リップマン『世論』


1)英雄とはどのような人々でしょうか? (参考箇所 第一部)

「ふつう、偉人というものは、まだ生きているうちから虚構のパースナリティでしか一般大衆に知られていない。」(P.19)
「しかし、英雄崇拝と並行して、一方では悪魔への憎悪も募っていた。」(P.23)
「英雄たちが善に対して全能であったように、こうした人たちには悪に対して全能と考えられた。」(P.23)
「そこで戦争について考えようとすればジョッフル将軍とドイツ皇帝があたかも一騎打ちをしているかのように、この二人の姿のみを思い浮かべた。」(P.26)
「どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しかもつことはできない。」(P.27)


 英雄とは人々の間に作り上げられたイメージの産物である。リンカーンがいかに優れた人物であったとしても、その伝記はやはり一つのイメージを作り上げたものといえるだろう。つまり、英雄とはある人物の実像から離れて、こうあってほしい、という理想がそのシンボルのもとに入り込み、作り上げた虚構ということができる。もちろん、ある面での実像は反映されている。しかし、実像のある面を強調し、その面がその人物の全的なものであるかのように見せるのである。
 また、英雄と同時に、憎悪の対象としての悪魔も作り上げられることになる。英雄と悪魔の戦いとしての戦争が人々にはイメージされるのである。英雄には善という属性が、悪魔には悪という属性がそれぞれ与えられ、両者が戦う姿が戦争としてイメージされるのである。このように、英雄や悪魔というように、ある特徴の一面的な記述によって仕立て上げられた虚構がそれ以外の文脈や属性を切り捨て、一つの記号として世界理解に利用されることになる。

2)擬似環境(P.45)とは何であり,どのような問題を内包していますか。(参考箇所 第一部 第一章)
「たいていの場合,作り事もほとんどある程度まで真実といいうるものを含んでおり,その信憑性の度合いを考慮にいれさえすれば,虚構も人を誤らせることはない。」(p30)
「真の環境があまりに大きく,あまりに複雑で,あまりに移ろいやすいために,直接知ることが出来ないからである。」(p31)
「それぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなくて、自分が作り上げたイメージ、もしくは与えられたイメージに基づいて物事を行っていると想定しなければならない。」(p41)
世界がどのように想像されているかによって、そのときそのときの人間の行為が決定される。
「人間は・・・世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は,自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを,頭の中に勝手に作ることになった。」
「つまり、頭の中に思い描く自分自身、他人、自分自身の欲求、目的、関係のイメージが彼らの世論というわけである。」(p47)


 現代社会は各自が所属する社会圏が拡大し,様々な社会圏の交錯によって複雑多様を極めている。この巨大かつ複雑な社会環境全て把握するのは皆無に等しく、個々人は自分なりの解釈で社会のイメージを自分なりに作り上げ,又イメージを与えられることによってそれを理解しているのである。即ち、社会とは個々人がそれぞれ作り上げた擬似環境(虚構)に過ぎないわけで,何が現実社会であるのかを明確に示すことの出来ないものであるといえよう。
 そして実際頭の中での作り事であっても、それをさも正しいように繕えば、その擬似環境も十分筋が通ったものとなりうるという大きな問題を、現代社会は内包しているのである。

3)なぜ我々は正確な情報を得ることが難しいのでしょうか。「ことば」に留意して答えてください。(参考箇所 P.80、P.94 第二部 第三章、第四章)

「どのような地位にいて何と接触するかは,何を見,聞き,読み,知ることが許されるかを決定する上でも大きな役割を果たしている。」(p80)
「要求される真実の,全ての要素を百語に圧縮して,七ヶ月の間に朝鮮で起こったことを説明できるかどうか。どれほど優れた文章家といえども覚束ないことである。なぜなら言葉というものは決して意味を伝える手段として完全なものではないからである。言葉は,流行にも似て,くるくると変わり,今日はあるイメージ群を,明日は又べつのイメージ群を喚起させるものである。」
「人間が自由に行使できる言葉の数は,人間が表現しようとする概念の数より少ない。」(p94)
「われわれの世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。情報の送り手のところでは検閲と機密性を理由に、またうけてのところでは物理的,社会的障壁によって,あるいは不注意によって,言語の貧しさによって,注意力が散漫になことによって,虫の居所によって,疲労や涙,暴力,単調さによって,環境は屈折させられている。」
「そうした環境への接近をさえぎるさまざまの制限は,事実そのものの曖昧さや複雑さとあいまって明晰な正しい認識を妨げ,実際に則した観念の変わりに判断を誤らせやすい虚構を充当し,意図的に誤った認識に 導こうとしている者たちに対する適切なチェックをわれわれにさせないのである。」(p108)


