ニーチェ『道徳の系譜』


1.(a)貴族的道徳と奴隷的道徳の特徴をあげてください。(参考箇所:第一論文「「善と悪」・「よいとわるい」全体)
(b)「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、<反感ルサンチマン>そのものが創造的になり、価値を生み出すようになったときである」p.36-37 とありますが、なぜ反感は価値創造と結びつくのでしょうか。

引用文(a)・(b):
 「すなわち、「よい」という判断は「よいこと」を示される人々の側から生じるのではないのだ。却って、「よい」のは「よい人間」自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、、つまり第1級のものと決めて、これらをすべての低級なもの、下劣な者、卑賎なもの、卑俗なもの、賎民的な者に対置したのだ。こうした距離の感じから、彼らは初めて、価値を創造し価値の名を刻印する権利を自らに獲得した。彼らにとって功利がなんであろう!」(2・p22)
「どこにおいても、身分上の意味での「貴族的な」とか「高貴な」とかが基本概念であって、それからして必然に、精神的に「貴族的な」「高貴な」という意味での、「精神的に高い天性をもった」とか「精神的に特権をもった」という意味での「よい」が発展してくる。しかもこの発展「卑俗な」だの「賎民的な」だの「低劣」だのを結局「わるい」という概念に移行させてしまうもうひとつの発展と常に平行する」(4・p25)
「すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」「他のもの」「自己でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価眼のこの逆倒−自己自身に帰るかわりに外に向かうこの必然的な方向−これこそまさしく<反感>の本性である。」(10・p37)
「これに反して、<反感>をもった人間の考想する「敵」を考えてみるがよい。−そしてここに、彼の行為があり、彼の創造があるのだ。彼はまず「悪い敵」、つまり「悪人」を考想する。しかもこれを基本概念として、それからやがてその模像として対象物として、更にもう一つの「善人」を案出する。−これが自分自身なのだ!」(10・p40)
「それで、このやりかた遣り方は、「よい」という根本概念を予め自発的に−すなわち自分自身から−考想し、そこから初めて、「わるい」という観念を創り出すあの貴族的人間の遣り方とはまさしく逆なわけだ!貴族的起原を持つこの「わるい」と不満な憎悪の醸造釜から出たあの「悪い」と−前者が模造品であり、附録であり、補色であるのに対して、後者は原物であり、始源であり、奴隷道徳の考想における本来の行為である!−一見して同一の「よい」という概念に対置された2つの言葉−この「わるい」と「あの悪い」とが、何と異なっていることか。しかし、その「よい」も実は同一の概念なのではない。むしろ是非を問わなければならないのは<反感>道徳での意味で、「悪い」のはもともと誰であるか、ということだ。…」(11・p41)
「このもうきん猛禽は「悪い」。従って、猛禽になるべく遠いもの、むしろその反対物が、すなわち仔羊が、――「善い」というわけではないか」(13・p46)


答え(a): 
まず、貴族的道徳及び奴隷的道徳の特徴は、<よい>(優良)と<わるい>(劣悪)の起原論を説明することで理解されうる。 <高貴>・<貴族的>に係わる意味そのものには語源的に<よい>(優良)という意味が含まれている。この<よい>(優良)という価値判断には、<よい>ことを施された人々からの賞賛や感謝から生まれるのではなく、<よい>というおこりは、<よい人>たち自身の所有物であったように、高貴な、強力な者たち、つまり貴族自身の自己規定(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)として生まれている。つまり、自分自身の様々な「力」の特性を「よい」とし、自分自身の行為・感情を自発的・積極的に肯定しながら、もはや彼らは能動的な人間として、幸福と行動を切り離すことも考える必要性をもたないのであった。また、利己的・非利己的という概念には結びつけずに生きていくような内面性を持たず、強さは強さとして認め、弱さを弱さとして認めることを前提条件とした。このように、貴族的道徳は、ニーチェのイメージする「貴族」自らが身体化した何者にも侵犯されない道徳であった。
 混同してはならないのは、ニーチェのイメージする「貴族」とは実在する「貴族」ではなく、実在する「貴族」にそのような意味付けを行ってはいない。しかし、実在の「貴族」は「奴隷」との区別のために、同じ土俵の上に立って、貴族を誠実な者という意味に変えてしまう。
 一方、本来<わるい>(劣悪)という概念には、素朴な、率直に、純粋にというものであることからも、貴族的道徳を持つ貴族にとっては、<わるい>劣等そのものが、低級、野卑、賎民的な者(奴隷的人間)である存在以上に何ら意味付けするものでもなく、また、関係性のうえでも功利の対象となるものでもはなかった。
 しかし、野卑的、賎民的な奴隷的人間は、「自分達は子羊であり、子羊こそが善いのだ。」というたとえにもあるように、自分の弱さを<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし「反動的」に転移する本性を持ちながら、だから「猛禽はである高貴・強者なものこそが悪い」という評価を共同体のなかで作り上げてしまう。これは、もはや貴族的価値を没落させて、<よい><わるい>及び優劣という概念そのものを<善い><悪い>という善悪の問題として、奴隷的人間は、「自分たち=善人」であるという思考の根底にあるルサンチマン(反感)を内在化させながら自己肯定をすることによって、本質そのものを変容させていくのである。これが、奴隷的人間が作り出してしまう道徳である。

