思惟からの逃走?

 

 このように、現代における「合理化」とは「計算可能化」の意味として考えることができます。この合理性の力は、近代科学の発達と相互補完的に向上していきます。われわれは、これら二つのものが保証する信任のもとで、安心して「計算」を行います。正しく計算することが、正しく思考することであるとさえ考えます。こうして、われわれの思考は機械化し、単純化していきます。計算とは与えられた公式に、手にした数値を代入する、という行為に象徴されるからです。計算可能性によって構築した世界が有意味な世界なのであり、計算できないものは、無意味なものと解釈され、時にはその存在さえ忘れ去られます。このために、計算することに専心する思考は、独断的な思考に陥る傾向があります。計算する思考は、独断的な思考と互いに手を携えあうものなのです。このような状況を、二十世紀の偉大な哲学者であるハイデガーは 「思惟からの逃走」 と呼んだのでした。現代において、「思惟からの逃走」は、あらゆるところにみられます。広告の問題に、然り。癒しの問題に、然り。

 人は時として現代ほど複雑な思考が必要なことはかつてなかったというかもしれません。しかし、その複雑さは、計算することから離れたゆえに生まれる複雑さではなく、ひとえに現代における「計算」があまりにも広範な分野にわたり、あまりにも高度化しているからにほかなりません。いかに複雑であろうとも、それは単純なものの組み合わせに過ぎないのです。