ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」




問い1
「(p28)『あるもの』(存在)の認識と『あるべきもの』(当為)の認識とは、原理的には区別されなかった。」とありますが、これに対し、Weberは何がこのような状況を生み出し、また彼の立場としてはどのようにするべきだと考えているでしょうか。

「第一に、変わることなく同一の自然法則が、経済事象を支配しているという見解であり、第二には、ひとつの一義的な発展法則が経済事象を支配する、といういまひとつの見解である。」(P.28) 「・・・、国民経済学を、経験的な基礎の上に立つ「倫理的科学」にまで高め、それ相応の威厳を付与しようとした。」(P.29)
「つまり、「世界観」とは、けっして経験的知識の進歩の産物ではないのであり、したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想は、どの時代にも、もっぱら他の理想との闘争をとおして実現されるほかはなく、そのさい、他の理想が他人にとって神聖なのは、われわれの理想がわれわれにとって神聖なのとまったく同等である。」(P.41)
「・・・実在を評価し、価値判断を導き出す基準が、いかなるものであるかを、つねに読者と自分自身とに、鋭く意識させるように努める、という義務である。」(P.46)
「事実の科学的論究と価値評価をともなう論断とをたえず混同することは、われわれの専門的研究にいまなお広範にいきわたり、しかももっとも有害な特性の一つである。」(P.48)


 事物の認識とそれに基づく価値判断をはっきりと分けること、それがWeberの主張である。事物の認識はそれぞれの認識者に応じて様々な観点からの見方がある。その見方からそれぞれが価値判断を下すのであるが、そこで事実の認識と価値判断とが混同されがちなのである。それは、一つの事物認識が絶対的な事物認識であるとの盲目的な考え方から生じる。世界観とは、その事物認識から生まれ出るものであるが、一つの世界観を他の世界観から優越することを示す確証はどこからも得ることはできない。したがって、一つの世界観から生まれる価値判断を必当然的に妥当する価値判断だということはできない。価値判断とは、社会科学によって扱える事象ではなく、生活の中でそれぞれが選び取るものなのである。

問い2
「(p40)実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演繹すべきである、というような見解がますます専門家によっても相変わらず信奉されているが、これはもとよりナイーブな信仰にすぎない」とウェーバーたちは批難している。では、ウェーバーたちはどのような研究方法が社会科学にとって適切だとしているでしょうか。

[引用]
「(p25)この「雑誌」が創刊以来掲げてきた目的は、「あらゆる国々の社会状態」すなわち社会生活の事実にかんする認識を広げることとならんで、社会生活の実践的諸問題にかんする判断を練磨すること、したがってまた、実践的な社会政策を、立法に関与する諸要因にいたるまで、批判の俎上に載せることにもあった。」
「(p40)社会科学において、実践的問題の「原理的な」論究、すなわち、反省を経ずに強いられる価値判断を、その理念内容にまで遡って捉え返すことが、いかにも必要であっても、また、われわれの雑誌は、そうした論究にも、とくに力を入れるつもりであるが、−われわれの直面するもろもろの問題にたいして、普遍的に妥当する究極の理想という姿をとる、ひとつの実践的な公分母を創り出すようなことは、断じて、われわれの任務でなければ、およそいかなる経験科学の課題でもない。」
「(p119)…理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。」
「(p134)…ここでもまた、妥当すべき、あるいは妥当していると信じられている、実践的な理念と、認識目的のために構成される理論的理念型とが、並行関係にあって、たえず相互に移行し合いがちなのであり、…」
「(p145)われわれがそのときどきに意義をもつ実在の構成部分を把握するために欠くことができない思想体系は、いずれも、実在の無限の豊かさを汲み尽くすことはできないからである。これらの思想体系はいずれも、そのときどきのわれわれの知識の状態と、そのときどきにわれわれが使用できる概念形象にもとづいて、そのときどきにわれわれの関心の範囲内に引き入れられる事実の混沌のなかに、秩序をもららそうとする試み以外のなにものっでもない。」
「(p148)<ドイツ歴史学派たちの見解>…あらゆる科学の究極目標ないしその目的は、その素材を、ひとつの概念体系にまで秩序づけることにあり、この概念体系の内容は、経験的規則性の観察・仮説構築およびその仮説の検証によって獲得され、いつの日か、ひとつの「完全な」、それゆえ演繹的な[そこから現実が演繹できるような]科学が成立するまで、徐々に仕上げられていかなければならない、…」
「(p158)科学のみが寄与できる事柄とは、経験的実在[そのもの]でもなければ、経験的実在の模写でもなく、ただ経験的実在を思考により妥当な仕方で秩序づける、概念と判断である。」
「(p160)社会科学の本来の任務は、…具体的な歴史的連関の文化的意義の認識につかえることこそ、唯一の究極目標であって、概念構成および、概念批判をこととする研究もまた、他の手段とならんで、この目標に奉仕しようとするものであるという原則である。」