 我々が情報を取り込む際、その媒介として大きな役割を果たすものが「ことば」である。ことば無くしてわれわれは、ぼんやりしたイメージを明確に概念化して取り込むことが出来ないからである。ところが、世の中の複雑多様な現象は曖昧かつ微妙なわけであり,それをことばによって明晰に説明することは、困難である。それは人間の表現しようとする概念の数が、人間が行使出来る語彙量より多いことからも立証される。
 また情報の送り手は、多くの受け手が理解することを考慮すると必然的に平易かつ短くまとまった表現をとることから、情報はより一層単純化され、事実から遠ざかってしまうのである。仮に正確な情報を発することが出来たとしても,あくまでもそれは送り手の世界観に基づいたものなため,一面的な見方での情報に過ぎないのである。

4)我々のものの見方はステレオタイプによって世界を類型化していることがP.123前後で言われています。ではそのステレオタイプを放棄することはどういうことになるとリップマンは述べていますか。(参考箇所 P.130 第三部 第六章、第七章)

「われわれの意見は,他人による報告と自分が想像できるものから,あれこれつなぎ合わせてできたものにならざるを得ない。」(p109)
「我々はたいていの場合,見てから定義しないで,定義してから見る。」
「拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。」(p111)
「われわれは自分のよく知っている類型を指し示す一つの特徴を人々の中に見つけ出し,頭に入れて持ち歩いているさまざまのステレオタイプによって、その人物像の残りを埋めるのである。」(p123)
「先入観が知覚の全過程を深く支配する。」(p124)
「ステレオタイプの体系はわれわれの個人的習慣の核ともなり,社会におけるわれわれの地位を保全する防御ともなっているからだ。」
「ステレオタイプの体系は,秩序正しい,ともかく矛盾のない世界であり,我々の習慣,趣味,能力,慰め,希望はそれに適応してきた。それはこの世界を完全に描き切ってはいないかもしれないが,一つのありうる世界を描いておりわれわれはそれに順応している。そうした世界では,人も物も納得のいく場所を占め,期待通りのことをする。この世界にいれば心安じ、違和感がない。我々はその世界の一部なのだ。」
「われわれがその鋳型にむりやり身体を合わせるときには、気持ちをそそられるものをたくさん捨てなければならなかった。しかし、一度その中にしっかりとはまってしまえば、履き慣れた靴のようにわれわれにぴったりとくるのだ。」 (p130)
「われわれは頭にある宇宙像と現実の宇宙の間にある差異を全く認めようとしないのである。」
「われわれがこれしかないと認めている優先順位が実はそうではないとされるならば,どんな混乱が起きるだろう。ステレオタイプのパターンは公平無私なものではない。」
「盛んで騒々しい現実という、巨大な混乱に代わる秩序を提供する一手段というだけではない。」
「われわれの自尊心を保障するものであり、自分自身の価値,地位,権利についてわれわれがどう感じているかを現実の世界に投射したものである。」(p131)
「(ステレオタイプは)われわれの伝統を守る砦であり,われわれはその防御のかげにあってこそ,自分の占めている地位にあって安泰であるという感じをもち続けることができる。」(p132)
「われわれのステレオタイプ化された世界は・・・われわれがこうであろうと思っているだけの世界でしかない。もしそこで起きた出来事がその世界と符合しているなら、親近感がもてるし、そうした事件の動きとともに自分たちも動いているのだという感じがする。」(p142)
「あるステレオタイプの体系がしっかりと定着しているとき、われわれの注意はそうしたステレオタイプを支持するような諸事実にひかれ,それと矛盾するものからは離れる。」(p161)
「判断は証拠に先行してしまっている。」(p163)


