トーマス・クーン 『科学革命の構造』

[1]「歴史には寓話や年代記以上のものが含まれていると観れば、歴史は現在われわれがもっている科学についての像に決定的な変革を生み出しうるであろう」p.1 とありますが、「科学についての像」とはどのようなものでしょうか。またこれに対して、クーンはどのような論点から批判しているといえますか。

●まず2ページに「しかし、近年にいたって一部の科学史家は、「累積による発展」という科学観にもとづいてやっていけないことにだんだん気が付いた。」「おそらく科学は、個々の発見や発明の累積として発展するものではないのであろう。」とあります。この「累積による発展」が現在われわれが持っている科学についての像」であり、それは、「現在の水準に対する昔の科学者の永久不変の貢献度」によって測られてきましたたが、クーンはその代わりに、「その時代におけるその時代における科学の歴史的な実態を示そうとすること」の必要、具体的には、各時代における科学的研究とそれが属するグループの関係や、その時代において、もっともうまく自然について説明を行ったものはどれだったか、を求めることの必要を言います。
 これまでの科学観は、「歴史のどの時点において、正しい科学的事実が発見、もしくは発明されたか」を見定めようするものでした。これはとりもなおさず、現代のわれわれが持っている科学的知識に適合するか否かで科学史を捉えようとする姿勢につながります。この姿勢に対して、クーンは、「各時代においてなされた研究はそれぞれ正しいものであると認識されて行われた」とみなすべきだとします。そうして、これら科学的研究と、それが導出された背景との関係について、この後述べられてゆきます。

[2]通常科学が形成されるのは、どのようなユニークさをパラダイムがもつためでしょうか。また、自然科学のどのような状態と比べて、前例のないユニークさといえるのでしょう?

●通常科学を形成するパラダイムが、科学者に対し与えるのは、答えが前提されている問題と方法における一定の規準である。そのため、与えられた問題設定と方法基準の枠内では、一つの自然現象を扱ったとしても、人によって異なることなく、現象解釈は同じものに保たれる。すなわち、通常科学は、認識の鋳型にはまる現象だけを取り扱い、設定された認識枠にはまらない現象は、見落とすように作り上げられている。だから「科学によって窮めつくすことのできないような存在はこの世にはない」ということができる。そして、科学者は、問題を解くための現象解釈と理論について、共通の所信をもち、一つのパラダイムに集団として結びつけられる。これらの点を通常科学を形成するパラダイムのもつユニークな性格として挙げることができる。
 通常科学(近代自然科学)が、ユニークな性格をもつことは、歴史のうちに、近代自然科学とは異なる科学観を挙げ、比較することにより明確になる。
 古代及び中世の科学観によれば、一つの自然現象を見ても、多様な現象解釈を共存させることが可能であった。そのため複数のパラダイムが相対立することが受け入れられ、相互の現象理解の違いは、他のパラダイムを克服するものとして存在しなかった。また学者同士の行き来も、複数のパラダイムにわたってなされ、解けない問題はさらに研究を要するものとして置かれていた。

【引用】他の対立競争する科学研究活動を捨てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさをもっていたからであり、今ひとつにはその業績を中心として再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれているからである。p.12-13

【引用】古代から17世紀の末までは、光の本性について一般に受け入れられた唯一の見解というものは存在しなかった。そのかわり、エピキュロス派、アリストテレス派、プラトン派の理論などのいろいろな変形が多数あって、相対立していた。・・・自説にうまく合わない他の観測には、その場限りの説明が与えられるか、さらに研究を要するものとして放置されていた。p.15

【引用】科学の発展の初期にあっては、同じ領域の現象を見ても全く同一の特定の現象を見ることは、普通ないし、人によって違ったように叙述し、解釈するのは不思議ではない。驚くべきことはむしろ、われわれが科学と呼ぶような分野では、そのような出発点での違いがほとんどなくなっていることで、これはおそらくかなり科学にユニークな点であろう。・・・手に負えない不完全な情報のプールのなかで、自己の所信と先入観に合う、ある特別の部分だけを強調する。p.20

【引用】通常科学の目的には、新しい種類の現象を引き出すことは含まれていない。鋳型にはまらないものは、全く見落とされてしまう。科学者は普通、新しい理論を発明しようと目指しているのではなくて、ただ他人が発明したものに満足できないのである。むしろ通常科学的研究では、パラダイムによってすでに与えられている現象や理論を磨き上げる方向に向かう。p.28

