの類型があることを知る。その二つの類型とは、一つは類似性であり、他は現実的連関である。」
「(p407)…第三者にたいする関係から相対的に独立しているものが注目される。…これらはすべて、一方では、第三者が個人を個人として認識し、個人として取り扱うことを困難にし、他方では、集団が集団外の者にたいして行う行為そのものを十分に結合させる統一性を生みだす。つまり、個人にたいする関係を総体にかんする関係として、事実的に正しく妥当させ、また個人にたいして生じた情緒および反応を総体にたいしても連帯的に生じさせる統一性を生み出すのである。」
答え:
端的には、客観的側面と主観的側面において分化されていないということをその傾向の原因としている。まず、客観的側面において、日本における「ムラ」社会がそうであるように、小さい集団であればあるほど、その中の成員は強く結びているのである、というより結びつかざるをえないのである。そして、その強い結びつき(「個々の意志行為と利害圏が余りにも密接している…(p400)」)によって個人の行為が「各人相互の連帯責任(p393)」とみなされるのである。その原因として、「子供や未熟な人間がある課せられた活動を果たすために、必要以上の筋肉を多く使い、…(p400上)」の例のように、不十分な分化のもとでは「…生活の因素がどうにもならぬほど交錯しているために個々の要求がいくつかの隣接した因子をいわば一緒につれていかなければならない…(p400下)」ということがあるのである。
他方、主観的側面からの考察によれば、「前者(事物の実際の分化)は決して後者(分化の可能性)に比例しているものではなく、前者が後者を規定するということもよくあるのである。」と述べられているように、不十分な分化のもとで起こる連帯責任が、第三者へ向けられた個人的行為に対して課せられる懲罰をその属する社会全体に課すという可能性を強めるのである。それによって、個人が罪を犯した場合でも、その罪を犯した個人を区別することはできないのである。
また、その個人を集団から区別できなくなったのは、類似性と現実的連関という観念を連合させるときの二つの類型である。類似性とは、嫌いな人に似ているというだけで、その人と全く関係のない人を嫌いになるといったようなものである。つまり、ジンメルの言葉では、「…性急な主観性によって支配されればされるほど、事実上、一定の人間にたいして妥当する感情と行動の仕方を、そのまま、ある類似性から連合が引き起こされるような感情と行動の全範囲に伝達してしまうのである。(p403)」 そして、類似性を生み出す現実的連関というのは、社会の中では、「他人の利益に役立つ結合によって自分の利益を保証しよう(p404)」とするような共同的関係のことである。また、その原始的な家族においての現実的連関とは、生物学的な「自己保存の連続(p406)」の関係であり、つまり、「家族全体を保護しようとするそうした衝動は、産むものを家族全体に結びつける統一感(p407)」ということである。
つまり、このような二つの類型に見られる「親と子の有機的な共属、親子相互の類似、同じ生活条件にたいする関心の適応(p407)」のすべてによって、第三者が個人を個人として認識するということを困難にしているのであり、また、集団が集団以外にたいする行う行為をその集団自身と結びつけるという「統一性」を生み出すのである。

