ニーチェ『道徳の系譜』


第一論文「善と悪」・「よいとわるい」

序言
「われわれはわれわれに知られていない。」(P7)「われわれに対しては、われわれは決して『認識者』ではないのだ%%%」(P8) から序文は始まる。我々について未知であることとして、この図書では、道徳的先入観の由来について語られることになる。 そしてこれは、「人間はいかなる条件のものに善悪というあの価値判断を案出したか。そしてそれらの価値判断そのものはいかなる価値を有するか。」(P11) が問題となる。特に「『非利己的なもの』の価値、すなわち同情・自制・献身などの本能の価値如何ということ」に問題があったが、 「これらの本能こそはショーペンハウァーがあれほど長い間かかって鍍金(ときん)し、神聖化し、彼岸化した挙句、ついに『価値自体』として残すにいたったもので 、彼はこの基礎に立って生に対し、更に自己自身に対してすら否を言ったのであった。」(P13) が、「われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とされるべきである」(P15)
また、「−この論文の冒頭には一つの箴言が掲げられてあり、論文そのものはそれの註解である。 勿論、そういう風に技術としての読み方を稽古するには、何よりもまず、今日においてこそ最も忘れられている ―そしてそれだから私の著作が『読みうる』ようになるまでにはまだ年月を要する―一つのことが必要だ。 ―そのためには諸君はほとんど牛にならなければならない。 そしていずれにしても『近代人』であってはならない。その一つの事というのは―反芻することだ%%%」(P18)

第一論文
1.-A:イギリス心理学者(道徳史家)によると「よい」の概念や判断の由来とはどのようなものか。

イギリス心理学者によると「よい」<グート>の「評価の土台」として「功利」・「忘却」・「習慣」・「誤謬」が挙げられる。
功利:「もともと非利己的な行為は、それを示され、従ってそれによって利益を受けた人々の側から賞賛され、『よい』と呼ばれた。」
忘却:「後にはこの起源が忘れられ、」
習慣:「そして非利己的な行為はただ習慣的に常に『よい』として賞賛されたというだけの理由で、実際また『よい』と感じられるようになった」
誤謬:「―あたかもその行為がそれ自体として『よい』ものででもあるかの如くに」
(以上全てP22)

1.-B:これに対しニーチェはなんと反論しているか。
「『よい』という言葉は、」「『非利己的な』行為と初めから必然に結びついているわけでは断じてない。」 「あの高貴と距離との感じ、」―「上位の支配者種族が下位の種族、すなわち『下層者』に対してもつあの持続的・支配的な全体感情と根本感情 ―これが『よい・グート』と『わるい・シュレヒト』との対立の起源なのだ。」(P23)
「道徳的」、「非利己的」「《没利的・デザンテレセ》」(P23)これらを「等価概念と見る先入見が、」 「固定概念」(P24)となるのは「貴族的価値判断の没落によって初めて起こることなのである。」(P23)
さらに「功利」「忘却」に焦点を絞ってみていくと、「功利」は「いつも変わらぬ日常の経験であり、従って不断に新しく強調されてきているのだ。 してみると、それは意識から消失するかわりに、つまり忘れられるかわりにますますはっきりと意識に刻みつけられなくてはならなかった。」(P24) という点で、イギリス心理学者に反論できる。 また、ニーチェは「スペンサーによれば、」(P24)「この説明法もまた間違っている」(P25)が、 イギリス心理学者の説とは異なる説明方法でも「筋が通」り、「心理学的にも支持されうる」(P25)ものを提供することができるとし、 それは「『よい』という概念は『功利的』とか『合目的的』という概念と本質的に同一視されるべきものであり、 従って人類は、功利的・合目的的なものについての、および反功利的・反合目的的なものについての、 彼らの忘れられない、また忘れえない経験を『よい』および『わるい』という判断においてそれぞれ総括し決裁した、という」(P24)ものである。

