ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』


T啓蒙の概念 W文化産業

〜何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか〜

1.「啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった」とありますが、この啓蒙のプロセスと自然との関わりはどのように述べられていますか。(参考箇所p.3-p.5)

引用:
啓蒙がいかに神話を破壊するか 古来、進歩的思想という、もっとも広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。3
啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった。
つまり、迷信に打ち克つ悟性が、世界を支配しなければならない。4
人間が自然から学ぼうとするのは、ただ、自然と人間とを支配するために自然を利用することである。自己自身がどうなろうとかまわずに、啓蒙は、それ自身の最後の残滓さえ焼き尽くしてしまった。こういう自己自身に暴力を振う思考だけが、さまざまの神話を破壊するに強固さを持つ。4
重要なのは、人間にとって真理と呼ばれる満足感ではなく、「操作」であり、役に立つ働きである。


2.「啓蒙の概念」において、「名前」もしくは「言語」はどのように描かれているでしょうか。

引用:
「見慣れないものを経験する驚きの叫びが、そのもの名前となる。この名前が既知のものに対する未知のものの超越を定着し、畏怖を聖なるものとして固着させる。神話にしろ科学にしろ、それらが初めて可能になるのは、自然が見かけと本質、作用と力とに二重化することに基づくのだが、この自然の二重化は、元をただせば人間の不安から生まれるのであり、この不安の表現が説明になる。」18
「樹木がたんなる樹木でなく、ある別のものの証しとして、マナの宿り場所として語られる場合、言語はある矛盾を表現している。すなわち、何かがそれ自身でありながら同時にそれ自身とは別のものであり、同一のものでありながら同一のものではない、という矛盾が語られている。神的なものを介して言語はたんなる同語反復から言語になる。」18
「記号としては、言語は、自然を認識するために計算に従事することに甘んじ、自然と相似のものであるという要求を取り下げねばならない。形象としては、言語は、自然そのままになりきるために、模像であることに甘んじ、自然を認識するという要求を取り下げなければならない。」22
「(言語における)記号と形象の区別は不可避的である。しかしながらこの区別が、何のためらいもなくあん如としてふたたび実体化されるとすれば、二つの孤立した原理のおのおのは、真理の破壊へと突き進んでいく。」22


解答例:
まず、「名前」は未知なるものへの「驚きの叫び」によって生まれる、とされる。そしてその名前は「固着」のものとして、定着することになる。このように、『啓蒙の弁証法』においては、二種類の「名前」が描かれている。前者(驚きとしての名)においては、名前は対象(名づけられる当のもの)を規定するものとしてあるわけではない。対象は未知のものであるために、規定しえないのである。このような名づけにおいては、名前は対象(樹木)を指しつつ、対象以外のもの(=対象の持つ意味内容→マナの宿り場所)をも表わすことになる。この「矛盾」によって、言語は同語反復(名前と対象が一致する状態)から言語になりうる、といわれる。この時の対象、すなわち未知なるものは、人間にとって恐怖の源泉である。(*参照→4番)
一方、後者(固着としての名)の名づけは、未知なるものへの恐怖に慄く人間が、その恐怖から逃れるべく、未知なるものを、既知の体系の中に取り込むために行なわれるものである。つまり、名前によって未知なるものを規定するのである。この時、名前は対象を全的に指し示すことが可能になる。こうして、1番で扱ったような、支配構造もまた可能になるのである。また、驚きとしての名づけにおいては、名前は「形象」としての名前である。この名づけの仕方は自然の「模像」(=アナログとしての名前)であるがゆえに、自然を認識することはできない、つまり自然(=対象)は未知のままにとどまる、とされる。それに対して、固着としての名づけにおいては、名前は「記号」(=デジタルとしての名前)としての名前である。この名づけの仕方は、対象と名前が一致する仕方でなされるため、「自然を認識するために計算に従事することに甘んじ」ることになる。この時の名前は、本来の自然のあり方とは、微妙な、しかし決定的なずれを抱えてしまうことになる。この二つの分離は不可避なものであると、「啓蒙の概念」においては語られる。しかし、その区別を「実体化」すること、すなわちそれぞれに名づけを別のものとして扱うことによって、「真理」は「破壊」されることになるのである。

