ホッブズ『リバイアサン』


ホッブズの生きた時代

1. ホッブズの祖国イギリスは、エリザベス1世のもと、統一法によりイギリス国教会(アングリカンチャーチ)を確立
? 国教会の教義:義認説、聖書主義・予定説を採用し、カルヴァン主義に近いが、制度面は、 カソリックに似ていた。
2. ホッブズの生まれる年、イギリスはスペインの無敵艦隊襲来の噂につつまれていた。彼の母は、 その恐怖とともに彼を産んだ。…イギリスは、無敵艦隊を破った。
3. イギリスは東インド会社を設立…植民地戦争

エリザベス一世が没し、テューダー朝が断絶し、フィルマーの王権神授説を信奉するジェームズ1世が即位…

中産階級であるブルジョワジーの台頭が始まっていた

ピューリタン革命:国教を宗教とし、絶対王制をおす特権階級と、ピューリタン(カルヴァン波)で 議会主義をおす中産階級との衝突。

その間も、オランダとの戦争や、国内においては、スコットランド(プレスビテリアン) に国教を強制したことに端を発する反乱やアイルランド征服など、激動の時代であった。

このような時代背景から、彼にとって社会と人間は警戒を要する危険なものであり、 彼が強く望んだのは平和であったと思われる。 そして、彼はその平和への糸口として“国家”を選んだ。

私は、彼のいう自然法、自然権の理論から各人の契約、国家の存在意義等、 (これから詳しくやっていくわけですが)この通りに国家が機能すれば、 今日わたしたちが直面しているような多くの問題、環境問題や犯罪、紛争など、 の解決は不可能ではないと思う。しかし、現実にはこのような国家を成立させることすらままならないのが 現状であると思う。

“リヴァイアサン”を読み、ホッブズの人間観、国家のあり方を理解し、 さらにそれを現在の社会に当てはめ、現実として実践可能なのか、また、不可能だとすれば、 どういった問題があるのかといったことを、考えながらすすめていくことにしよっかな。


リヴァイアサンにおいてホッブズは、国家(リヴァイアサン)の絶対的な構成要素である「人間」の定義 を前提に彼の理論をはじめている。

ホッブズの人間観

第一部「人間について」のなかでホッブズは徹底した唯物論的人間観を示す。 人間は物体であり、その生命は運動である。「人間の心は感覚、思考、思考の連鎖以外の運動は持たない。」 そして「あらゆる思考の資源」は感覚であるが、感覚とは、外的物体の運動がわれわれの感覚器官に 圧力を加える際に、われわれの心に生じる抵抗運動が持つ外向性が想定する外的物体の存在の想像に ほかならない。というのは「運動は運動以外の何ものも生まない」からである。 また思考とは「衰えゆく感覚」としての映像である。この点では人間と動物との間にはたいした差はない。 人間を動物に優越させたものは文字と言葉の発明である。 これらの発明なしには「国家も社会も契約も平和も存在しえなかったであろう」とホッブズは言う。
しかし、運動を生命の証と見る彼は、魂の満ち足りた平安としての至福を否定し、 むしろほんとうの至福とは欲望がある対象からほかの対象へと継続して向けられることであると考える。 したがって、人類の平和な統一ある共同生活に関してもっとも重要な意味をもつ人間一般の基本的傾向は 「より大きな力を求める休みを知らぬ欲望」である。 ところで「ある人の力とは、将来利益になると思われるものを獲得するために彼が現在もっている手段」 であり、それは彼の身体的、精神的な諸能力の優秀性としての本源的な力であるか、 またはそれによって獲得されたり、幸運によってもたらされたりする財産、名声、 友人などのような手段としての道具的な力である。 そして彼がより大きな力を求めるのは、現状に満足できないからではなくて、 現状を維持するためにはより大きな力が必要だからである。
また「各人が彼自身の自然すなわち生命を維持するために、 彼の欲するままに自己の力を用いる自由」がいわゆる自然権にほかならない。 こうしてホッブズの唯物論的人間観から導き出されるのは、 人間の行動を方向付ける原理はもはや宗教や道徳ではなく、 あくまで自己保存とそのための自己の力の拡大であるという考え方である。

