デュルケーム『自殺論』


1.自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、それぞれの特徴を簡単にまとめてください。

解答例:
自己本位的自殺
社会(宗教、家族、政治)の凝集度が低くなり、常軌を逸した個人化が進むことで、個人は、あまりにもとるに足らぬ存在であり、その存在は時間的にも空間的にも限定されている自己をその固有の唯一の対象とする。この極端な自己集中の結果、思索的な知性が過度に肥大し、結局は字部の生にその存在理由をみとめることができなくなってしまったために起こる自殺。

集団本位的自殺:
 社会の凝集度や統制度があまりにも高く、個人が社会の中にほとんど埋没して、個人にかんするものが一切尊重されず、生の存在理由が生そのものの外部にあるかのように感じられたときに起こる自殺。このとき、デュルケームは、さらに義務的集団本位的自殺、随意的集団本位的自殺、激しい集団本位的自殺の三つの変種が含まれていると示しているが、義務的集団本位的自殺は文字どおり自殺が義務としてなされる特徴を示し、随意的集団本意的自殺は表向きは自殺を強制されておらず、むしろ任意的な性格を持ち、激しい集団本意的自殺は自殺そのものが、理由もなく賞賛されるために、個人がひたすら犠牲の喜びを求めて行なうという特徴がある。しかし、これらの変種はデュルケーム自身示しているように本質的には変わらない。なぜならこれらはすべて「徳」という社会全構成員をおおう考え方に基づいているからである。

アノミー的自殺:
社会が危機的状況(経済的破綻、繁栄、家族的秩序の破綻)を迎えたときに統制度が失われ、個人の欲望に際限が無くなってしまう。しかし、欲望は常に満たされず苦悩がつのる。そしてそのことが個人を駆り立てて、起こる自殺。

なお、デュルケームが生きた19世紀から、社会は大きく変わり、多様化した。それに伴ってかつては単純に分類された自殺も多様化し一概に一つの枠組の中に入れられず、複数の性質を備えた自殺が増加した。

2.社会的事実を「もの」と同じように扱うことで、デュルケームは何を目指していたのでしょうか。

引用:
 「・・・問題の立て方を変化させるとき、科学は進歩したといわれる。」53
 「社会学は、いまだになお建設の段階と哲学的総合の段階をこえていない。社会的領域のある限られた部分に光をあてることにつとめるよりも、好んでありとあらゆる問題にかんする絢爛たる一般論を展開し、何一つ問題をはっきり限定して扱おうとしないのだ。」53下
 「社会学者は、社会的事実にかんする形而上学的支弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭をえがくことができ、いわば指でさししめされ、その境界がどこからどこまでであるかをいうことができ、そこに確実に帰属するような事実軍を、その研究対象としなければならない。」54下
 「つまり、伝達が可能だということなのだ。こうして、科学的研究においてある一定の連続性が保証されるようになるが、この連続性こそ、科学の進歩をうながす条件にほかならない。」55上
 「・・・存在するものが個人だけならば、社会は存在しないということを人は理解しない。」57上
 「・・・本書の各ページからは、個人は、個人をこえた一つの道徳的実在、すなわち集合的実在によって支配されているという印象が出てこないわけにはいかないとおもう。」57下
 「社会学者が研究するのは、個々ばらばらの個人の上にではなく、集団の上に影響を及ぼしうるような諸原因なのだ。」73上
 「この基体(社会現象の基体)は、部分(個人意識)によって構成されている全体にほかならないから、なんら実体的なものでもなければ、存在論的なものでもない。とはいえ、それを構成している諸要素と同じように実在的なものであることには変わりない。」291上
 「個々人が結合してつくりあげた集団は、ひとりひとりの個人とは異なった別種の実在である。」291下