[解答]
ウェーバーがここで批判しているのは、自然主義的な研究方法である。自然主義者たちは、上記のように、実践的な諸問題をそれによってすべて演繹できるような究極の公理、「実践的公分母」を創り出すことをその目標としている。しかし、ウェーバーが指摘するように、そのような一義的な原理では、「実在の無限の豊かさ」を説明しつくすことはできないのである。また、「法則」で理解できない個々の事象を例外としてはいじょするのである。現代の社会において、これらのことは一層明らかになっている。特に環境破壊に対する政策という実践的な問題を、科学のもつ一義的な原理では解決できないということをわれわれがよく意識しているのである。
そのような自然主義的な方法に対して、ウェーバーは「理念型」という方法概念の導入を主張している。この概念に基づいて、無限の「経験的実在」を測定し比較することで、「事実の混沌」のなかに秩序をもたらすことができるのである。さらに、時間とともに変遷する流動的な実在も、あらたな理念型によって、再び秩序づけられるということによって、常に社会科学の認識において「客観性」を成立させるのである。
そして、実際には、その「客観性」にもとづいて、実践的諸問題を判断をすることができ、特に、『アルヒーフ』の雑誌においては、「労働者問題」にたいして判断、さらに、批判をくわえようとしたのである。

問い3
「(p134)われわれがそうしたのは、文化科学の領域では、抽象的な類型的なものと、抽象的に類的なものとが、同一であるかのように考える、一般に抱かれている先入観を取り除くためであった。この両者は、同一ではないのである。」とあるが、「抽象的な類型的なもの」と「抽象的に類的なもの」とは、どのように異なるのでしょうか。

[引用]
「(p134)濫用のために甚だしく信用を失った「類型的なもの」の概念を、…「偶然的なもの」を取り除くという意味で類型概念を構成することは、歴史的個体においても、いやまさしく歴史的個体においてこそ、必要欠くべからずこととしておこなわれている、ということが分かるであろう。ところで、歴史叙述ならびに具体的な歴史的概念の構成要素としてたえず見出される類概念も、当然のことながら、そうした叙述や概念にとって概念上本質的な特定の要素を抽出し、[思考上で]高めることにより、理念型として構成することができる。」
「(p135)ところが、この(個性的な理念型はいずれも、類的で、理念型として構成された概念要素から合成される)ばあいにも、特有の論理的な機能が示される。」
「(p135)「交換」概念は、当の概念の構成部分の意義は度外視し、たんに日常の慣用語として分析するかぎりでは、数多の現象に共通に見出される標識[メルクマーク]の一複合体という意味における単純な類概念にずぎない。しかしいま、この概念を「限界効用の法則」に関係づけて、経済的に合理的な経過としての「経済的交換」の概念を構成するとすれば、そのとき、この概念は、論理的上十全に展開されたあらゆる概念と同様、交換の「類型的」諸条件にかんするある判断を内に含むこととなる。このとき、当の概念は、発生的な性格を取得し、それと同時に論理的な意味で理念型的となる、すなわち、それは、経験的実在から遠ざかり、経験的実在は、この理念型とただ比較され、関係づけられるにすぎない。」
「(p136)経験的現象に共通なものをたんに総括する単純な類概念と、類的な理念型−たとえば、手工業の「本質」という理念型概念−との対立は、当然のことながら個々のばあいには流動的である。しかし、いかなる類概念も、それ自体として「類型的」性格をもつわけではなく、純然たる類的「平均」類型といったものは存在しない。」
「(p136)…複雑な歴史的連関を、それに特有の文化意義が根ざしているその構成部分において、概念的に構成しようとすればするほど、それだけ、当の概念−あるいは概念体系−は、理念型の性格を帯びてくる。というのも、理念型的概念構成の目的は、いかなるばあいにも、類的なものではなく、反対に、文化現象の特性を、鋭く認識させることにあるからである。」
「(p137)理念型が、類的な理念型をも含めて用いられることができ、現に用いられているという事実は、いまひとつの、別の事態と関連付けてみるばあいに初めて、方法的な興味を喚起する。」