引用 「世界の古典名著・総解説」p29 株式会社 自由国民社 1992

第11章「態度(マナーズ)について」p132を見なはれ
  マナーズとは何か、説明せよ。

「人類がともに平和と統一のもとに生きることに関連する人類の諸性質のこと。」
p132

第12章「宗教について」
  宗教の自然的原因は何か、説明せよ。

「すでに起こったことがらや今後起こるであろうことがらにはすべて原因があるということを確信して おれば、人は恐れている悪からは身を守り、求めている善はこれを獲得しようとしてたえず 努力するかぎり、来たるべきときについて不断に憂慮することを避けることはできないからである。」p141

この不安からくる恐怖に対して人は、なんらかの対象を見出そうとする。P141
実体のない「無形の霊」(神)をその対象として作り出す。P142
しかし、その対象が現実の事物にいかに影響するのかがわからないため、 過去に類似した現象からそれに類似した現象が起こることを願う。→原因を過去の現象に求める

宗教の自然的種子
1. 亡霊についての見方p142
2. 原因についての無知p143
3. 人々が恐れるものへの献身p144
4. 偶然のできごとを予告として受け止めることp144

 第13章「人間の自然状態、その至福と悲惨について」
  3.自然状態において「万人の万人に対する戦争状態」が引き起こされる
    論理を説明せよ。
  4.人々を平和へと志向させる物はなんであるか、説明せよ。

 自然状態
 人間の権利に対してなんの契約・拘束力も無い自由な状態(無法状態)
 人間の情念を基本においた状態
 
 ホッブスの人間観
 p133「あらゆる人間に見られる一般的な傾向として死にいたるまでやむことのない
      権力への普段のやみがたい欲求をあげる」
 →人間は力(パワー)を求める
 p154「「自然」は人間を心身の諸能力において平等に作った。」
 →人間とは平等である
 p156「人間はだれしも自己評価と同じ高さの評価を仲間に期待する」
 →人間は虚栄心に満ちている
 p162「意思的行為はだれの場合でも、その目的が自己の利益にあるからである」
 p178「人は誰しも自己の利益という意図なしに他人に与えはしないからである。」
 →人間は自己利益を求め、自己利益を満たすため行動する。
     
 この他にも様々な部分から人間が自己の安全保障を求め、自己利益をたえず追求し、虚栄心に満ち、 競争好きである動物である事がわかる。生命欲、物欲、名誉欲→性悪説

ホッブスの人間観における理性と情念との関係
p159「人々に平和を〜考え出す」
→人間の行動を決めるものは情念であり、それを達成するための手段を生み出すために理性を用いる。


「人間は平等→希望の平等→競争・相互不信→暴力」
  
 
3の答え:人間の能力は平等である故に、彼らの間には希望の平等が生じる。 しかし、その希望が有限であるとき、それを奪い合うこととなり、相互不信が生じる。 従って、自分の安全保証を求ようとする。また、人間は自負の本性から他人の評価を求め、 その為にも相手を支配せねばならない。 つまり、人々は、奪い勝つためにも、自己保証のためにも、自負の為にも、競争が必要であり、 万人の万人による戦争状態に陥るのである。

「相手を自分の資源とみなすようになった」現代というのは万人の万人に対する戦闘状態であると言える。
 現代の規制緩和は、より社会(特に消費システム)を自然状態にし、万人の万人による闘争を 激しくするであろう。時代がそれを求めているのであろうか。

戦争状態→その本質は実際の戦闘行為にあるのではない、争おうとする意思である。

p157 戦争状態における不便
    勤労の占める割合がない。勤労の果実が不確実なため。
    したがって、社会的インフラ、文字、なども存在しない。
    耐えざる恐怖、暴力による死の危険、生存権が確約されない(居食住の確保さえ 
    困難)