解答例:
 デュルケームは「社会的事実」を「もの」として扱い、これを社会学の(限定された)対象である、とした。これが、社会的事実をものとして扱うことの目的であった。
 『自殺論』は、既存の社会学に対する否定的見解から、その論をはじめている。デュルケームは、それまで広まっていた社会学は一般論を展開することで、「大きな物語」を語ることしかできておらず、そのゆえに対象を限定的にとられていなかった、という。そして学の対象をあいまいにしたまま研究が進められたために、形而上学的思惟に陥る傾向にある、と批判する。しかし、デュルケームにとって、社会学は「科学」として成立させるべきものであったし、成立させることが可能なものであった。
 科学としての(その意味で正当な)社会学を構築するために、まずデュルケームは社会学の対象をはっきりと規定する必要があった。このことによって、明確に学の対象を学者の間で空間的にも時間的にも共有することが可能になり、学が生む新たな知見の「伝達」が可能になるのである。学者間で対象を共有することこそが学問の「客観性」を生み、また形而上学に陥るという過ちを犯さないために必要なことであった。この「客観性」が、社会学を科学たらしめる基盤である、とデュルケームは考えた。そして、社会学が対象とすべきものが社会的事実なのである。この時、それまでの社会学と、デュルケームが提唱する社会学とでは「問題の立て方」がことなったものになる。この違いが、社会学が真の科学として進歩したことの証拠なのであると、デュルケームは主張する。
 デュルケームに対する批判としては、何ら実体的なものではない「社会的事実」をどうして限定されたもの(対象)として扱うことができるのか、というものがあったが、これに対しては、デュルケームは次のように言う。「社会的事実」は確かに、「実体的なもの」ではない。それは「実在的なもの」なのである。すなわち、統計的事実から、その存在が浮かび上がってくるもの、想定する必然性を持つもの、なのである。このように、実体的なもののみを対象とするのが科学なのではなく、実在的なものをも科学の対象であるとしたところにデュルケームの独自性をみることができる。

3「死が、当人自身によってなされた積極的・消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」(p.64上)このように定義すると、個人が死のうと思ってしんだだけではそれを自殺と呼ぶことはできません。その間にある違いはどのようなものでしょうか。

引用:
「一般的にいって、一つの行為を、行為者の追求する目的によって定義することはできない。なぜなら、同じ一つの行動の体系が、その性質を変えることなく多様な目的に適応することは出来るからである。」62上
「人間は、生からのがれるときでもなお生きることを望んでいるのだから、やはり生命を放棄することに変わりはない。」62下
「死が当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、全て自殺と名づける。このように定義される行為でありながら、死という結果を招く前に中止されるものが自殺未遂である。」64上


解答例:
 まず、「個人が死のうと思う」ということは後者の「死のうと思って死ぬ」ことは行為者の追求する目的であり、デュルケームはこれによって、ひとつの行為(ここでは自殺)を定義することはできないと記している。また、「死人に口なし」といわれるにも関わらず、「死のうと思って」などと推測するのは社会学的には何も生み出さず、むしろこれは個人の内面から社会の最小単位としての個人を研究する心理学的な立場である。
一方で、デュルケームの示す社会学的な自殺は、「死ぬかもしれないと予知していながら死んでしまった」というところに集約される。つまり個人は死を予知していても、なお死ぬつもりはなく、様々な社会的要因によって生命を放棄してしまうのだ。その時、個人の内面における様々な動機には立ち入らない。これらのことから、心理学と社会学の研究の方向性の違いが見えてくる。

4.自殺は、自己本位的自殺と集団本位的自殺とアノミー的自殺という三つに大きく区別されていますが、その背後には共通点も含まれていると考えられます。その共通点とはどのようなものでしょうか。

引用:
「社会のなかにも、個人の力を除いてはほかに活動的な力は含まれていない。ただし、個人は、互いに結合することによって、一種の新しい、それゆえ固有の思惟と感覚の様式をもった心理的存在をつくりあげる。確かに社会的事実を生じさせるもとになる基本的な特性は、個々人の精神の中に胚胎している。しかし、それらが個々人の結合の中で変容を受ける時、はじめてそこから社会的事実が生じてくる。というのは、このときにのみ、社会的事実が出現してくるからである。個個人の結合もまた、独特の結果を生み出す動因なのだ。」279
「全体は部分の総和と質的にひとしいこと、ある一つの結果はそれを生んだ原因の総和に質的にも還元されうることを承認することであろう。そして、それを承認することは、全ての変化を否定するか、あるいは全ての変化を説明不可能とみなすことにつながる。」280上
「ただ、集合表象というものが、個人表象とまったく別個の性質ををもっているまでのことなのだ。もしも、社会的真理は個人真理の法則と異なった固有の法則を持っているということを細心に言いそえるならば、社会学は一種の心理学であるといったところで、なんら不都合はない。」281上