[解答]
原語では、類概念とは“Gattungsbegriff”で、類型概念とは“typischer Begriff”となっていて、日本語訳とは異なり、異なった表現で示されている。では、「類的」と「類型的」の違いがどのようなものであるのか。それは、「類的」なものとは、さまざまな現象に共通に見出される「標識[メクルマーク]」なのである。つまり、それは、われわれが日常生活で「あの人とこの人は似ている」といったような形態上の類似性をもっていてだけで、その中には論理的な機能は含まれていないのである。それに対して、「類型的」なものとは、そのような事象に ある概念と関係づけて合理的に構成したものである。このような点で、「類的」と「類型的」な違いが分かるであろう。
では、なぜウェーバーはこのような違いを意識することが必要であるとしていのであろうか。彼は、「交換」という概念を例に説明している。日常における「交換」という現象にみられる単純な類概念を、「限界効用の法則」といった法則的なものに結びつけ、「経済的に合理的な経過としての「経済的交換」の概念を構成する」ことによって、それは、発生的な性格を得て論理的な機能を持つ、理念型的概念となるのである。そして、その「理念型的概念構成の目的は、いかなるばあいにも、類的なものではなく、反対に、文化現象の特性を、鋭く認識させることにあるからである。」つまり、理念型的概念も、理念型として用いることができ、現に用いられているのであるということを述べたかったのである。

問い4
「(p113)ところで、研究と具体的描出という目的にとって、こうした理念型概念は、慎重に適用すれば、それに特有の効用を発揮してくれる。」とあるが、@ウェーバーたちはこの「理念型」をどのようなものとしているか、そしてまた、A社会科学においてこの概念がどのように有効であるとしているのでしょうか?

・ 「理念型」をどのようなものとしているか
引用:
「思考によって構成されるこの像は、歴史的生活の特定の関係と事象とを結びつけ、考えられる連関の、それ自体として矛盾のない宇宙〔コスモス〕をつくりあげる。内容上、この構成像は、実在の特定の要素を、思考の上で高めて得られる、ひとつのユートピアの性格を帯びている。」p111,112
「…それには、近代の物質的ならびに精神的な文化生活に散在している個々の特徴を、それぞれの特性について思考の上で高めて、われわれの考察にとって矛盾のないひとつの理想像に結合しなければならないであろう。」p114
「この思想像は、概念的に純粋な姿では、現実のどこかに経験的に見いだされるようなものではけっしてない。」p113

解答例
 現実のどこかに経験的に見出される形のあるものではなく、実在から抽出されたひとつのユートピアとしての性格を帯びている。近代の物理的、精神的な文化生活のさまざまなところに散在している個々の現象の特徴を、それぞれの特性の上で意義のあるものに高めて、我々の考察にとって矛盾のないひとつの理想像に結合してできたものだといえる。