3.「近代科学の途上で、人間は意味というものを断念した。」(p.5-p.6)とありますが、これはどのようなことを意味しているのでしょうか。

引用:
「水気、分つことのできないもの、空気、火など、そこで自然の原質として語られたものは、まさしく神話的な直観が最初に合理化された結晶であった。」6
「増殖する多種多様な神話上のデーモンたちは、すべて存在論的本質という純粋形式へと精神化された。」6
「計算可能性や有用性という規準に適応しようとしないものは、啓蒙にとっては疑わしいものと見なされる。」7
「様々の形象の持つ多様性は位置と配列へ、歴史は事実へ諸事物は物質へと、抽象される。」8
「形式論理学は、統一化を教える偉大な学校であった。それは啓蒙家たちに、世界の計算可能性の図式を提供した。」8
「数が啓蒙の規準となった。同じ方程式が市民的正義と商品交換を支配している。」8
「市民社会は、同分母に通分できないものを抽象的量に還元することによって、比較可能なものにする。啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象とみなされる。」8
「科学者が事物を識るのは、彼がそれらを制作することができるかぎりである。それによって即時的な事物は、彼にとって対自的なものとなる。…事物の本質はいつも不変の同一のもの、支配の基体としてあらわになる。この同一性が自然の統一を形作る。」11
「質を喪失した自然は、単に分割されるだけの混沌とした素材になり、…」11
「犠牲にあたっての身代わりには、比量論理への第一歩があらわれている。」12
「身代わりの可能性は、(科学によって)普遍的な代替可能性へ転化する。」12
「存在者の間に成り立っていた多様な親和関係は、意味を付与する主体と意味を持たない対象、合理的意味と偶然的意味の担い手、この間に成り立つ一つの関係によって押しやれらてしまう。」12
「啓蒙は通約しきれないものを切り捨てる。たんに志向のうちで質的なものが消失するだけでなく、人間は否応なく現実に画一化されていく。」15
「外部に何かがあるというたんなる表象が、不安の本来の源泉である以上、もはや外部にはそもそも何もあってはならないことになる。」19
「今や等式そのものが物心として崇められる。」20
「数学的方法においては、…未知のものは、前から知られていたものという徴づけを帯びていることになる。」31
「啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。」31
「数学的方法は、いわば思考の儀式になった。…数学的方法は、必然的かつ客観的なものとして復興をとげる。数学的方法は思考を事物(ザッへ)にし、また自らそう名づけるとおり、思考を道具にしてしまう。」32
「科学によって究め尽くすことのできないような存在はこの世にはない。」33
「思考を数学的装置へ還元することのうちには、その装置に固有の尺度として世界を認知することが含まれている。」33
「事実的なものこそ正しいとされ、認識はその反復に局限され、思考はたんなる同語反復(トートロジー)になる。」34
「思考機械は、盲目的に存在者の再生産という分に安んじるようになる。それとともに啓蒙は、しょせん逃れるべくもない神話へと逆転する。」34
「規格化された行動様式だけが、大量生産とその文化の数限りない代弁機関によって、唯一の自然で作法にかなった理性的なものとして、個々人に対して押しつけられる。」36
「理性は、あらゆる他の道具を製作するのに適した普遍的道具として役立つものであり、ひたすら決められた目的のみを志向するようになる。」38-39
「今日の大衆の退歩は、自分の耳をもって聞こえ難いものを聞き、自分の手を持って把えがたいものに触れることができない無能さのうちに現れている。」47