 答え(b):
 本来、人間にとって「富」や「健康」、そして「悦び」は、自分にとって正直に「よい」と思うから、誰でもを求めようとする。しかし、それを全て求めることが不可能で、貧しくもの、病めるもの、あるいは悩み続けるものは、実現できないなんらかの理由付けをするために<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描くことを思いつく。
 つまり、それは、弱者が奴隷的道徳の創造的行為をもって、<よい>という概念を意識的に同じ土俵で対置させて、貴族的道徳における<わるい>という観念を引き釣り降ろし、貴族的道徳とは全く異質な、<悪い>という観念を作り出したといえよう。これが基本概念であり、その基本概念から導き出される対照像は、もはや<よい>(優劣)を内在化した貴族的人間ではなく(奴隷的人間の手によって没落した!)、<善人>なるものを考え出す。それが、自分自身(貧しいもの、病めるもの、悩み続けるもの)でもあった。
 このような思考方法が、価値創造に結びついているのだが、「富」「健康」「悦び」を欲望したいという気持ちが、貴族的道徳には存在しない、ルサンチマン(反感)というフィルター(ニーチェは「憎悪の醸造釜」と言っている)を通すことによって、本来の願望とは離れ変容した「創造物」までを生み出すことに注視したい。それは、個人的感情を離れ、集団的感情へと移行する過程で、システムを作り上げ、もはや人の手を離れ抑止できず、自己増殖していく「創造物」であろうか。いずれにしろ、この「奴隷一揆」がルサンチマン思想とともに精神的復讐をはかり、諸価値の徹底的な価値転換によってヨーロッパにおいて貴族的価値観を没落させていく。

2.奴隷的な人間は「選択の自由を持つ「主体」に対する信仰」p.48 を必要とする、とありますが、ここで描かれている「自由」と「主体」との関係を説明して下さい。
引用:
・すべての作用を作用者によって、すなわち一個の<主体>によって制約されたものと解し、誤解するところの言葉(さらには言葉のうちに化石した理性の根本誤謬)の誘惑に捕らわれるがために他ならない。それはちょうど一般の民衆が稲妻をその閃光から切り離し、後者を稲妻と呼ばれる主体の活動であり作用であると考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現れから切り離し、あたかも強さを現すも現さないも自由自在といった超然たる基体が強者の背後にあるかのごとく思いなす。がしかし、そのような基体は存在しない。p.405
・主権者的な固体・・・真実に約束することのできるこの自由となった人間、この自由なる意志の支配者、この主権者、――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼び起こすか――彼はこれら三つのものすべての対象となるに<値する>――を、知らないでいるはずがあろうか? 同時にこの自己にたいする支配とともに、いかにまた環境にたいする支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手に委ねられているかを知らないでいるはずがあろうか? <自由なる>人間、長大な毀たれない意志の所有者は、この所有物のうちにまた自己の価値尺度をもっている。彼は自己の基点にして他者を眺めやりながら、尊敬したり軽蔑したりする。彼は必然的に、自己と同等な者らを、他者や信頼できる者ら(約束することのできる者たち)を尊敬する