[3]通常科学における研究は、「事実の測定・事実と理論の調和・理論の整備」p.38 の三つの仕事にわたってなされます。これらは何を目的としてなされるのでしょうか。そして、その目的は、どのような方法により達成されるのでしょうか。

●27ページに「通常科学とは・・・・パラダイムによって明らかにされる事実とパラダイムによる予測との一致の度合いの増大、そしてさらに、パラダイム自体の整備の過程である。」とあります。具体的には、たとえば34ページ四行目に、「その目的とするところは、パラダイムの新しい応用を示すか、すでになされてきた応用の精度を増すことにある。」と述べられています。「パラダイムから導き出される個々の研究は、パラダイムのより広い範囲への応用、整備、精度をあげることなどをとおして、結果としては、自身の拠って立つパラダイムのさらなる強化へと向かいます。これらは、自らの拠って立つ(決して、自らの所有する、ではありません)パラダイムが、いかに自然現象について、うまく説明するか、を示そうとするのですから、27から28ページにかけてあるように、「パラダイムが支える鋳型に自然を嵌め込む」作業になります。これが、パラダイムの強化、整備のされかたです。
 「パズル解き」としての通常科学について 「パズル」であるための規準として、ルールと解答を持つことが挙げられており、クーンは通常科学をこの「パズル」を解く作業になぞらえます。パラダイムによって用意されたルールを用い、そのパラダイムにおいて予測される解答を得ることが、パズル解きとしての通常科学であり、ルールと解答の変更を含んで、さらなるパラダイムの強化を図ります。

[4]クーンは、「しっかりしたルールの体系がないのなら、特定の通常科学の伝統に科学者を結びつけるものは、いったい何であろうか」p.50 と問題提起していますがその答えを説明してください。

●この問題を「科学者の問題意識の持つ志向はいかにして形成されるか、と言い換えてみます。ヴィトゲンシュタインの議論の例に、われわれは、多数の「ゲーム」や「椅子」や「木の葉」などの、それぞれの部類のすべての固体に、しかも、その部類のすべての固体にのみ当てはまる特性を言うことが、「それが存在しない」ゆえに困難(もしくは不可能)と述べられています。科学者や彼らの個々の研究に関して同様に考えてみると、何らかの明確なルールの統一にしたがって研究がなされるというよりも、これまで業績として評価の定まった科学者の仕事に似るか、それをモデルにするところに共通性が見出せる、と説明されています。ここから二つのことを考えてみます。ひとつは、各科学者は自身の拠って立つパラダイムがいかなるものであるかを基礎付けられるとは限らないということ(53ページ)です。このことは、科学者個人が明確な問題意識、すなわち、「特定の問題やその解答がどうして正当なものかを普通問題にしない」(52ページ)と述べられており、科学者の意識は、具体的なパズル解きやルールに向かうと考えられます。このことをあらわすのが、五章のタイトルであるパラダイムの優先という言葉であり、パラダイムは個々の研究結果やルール(理論や測定値)に優先する、とされる理由です。また、52ページに「科学者は決して概念や法則や理論を抽象的なものとして・・・・むしろこのような知的な道具立てには、科学者は初めからその適用と共に、適用を通して示される歴史的、教育的なセットの中で遭遇するのである。・・・新理論は、常にある具体的な幅を持った自然現象への適用と共に発表される。」とあるように、科学者の研究や教育は、はじめから、自然への適用という方向付けがなされていることが示されています。
 これらを含んで、クーンは、抽象されたものとしての共通のルールや仮定に優先するものとして、パラダイムという語を用いています。
 
[5]変則性とは何か、説明してください。また、変則性の出現をきっかけに、新しいパラダイムが形成されるまでの過程を説明してください。(変則性は、どのような場合に、パラダイム変革に結びつくのか。)