4の答え:人々は、死の恐怖・快適な生活への意欲、つまり、生への欲求・物欲という情念によって 平和を求めることとなる。
                     
ディスカッションテーマ

 1.ホッブスの考える人間観への批判・批評(賛成でもいいです。)をして下さい。
   それを考えた上で自然状態において「万人の万人に対する闘争」が本当に起こりう
   るのか、を考えてください。

  人間は自己保存・自己利益を最優先し、強い虚栄心を持つ生き物である。 このホッブスの人間観は正しいのだろうか? 確かに、自分の行動を観察してみると自己利益を常に求めている。 自分の親切も根本は自己利益の追求に有ると考えざる得ない。 いやいや、自分は強い倫理観がある。僕はそんな人間ではない。 そうも考えたが、この倫理観はどこから来たのであろう。 倫理観もホッブスのいう契約から生まれたのではないであろうか。 僕の本能的な部分はあくまでホッブスのいう人間なのであろう、やはり、、、。 ホッブスもいうように人間のそのような意欲や情念は決してそれじたい罪ではない、 それを如何に律するかという事が大切である。それはその通りかもしれない。 が、感情的になりやすい自分にはそれが、侘しく感じてしまう。 また、そのような人間観では韓国人など説明がつかない。 性善説の方が僕は主観的にそうであってほしいなぁとかんじてしまう。
 
 第14章「第1、第2の自然法と契約について」
 第15章「他の自然法について」
  5.第1、第2の自然法について説明せよ。
  6.契約とは何か、なぜ必要か、また、契約の履行を強いる物は何か、説明せよ。

 p159
  自然権とは…各人が自分自身の生命を維持するために自分の力を使える自由。
        各人の理性によって手段を選べ得る。生きる権利・現代版生存権
        生存あたまえ。
 p160
  自然法とは…理性により(情念ではない)発見された戒万人の万人の闘争から逃れる
        ための律・法則。
        これにより人は生命を破壊したり、生命維持の手段を奪い去るような事
        がらを行ったり、生命を維持する手段を怠ったりする事が禁じられる。
        簡単に言えば、「人にされて嫌なことは人にするな」という法則。

  「権利」…ある行為をおこなうかどうかの自由 自由
  「法」 …どちらかに決定、拘束する物    義務

p160
5の答え:第一の法則では、「平和を求めそれに努力すべきである」という最も基本的な自然法と、 「可能なあらゆる方法によって自分自身を守れ」という自然権の要約からできている。 次の第2の法則では平和実現のための具体的な義務が提示される。 それとは、すなわち、相互間における全面的な権利の放棄である。 (その他の自然法では、「正義」「報恩」「謙虚」「公平」「慈悲」などの義務を提示している。)

p163            
6の答え:「契約」とは、権利の相互譲渡のことであり、万人の万人による闘争状態から抜け出し、 人々の安全保証を実現するために必要となる。
 このような契約の履行を強制させる物とは、その契約を破棄したときに生じる処罰の恐怖である。
 


正義:有効な契約を守る事
不正義:有効な契約を破る事
→契約のない状態での行為に不正は存在しない

 自然法=道徳哲学
     「善」「悪」とは何かを追及することができる。
     真理:平和こそ善である。その手段も当然善である。

 ホッブスの人間観に対する個人的感想(感情論です)

  人間観は自然観に反映されると言います。そうであるのならば、ホッブスの人間観 (自己保障・物欲・名誉欲)を持った人間が、自然環境を自分たちの資源とみなしたのは 必然的であったように思われます。もし、ホッブスの人間観が正しかったら自然環境を 保護して行くことが可能でしょうか。少なくともディープエコロジー(環境のための環境保護) という概念は存在しなくなるでしょう。あくまで人間のための環境保全にすぎません。 もちろん、人間のための環境保全で何が悪い!!という気もしますが、僕的にはやはり、 なんとも侘しい感覚に襲われます。在日韓国人の勇気ある行動・マザーテレサ・ガンジーの行動、 人間にはやはり、人類を愛しい、自然を愛しいという気持ちが心のどこかに存在しているのではなかろうか、 あってほしい、と感じてしまいます。