解答:(既に1.4.において考えたように)古代社会において、人間は共同体に属することは、責務関係を結び、その責務行為を果たしていた。このようにして結ばれた責務契約は、個人と共同体の相互に浸透する性格であり、個人と行為を切り離して考えなかった。
 これに対して、古代社会の崩壊と同時に引き起こされる道徳意識の変化は、共同性から分離することのできない行為を、行為作用と行為「主体」とに引き離すことにより、個の意志を確立することになった。ここに、自分の引き起こす行為が、心に思い描いた対象に対して、向けられることとなる。
 また「ルサンチマンが創造的に価値を生み出す」という表現に見られるように、この変化は、道徳感情と価値規準が組合わさる点に、破壊力を増幅させる。つまり、自己自身の外部に善悪の規準を設定し、自分の存在確保を目的として操作可能なイメージを心の内に描くことにあった。「行為」は欲求を充足させるために「主体」が引き起こすのと同時に、「主体」は欲求を満足させるため「行為」に対して社会的な規格を与え、両者の適合を図り、操作可能な行動を一つの図式として保持する。従って、操作可能な環境を構想することは、一方で社会的な承認を必要とする道徳規準と、他方で内的な欲求である道徳感情との、異なる二相の互換可能性である。この互換可能性により確保される「主体」にとっての「自由」とは、今や共同体から離れた個別だけでもなく・思い通りに行為できるだけでなく・個による環境の操作だけでもない。それにもまして、システム全体(大いなる権力への意志)の進歩のうちに自由が現れてくる― 一切の生起の絶対的偶然性と、いなそれの機械論的な無意味性と手を結ぼうとする―。

3.「記憶」とはどのような能力ですか。またこれと対比されている「健忘」とはどのような能力ですか。(「約束をなしうる動物を育て上げる」というレトリックに着目しました。参考箇所:第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」1〜3節)

記憶:近代的意志による擬似環境(ステレオタイプ)の構築能力
「健忘は一つの力、強い健康の一形式を示すものであるが、しかもこの同じ動物が、今やそれと反対の能力を、すなわちある場合に健忘を取り外すことを助けるあの記憶という能力を習得した―――」p63
「人間はまず、必然的な世紀を偶然的な生起から区別して、それを因果的に考察する能力,はるかな未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力,何が目的であり何がそれの手段であるかを確実に決定する能力,要するに,計算する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!」p63
「人類の「記憶して」いたものがわるいほど,人類の習慣はいよいよ恐るべき相貌を呈する。わけても刑法の峻厳さは,健忘に打ち勝つために、また社会的共同生活の若干の原始的要件を一時的に感情や欲求の奴隷になった人々の脳裡から去らしめないようにするために,人類がどれほどの労苦を費やしたかということに対する一つの尺度である。」p67
「共同体は次第に力を増すに連れて,個人の違反をもはやそれほど重大視しなくなる。それというのも,個人をもはや以前ほど全体の存立に対して危険な者,破壊的な者とみなす必要がなくなるからである。非行者はもはや「法の保護の外におかれ」たり、追放されたりはしない。」「非行者はむしろ今やこの怒りに対して,殊に直接の被害者の怒りに対して,全体の側から慎重に弁護され,保護される。」p82


健忘:(古代的自由を求める)能動的な阻止能力
「健忘は・・・一つの能動的な,厳密な意味において積極的な阻止能力であって,いやしくもわれわれによって体験され,経験され,われわれに摂取されるほどのもの」p62
「心的秩序・安静・礼儀のいわば門番であり執事であるあの能動的な健忘の効用である。」
「健忘がなければ,何の幸福も何の快活も,何の希望も何の現在もありえないだろうということだ。この阻止装置が破損したり停止した人間は,消化不良患者にもひせらるべきものだ・・・健忘は一つの力,強い健康の一形式を示すもの」p62
「いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!」p68
「この怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその等価物があり、従って実際に――加害者に苦痛を与えるという手段によってであれ――その報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。」p70 「ここにこそ冷酷や残忍や苦痛の産地が見出されるのかもしれない。債務者は返済の約束に対する信用を起こさせるために,その約束の厳粛と神聖に対する保障を与えるために、また自分自身としては返済を義務や責務として内心に命じておくために,万一返済しないような場合の代償物として,債権者とのとり極めによって,自分がなお「占有する」他の何ものかを,自分の手中にある他の何ものかを抵当にいれる。」p71
「常に前史時代の尺度をもって測るとすれば、共同体のその成員に対する関係もまた,債権者の債務者に対するあの重大な根本関係である。」
「共同体の怒りは,犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し,そういう状態からの従来の保護を解く。」p82