解答例:
近代科学の特徴は、世界を「論理的に」説明することである。ここに、近代以降の世界の説明の仕方(「啓蒙的な」世界の説明の仕方)と神話的な世界の説明の仕方との違いがある。啓蒙は自然科学が持つ強力な論理性によって、神話を駆逐していくことになる。この意味での「論理」によって「計算可能性」は導かれることになり、世界を論理的に説明することで、また世界は「計算可能」なものとして人間の前に現われることになる。計算可能な世界において語られる言語は、2番における「記号としての言語」である。この名前は、即対象を指し示す。この時、対象の間にある関係(対象が持つ意味)は消失する。このようにして、人間は意味のない世界を自らの前に作り上げるのである。この世界における対象は、数と同一のものと措定され得る。数に還元できないものは、「存在」の地位から追いやられることになる。そして、この結果として数学が持つ能力が一層賞揚されることになる。数学が導く方程式が、自然の類比として扱われることになる。すなわち、世界は計算可能性の体系(=枠)のなかに押し込められるのである(枠からはみ出るものは、存在しないもの、である)。このようにして、「近代科学への途上」において、人間は、自然から自らを引き離し、主体として自然の前に立ちはだかり、自然に対して「計算可能性」を土台にした意味を付与していくことになる。この意味で、人間は自然に対する支配を完成させるのである。計算可能な世界においては、思考はあくまで数学的思考でしかありえない。存在するものは、計算可能性の体系にはまるもののみだからである。こうして、人間の思考は、数学的思考に特化することで「効率的に」進み、近代以降の繁栄を花開かせるのである。しかし、この時、思考は進歩しつつ、かつ停止を余儀なくされる。進歩しているものとしての思考は、「思考機械」に過ぎないからである。この「思考機械」としての思考には、自らが「機械」であることを反省する余裕もなければ、そのような「機能」を備えてもいない。ただ、果てしなく、計算するのみである。このような状態はまさに「思考の停止」と呼ぶにふさわしいであろう。思考の停止による繁栄は、爛熟する外観を呈しながら、しかし虚像の繁栄であることを自ら告白する。計算可能な世界の中において、その「聞こえ難い」告白に耳を傾けることのできる人間は皆無に近い。神話を破壊し、我が世の春を謳歌していたはずの啓蒙は、すでに、神話の中に落ち込んでいるのである(→5番参照)。しかしながら、思考停止という麻薬の快楽に酔う人間にとっては、繁栄の背後から浮かび上がるあの告白は啓蒙によって捨て去った神話的幻想にしか見えない。啓蒙は「意味」を断念した、というよりも、むしろ自らの正当性を確立するために、嬉々としてそれを捨てたといった方が正確であろう。啓蒙は「裸の王様」のごとく、自らの能力を誇示しながらいつまでも人々の前をねり歩く。人々は、時として啓蒙の怪しさに気づきつつ、それを口にするのを恥じ、自らが奉る王様の「正しさ」を信じるのである。

4.「啓蒙された精神は、あらゆる非合理的なものに、破滅へ導くものとして烙印を押し、その烙印をもって、火あぶりと車裂きの刑にとってかえた。」(p.40)とありますが、神話がもたらす迷信から我々を解き放つはずの啓蒙はどのようにしてその暴力性を備えるようになるのでしょうか。

引用:
「彼(ベーコン)が志した人間悟性と諸事物の本性との幸福な結婚は家父長的である。つまり迷信に打ち克つ悟性が、呪術から解放された自然を支配しなければならない。」4 「啓蒙が事物に対する態度は、独裁者が人間に対するのと変るところはない。独裁者が人間を識るのは、彼が人間を操作することができるかぎりである。」10
「呪術は科学と同じく目的を志向しはするが、その目的追求の仕方は模倣(ミメーシス)をつうじてであって、客体との距離を拡げていくことによってではない。」13
「しかし自己はけっして完全に消え尽くすことはなかったから、啓蒙は自由主義の時代を超えても、恒に社会的圧迫に同調した。操作された集団の統一は、個々人の否定のうちに成り立つ。」15
「抽象作用の前提である主体の客体に対する距離は、被支配者を介在させることによって、支配者が手に入れる自然事物への距離のうちに基礎を持っている。」16
「これが概念と事態とを分離して客観として規定するやり方、つまりホメーロスの叙事詩のうちにすでに広くひろまり、近代の実証科学のうちで転化を遂げる客観化的規定の原形態であった。」19
「自然は、もはや同化によって影響を与えるべきものではなく、労働によって支配されなければならない。」23
「…信仰の非合理性は、あます所なく啓蒙された人間たちの手によって合理的な行事にされてしまう。いずれにせよ彼らによって社会の針路は野蛮の方向へと舵を向ける。」25
「数学的方法においては、…未知のものは、前から知られていたものという徴づけを帯びていることになる。」31
「啓蒙は思考と数学とを同一視する。」31
「啓蒙は神話に対して神話的恐怖を抱いている。」37
「『自己を保存しようとする努力は、徳の第一の、そして唯一の基礎である』というスピノーザの命題は、全西欧の文明にとって正しい格率を含んでおり、この格率にかんしては、市民層のうちにある宗教上、哲学上の論争は収まる。」37
「論理的法則の排他性は、その機能のそういう一義性から、究極的には自己保存の強制的性格から、由来する。」39
「…全論理学を蔽う形式主義は、処刑式の保持と個々人の保存とが偶然的にしか一致しない社会において、さまざまの利害が見通し難くもつれ合っていることに基づくのである。」39
「啓蒙の本質は二者択一であり、択一の不可避性は支配の不可避性である。人間はこれまでいつも、自然の下へ従属するか、それとも自己の下へ自然を従属させるか、その間で選択しなければならなかった。」41


