オルテガ『大衆の反逆』


1.大衆のどのような精神が社会を支配しているのでしょうか。また、そのことによってどのような問題があるのでしょうか。

引用:
「「大衆」とは、みずからを、特別な理由によって――よいとも悪いとも――評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持になる、そのような人々全部である。」(p390)
「大衆は支配者である少数派を吸収し廃棄して、その人々の占めていた場所を占拠したのである。」(p394)
「社会は貴族的であるかぎりにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけ社会でなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでもつねに貴族的なのだ」(p395)
「18世紀には、すべての人間は、たんにこの世に生を享けたという事実に基づいて、何らの特殊な資格なしに、基本的な政治的権利を所有しているのだということを、いくつかの少数派の人々が発見した。」(p397)
「資質なき個人、人間であるというただそれだけの個人のもつ主権は、かつての法的観念、法的理想から、平均人の心理に内在するものに変じてしまった。…民主主義のおかげで生じた、すべての人を平等化する諸権利は、憧れや理想から、無意識の欲求や前提に変じてしまった。」(p398)
「理想を実現する途方もない能力はおびただしくもっていると思っているのに、いかなる理想を実現すべきかわからない、そういう時代にわれわれは生きているのである。万物を支配しているが、自己の支配者ではない。自分の豊富さの中で、途方に暮れている。結局、現代の世界はかつてないほどの資産、知識、、技術をもっているのに、かつてなかったほどの不幸な時代である。つまり、現代の世界は、ただただ浮かび上がっているのである。」(p416)
「生のプログラムもなく、計画もなく生きているのである。…大衆人とは、生の計画がなく、波間に浮かび漂う人間である」(p419)
「(前世紀の学校は)強く生きるための道具をかれらに与えたけれども、偉大な歴史的使命に対する感覚は与えなかった。近代の諸手段についての誇りと力とを性急に植え付けたが、その精神は植え付けなかった。だから、かれらは精神と関わりあうことをいやがるのである。そうして新しい世代は、世界が過去の痕跡をもたぬ、伝統的で複雑な問題のない天国であるかのように思い込んで、この世界の支配権を握る気になったのである。」(p421)
「(大衆人が)ものごとを最終的に決定する人であるならば…法的、、物質的な技術が蒸発してなくなってしまう。…生は萎縮するであろう。現代の豊饒な可能性は、実質上の現象と不足と痛ましい不能へと、つまり真の没落へと変化するであろう。」(p422)
「かれらは自分の福利にしか関心がなく、同時に、その福利の原因とは無縁である。」(p428)
「その自信のほどは、ちょうどアダムのように、楽園的である。生得の、魂の密閉生が、自分の不完全さを発見するための前提条件、つまり、他人との比較を不可能にしてしまうのである。」(p436)
「凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押し付けているのである。」(p437)
「彼らの《思想》は恋愛詩曲のようなもので、ことばを吐き出したいという欲望以外のなにものでもない。」(p440)
「ある規範のもとでの共存である文化的な共存を拒否し、野蛮な共存に退化する」(p440)
「野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」(p442)
「かれらはただ自由であると感じ、束縛がないと感ずつことによって、自分が空虚だと感ずるのである」(p495)

解答:
オルテガは大衆を、人間として本来あるべき姿を保っていない人々、本来すごし行くべき人生を送っていない人々であるとする。また、オルテガは群集と大衆というそれぞれの概念を明確に区別している。前者は量的概念であり、後者は質的概念である。しかも、すべての各社会階級のなかに真の大衆と真の少数派がいるとあらわしていることから、大衆と少数者との区別は、社会的な階級で区別されるのではなく、人間的、精神的区分なのである。この質的な意味での大衆もいかなる歴史上の社会でも存在するのだが、オルテガは特に現代に特徴的な大衆を「大衆人」と命名して、これを大衆社会批判の焦点に据えている。
大衆人は特徴として、他人と同調し、そのためにみずからを平均化し、それによって生み出される凡庸性をもっている。さらに、「凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押し付け」るほどに、「ちょうどアダムのように楽園的に」自分自身の完全さを信じている。その背後には、大衆人を生み出した近代がその文明を十分な高さに達した、完成されたものであるという肯定の時代であったことがある。それは大衆人を近代文明を継ぐことにしか能力のない、知性の閉塞した機械的な人間にしてしまった。そして、その中にすさまじい欲望を植え付け、それに《思想》ということばを吐き出すためのさらなる欲望を巻き付けた。もはや、かれらは自分の福利にしか関心がなく、同時にその福利の原因とは無縁であるために、自分の外にあるものの必要性を感じず、自分の欲望を直接的に押し付けにかかる。これは共存の最良の形式である対話や議論を放棄し、直接行動、すなわち暴力の唯一の理性とする野蛮性を持ち合わせている。
以上のような特徴を持ちあわせている大衆人が支配する現代は、共同体が崩壊し、利益集団の集まりにむかっている。同時に、共同体を生み出す、手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性といった文明も、崩壊しかけている。これこそが、オルテガの警告する危機である。たとえば、環境問題について考えたとき、まさにこれらのことがあてはまる。何ものをも省みない、大衆人の追及する福利のために、地球環境はまさに、危機的状況を呈している。文明の崩壊はいずれは人類の崩壊に通じるのである。
 この危機的状況に対して、オルテガは道徳という「なにものかへの服従の感情であり、奉仕と義務の意識」の否定に問題を帰結させている。道徳とは、すべてのものにたいする思慮深さをもたらす大きな力であり、これこそが共同体を構成する中枢となる。しかし、現代において大衆人はその無道徳さによって、自由さを感じる一方で、空虚さのなかに埋もれてしまう。そこで、道徳を新たに創造することが、現代の大衆社会の混迷を断ち切る一つの手段となりうるのだ。