 第二論文は"約束をなしうる動物を育て上げることこそ人間に関する本来の問題ではないか"という問いかけで始まる。そしてこの問題の根本に、健忘能力を忘れ、記憶能力をおし進める近現代の人間が存在する。
 記憶とは、近代的意志であると解読することが出来よう。それは記憶が、"未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力,何が目的であり何がそれの手段であるかを確実に決定する能力,要するに,計算し算定する能力を習慣化すること"という表現から理解出来る。このように人間が原因結果論的思考を駆使して,まだ見ぬものを予見するために、計算する意志を働かせる、擬似環境作成能力であろうと思われる。
 それに対して健忘とは、自己中心性を押さえる能動的な能力である。それは記憶能力と反対の表現であり、積極的な「阻止能力」から見て取れる。つまり共同性を乱す者がいるのならば、その者を拷問や共同体からの追放などで罰し、共同性を維持する事である。古代社会の特徴として、刑罰,拷問,流血が共同性の維持に際して積極的に施行されるということを表している。
 そこから"約束をなしうる動物を育て上げる"という表現を解読すると,時代の流れに伴って契約関係が変化した事が見て取れる。古代社会においては、債権者と債務者の両者間の契約関係が確固として根付いていた。それゆえ、契約違反に際しては厳しい刑罰や、それに代わる等価物の支払いなどの木目細かな約束事があったのである。ところが、近代社会(共同体が大きくなる)になると、共同体を乱す者への残酷なまでの刑罰が無くなるのである。そこでは、個人の違反行為に対する意識が薄れだす。犯罪者にも権利があるのだなどと、犯罪者が法などによって保護される事態に至ったのである。それは近代社会が、人間によって作りだされた法体系を下に、互いに契約関係を結ぶからであろう。つまり近現代以降に作り出された法とは、どの共同体成員の利害をも考慮した「擬似環境」であったのだ。これが約束(法律)を作り出した記憶(近代的意志)の能力であろう。つまりこの近代的意志を支えているものが、人間よって作り出された法であろう。
 ニーチェが健忘と記憶を比較したことで、彼の記憶(近代的意志)に対する批判が見られるように思える。それが古代社会の積極的な健忘という表現に表れているからである。ただし、ここでの疑問としてニーチェは近代性の捨象を望んでいるのかどうかということである。積極的な健忘に表現されるように、近代的意志の破棄は、それを超えようと時に、近代的意志が見出せるからである。つまり記憶も健忘も"能動性"が伴う時点で、結局は近代的意志の延長に陥るのではなかということである。結局ニーチェはこの事に関してどのような見解を持っていたのであろう。

4.古代・先史時代において共同体を支えていた人間関係は、どのようなものですか。また近代において、その人間関係は、どのように変化し、何をもたらすことになったのでしょうか。(参照箇所:第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」4、8〜10、12節)