 ホッブスの人間観とあなたの人間観を比較してみて下さい。
 人間とはどのような動物なのでしょう???
 それは、人間が「何処から来たのか??」「何処へ行くのか??」という
 問題の解答を導いてくれるでしょう。
第2部「コモンウェルスについて」

[5] 第17章「コモンウエルスの目的、生成、定義について」
− コモンウエルスとは何か、どのような力を持っているか、説明せよ。

P196コモンウェルスの定義
 「一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛 のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼らの各人をその(行為の) 本人とすることである。」

P195,196 コモンウェルスの持つ力
 「人々が外的の侵入から、あるいは相互の権利侵害から身を守り、そして自らの労働と大地 から得る収穫によって自分自身を養い、快適な生活をおくってゆくことを可能にする」

…では、何故コモンウェルスは必要なのか
 コモンウェルスの持つ力を見てわかるように、コモンウェルスなしには外的の侵入、 相互の権利侵害から身を守り、自らの労働と大地から得る収穫によって自分自身を養い、 快適な生活をおくってゆくことができない、安全保障がままならないからである。
 確かに、前回取り扱ったように、人間には各人の各人に対する戦争状態を抜け出し、 生き抜くための理性による戒律ないし一般法則、正義、公平、謙虚、慈悲などつまり自然法が存在するはずである。
 しかし、ホッブズは、この自然法は何かに対する恐怖なしには守られず、安全保障は得られないとする。 コモンウェルスという概念がなければ、人間はすべて他人に対する警戒心から自分の安全を自分自身の力 を技能に頼ることになる。そして、略奪し強奪しあうことが人間の生業という状態になってしまう。 また、少数の団結、統合なき団結、一時的な団結でも安全保障はえられず、結局は自然法を無視しての各人 の各人に対する戦争状態になってしまう。
 したがって、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に集結できるよう、 一個人あるいは合議体に彼らの持つあらゆる力を強さとを譲り渡して「公共的な権力」、 つまりコモンウェルスをつくりだし、それが人々に自然法を遵守させるような強制力をあたえ、 平和と防衛を保障してもらう必要があるのである。
参考箇所
P192下段7行目〜P196下段2行目



[6] 第18章「設立された主権者の権利について」
− 国民にとって主権者とは何物であるか、説明せよ。主権の宣言に対して、少数派(反対派)はどのような立場であるべきか、説明せよ。

国民にとっての主権者
 国民にとって主権者とは、彼ら(国民)が相互契約によって成立させたコモンウェルスの人格を担う合議体または個人である。国民の相互契約においては、国民の安全保障のために国民各人の人格、権利、意志が主権者に譲り渡されている。したがって、主権者は国民各人が個別に安全保証のために行動して混乱を招かないための、国民の人格・権利・意志の代行者といえる。
参照箇所
P197上段2行目
 そして、この人格を担うものが≪主権者≫とよばれ、[主権]を持つといわれる。そして彼以外のすべての者は、彼の≪国民≫である。
P197下段5行目
 「多数」の人々の合意および「各人相互の契約」によって、すべての人々の人格を「表す」[「代表者」としての]「権利」が、ある「一個人」または「合議体」に多数決によって与えられて、その人間または合議体に「賛成投票」した者も「反対投票」した者もすべて等しく彼の行為と判断を、あたかも自分自身のそれであるがごとく「承認」し、そうすることによってたがいに平和に暮らし、他の人々から保護してもらうことを目的としたときである。