2.「生」とはどのようなものでしょうか。「貴族的」ということばに留意して述べてください。(参考箇所第1部2,3,4,7,)

引用:
「(p.395下)私がいってきたし、いまもって毎日確信を強めながら信じていることは、社会は貴族的であるかぎりにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけで社会でなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでも常に貴族的なのだということである。」
「(p.399上)さて、平均人の生は、以前に最高の少数者だけに属していた生の目録によって構成されているわけだ。いまや、平均人は、それぞれの時代に歴史がその上を動いていく領域を代表しているのである。」
「(p.401上)われわれは、平均化の季節に生きている。財産は平均化され、別々の社会階級のそれぞれの文化は均一化され、男女も均一化されている。それにまた、大陸間の差もなくなっている。ヨーロッパ人の生活は今までよりも低かったのであるから、この均一化によって、もっぱら利益を得たのである。だから、その点から見れば大衆の擾乱は、生命力と可能性のすばらしい増加を意味するわけだ。」
「(p.404下)われわれの時代は充実した時代の次に来た時代である、ということを忘れてはならない。」
「(p.405上)しかし、いまやわれわれは、このように満足し、成就した時代は内部の死んだ時代であることに気づいている。」
「(p.408下)現代の人間は、自分の生はすべての過去の生よりも豊富である、ひっくりかえしていえば、過去全体をあわせても、現時の人類にとっては小さい、と感じているのである。」
「(p.415下)理想を現実にする途方もない能力はおびただしくもっているともっていると思っているのに、いかなる理想を現実にすべきかわからない、そういう時代にわれわれは生きているのである。万事を支配しているが、自己の支配者ではない。」

答え:
 オルテガにとって、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずからの課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生であると述べている。つまりいかに時代が充実したものであっても、またその次の時代であっても、その生を世界の中において、自己以外(外部)との間にかかわりをもつことである。そのように自己の内部で完結してしまわない、つまり「動的な」生のありかたこそ貴族的な生だといえる。その外部へのはたらきかけ(比較)によって自己の生をつくりあげていこうとする。それが貴族的に生きるということであり、生への緊張感が絶えず存在しているということになる。
 だから生というものそれ自体は自己のみに帰結するものでもなくて、外部との接触によって感化され、また生を高めることにつながるといえる。それは時代の流れに関わらず、人間が社会の中で生きる上での本来的な要素であるといえるが、近代以降の大衆的人間の生き方とは異なっている。しかしオルテガは、社会が貴族的であるということでしか社会は成り立たないと述べていることを考えると、生とは貴族的なものであるのが本来であり、そのような生が支配する社会が、オルテガのいう「社会が貴族的である」ということにつながるのだといえる。

3.「近代」は大衆をどのような方向へ導いたのでしょうか。「魂の閉塞」、「暴力介入」ということばに留意して述べてください。(参考箇所第1部3,6,8)

引用:
「(p.423上)現在、ヨーロッパの生をリードしようと考えている人間は、十九世紀を指導した人間とはきわめて異なっている。しかし、かれらは十九世紀につくられ準備された人間である。」
「(p.424上)十九世紀がしだいに大量に生み出していった、このおおぜいの人間の生は、どんな様相を示しているのだろう?…(中略)…以前には幸運のたまものとみなされ、運命にたいする敬虔な感謝を呼びおこしたことが、感謝すべき権利ではなく、要求しうる当然の権利に変わった。」
「(p.426上)この新しい人間を生まれたときからとりまいている世界は、いかなる点でもかれが自分を制限することを強いないし、なんらの拒否も反対しないばかりか、むしろ無限に増大するその欲望を刺激する。」
「(p.426下)なぜならば、一般人は、技術的、社会的にこれほど完全なこの世に生きているので、それを自然がつくったのだと信じており、それを創造できたのは、卓越した人々が努力してくれたおかげだということをけっして考えないからである。」
「(p.440上)平均人は、心のなかに《思想》を見出すけれども、思想を生み出す機能はない。」
「(p.442上)直接行動は、あらゆる規範の破棄を提案する規範であり、われわれの意図と、意図の押しつけとのあいだになんらかの中間項をも認めない規範である。これは、野蛮人の大憲章である。」
「(p.442下)いま数えあげた文明の小道具の一つ一つの内部を眺めれば、それらの中身はすべて同じであることを見いだすであろう。じっさい、これらすべては、ひとりひとりが他人を考慮に入れるという、根本的、前進的な願いを前提にしているのである。」