解答例:
 そもそも自殺は、行為者の内面的要因によって起こるのではなく、行為者を包む共通の社会的環境の中にある、彼らは全て同一の方向へ向かわせる何らかの力によって起こると『自殺論』には繰り返し記されている。その社会的力は自殺者個々人の精神の中にある自殺を生じさせる基本的な特性が、個人の結合という過程を経て生み出される大きな力である。さらに社会的な力と個人的な力はまったく別個の性質を持ち、個人の力の総和が社会的な力の総和と等しくなるわけではない。なぜなら、個人は確実に変遷しているのも関わらず、毎年のほぼ一定である自殺者の総数は個人の微弱な力を考えただけではとうてい説明できないからである。そしてその社会的な力を生むそれぞれの社会的状態に応じて、自己本位主義的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺の三種に大きく分けられる。
ところで、それらの力に包まれて個人が自殺をするということは、その個人がその力を生み出す全ての社会に埋没することにほかならない。特に集団本位的自殺ではそのことが強く説かれているが、社会に取り込まれ翻弄された社会的事実の結果として自殺者が認識されるのであるから、本当は自己本位主義的自殺でもアノミー的自殺でも同様のことが言えるのである。
一方、個人が本当に社会に埋没できるのかという疑問もぬぐいされない。個々人が物理的にとけて一つのかたまりになるということはありえないが、集団全体が密度の高い一様性をもった一つの「集魂」(170)と化し、意識のみがそうなることはありえる。しかし、それとて個人がその個人自身の意志という「フィルター」を通してそうなるのであるから、その「フィルター」をその集団の色に自ら染め上げて、もしくは染まったように感じて、その集団に入り込み翻弄されることを思う時、全ての種類の自殺が個人の意志によって行なわれる言っていいであろう。

5.デュルケムは、社会学の存在意義を示す格好のテーマとして「自殺」を取り上げたわけですが、それはなぜでしょう。(心理学と対比させてください)

引用:

 「かりに個人がこの力を生みだす結合に一つの要素として参加するとしても、この力が形成されていくにつれて、それは個人の上に拘束を及ぼすようになる。」58上
 「もしも自殺を、個々別々に考察されるべき、たがいに独立した個々の出来事というふうにみないで、特定の時間単位内に特定の社会の内部に起こる自殺を全体的に考察してみるならば、こうして得られた全体は、たんなる個個の総和、すなわち寄せ集められた自殺の和ではなく、それ自体が一種独特の新しい事実を構成していることが認められる。それは、統一性と個性をもち、それゆえ固有の性格をそなえている。」66下
 「それぞれの社会は、ある一定数の自殺を引き起こす傾向をそなえているのだ。したがって、この傾向こそが社会学に属する固有の研究対象となることができる。」72下
  「・・・本人が自分自身の状態について語っている告白は、疑わしくはないまでも、たいていはどこか不十分なところがある。」83下
 「・・・人々の上げるこうした自殺の動機、あるいは自殺者自身が時分の行為を説明するためにあげる動機などは、そのほとんどが、表面的にすぎないからである。」88-89
 「生活上の種々さまざまな出来事は、たとえもっとも相反するものであっても、等しく自殺の口実になりうるのだ。」264上
 「・・・一つの社会、あるいは特定の社会の一部分において、自殺率をこのように一定にたもたせている原因は、その影響をこうむるものの誰かれにかかわりなく、等しい強度で作用しつづけるのであるから、個々人には依存しない、独立した原因でなければならない。275上
 「社会を構成している個人は年々替わっていく。にもかかわらず、社会そのものが変化しないかぎり、自殺者の数は変わらない。」274下
 「集合的状態は、個人たるかぎりでの個人に影響を与えるにさきだって、また個人のなかに新たなかたちで純粋に内的な存在として形成されるのにさきだって、まずそれを生んだ集団の中に存在している。」291下
 「自殺者が存在するのは、またわけてもそれぞれの社会において一定の期間ごとに、一定の数の者が自殺をはかるのは、このような理由からではない。この現象を生み出す原因は、個人の外部にあるので、個人だけを観察の対象とする者の目からは、どうしてものがれ去る。」296上