解答例:
1番、及び3番において、啓蒙がいかに自然支配と関わるかを描いたのだが、この人間による自然支配の構造は、人間による人間支配の構造とも絡み合うものである。3番において、自然支配は、自然を計算可能性の枠の中に押し込めることによって成立することを考察しておいた。人間支配も同様である。人間(及びその行動)も、数に還元化され、同質化される。このようにして、均質化された人間もまた計算可能性の体系の中に取り込まれることになる。現実にはもちろん、人間は計算可能なものではない。しかし、「啓蒙はすべてを知っている」という「神話」を守り続けるために、計算可能性から外れる人間には社会的制裁が加えられるようになる。あたかも、原始時代において、社会におけるタブーを犯した人が受ける制裁のように。違うのは、社会的制裁は「啓蒙社会」における社会的抑圧、という形をとることである。この社会的抑圧こそが、啓蒙から帰結する暴力なのである。啓蒙は自己を保存する。その仕方は、例えば「存在」の意味を自ら定義することによる。このやり口を支えるのは、啓蒙が身にまとう「論理的法則」の排他性である。全てのものは二者択一によって規定されることになる。このような意味で啓蒙は一見、強持ての表情を見せているかのようなのだが、それはうわべの強さであって、神話に対する怯えの裏返しに他ならない。啓蒙は自らの論理の範疇に入りきらないものに対して「恐怖」を感じる。そのために、身にまとった「論理的法則」のほつれをつくもの(=啓蒙にとって未知なるもの、非同一的なものに対しては、啓蒙はヒステリックに攻撃を仕掛け、容赦なく制裁を科す。「啓蒙は全てを知っている」のである。

(*)恐怖と、それに関わる暴力の介在について
 ある主体(同一的なもの)において、他者(非同一的なもの)が現われる時、その主体は恐怖を感じる。その恐怖に慄く主体がとる方途は二つである。一つは、非同一的なものを自らの中に取り込み、同一的なものにすること。その仕方は常に暴力的である。非同一的なものは、本来同一的でないからである。もう一つは、非同一的なものの存在を認めないことである。ここには、その非同一的なものへの排除の論理が働く。ここにも暴力の介在を見ることができる。
5.「大まかに言えば、第一論文の批判的部分は次の二つのテーゼに要約されよう。(一)すでに神話が啓蒙である。(ニ)啓蒙は神話に退化する。」(序文14ページ)とありますが、この二つのテーゼを引用を交えつつ、自分の言葉で説明してください。

@
引用:
「…もっとも広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。」3
「たとえ啓蒙に抵抗する勢力がどんな神話を持ち出してきたとしても、その神話は、すでにその対立にあたって論拠として使われているということによって、じつは自分が啓蒙に対して非難している当の破壊的合理性の原理への、信仰を告白していることになる。啓蒙はすべてを飲み込む。」7
「啓蒙の理想は、そこからすべての個々のものが導き出される体系である。」8
「…啓蒙によって犠牲にされたさまざまの神話は、それ自体すでに、啓蒙自身が造り出したものであった。」9
「神話とは報告し、名付け、起源を言おうとするものであった。しかしそれと共に神話は、叙述し、確認し、説明を与えようとした。…早くから神話は報告から教説となった。この傾向は、神話が文字によって記録され、収集されることによって強化された。」9
「神話の言語的組織化そのものが、止まるところを知らない啓蒙の進展過程の動因となった。啓蒙が進展していくにつれて、個々の理論的見解は、いずれも避けがたい必然性をもって、たんなる信仰にすぎないではないかという否定的な批判に服し、ついには精神や真理の概念、それどころか啓蒙の概念さえ、アニミズム的な呪術になってしまった。」13
「啓蒙は神話を破壊するために、あらゆる素材を神話から受け取る。そして神話を裁くものでありながら神話の勢力圏内に落ち込んでいく。」14
「個々の出来事を反復として説明する内在の原理は、啓蒙が神話的構想力に反対して主張したものであるが、これこそ神話そのものの原理なのである。」14
「人間が恐怖から免れていると思えるのは、もはや未知のいかなるものも存在しないと思う時である。これが非神話化ないし啓蒙の進む道を規定している。」19
「シャーマンは危険なものを祓うためにその像にまじないをかける。等式が彼らの手段である。等式の原理は、文明のうちでも処罰と賞勲とを規制している。「もちろん彼(ヘーゲル)は、否定の総過程の既知の成果、体系と歴史における全体性を、結局はやはり絶対者に仕立て上げることによって、偶像禁止の戒律を破り、自ら神話へと転落したのではあったが。」30-31
「啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理があるのである。」31
「思考機械は、盲目的に存在者の再生産という分に安んじるようになる。それとともに啓蒙は、しょせん逃れるべくもない神話へと逆転する。」34
「人間のどんな態度表現のうちにも、それがある自己保存の目的連関のうちに所を得ないかぎり、(啓蒙は)いたるところに神話を嗅ぎつける。」37
「あらゆる自然的な痕跡を、神話的なものとして方法的に消し去ってしまった後、…ほとんど自然的な我れでさえなくなってしまった自己は、超越論的、論理的な主観へと昇華され、行為に対する立法の法的たる理性の基準点になる。」37
「ついに自己保存が自動化されるに及んで、生産の管理者として理性の遺産を相続したものの、相続権を剥奪されたもの〔理性〕を憚って、今や理性に恐れを抱くようにもの達の手によって、理性は解任される仕儀に立ち至る。」41
「支配の強制の下に、人間の労働は、昔から神話の外に連れ出されながらも、支配の下で、再び神話の圏内に引き込まれるのが常であった。」41
「今日の大衆の退歩は、自分の耳をもって聞こえ難いものを聞き、自分の手を持って把えがたいものに触れることができない無能さのうちに現れている。」47
「迷信の放逐は、いつも支配の進歩とともに、支配の暴露をも意味してきた。啓蒙は啓蒙以上のもの、つまりその疎外態において認識された自然である。」51