@社会科学においてこの概念がどのように有効であるとしているのでしょうか。
[引用]
「(p117)…それゆえ、抽象的な理念型の構成は、目標ではなく、手段と考えられている。」
「(p119)理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義があるのであり、われわれは、この極限概念を基準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。こうした概念は、現実に依拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判断する、客観的可能性の範疇〔カテゴリー〕を用いて、われわれが連関として構成する〔思想〕形象にほかならない。」
「(p128−129)…そのさい、叙述しようとする連関が広汎にわたればわたるほど、また〔叙述の前提となる〕文化意義が多面的であればあるほど、そうした連関を、ひとつの概念−思想体系に総括し、組み上げる叙述は、ますます理念型の性格に近づき、この種の概念ひとつですますことは、ますますできなくなり、したがって、たえず開示されてくる有意義性の新しい側面を、そのつど新たな理念型概念を構成することによって意識にもたらそうとする試みが、ますます当然のこととして、また不可避なこととして、繰り返されることになる。」
「(p129)…それにたいして、そうした「本質」の叙述がもっぱら、それに照らして実在を比較し、測定する概念的手段として用いられるならば、それは、研究にとっては、索出手段として高い価値をそなえ、叙述にたいしては高い体系的価値を持つ理念型になる。」

[解答例]
 抽象的な理念型の構成は、それ自体が目標ではなく、手段として考えられている。つまり、理念型概念という尺度を用いて、実際の事象を測り、比較することで、そのうちにある違いを取り去って、特定の意義のある構成部分を、明瞭に浮き彫りにすることができる。またこのような行為を繰り返すことによって、理念型自体がたえずとぎすまされ、また新たな側面を理念型概念のなかに取り込むことになり、理念型は一定のものではなく変化していくものだといえる。こうした理念型概念は、無限に多様な実在の中から、それぞれの特性をそなえた事象連関を探り出す〈索出手段heuristisches Mittel〉として、また、そのうえでそれを描き出す〈叙述手段darstellendes Mittel〉として有用であり不可欠である。
 しかし歴史的事象で、その時代の支配者の「理念」と「理念型」が、多くは政治的な場面において価値判断の基準として結びつき、容易に混同される危険性があるため、論理的な意味における理念型と、理想から評価し価値判断をくだすこととをはっきりと分ける必要がある。

問い5
「(p63)経済的考察方法をひとつの一般的な社会科学に押し上げることでその「一面性」から救い出すことが、進歩していく科学研究の任務である、という信仰は、まずつぎの点で誤っている。」このように、ウェーバーが唯物史観を否定するのはなぜでしょうか。ウェーバーの考え方と比べながら考えて下さい。

[引用]
「諸科学の研究領域の根底にあるのは、「事物」の「即物的」連関ではなく、もろもろの問題の思想上の連関である。」p64
「新しい、意味のある観点を開示するのは、新しい問題が、新しい方法をもって探求され、そうすることによって真理が発見されることにあるのであって、そのばあいにこそ、新しい「科学」が成立するのである。P64
「われわれの考えるところでは、文化現象の総体が「物質的」利害の布置連関の所産ないしは関数として演繹できるとする、時代遅れの信仰からは自由に、社会現象と文化現象を、それらがどのように「経済によって制約され」、また「経済を制約する」のか、という特定の観点から分析することは、実り豊かな創造性をそなえた科学上の原理であったし、慎重に適用して、独断に囚われさえしなければ、今後いつまでもそうした原理でありつづけるだろう。」p65
「そして、近代の経済変動の巨大な文化意義と、特に「労働者問題」の際立った意義とに圧倒されて、およそ自己批判を没却した認識には根絶やしがたくつきまとう一元論的傾向が、この道に滑り込んだのも当然であろう。」p67
「文化生活ないしは――これよりもおそらくは狭義であろうが、われわれの目的にとっては本質上まったく同じことを意味する――「社会現象」の分析であって、特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学的分析といったものは、およそありえない。」p72,73

[解答例]
 新しい問題が、新しい方法を持って探求され、そうすることによって真理が発見されることにあるのであって、その場合にこそ、新しい科学が「成立」するのである、ということは、社会現象と文化現象を「経済によって制約された」とか、「経済を制約する」といった特定の観点から分析することによって独自の科学上の原理を持つことになる。
 しかし、唯物史観の考え方では、経済的という特定の観点が、まさに社会を分析する唯一のものであるかのように扱われ、またその観点から社会全体をとらえて、「事実」の「即物性」を連関づけていこうとすることによって、問題を一元論的に認識しようとするのである。
 それに対してウェーバーは、文化生活ないしは社会現象の分析で、特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学的分析とといったものは、およそありえない、と述べている。つまり、「特定の観点から一面的に分析すること」ではなくて、「特定の一面的観点にしたがって分析すること」で初めて、研究対象として選び出され、多面的な分析がなされ、諸科学の研究領域の根底にある、もろもろの問題を思想上で連関していくことになるということである。