解答例:
 自殺の原因を分析する方法としての(個人)心理学の方法論にデュルケームは次の四つの疑問を抱く。
@ 自殺した人間からは、自殺の動機を聞き出すことは不可能である。
A 人は果たして自分のことを正確に理解しているのか。すなわち、遺書などにかかれている自殺の動機は、本当の原因なのか。
B 個人のなかに、自殺の原因を求める心理学の説明では、毎年同じ程度の人間が自殺しているという事実(社会的事実)を説明することはできない。
C 心理学の説明では、まったく相反する説明が、自殺の原因として挙げられる。
 一方、実在としての社会的事実を認める立場のデュルケームにとって、個人の意識の総和以上のものである社会的事実は個人から生まれつつ、個人を拘束するものとしても映じることになる。したがって、個人の側ではなく、社会の側に真の自殺の原因があるのである。これは、実在としての社会的事実を対象とする社会学にしか説明のできないことだ、とデュルケームは考える。
 心理学が説明する自殺の原因は、引き金にすぎない。自殺の真の原因は「実弾」を説明しうる社会学にしか究明できないのだ、とデュルケームは主張するのである。

6.デュルケムは、「自殺」を取り上げることによって、社会学独自の方法論を浮き彫りにしようとしています。それはどのようなものでしょう。(理論構築と実証データとの関係について述べなさい)

引用:
 「しかしあいにく、正気の自殺を、その形態学的な形式もしくはその特徴に照らして分類することはできない。必要な資料がほとんどまったくないからである。」83上
 「われわれは、あらかじめ記述された自殺の特徴にしたがって直接に分類しなくとも、それらを引き起こした原因を分類することによって、自殺の社会的タイプを構成することが出来る。」84上
 「ひとくちにいえば、私の分類法は、形態学的ではなく、はじめから原因論的なのだ。」84下
 「あらゆる点からみて、この逆倒的な方法は、私の提起した特殊な問題を扱うのに適した唯一の方法である。実際、個々で研究するのは、社会的自殺率であるということを忘れてはならない。」85上
 「・・・一つの社会の集合的タイプと、社会を構成している個人の平均タイプを混同することは――それは往往にして行われがちであるが――根本的な誤りである。」288上
 「・・・集団の意識は、平均的意識と混同されてよいどころか、あらゆる面でそれをこえていることをみとめなければならない。」289上


解答例:
 社会学は、形態学的な形式ではなく、原因論的理論を利用した理論構築を、その方法論として採用する。このときに、デュルケームは自殺の統計(実証データ)を駆使する。
 しかし、一方で、デュルケームは実証主義系の社会学者であるケトレが提出する「平均人」概念を批判する。「平均人」は実証データによる人間の数値化によって成立する。たとえば、人口1万人の町において、年間に10人の人間が自殺するという場合には、一年間に0.1%の確率で自殺する人間、というものが「平均人」として想定され、この人間の振る舞いを分析することで、「自殺」というものを学の対象とすることができる、というのである。
 しかしながら、デュルケームにとって、社会は個々人の総和以上のものであるから、平均人の行動を分析してみても、社会を再構成することはできないし、社会的事実を正確に捉えることはできないのである。デュルケームは社会的事実を数値化しようとはしない。なぜなら、社会的事実が持つ要素は、それを反映する単位を持たないからである。つまり、個人に対応する「何人」と、同じ意味で「社会の中の関係」に対応する単位がないというのである。したがって、デュルケームは、社会的事実を分析せず、それをそのまま社会学の対象とする。そして、ここに社会学の存在意義を見出すのである。

提題:個人と社会の関係において「自殺」とはどのような役割を担っているのでしょうか。



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