主権の宣言に対して、少数派(反対派)はどのような立場であるべきか
 多数の者が同意して主権を宣言した以上、反対した者も、他のものに同意しなければならない。(P200 L1~4)というのは、かりに彼がみずからの自由意志で集会に参加したのであれば、それは多数者の決定を守る意志を十分示した(したがって暗黙のうちに契約した)とされるから。(同L8〜11)
参照箇所
P200 「三、大多数によって宣言された主権の設立に対して抗議することは不正である」より

[7] 第19章「設立によるコモンウエェルスの種類と主権の継承」
− 主権はどのようにして継承されるべきであるか、説明せよ。
 民主制の場合には、統治される多数者がなくならない限り、合議体がなくなることもありえず、継承問題も起こらない。貴族制の場合には、合議体のなかのだれかが死亡したときには、かわりのものの選挙を主権者である合議体で行う。君主制の場合には、その主権者に継承者の任命権は委ねられており、主権者の死亡などで主権者がだれを継承者に任命したか明らかでなくなったばあいは、その主権者のことば、意志、慣習、情愛などから正確な理性の働きをもって推測されるべきである。
参考箇所
P216上段2行目〜P218上段5行目

[8] 第20章「父権的および専制的支配について」− 君主制のような主権者の無制限の権力に対して、ホッブスはどのような見解を持っているか、説明せよ。
 無制限の権力からは国民にとって多くの望ましくない結果が生まれる可能性がある。しかし、それがないところ、つまり、服従―被服従という契約のないところから生じる結果(万人の万人に対する闘争状態)を妨げられるというメリットを考えれば、無制限の権力による不都合などささいなことであり、さして重要でない。つまり、主権者の権利は絶対的でなければならないのである。


[9] 第21章「国民の自由について」− 国民の自由とはどのようなものか、説明せよ。
 国民の自由とは、権力者が制定した法において不問にされた部分の行為に対して、彼の理性によって自由に判断できることである。


[10] 第22章「公的および私的、従属団体について」− 政治体の代表者はどのような権利を有しているか説明せよ。
 従属団体、そして政治体とはコモンウェルスの筋肉組織のようなものであり、地方諸州、植民地、都市の統治などの役割を負い、その遂行の権限を有する。しかし、その代表者の権利は主権者によって制限される。また代表者は公開証書にのっとった目的のみ遂行する権限を有する。




[11] 第26章「市民法について」− 市民法とはなにか、また、「市民法と自然法は等しい範囲のものである」(p166)とあるがどういう意味か、説明せよ。

 市民法とはなにか
 市民法は「臣民各人に対する規則であって、その規則とは、コモンウェルスが、語や書面やその他の十分な意志のしるしによって、かれに命令したものであり、それは正邪の区別、すなわち何がその規則に反し、何が反しないのかの区別に、利用するためのものである。」     (岩波文庫を使用 2巻P164 L3〜6 世界の名著:P277下段L14~17)

「市民法と自然法は等しい範囲のものである」(岩波文庫:p166 世界の名著:P279下段L16「自然法と市民法とは相互に相手を含んでいる」)とはどういう意味か
 自然法とはまったくの自然状態において人々を平和と従順に向かわせる諸性質(公正、正義、報恩)であり、一方市民法は、それら諸性質がコモンウェルスのなかで主権者権力によって制度化・明文化されたものである。

[12] 第27章「犯罪、冤罪、罪の軽減について」
− 罪と犯罪ではどこが違うか、説明せよ。
罪:法によって禁止されたファクト事実〔行為〕の遂行Commissionや語の発言、または方が命じることのい回避Omissionにだけでなく、侵犯する意図すなわちパーパス決意にも、存しうる。
(岩波文庫:P200L3,4 世界の名著:P301上段L5~8)
犯罪:犯罪CRIMEはひとつの罪であって、それは、法が禁止するところの(行為または語による)遂行、あるいは法が命じているところの回避に存する。
(岩波文庫:P201L3,4 世界の名著:P301下段L17~20)
 以上、罪と犯罪についての記述を比較すると、罪とは違法行為を決意した時点で成立し、一方、犯罪は実行した時点で成立するという違いがある。