4:「最近はかえって、個人の罪を社会に負わせようとする傾向が現れてきている。」(P413)とありますが、どうしてでしょうか?
引用:
「(p411)そのためには(第三者が属している集団に反作用する感情と行動が集団のなかのある一定の局部にだけに精確に向けられるためには)、非常に精細な分化が、集団の中では客観的に、また被害者の認識能力の場では主観的に行われていなければならない…」
「認識が精密になっていけばなっていくほど、ある道徳上の罪に対する責任がその罪を犯した人間全体に負わされるということはなくなり、…その(教育、模範などの性向)残りの部分は腐敗しておらず、道徳的であるかもしれないということが理解されてくるのである。」
「人格がますます精密に形成され、その性向、能力、関心がますます互いに分離し独立するにしたがって、罪は、実際のところ、人格の総体に帰せられるのではなくて、人格の一部に帰せられるようになるのである。」
「(p411)主観的にある判断をくだす人間が、…他人の行動についてそれにちょうどふさわしい結果(感情)だけをもつようになると、他人にたいして反作用するときも、その人はその行為が他人の人格の中に占めている範囲にかぎって客観的にそれを行い、ものを人から区別し、個別と全体とを区別するようになる。」
「文化が高まると、不道徳な衝動のなかに含まれる力そのものを、懲罰によってはかいしてしまうことはやめて、そうした力が有益に行使できるような状態、…を創造しようとする努力が行われてくる。…こうしたことは、分化によってのみ、つまり、行動および感情の様式と関係が、ひとつの部分の運命は同時に他の部分の運命をも連帯的に規定するという、最初の包括的な複合の形式から、しだいに解放されてくるということによって、可能なのである。」
「そこでは(時代が進むと、犯罪人にたいする対処の仕方はより寛大になる)、…人々は個々の行為を人格全体から分化させており、彼らは個々の不道徳を、不明瞭な観念が考えるように心の頽廃とは考えないことがさししめされている。したがって、より高度の文化がひとつの主要目標にしている受刑者の改善ということも、犯罪者の心を取り扱うのに、分化が進み、まだ健全である性向とすでに堕落してしまった性向とを一括して取り扱うことが本質的にできなくなっている、…」
「(p413)社会が個人に押し付ける外面的な地位、社会が個人に与える栄養不足あるいは栄養過多の生活条件、個人が社会から受ける膨大な印象と影響−といったすべてのもの、個性の「自由」とはまったくかけ離れたすべてのものに、個人的犯罪の責任が帰せようとしている。罪が自由な意志の結果として生ずることを否定し、自然的因果のもとに生ずるとする超越的認識は、社会的影響によって一般的規定を行うことにたいする信仰と結びつく。」
「彼の人格の内容が社会から与えられるとすれば、それを実現するための道具にすぎず、また通過点にすぎない行為にたいして、われわれは個人にその責任を帰すことはできない」
答え:
分化がなされていない未開時代では、個人の罪は社会(集団)全体に帰せられるが、社会において分化が起こると、個人の罪を個人にたいしてみとめるということが、刑法などの法律にみられる。しかし、分化がされに高まると、それだけその罪の認識も高まるというのではなく、逆に罪を軽減しようとするのである。なぜなら、個人が犯した個々の行為を人格から分離し、健全である性向を強化することで、社会にとって有益なものにしようとしたのである。
そして、現在社会において、罪に関して「特別の形式による以前の見解への復帰(p413)」が見られるようになったのである。近代社会がもららした「自由」とはかけ離れたもの、「社会が個人に押し付ける外面的な地位、社会が個人に与える栄養不足あるいは栄養過多の生活条件、個人が社会から受ける膨大な印象と影響−といったすべてのもの」にたいして個人的犯罪の責任が帰せられようとしているのである。つまり、社会学的な考え方によって個人と社会との密接な関係が明らかにされることによって、未開社会におけると同様、個人の罪の責任を社会に転嫁するようになるのである。

第三章 集団の拡大と個性の発達
5:P436の「全ての人間が平等だという説は、極端な個人主義としばしば結びつく」とあるように、相反するようにみえる全体的平等と個人主義が相関するのは何故でしょうか。
引用:
p436「全体的平等という観念は、・・(中略)・・独特な特性をもった個体であるという事実を強く意識することによってますます促進される」
「その特性の内容がどんなものであるかということには関係なく、個性の形式だけが各個人に与えられ、これがその稀少の度合いに従ってその個人の価値を規定するのである。」
「各個人が特殊なものであるときにこそ、各個人はその限りにおいて互いに平等なのである。」
「初期のキリスト教徒は、個人の心霊に絶対的な価値を認めていたために、彼ら以外の人々の間に差異を生じさせるようなすべてのものにたいしてまったく無関心であった・・・絶対的個性などは存在しないということならば、各個人は、自分のもつ属性の総和にすぎなくなり、したがって各個人は、その属性が異なっているように異なったものになる訳である。」
解答1:
原始キリスト教集団に代表される未開時代には、個々人はそれぞれの属性をもち、お互いが異なった属性を持って共同体を形成しているという意味で平等であった。それは皆がそれぞれ自分の価値を持つことでそれらが属す集団の役割を果たす意識を持つためである。
それが分化が進んだ社会では、個々人がどのような個性を持つかは問われない。それはただ個々が自分の個性を持っているという形式を自覚するゆえんに皆平等だからである。

p432「(個々人が)自由を超越しようと欲するとただちに、一方では個人的な指導権力による統一化を求め、他方ではすべての差別を撤廃して自由な人格に対して絶対的な権利を与えようとし、無政府主義的色合いの強い社会主義へ転換しようとする。」
「集団の平準化の現象は専制の現象と相関しているのである。だからこそ、個人的な支配者によって強力に支配されている教会は、その信者の個性の成長をできるだけ抑え、全世界を包括するような、人格それ自体をできるだけ平準化するような王国をたくみに建設するのである。」
p460「いちじるしく分化した社会では、ある点では平均を超えていても、他の面ではふつう他の人々の方が発達していて平均を超えているので、頭角をあらわすのはそれだけ難しい。」
p461「個人が共同的な、したがって低い水準につなぎとめられている場合には、それをほんの少し超えて分化するだけで、状況を全面的に支配することができるのである。」