問い6
以上の論点を踏まえて、Weberは「客観性」をどのようなものと考えているか、説明してください。
[引用]
「あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、与えられた実在が、ある特定の意味で主観的な、ということはつまり、われわれの認識の前提をなし、経験的知識のみがわれわれに与えることのできる真理の価値〔への信仰〕と結びついた諸範疇〔カテゴリー〕に準拠して、秩序づけられるということ、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている。」p157,158
「…すなわち、生活は、その非合理的な現実性において、また、可能なその意義の豊かさにおいて、汲み尽くされることなく、価値観系の具体的な形成は、つねに流動的であり、人間文化の幽遠な未来に向けて、たえず変遷を遂げる運命にある。」p159
「過去の人々が、直接に与えられた実在を、思考によって加工し、ということはしかし、じつは思考によって変形し、また、かれらの認識の状態と、かれらの関心の向かう方向とに応じた概念のなかに組み入れることによって発展させてきた思考装置は、われわれが新たな認識によって実在から獲得することができ、また、獲得しようと欲するところのものと、つねに抗争する。この闘争のなかで、文化科学的研究の進歩が達成されていくのである。その結果は、われわれが実在を把握しようとする概念の、たえざる変形の過程である。」p146

解答例
 まず、客観性が存在しうるカテゴリーがあって、それはわれわれの認識の前提をなし、経験的知識によって意識できるカテゴリーにおいてのみだといえる。つまり、そのような主体的な前提(一面的な観点)に立っていることで初めて客観性が現れてくるといえる。
 その上で、理念型という尺度をを用いて、ある事象を比較し、一面的に高めて、それ自身矛盾のないものをつくる。それは新たな事象を取り込んで、変化した「理念型」であり、そのような変化を繰り返すことによって、「理念型」という共通のものの上に成り立った、
その時代の「客観性」と呼ばれるにふさわしいある種の思想的な雰囲気をつくることができる。
 しかし、理念型は絶え間ない変遷を繰り返しており、その上に成り立つ「客観性」も移り変わっていくものであるといえる。

解答例 2

「かれらは、「客観的」実在の表象的模写が、概念の目的である。と前提してかかっており、それゆえに、鋭い概念はことごとく非現実的であると、たえず繰り返し指摘するのである。」(P.148)
「そのときどきに指導的となる個々の観点にとって、鋭く一義的な概念が構成されるという、まさにそのことによって、そうした概念の妥当の限界を、そのときどきに明晰に意識にもたらして保持する可能性が与えられる、と。」(P.150)
「むしろ、社会科学的認識の「客観性」は、経験的に与えられるものが、なるほどつねに、それのみが社会科学的認識に認識価値を付与するところの価値理念に準拠し、経験的に与えられるものの意義も、この価値理念から理解されるのではあるが、それにもかかわらず、経験的に与えられるものが、当の価値理念の妥当の証明という経験的には不可能なことの足場とされることはけっしてない、という事情に依存しているのである。」(P.159)

 客観性とはなにかは「客観的な実在」であることを指すのではない。むしろ、事物認識はその時代における様々な価値理念によってなされるわけであるが、その価値理念が普遍妥当することを証明し得ないということが、社会科学における客観性ということができる。それは、理念型というWeberの提唱する社会科学の方法論から導かれるといえるだろう。というのも、理念型は事象を一面的な観点から考察するための方法論的概念であるが、その類型的な特性ゆえに、一つの理念型の限界点を浮き彫りにすることができる。その理念型を常に磨き上げつづけることが社会科学の方法論ならば、それは一つの価値理念が普遍妥当することを自ら否定しつづけることに他ならないのである。また、次のように言うことも可能であろう。社会科学は価値判断を行うための様々な材料を提供することができるが、価値判断自体を行うことはできない。

自由プレゼンテーションの原稿


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