[13] 第29章「コモンウェルスを弱め、解体させることがらについて」
− コモンウェルスを解体させることがらは何か、示せ。
・ 絶対権力の欠如       
・ 善悪の私的判断       
・ 誤った良心         
・ 霊感をうけたと称すること  
・ 主権者権力の市民法への臣従 
・ 臣民たちに絶対的所有権を帰属させること
・ 主権者権力の分割    
・ 隣接諸国民の模倣
・ ギリシャ人やローマ人の模倣―最も多い原因のひとつ
・混合統治
・貨幣の欠乏
・諸独占、および収税人の悪用
・ 人気のある人々
・ ある都市が多すぎ、組合が多すぎること
・ 主権者権力に対して論争する自由
領土拡大欲求とそれに伴う国家の疲弊、
統一されない征服地、安逸、暴動とそれに伴う出費 
・ 戦争における完膚なきまでの敗北

[14] 第31章「自然による神の王国について」
− 主権者と神の王国での主権者(神)では、その生成過程にどのような違いがあるか説明せよ。
P361神の主権の権利はその全能制に由来する
(コモンウェルスにおける)主権者は、万人の万人に対する闘争状態に陥るために自然権の行使が不可 能になる人々が相互に協約することから生まれる。その一方、神の国においては神には誰にも逆らい得 ぬ力を持っているのであり、したがって、その力によって自然権を行使しても闘争状態には陥らずに 、万人を支配することが可能であり主権者となることができるのである。
第三部、第四部はリヴァイアサンのなかでも特に扱いにくいところだと考えています。笠松からもありましたように、ホッブズが無神論者であるというレッテルを張られることを避けるために第三部、第四部を書いたという説は確かにあります。当時の時代背景、政治的状況を考えるとその考え方も一理あるとおもわれます。しかし、ここではそういう時代だからこそ、逆にホッブズはキリスト教的な考えかたなしに近代的な契約国家論を論じることができなかったのではないかと考えてみることもできると思います。つまり、第一部、第二部において展開される論理のベースにはキリスト教的な論理が存在し、それを頼りに契約国家論を展開していると考えるのです。
ここでは、「預言者→聖書→教会→キリスト」と言う順で問いを進めていき、第一部、第二部にもすこし立ち返りながら、その論理展開を追っていきたいと思っています。




第五章
これの少し前くらいから、言葉や思考の可算性が説かれている。(P82)これが幾何学に基礎をおき(P86)スコラ学派を嫌っていることを示していることは明白である。(スコラ学派についての批判はたびたびでてくるが、P86に顕著である)科学としての政治学を展開するのに数学のような論理展開を必要とした。そのためにまず、語の定義から厳密に行う必要があった。そしてこれと緊張関係にあるのが第三部・第四部にあるキリスト教的な論理展開である。

P95宗教、迷信、真の宗教
頭で仮想されたり物語から想像されたりした目に見えぬ力に対する「恐怖」は、公然と認められている場合は、《宗教》である。認められていない場合は《迷信》である。想像された力が真実私たちが想像しているようなものであれば、それは《真の宗教》である。




第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」
まったくの自然状態は無政府状態であり、戦争状態である。その状態を避けるために人々が導かれる戒律は自然法である。主権者権力を伴わないコモンウェルスは、実体のないことばにすぎず、存立し得ない。国民は、その服従が神の法に反しないかぎり、全てのことがらにおいて、主権者に単純に服従すべきである。(P359参照)



・ 第32章「キリスト教的政治原理について」
18. 『聖書』にいう真の預言者のしるしとはなにか。(P378)

答:第一に、神によって確立された宗教を教え、第二に、目前に奇跡を示すこと。(P378)
→奇跡も預言者もない場合、聖書がそれにとって変わり、神や人間の規則等について演繹することができる。(P379参照)