解答2:
社会圏が拡大し、分化の進行に伴い個性が発達してきた際、その個性の突出の集まりの中で頭角をあらわすのは困難なことである。だが個々人を低次水準につなぎとめられることができればそれを支配するのは容易である。そこで作られだされた意識が“平等”や基本的人権ではないだろうか。平等とは人間が人間であるだけで与えられるいわば特権のようなものであり、人間であるならば誰でも共有しているみなされる共同意識である。よってそのようにお互いが意識し合えば低い水準での共同性が開かれるわけである。

第四章 社会的水準
6:P492「進歩した文化は、われわれが全人格をもって所属する社会圏をますます拡大し、だがそのために、個人をますます自立化させて、緊密な結合を持つ圏による多くの支持と利点を彼から奪う。」とありますが、このように分化された社会において共同性はどのように得られるでしょうか。“低次の観念”“模倣”“平準化”という言葉をも参考にして述べて下さい。
引用:
p457「低次な領域ほど、全ての人によって理解されるのを確実に期待することが出来るが、高次になればなるほどそれだけ分化と個別化が進むために、こうした理解は疑わしくなる。」
p458「低次の観念や激情だけが全ての人に共通しているのであり、他方、高次のものは分化していて、そのため人によって異なるのである。ある集団が統一して行動する場合、それはいつももっとも単純な観念を土台にして生ずる」
p462「統治がすべての階層に対して等しく樹立されるためには、それは諸階層を平準化しなければならない。しかも平準化は、低い人が引き上げられるというよりも、高い人が引き下げられることによってのみ、可能なのである。」
p466「感情の感覚的表現とそれの共感的・反射的模倣とにより、われわれの周囲で起こる興奮は、多かれ少なかれわれわれをその中に引き入れる。」
p467「他者の行動の模倣は、その行動の内的理解への鍵を与えてくれる。」
p458「宗教的領域においては、まさに統一性と単純性が、多様性や複雑性よりも、はるかに多く思考と感情の深まりを要求するからである。」
p408「たとえば、たがいに矛盾する性格および感情をもっており、感覚的、理知的、倫理的な衝動からはまったく異なった方向に分裂してしまっている人々のあいだにも、その人々が宗教的な理念を持つことによって、その人々の本質の統一が得られるのである。人間の持つ種々の性質が、それぞれ、神の意志として啓示されるものにたいして同じように服従し、したがって神の理念にたいして(共同体員どうしが)同じ関係を生ずることにより、最初は全く存在しなかった統一性が生ずるのである。」
解答:
 社会圏が拡大し個人間の分化が進めば、人と人を結ぶ共同的な領域はますます少なくなり、共通するものは低次の観念や感情的なものに限られてくるのである。なぜならば高次な話題になればそれだけ個別化が進み、そのような内容では全ての人の理解を得るのは難しいからである。故に社会を支配するものは、共同体成員全てが共通に理解出来る感情的なものを社会のレベルとして作り上げ、高次の人間を低次に引き下げる作用によって社会の平準化を行うのである。その平準化が一つの価値として社会に根づけば、人間はその価値を反射的に模倣する傾向にあるため、共同体成員の統一が可能になるのである。
 又、個性の発達に伴い分裂が生じた際も、共同体内で何か共通の目標や意識が生まれることによって人々が統一することが可能である。例えば他国と戦争をすることによって、他国から身を守るという目に見える単純な目標によって共同体内部はまとまることが出来る。又、共同体で一つの信仰を持つことは、成員皆が神の恵を受け、それを祈りでもってたがいに関わることで、今度は共同体員同士での相互関係が生ずるのである。これら二つの例は低次レベルでの同調と、共同体員同士の模倣が表現される典型であろう。



BACK