答え:
 現在のヨーロッパをリードしようと考えている人間は、19世紀につくられ、準備された人間である。つまり彼らは19世紀におこった近代文明の様々な要素―科学技術の発達や、物質的豊かさ、法的・社会的技術の進歩や、基本的人権など―前の時代の人々が勝ち取ったものの中に生まれ、生命力や色々な可能性が増加していくということを簡単に味わい、それ以前の制限された生から結果的に解放されることになった。しかもそのような世界はさらに無限に増大する欲望を刺激する。
 この時点で人々は、これらの近代文明に満足しているが、そのうちそれに慣れ、ひいてはそれについてよく考えることもせずに、まるでそれが自然物であるかのように扱うようになったり、満足によって外部の権威に対して自己を閉鎖して、内部の感情だけで、欲望に対する刺激を満たそうとするようになる。このことはまさに社会規範の欠如と魂の閉鎖に起因するものだといえる。
 さらに、人々は外部に対してはたらきかけることがないので、欲求充足のための正常な手続きは廃されて、暴力介入という直接行動をとるようになる。つまり直接行動までの中間項としてあるべき手続き、規範、他人への配慮などが認められない。近代は大衆的人間を、彼らがが魂の閉鎖に任せて沈黙を守るか、暴力介入による直接行動かどちらか「all or nothing」という、野蛮で極端な世界へと導いたといえる。

4.「国民国家」と「大衆」の関係がヨーロッパの没落したという風に感じることとどのように関係しているでしょうか。

引用:
「(p.485上)ある新しい歴史上の時代の本質ないし特徴は、内的変化―人間とその精神の変化―、あるいは外的変化―形式的な、機械的とでもいうような変化―に由来するものである。後者のなかでは、権力の交替が最大のものであることはほとんどまちがいない。しかし、権力の交替は同時に精神の交替とも直接に関係している。」
「(p486上)《支配》ということばを、本源的に、物質的な力の行使、物理的な強制力の行使という意味で使っているのではない。…(中略)…まったく、《支配》と呼ばれる、人間のあいだの安定した正常な関係は、けっして力に依存するものではないのであって、それとは逆である。」
「(p.486下)いまだかつて、もっぱら世論以外のものに支えられて支配した人は世界にひとりもいない。」
「(p.495上)世界中の劣等者たちは、自分たちが荷を負わされ、任務を与えられてきたことにもうあきており、わずらわしい命令から解放されたいまの時代を、お祭り気分で楽しんでいる。しかし、祭りは長く続くものではない。一定の仕方で生きることを強制する戒律がなければ、われわれの生は、まったく待命状態になってしまう。これが、世界の最良の青年たちが直面している恐るべき心理状態である。」
「(p.500下)人間の生は、本来の性質からして、なにかに賭けねばならない。」
「(p.500下)生きるとは、一方では、各自が自分で自分のために何かをすることである。他方では、私の生、私だけに重要な生は、これをなにかに捧げなければ、緊張も《形》もなくなって、がたがたになってしまうだろう。」
「(p.505上)私の考えでは、否定の余地がないほど、近年のヨーロッパの生命力の上に重くのしかかっている衰退、無力の感覚は、現在のヨーロッパのもつ潜在力の規模と、その力を発揮すべき政治組織の大きさとのあいだに釣合いがとれていないことによるのである。」
「(p508上)したがって、ヨーロッパの実情は、次のようにいうことができるであろう。つまり、ヨーロッパは長いすばらしい過去を経て、新しい生の段階に達し、いまではあらゆるものが増大している。しかるに一方では、その過去から生き残ってきたいろいろな構造は矮小であって、今日の発展の障害となっている。」


答え:
 18世紀の終わりに、ヨーロッパ諸国では国家とはとるに足りないものであった。その始まりは血縁関係や言語統一によって「国家」という枠を設けたのではなく、国家が成立した結果、それらを統一するように努めたので、「国民」が存在するようになり、国家の基盤が強力になっていったといえる。また《自然の境界》が国家を位置づける上での基盤であるように思われるが、これも国境が国家の始まりであるというのではなくて、国家成立後にその統一を維持するために用いた概念である。そしてその内部での融合が起こり、時代が下るにつれて等質性を増していった。このことは、国民国家が作られつつある段階であって、近代がもたらした様々な恩恵の中に浸かり、満足することで生の増大をもたらすことになる。
 しかし一方で、生の増大によりそれ以前に人間の生をつないでおく規範として作用していたもの(国民国家)は壊れつつある段階であって、すでに使い古されてその役目をなすことが難しくなっていく。そのような規範のない解放された社会で、生を捧げる対象を見出すことができずに待命状態である。つまり、ヨーロッパ人の生をつなぎとめていた規範であった「国民国家」と彼ら自身の生の距離が近くなり、その規範の中に権力を見出すことができなくなってしまったため、ヨーロッパは支配しているかどうかということに自信がなくなったり、没落したと感じることにつながっているといえる。

5.どのようにすれば「大衆の反逆」の中で「少数派」であることができるのでしょうか。あなたの意見を述べてください。(グループワーク)



BACK