引用:
・負い目の感情や個人的債務の感情は、すでにわれわれが察したように、その起源をば、およそ存在する限りの最古の最原始的な個人関係のうちに、すなわち売り手と買い手、債権者と債務者という関係のうちにもっている。この関係のうちではじめて個人が個人と相対し、ここではじめて個人が個人と比量しあった。この関係が多少なりとも認められないような程度の文明というものは、まだ発見されてはいない。値段をつける、価値を見積もる、等価物を考え出す、交換する―これら一連のことは、ある意味ではそれが思考そのものであるといってもよいほどにまで、人間の原初の思考を先占していた。・・・人間の特質は、価値を測る存在たることに、<もともと評価する動物>として価値を見積もり評定する存在たることにあったのだ。売買というものは、その心理的な付属物をもあわせて、いかなる社会的な組織形態や結合の始まりよりも一層に古いものである。というよりむしろ、交換・契約・負債・権利・義務・決済などの感情の芽生えは、まず個人権というもっとも初歩的な形態からして、やがてもっとも粗大で原始的な社会複合体(類似の社会複合体と比較してのこと)へと移行したのである。この移行には同時に、権力と権力を比較したり、権力で権力を推し量ったり、見積もったりする習慣の同じような推移がともなっていた。 p.442 第二論文八節
・ ともあれ、先史時代の尺度でもって測るならば、共同体とその成員との関係もまた、債権者と債務者というあの重大な根本関係を本質としている。人はみな一つの共同体の中で生活し、共同体の利便を享受している(おお、何という利便だろう! われわれは今日これを往々にして過小評価するが)。人は保護され、いたわられて、外部の人間すなわち<平和なき者>がさらされているある種の危害や敵意に心悩まされることもなしに、平和と信頼のうちに住んでいる。p.443-444 第二論文9節
・共同体はその権力が強まるにつれて、個人の違犯をもはやそれほど重大視しなくなる。というのも、共同体はもはや個人を以前ほどには全体の存立にとって危険な反乱分子とみなさなくてもよくなるからである。・・・共同体の権力と自己意識が増大するに応じて、刑法もまたその厳しさを和らげる。共同体の権力が弱まり、その危機が深まるにつれて、刑法はまたもや厳酷な形式をとるようになる。債権者は、常に富裕になるにつれて寛仁となった。結局は、債権者がどれほど苦しむことなしに被害に堪えうるかということが、彼の富の尺度とさえなる。p.445 第二論文10節


解答:
 古代社会における人々の怖れは、共同体から切り離された孤独な力を頼みに生きていくことにあった。共同体のうちに生きるとは、平和と信頼のうちに安らうことと同じ意味をもつからである。そこに繋がる人間であれば誰でも、共同体とそれぞれの成員との間に交わされる責務契約に応じた行為の遂行に努め、自分の持ち分が全体のどの位置を占めているのかを把握しようとする。それゆえ、貴族と奴隷の間にある階級差は殊更問題にはならず、果たすべき責務の質を同じ尺度・同じ土俵で計り直す必要はなかった。また責務契約が個人と共同体の相互に浸透する性格である限りでは、古代社会は、個人と共同性を敢えて区別することもなく共存をなしえていたともいえる。たとえ契約違反が秩序を乱す行為として個々人の間に起こったとしても、親が子を罰するのと同様に、(忘却される)怒りを向けるだけにとどまる。従って、古代社会において契約関係が個人を基本にして交わされていた、と評価しても、この個人の意味は、社会構造の変動に関わる意味をなさなかった。
 古代社会を支えていた人間関係に変化が起こるのは、責務契約のうちに量的な価値尺度が組み込まれ、個人が自分の力を測る規準を獲得したことに現れてくる。犯罪者と被害者・売り手と買い手・生産者と消費者とに結ばれる社会関係は、個人の行為と等価になる価値尺度をつくりだし、それを相手と交換するによって実現される。すなわち、社会的諸関係は、個人の行為と等価なものを産みだし、一義的な価値尺度(お金)の中に組み、量化されていく。他方、この責務関係から債務―債権関係への変化は、個に現れる「やましい」「負い目」といった感情を引き起こし、所有でき・交換できる価値物を社会関係の基本となるように記憶として刻み込む。たとえば、刑法における社会関係のあり方は、―すべての違反を何らかの意味で弁償されうるものと見なし、それゆえ少なくともある程度までは犯罪人とその行為とをば切り離そうとする意志―を引き起こしていく。社会には価値尺度を組み込み、個人には欲求充足を促す記憶の構造を焼き付ける。このことにより、近代市民社会における合理的な欲求充足は社会的・個人的レベルの両方にまたがって、その回転を早めていく。