 ●変則性がパラダイム変革に結びつくのは、古いパラダイムにおける現象理解と規準となる概念が同時に変えられた場合に起こりうる。パラダイム変革が起こるためには、新しい現象の発見が必要条件となる。新しい現象の発見は、古いパラダイムにおける現象解釈の鋳型にはまらないことから生じる。ただ、次のパラダイムを担う中心的な発見になるためには、パラダイムに対する問題供給能力が問われる発見でなければならない。そして、このような現象の発見は、他の科学者の実験によって再構成され、結果が予測されることが必要である。そのため、変則性をもたらす発見は、観測と理論の整備に耐えられる性質を備えていなければならず、思いつきや個人の才能により生じる発見ではない。むしろ、専門細分化に向かう通常科学の状況そのものが、一見新しく感じられる発想の転換を呼び込んだ、とも説明されうる。
 このパラダイム革命の過程は、科学だけの閉じられた世界の中で行われるのではない。科学が、専門分化によって引き起こされた危機の状態にあり新旧のパラダイム対立が起こるときには、科学者集団は自分たちが依拠し、問題の価値設定を与えてくれるパラダイムを失う。このとき科学にとって問題になるのは、科学外の価値観であり、実験による検証とそれを導く理論を保証する権威である。特に、古いパラダイムから宗旨替えしようとする科学者集団は、(教科書や実験設備といった)通常科学の制度内で育成されてきたために、新しいパラダイムへの転向は心理的に抑圧を伴う。この抑圧はパラダイム、または集団への同一性に基づくものであり転向は困難を伴う。しかし、むしろ教育・科学的方法・社会的集団にわたる一つのパラダイムからの抑圧が存在するがゆえに、むしろ逆に新しいパラダイムを生み出していく抑圧からの解放エネルギーを科学への情熱と生産的な発展を保つことができた、ともいえる。したがって、科学革命を導いているのは、科学内における変化だけではなく、西洋文明に特殊な思考方法・外的な価値基準ともいえる。
 
【引用】いかなる種類の科学の発展においても、初めパラダイムが受け入れられると、・・・精巧な装置ができ、専門家仲間にしか通用しない用語や特殊な技術を発展さえ、ますます常識とはかけ離れた概念の精密化を要求することになる。このように専門化が進んでくると、一方では科学者の視野を非常に制約することになり、これがパラダイムの変革に対する大きな抵抗となってくる。その科学はますます動脈硬化してくる。p.72-73

【引用】「酸素は発見された」という文章は確かに間違いではないが、ものを発見することは、われわれが日常的に使う、見る、という概念に近い一つの単純な行為である、という誤解を生じる。だからつい、発見が見ることや触れることのように一定の個人、一つの瞬間にはっきりと帰せられるものと考えがちになる。しかし、触れることと発見することは違うし、見ることも発見と同じではない。p.62

【引用】革新的なものは、予測に反するという困難の中から、抵抗を受けながら、やっと現れてくる。・・・変則性に気がつくと、初めから変則的なものが予測されるように、概念のカテゴリーを適応させる努力をする期間が生じる。・・・通常科学は、それ自体革新に導くものではなく、むしろ初めは抑圧するよう努めるものであるが、なぜ革新を引き起こすのに有効に働くかがついに見えはじめる。 p.71-72

【引用】政治革命は既存の制度が禁じる方向に、政治の制度を変えることを目的とする。・・・一度この分極化が起こると、「政治に頼ることは不可能になる」。政治改革を達成し評価を行うべき制度的基盤が違っているのだから、また、革命の差異を判定する超制度的な体系を認めないのなら、革命闘争における各党派は、ついに最後には力を伴う大衆説得の技術に訴える。革命は政治制度の発展に重要な役割をもっているが、その役割は革命が部分的に政治外の、あるいは制度外の事象であることによるのである。p.105-106

【引用】理論を救済するためには、その応用範囲を既に手に入っている実験的証拠で扱える現象や、その観測制度の範囲に限られねばならない。さらに一歩進めて、このような制約は、科学者がまだ観測されていない現象について、「科学的」に論じようとする欲求を禁圧することになる。未知のことでなく現在形でも、科学者は、これまでの理論の扱い方ではまだ前例のないような制度を求めようとする限り、自分の研究で理論に頼ってはいけないことになる。このような抑制、禁止は、論理的には非難の余地はない。しかしその禁止を受け入れれば、研究は終わりになり、科学はもはや発展しなくなる。p.114

[6]自然科学において、パラダイム開発事業の中心をなすデータ解釈は、どのような方法論によって支えられているのか説明してください。

●データ解釈の変容は、データを処理する概念の変化とパラダイム変化を引き起こすが、データとなる自然現象そのものは変化しない。また、科学革命を引き継いで展開される新しいパラダイムにおいても、実験装置や用語は前のパラダイムで用いられたものを使う。このため、データ解釈の変容は、累積的なデータの蓄積によって起こるのではなく、対象理解に違いをもたらす知覚の枠組みが変化することによってもたらされる。
 