参考:あらゆる生活規範は、人がそれらを守るよう良心を拘束されるかぎりすべて法であるから、けっきょく『聖書』の問題とは、キリスト教世界全体にわたって何が自然法であり、また市民法であるかの問題である。 (P379)
したがって私は、私たちが現在持っている旧約および新約が、預言者たちや使徒たちによっていわれ行われたことがらの、真の記録であることを疑うべきなんの理由も持っていない。(P388)→ホッブズの聖書にたいする疑いようのなさが示されている。



・ 第33章「『聖書』諸篇の数、時代、意図、権威およびその解釈者たちについて」
19.  どのような権威によって『聖書』は法とされるか、説明せよ。(P390)

答:主権者の権威による。

『聖書』は、それが自然法と異ならないかぎり神の法にほかならないことは当然である。(P390)

法の本質は文字ではなく、その意図や意味、すなわち法の真正な解釈〔つまり立法者の意向〕にあるからである。したがってすべての法の解釈は、主権者に依存しており、その解釈者は、〔国民が服従の義務を負う唯一の存在である〕主権者が任命する人々以外にはありえない。(P286-P287)

成文、不文を問わずいっさいの法は解釈を必要とする。不文の自然法は、えこひいきや情念にとらわれずに正しく自然理性を用いる人々にとってはなんら解釈に困難はなく、したがって侵犯者に少しの言い逃れも許さない。(P287)



・第35章「『聖書』における神の王国、ホウリィ、セイクリッド、サクラメントの意味」
20.  神の王国とはなにか、説明せよ。(P402)

まず、神の王国における臣民とはだれか。
世界を支配し、また人類に戒律を与え、報酬と処罰をたまわった神の存在を信ずる者だけが、神の臣民であり、他はすべて敵として解されるべきである。(P360)
次に、神の王国には二重性がある。
「自然的王国」と「予言的王国」
自然的王国において、神はその摂理を認めるかぎりの多くの人類を、正しい理性の自然的命令によって支配する。また予言的王国においては、ある特定の一国民〔すなわちユダヤ人〕を彼の臣民として選び出し、自然理性だけでなく、聖なる預言者の口を通じて彼らに与えた実定法によって、彼らを、そして彼らだけを支配した。(P360-P361)
第二部では自然的王国についてのみ語られている。ここでは、神の法とは自然法であり、(p368)人々は、個人的に祈るだけでなく、人前や公共の場でも最大の畏敬の念をもって神を崇拝する。崇敬のしるしとはそれを発する当人のためではなく、それがなされる相手方、つまりそれを見る人に対するものだからである。(P364)

ここからは予言的王国の歴史と自然的王国のあるべき姿に関する引用。
「しかし神の王国が神の王政の意に取られることは決してない。すなわち、人民の同意によって神が人民に対して絶対権を持つ王国と解されることは決してない。しかしこれこそ王国の本来の意味である。」(p402)
「『神の王国』とは本来〔その臣民となるべき人々の同意によって〕その政治的統治のために設立されたコモンウェルスのことである。それは彼らの王である神にたしてだけではなく、正義のためにおたがいにたいして、また戦争と平和を問わず他の諸国民にたいして、彼らのあらゆる行動を規制するためのものである。それは本来、神が王であり、〔モーセの死後は〕司祭長が彼の唯一の副王ないしは代理者となることを定められた王国のことである。」(p405)
「ここから明らかなのは、神自身がそのとき王であり、サムエル自身が人民に命令したのではなく、神がときどき彼に命令したことを彼らに伝達したに過ぎないと言うことである。」(p406)
「これらによってみても、神の王国は現実のものであり、比喩的なものではない。」
「要するに、『神の王国』とは地上における『現世的王国』(シヴィル・キングダム)である。それは最初、イスラエルの民が、モーセによってシナイ山からもたらされた法をまもることにあった。そののちしばらくのあいだは、司祭長が『至聖の場』のケルビンの前から、この法を伝達したのであった。ついでこの国王が、サウルを選ぶことによって投げ捨てられると、それがキリストによって復興されるであろうことを預言者たちは告げたのである。」(p407)