 我々は個々人の頭の中に内包されている擬似世界によって,物事を判断し類型化している。その擬似世界とは、その人間がそれまで生きてきた上での価値基準や文化的習慣を基として,それぞれが形成して来たものである。そしてその形成された世界観がステレオタイプであり、何事を理解する上でも先入観として存在するのである。言うならば,我々はこの先入観で歪曲された世界を前提とすることによってのみ、現実世界を捉えているのである。
 よってそのステレオタイプの体系と符合しているものに対しては親近感が、それに矛盾する場合は異質なイメージを受けるため、人間の好みはステレオタイプを支持する諸事実によって左右されるわけである。そしていったんそのステレオタイプの世界に順応すれば、そこでは全てがある理念モデルによって納得の行くように動いているわけであり、我々は期待通りの安心感を得ることが可能となるのである。
 即ちステレオタイプは、個々人の生活条件を規定するだけでなく,その個々人の社会における地位などを保全する役割をも担っているのことが見えてくる。よってステレオタイプを放棄することは生きて行くためのつてを失い、盛んで騒々しい無秩序な現実世界へと無防備で投げ込まれることに等しいのである。

5)デカルトとデカルト主義、マルクスとマルクス主義といったように、○○と○○主義というものの違いとはどのようなものでしょうか。うわさ話や伝言ゲームなどと関連させて考えてみてください。(参考箇所 第三部)

「したがって、われわれの意見は、他人による報告と自分が想像できるものから、あれこれつなぎ合わせてできたものにならざるをえない。」(P.109)
「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。」(P.111)
「他人の会話を聞くときも、『聞こえなかった言葉が聞こえたと信じきっている証人によって補われることがある。証人は会話の伝えようとする内容について憶測し、自分の聞いた音をそれにあてはまるように再構成してしまう。』」(P.116)
「この秘密結社についてグリフィス監督以上のことを知らない人がこの映画を観たら、こんどクークラックスクランの名を聞くとき、かならずやスクリーン上に見た白衣の騎士たちの姿を思い浮かべるだろう。」(P.127)
「なぜなら、歴史に作用を及ぼすものは一天才が作り上げた体系的観念ではなくて、個々の人間の頭の中にあるさまざまの模倣、模写、模造、類推、歪曲だからである。」(P.143)
「この意味で、マルクス主義はかならずしもカール・マルクスが『資本論』のなかで書いたことだけとはかぎらない。マルクス主義の信奉者を自称してしのぎを削る諸党派が信じているものなら、それがどのようなものであろうとマルクス主義ということだ。」(P.143)


 われわれの考えは多くの場合、自分で考えるだけではなく、他人の話しや様々な情報伝達手段によって得られた情報をつなぎ合わせることで作られる。そして、他人から聞いた話しなどもそのまま自分の中に吸収されるのではなく、自分の中で再構成されて記憶される。つまり、様々な推測や歪曲などの過程を経たものである。
 うわさ話しとは、そのようにして人々に広まっていく。単に右から聞いたことを左に流すわけではなく、自分なりの解釈がそこに加わり、再構成されたものとして伝えるのである。聞いた人の感性によって特定の部分には「尾ひれ」がつけられ、また他の部分は矮小化される可能性がある。
 伝言ゲームは、このような人間の情報理解・伝達の特徴をうまく遊戯化したものであろう。もともと示された情報が何人もの耳と口を経ることによって、どのように変わっていくかを楽しむのである。
 よく、デカルト主義には心身二元論、マルクス主義には共産主義といったようなイメージがついて回るが、だからといってそのようなレッテルをデカルトやマルクスに貼り付けて矮小化することはできない。たしかに、それぞれの理論の継承者が、よく言われているようなイメージとしてそれぞれの理論をとらえることができる要因はあったと思われるが、その矮小化された解釈をデカルト主義やマルクス主義といった記号によって一般化することによって、デカルトやマルクスそのものの解釈としてしまう傾向が生まれる。デカルトやマルクスはおそらくは現在言われているような、デカルト主義やマルクス主義といったもので言われることにそのすべてが表されるような哲学者ではないといえる。より幅広く、深みをもっているだろう。

6)「このような特性は古い世代の経済学者たちによってまったく無邪気に規格化されたのであった。」(P.159)とありますが、このような特性とは何でしょうか。

「実際、ちょっとした問題にもちょっとだけ通じているためにかえって、詰めこめるものはすべて自分たちのステレオタイプのなかに詰めこもうと努め、その規格に合わなければ外の暗闇に投げ捨てるという、よくある人間の習慣をひたすら誇張することもある。」(P.158)
「彼らは自分たちがその下で生きている社会組織を説明しようとしたが、言葉であらわすにはあまりにも複雑なものであることに気づいた。そこで彼らは簡単な図式であらわしたいと心から願った。ところができ上がったものは、原理においても正確さにおいても、子供が描く平行四辺形に足や頭をつけた複雑怪奇な牛の絵とたいして変わらなかった。」(P.159)
「ウィリアム・ジェームズは言う。『細部に関する自分自身の知識が及ぶ以上には深く、総体を読み取ることは誰もしない。』」(P.161)
「なぜなら、あるステレオタイプの体系がしっかりと定着しているとき、われわれの注意はそうしたステレオタイプを支持するような諸事実にひかれ、それと矛盾するものからは離れる。」(P.161)