【引用】科学者が実験室で行う操作や測定は、経験から「与えられた」ものではなくて、「苦労して集めた」ものである。p.142_ パラダイムで変わるものは、ただ、環境と知覚の道具の性質上、永久に定まっている観測に対して、科学者の解釈が変わるからにすぎない・・・解釈者であるよりもむしろ、新しいパラダイムを抱く科学者は、逆転レンズを付けた人のようなものである。以前と同じ一群の対象に向かい、しかも自分でそうしていることを知っていながら、彼はなおかつその詳細において、徹底的にその対象を変革して見ているのである。p.136-137

【引用】すべての概念や操作のカテゴリーが前もって用意されているとき--たとえば天王星の外にも一つ何か発見しようとか、新しい家を見つけようとか--以外は、科学者も素人も経験の流れから全分野を一緒にして探り出す。・・・パラダイムは同時に広い領域にわたる経験を規定する。しかし、操作的な定義や純粋な観測言語の探求は、経験がこのように規定された後にのみはじまる。p.145-146

[7]自然科学における進歩観に着目しながら、自然科学者と社会科学者の方法論・社会的関係(集団的感覚)の違いについて説明してください。

●一つのパラダイム内においては、解くべきパズルは設定されており、進歩の方向性は示されている。しかし、パラダイム間の変容に着目した場合、近代以降における自然科学の進歩観は、何か究極的な目的に向かっていく進歩の方向性をもたない。つまり科学の営みを視野に入れた場合、自然はどうあるべきか、という問題を含んだ人間の価値観のあり方についての歴史的な評価をもつことが困難になっている。
 これに対して、社会科学の方法論は、問題を選ぶ段階から、社会的な価値観を視野に入れなければならず、社会についての価値評価から逃れることはできない。 ただし、自然科学と社会科学も両者とも人間の知の営みの一環であって、科学者集団の特殊性は、その集団を含む世界観の現れ--知を人間の進化の規準と測り変える試み、と受け止めることができるのではないだろうか。

【引用】個人の創造的仕事が、自分の同業者に対してのみ向けてなされ、仲間内だけで評価されるというような職業集団は、他にはない。最も難解な詩人も、最も抽象的な神学者でも、人の評価など気にしないと言いながらも、自分の創造的な仕事に対する世間一般の評価に対して、実は、科学者よりも気にしているものである。そこに意味深い差異がある。科学者は、彼のもつ価値観と信念を共有する研究者仲間のためにのみ仕事をしているのであるから、彼にとって一つのはっきりした、自明な評価の規準があるのである。科学者は、自分の専門以外の人がどう考えようと気にする必要はないし、だから、俗事を気にせず一つ一つ問題をどしどし片付けてゆくことができる。さらにそれ以上に重要なことは、科学者集団の社会一般からの隔離によって、個々の科学者は自分で解けると思う問題に注意を集中できることである。技術者や医者や神学者と違って、科学者は問題を解く道具立てが揃っていないのに、どうしても緊急に解く必要がある、という種類の問題に手を着けなくてもよい。この点に関しても、自然科学者と社会科学者の差異は目立っている。社会科学者は、自分の研究問題の選び方を弁護しなくてはならないことがよくあるが、自然科学者はそんなことはしない。たとえば社会科学者は、人種差別の効果とか、景気循環の原因とか、主にその解決が社会的に重要な意味があるからといってテーマを選ぶものだが、自然科学者にはそのような圧力はかからない。・・・(歴史、哲学、社会科学では)学生は、将来の世代がやがて解くべきいろいろな種類の問題の存在を知る。さらに、そこから学生はこのような問題には、多数の、対立する、共通の規準のない解答が存在して、結局は自分自身で評価しなければならないことを知らされる。p.184-185

【引用】有史以来いかなる文化も、技術、芸術、宗教、政治構造、法律などをもっている。その文明の諸相は、西洋文明と同じく発展してきたものである。しかし、古典ギリシアの後継者となった文明だけが、科学の萌芽以上のものをもつに至った。科学知識の体系は、最近四世紀のヨーロッパの産物である。他のいかなる場所、いかなる時代においても、科学を生産するこの特殊な集団を養成しなかった。p.187

[8]クーンは、パラダイムに、どのような多義的意味を与えていますか。