  5.「科学は禁欲主義的理想と同じ基盤に立つものである。」p.197といっていますが、なぜでしょうか。近代科学と禁欲主義の関係にもとづいて説明して下さい。
「禁欲主義的理想は頽敗しつつある、生の防御本能と救治本能から発生する。頽敗する生はあらゆる手段を講じて自己を維持しようと努め、自己生存のために戦う。」(13・p151)
「…科学は今日あらゆる不平、不信、、<自己蔑視>、良心の疚しさの隠れ場所である。−それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみでありしみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学はなんとすべてを覆い隠していることか!」(23・p190)
「否!−この「近代科学」は−諸君、注意してよく見るがよい。−時として禁欲主義理想の最善の盟友である。そしてそれも、最も意識的な、最も無意識的な、最も内密な、最も表立たない盟友であるが故にそうなのだ!彼らは「心の貧しき者たち」とあの理想の科学的敵対者たちとは今日まで同じひとつの芝居をやってきた。…科学のあの有名な勝利、しかし、それは確かに勝利であるに違いないが、しかし何に対する勝利であったか。それは禁欲主義的理想に対する勝利では断じてはなかった。禁欲主義的理想はそのために却って一層強くなった。」(25・p198)
「人間は自己弁明し、説明し、肯定するすべをしらなかった。人間は自己の意義の問題に苦しんだ。彼はそれ以外にも苦しんだ。彼は要するにひとつの病気の動物であった。しかし、その苦しみそのものが彼の問題であったのではない。むしろ何のために苦しむかという問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった。人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりしない。彼はそれを欲する、彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が彼に示されるとすればだ。これまで人類の上に蔓延していたじゅそ呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。―そして禁欲主義的理想は人類にひとつの意義を提供したのだ!」(28・p207)


答え:
 近代科学と禁欲主義の関係にもとづいて説明する前に、まず禁欲主義的理想について述べる。奴隷的価値に見られたのは、「敵が悪い。だから私は善い」という敵に対して憎悪を起こし正当化するルサンチマンであったが、「良心の疚しさ」ではさらにルサンチマンが深くなり(不可視化)、敵に向けられていた憎悪や反感や攻撃本能が生き場所を失って所有者自身に向けられた。
 しかし、それでは負い目や良心の疾しさによって、自分の無価値を確認し、生への意志を失わせてしまうことになる。そこで、その克服に禁欲主義は利用されていくことになる。 
 たとえば、敵でさえも隣人であれば、その人を助けよという禁欲主義的僧侶が説教する「隣人愛」は、決して人々の行為において容易なものではなく、常に多大な苦しみを伴うものである。しかし、その苦しみを他へ転位することを禁じられている。そこで、禁欲主義は、人々に対して、その罪(負い目・良心の疚しさ)を、自分自身に帰せて生きることが、結果的に神の意志にかなう<善い>ことであり救済に到るものだと。
 このようにして、生への意志を失わせずにルサンチマンから罪(負い目。良心の疚しさ)へと形を変えて、持続するように、禁欲主義の上にたつ僧侶が仕向けるのである。
 一方、近代に入るとガリレオの地動説やダーウィンの進化論らにみられる自然科学の新しい知見によってキリスト教の世界像が徐々に覆され、神の「死」という兆候が現れる。つまり、科学はキリスト教理想主義の反対者と認識されるように思われるのだが、ニーチェは実はそうではないと述べている。それはルサンチマンにあらゆる諸価値の根底で受け継がれており、近代科学の時代にはいっても学者、哲学者は理想を信仰する「最後の理想主義者」として禁欲主義的理想を保持している。それは何のために生きるのか(苦しむのか)という問題を自ら設定し、その解答(救済)を求め、そのためには常に絶対的に正しいものを追い求め、それを真理と解釈することなのである(「真理の無条件的意志」)。
 よって、科学と禁欲主義的理想は同じ基盤に立つものとなるのである。

6.「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」p.208 及びp.118 とあります。ここで「無を欲する」という表現を用いニーチェが言いたかったことは何でしょうか。自分の表現に言い換えて説明して下さい(人間と環境との関わりに着目して問題を作成しました)。




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