A
古来、啓蒙が神話の基礎をなすと考えてきたのは自然を人間になぞらえる見方であり、主体の自然への投影であった。
超自然的なもの、精霊やデーモンたちは、自然的なものにおびえる人間の鏡像だというわけである。神話の中に登場してくるさまざまの形象たちは、啓蒙の見方によれば、すべて同じ分母で通分され、主体に還元される。
存在し生成するものとして、あらかじめ啓蒙によって承認されるのは、ただ、統一をつうじて捉えられるものだけである。啓蒙の理想は、そこから、すべての個々のものが導き出される体系である。

科学革命の構造に関連して
個々の学派によって、公理が異なった解釈を受けることはあったにしても、統一科学の構造はいつも同一であった。
体系に組み込めないものを敵視する。
市民社会は等価交換原理によって支配されている。
市民社会は、同分母に通分できないものを、抽象量に還元することによって、比較可能なものにする。
啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象と見なされる。そういうものを、現代の実証主義は詩の領域に追放した。統一こそパルメニデースからラッセルまでの合い言葉である。神々と質との破壊が、一貫して主張されている。しかしながら、啓蒙によって犠牲にされた神話は、それ自体すでに啓蒙自身が造り出したものであった。


解答例:
神話の役割は世界を説明することであった。それは、言語によってなされる。2番における名づけが前者から後者に移行するにつれて、「報告し、名付け、起源言おうするもの」から「叙述し、確認し、説明を与えよう」とするものへと変遷する。この間において、名前が果たす役割が変化しているのである。その結果、神話はまた「報告」から「教説」へと移りかわることとなる。この神話に基づき、シャーマンのような人々が「儀式」を通じて、「呪術」によって自然に対して影響を与えようとする。実際にそれが達成されるかどうかは、ここでは問題にならない。ただ、彼らは、自然現象を自らの思う通りに扱おうとする。ここに神話における啓蒙の萌芽を見ることができる。シャーマンは自然に相対する時、等式を手段とし、それを自然にあてはめる。等式の左辺(原因)を操作することで、右辺(結果)をも思うがままに操れることになるのである。これが神話における啓蒙的側面である。また、近代科学の(見せかけの)力強さに引きずられて、人々は数学的思考を信奉し、思考を「停止」する。啓蒙の世界においては、計算する以外の仕方の思考は必要とはされない。思考の適用範囲は、啓蒙が決定するものであり、その範囲外を思考することは禁止される。
啓蒙は、人間の外なる自然を「計算可能なもの」として扱うことで、一応の支配構造を完成させることになる。そして、この支配構造を、人間の内なる自然(人間の本性たる思考能力、想像能力)に対しても持ち込むことになる。「啓蒙は全てを知っている」という「神話」を維持するために、それが必要だからである。もちろん、この二つの支配構造は人間の思考の停止によって、それぞれ円環を閉じるようにして完成を見ることになる。その鉛管からはみ出ることを啓蒙は許さない。こうして、「計算可能性」を信仰する一つの物語が出現する。この物語こそ、新たな神話であり、啓蒙が啓蒙であるゆえに、この神話は生まれる。このようにして啓蒙は自己崩壊し、神話へと転落することになるのである。

6.現代社会を「大衆消費社会」という側面からとらえた場合、上の二つのテーゼはどのように応用されるでしょうか。具体的な事例を一つ挙げて、W章の内容を踏まえながら、説明してください。(グループワーク)



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