救世主が、「わが王国はこの世のものではない」〔ヨハネ福音書18・36〕(P454)

『聖書』は二つの世界にしか言及していない。一つは現在し、また審判の日まで続くであろう世界、他の一つは審判の日ののちに、新しい天と地とが生まれるときに存在するであろう世界である。(P454)

すなわち救世主は、来たるべき世界において王となり裁判官となるためにこの世に来た。(P454)

答:ホッブズにとって神の国とは(サウルを選ぶことによって神の国が失われる以前は)比喩的な意味ではないものだったうえ、現実のものであり、それは神によって選ばれし者を通して行われる政治であった。しかし、ホッブズの生きた時代(現代もそうだが)は救世主の再来までなんとか切り抜けなければならない時代(p373)であり、神の国は現実のものではない。

ここでホッブズは神の王国というフィクションをもちだすことで、自然法や、諸権利に歴史的な権威、共同体としての権威を与えたと考えられる。しかし、こうした裏付けは、背景にキリスト教社会がないと成立しないことは明白で、ホッブズはそのためにキリスト教による単一宗教支配、思想統制を行おうとしていたように思われる。
これは思想統制が良いか悪いかという問題ではなく、彼の生きた時代、国家の至上命題として掲げられた戦争状態からの脱却、平和のバックグラウンドにキリスト教による思想の統一が必要だったことを認識することが重要である。なぜなら、現代、我々の生きる時代、日本を含む先進諸国の至上命題は何か、またそのバックグラウンドにはいったいなにが潜んでいるのかを見極める必要があるからである。
たとえば、日本国内において小泉氏が総理になれたのはなぜか。国内産業の経済的な安定、発展がその目標にあるならば、そう我々をさせしめている思想は何か。
また、現在、国という境を越えて環境問題が取り立たされているが、そう我々をさせしめている思想はなにか。などである。




・第37章「奇跡とその効用について」
21.  奇跡の定義を述べよ。(P417)

答:「《奇跡》とは、〔創造のときに定められた自然の方法によるはたらきとはべつに、〕選ばれた人たちにたいして、救済のための特別の代行者の使命を明らかに知らせるために行われる神の業である」(P417)



・ 第40章「アブラハム、モーセ、祭司長たち、ユダの王たちにおける神の王国の
諸権利」 
22.  教会の定義を述べよ。(P438)

答:「キリスト教の信仰を告白する者たちが、ひとりの主権者のもとに結合し、彼の命令によって集まり、彼の権限なしには集まるべきでない一つの団体」である。(P438)


・第41章「祝福された救世主の職務について」
23.  キリストの3つの職務を述べよ。(P452)

答:第一は「あがない者」または「救世者」、第二は「牧者」「忠告者」あるいは「教師」(中略)そして第三は、「王」「永遠の王」としての職務(P452)



第4部「暗黒の王国について」

第44章「『聖書』の誤った解釈からくる霊的暗礁について」
24.  暗黒の王国とは何か、説明せよ。(P490)

答:「この世の人々にたいして支配を獲得するために、誤りに満ちた暗黒の教義によって、人々のなかにある自然の光と福音の光を消し去り、その結果、彼らが来たるべき神の王国に入れないようにする詐欺師たちの連合体」である。(P490)


第47章「こうした暗黒から生ずる利益について、およびそれはだれに帰属するの
か」
25.  霊的暗黒の真の張本人とは誰か、示せ。(P505)
                            

答:それは法王、ローマの聖職者たち、そしてさらに人々の心のなかに、現在の地上の教会こそ、
新約、旧約に述べられている神の王国であるという誤った教義を植えつけようと努力しているすべて
の人々である。(P505)




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