 社会にはそれこそ無限と呼べるような無数の要素が存在する。そのような社会を説明しようとしたときには、自分たちの考えの枠組みの中に社会を押し込め、そこから得られた帰結を社会の説明として採用するのである。したがって、その枠に入り込まないもの、抜け落ちたものは、切り捨てられ闇に葬られる。そのような思考パターンを古い世代の経済学者は理論構築に用いたのである。自分たちの目に入ってくる様々な要素をできるだけ単純化し、それによってモデルをつくるのである。
 しかし、単純にこのような思考パターンを批判するわけにはいかない。なぜなら、我々自身が多かれ少なかれこれと同種の思考パターンを採用しているからである。さらに言えば、人間に可能な思考パターンはこのようなものでしかないのかもしれない。

7)道徳規範とはいかなるものでしょうか。(参考箇所 第三部 第九章)

「実際の世の中では、証拠の出るずっと以前に、そうした判断が真の判断とされることが多い。」(P.163)
「理屈上、事実はわれわれの一切の善悪観に対して中立的である。しかし実際上、われわれの規範はわれわれが何をいかに認識するかについて大きな決定権を握っている。」(P.164)
「一つの道徳規範は、多くの類型的な事例に適用される一つの行動図式である。」(P.164)
「現代世界において、道徳規範のいかなる相違にもましてはるかに深刻な問題は、その規範が適用される諸事実の捉え方の相違である。」(P.165)
「ただし、神話にけっして含まれていないもの、それは神話のなかの真実と神話のなかの誤りとを分別する判断力である。」(P.167)
「道徳規範は諸事実に対する一定の見方を前提としている。」(P.168)
「『事実』の両面性が信じられるようになるのは、長い間批判的な目を養う教育を受けて、社会について自分たちがもっているデータがいかに間接的で主観的なものであるかを充分に悟ってからのことだ。」(P.172)


 道徳規範とは、一つの行動図式である。同時にそれは、われわれの事物認識の際のフレームとなり得る。自分の見るものがその規範によって決定されるために、たとえ同じものを見ていたとしても、たとえば、ある事件に対する評価はその道徳規範によって決められることになる。様々な文化や社会によってその規範は異なるであろうが、問題となるのは、人々がその規範を反省的に見ることが困難なことである。自己の規範は価値評価の対象とならないのである。それは、規範によって事実とされたものをまさに事実として、無批判的に受け入れることになる。したがって、事実に対する一義的な判断に陥りやすい。

8)「物差しの目盛りは、それを用いる目的によって変わってくる。」(P.192)とはどのようなことを言わんとしているのでしょうか。

「実生活の空間とは、そこで利用できる輸送機関いかんによる存在であって、幾何学的平面としての問題ではない。」(P.184)
「さしあたり決断を下すべき物事にふさわしい時間をどう捉えるか、これを見分ける能力は人間の知恵のなかでも重要な部分である。」(P.188)
「ほとんどすべての社会的問題には、それぞれにふさわしい時間が計算されている。」(P.193)
「縁遠いものとして見る見方と身近なものとして見る見方の存在は諸国民を隔てている大きな障壁の一つとなっている。」(P.195)
「そして結局はその時代の雰囲気に合った見方が『真実』と受けとられることになる。」(P.197)
「どこの何某が一族の祖であると称しても、すなわち一族のアダムであった、ということではなくて、一族の始祖として望ましいような特殊な人物であるか、もしくは記録に残っている最初の祖先であるかのどちらかということである。」(P.197)
「公共の事柄への意見をまとめる際には、自分の目で見えるよりももっと広い空間を、感じられるよりももっと長い時間を思い描かねばならない。」(P.201)
「未来においては、可能性はほとんど蓋然性と区別がつかず、蓋然性は確実性と見分けられない。」(P.206)


 われわれには様々なものをみる基準がある。どの基準によって判断するかはその都度、目的によって変える必要がある。空間や時間にかかわる判断にはいろいろな切り口があるが、どれを選択するかが重要である。例えば、目的地までの距離は、地図上の、幾何学的距離が求められているのではなく、どのような経路を使ってどのぐらいの距離を行く必要があるのかが求められているのである。時間感覚も同様に、どのぐらいの過去の出来事が歴史的出来事として捉えられるか、それとも、現在と連続した出来事として捉えられるのかという違いがある。(*)そして、未来に対してはさらに慎重な時間感覚が求められる。現在の基準をただ類比的に未来の事象に当てはめることは、問題をはらむものであるといえる。したがって、特に公共の事柄に対する意志決定には、自分自身のものの見方に対する反省的視点が必要となる。

(*)「もしも体験とは、その中において世界に属する対象が意識対象として現れる意識体験であるとすれば、われわれは、現れるもの[たとえばさいころ]の客観的時間性と、現れ[たとえばこのさいころの知覚作用]の内部時間性とを区別せねばならない。この現れは、それの時間的長さと局面のもとで流れていくが、その時間的長さと局面は、一つのさいころの、それ自身連続的に移り変わりゆく現れなのである。」(フッサール「デカルト的省察」船橋弘訳『世界の名著 ブレンターノ・フッサール』中央公論社 P.224)

9)名前をつけるとはどのようなことを意味しているのでしょうか。(参考箇所 第四部)

「それらは心の表面にじっとしているのではなく、詩的能力によって再生され、われわれ自身の個性的表現になる。」(P.213)
「あまりにも事物の数が多いので、われわれはそれをすべて頭の中に鮮明にしまっておくことができない。そこでわれわれは、そうした事物に名前をつけ、全体の印象をその名前によって表象させるのがふつうである。」(P.214)
「そこでわれわれは、名前を個人的なステレオタイプを通して見ることを始め、深読みをし、ついには名前の中に何らかの人間的性質が具体化されていると思うようになる。」(P.214)
「公共の事柄が、演説、見出し、演劇、映画、風刺漫画、小説、彫刻、絵画などで巷間に広められるとき、人の関心をひくかたちに変えようとすれば、第一に原形を抽象すること、次には、抽象されたものに生命力を吹き込むことが必要である。」(P.215)
「視覚化された観念もわれわれ自身の個性がもっている何らかの力を包含することではじめて意味をもつようになる。」(P.217)
「観る者もその作品のイメージによって衝動を感じることが必要である。」(P.219)
「衝動にもさまざまな形があるが、起こり方が容易であり、熱心に刺激が求められるという点で他をはるかにしのぐものが二つある。性欲と闘争。」(P.219)
「そこでは、世界のある局面についての説明が説得力をもつとすれば、それがよく知っている諸観念に一致しているからである。」(P.226)


 物事を記憶するときにはそのすべてを鮮明に記憶することは不可能である。だから、われわれは事物にその全体を印象付けるような象徴として名前をつける。つけられた名前は、われわれ個々人のなかで、個別的な印象として具体化されることで想起される。この記憶の構造がさまざまな宣伝に利用される。具体的な事物を抽象化し、それにイメージを付与することで視覚化し、われわれに強い印象を与えることになる。その視覚化されたものがただそれだけでわれわれに強いイメージを与えるかというとそうでもない。逆にいえば、強いイメージを喚起しようとすれば、そこに衝動を引き起こすものを込めることが必要になる。その衝動として、よく利用され、効果が高いものは性欲と闘争である。(*1)このような衝動はわれわれには直感的に理解され得る。なぜなら、高度に知的に分化したものであればその理解には非常な困難がともなうが、人間に備わっている原始的な感情に訴えかけることは、複雑なコミュニケーションを必要とせずとも、多くの人の共感を獲得することができるからである。(*2)

(*1)「見るもの、聴くものすべてに露骨な性的ビブラートがかけられ、消費されるものはすべて性的色彩を帯びている。」(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳 紀伊国屋書店 P.212)
(*2)「だから、群集は、抽象的な悟性作用によるよりもむしろ原始的感情において、かつまた原始的感情によって、一緒になるであろう。」(ジンメル「社会的分化論」石川晃弘、鈴木春男訳『世界の名著 デュルケーム・ジンメル』中央公論社 P.462)



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