2.4節より:さまざまな言語における「よい」の語源学的な意味を説明せよ。

ニーチェは「『よい』という概念に対する様々な言語で鋳出された表示が、語源学的に見て、」 「いずれも同一の概念変化に還元される」ということを発見した。 それは「どこにおいても身分上の意味での『貴族的な』とか『高貴な』とかが基本概念であって、 それからして必然に、精神的に『貴族的な』『高貴な』という意味での、『精神的に高い天性をもった』 とか『精神的に特権をもった』とかいう意味での『よい・グート』が発展してくる。しかもこの発展は、 『卑俗な』だの『賤民的な』だの『低劣な』だのを結局『わるい・シュレヒト』という概念に 移行させてしまうあのもう一つの発展と常に平行する。」(P25)

3.僧職的評価様式と騎士的・貴族的評価様式をそれぞれ説明せよ。(7節)

「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、 泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、 すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な行動を含むすべてのものである。」(P31 )すなわち「貴族的評価方程式(よい=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)」(P32) というように表される。
「僧侶的民族」である「ユダヤ人」は「歯軋りをしながらこの逆倒を固持したのだった。 曰く、『惨めなる者のみが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、 乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、 彼らのためにのみ至福はある。―これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、 汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、淫逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。 汝らはまた永遠に救われざるもの、呪われたる者、罰せられたる者であろう!』と%%%」(P32-P33) すなわち僧侶的評価方程式(よい=卑しい=力なき=醜い=悩める=敬虔なる者=唯一の神に幸いなる者 )というように表される。

4.ルサンティマンとはなにか。(10節)

ここでの「《反感・ルサンチマン》」とは、「行動上の《反動》」ではなく、 「想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《反感》である。」 「全ての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』、『他のもの』、 『自己でないもの』を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ 。評価眼のこの逆倒―自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的な方向―これそこはまさしく《反感》の本性である。」(P37) ここで奴隷道徳は僧侶的評価方式と呼応することを付け加える。 翻って「貴族的人間自身の《反感》は、もし現われても、その直後に続く反動の中ではらされ、 また消されてしまうから、従って毒害を及ぼさない。」(P39) これは貴族的人間にとって敵が彼の自己確立(彼が善であるということの証明) にとって必要不可欠なものでないことを意味する。 「これに反して、《反感》をもった人間(僧侶的評価方式の人間:藤田の挿入)の構想する『敵』を考えてみるがよい。 −そしてここにこそ彼の行為があり、彼の創造があるのだ。 彼はまず『悪い敵』を、すなわち『悪人』を考想する。 しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、 さらにもう一つ『善人』を案出する―これが自分自身なのだ!%%%」(P40)
交響詩『エアマナリヒ』の謎

5.この対立した価値とは何か、それぞれ説明せよ。(16節)
「よいとわるい:グートとシュレヒト」(騎士的・貴族的評価様式)と「善と悪:グートとベーゼ」(僧職的評価様式)の対立。
「よいとわるい:グートとシュレヒト」(騎士的・貴族的評価様式): 「『よい・グート』という根本概念を予め自発的に―すなわち自分自身から―考想し、 そこから初めて『わるい・シュレヒト』という観念を創り出す」(P41)よってここでの 「わるい・シュレヒト」は「模造品であり、付録であり、補色である」(P41)
「善と悪:グートとベーゼ」(僧職的評価様式):「不満な憎悪の醸造釜から出た」 「悪い・ベーゼ」は「原物であり、始原であり、奴隷道徳の考想における本来の行為である。」(P41 )

また、貴族的評価方式の「よい・グート」は「《反感》の毒を含んだ眼によってただ色合い を変えられ、ただ意味を変えられ、ただ見方を変えられ、」僧侶的評価方式にとっての「悪:ベーゼ」 である。(P41)

「よいとわるい:グートとシュレヒト」(騎士的・貴族的評価様式)と 「善と悪:グートとベーゼ」(僧職的評価様式)の戦いの展開。
貴族的評価様式で「よい」人・貴族たちは「共同体」の「緊張」が解かれるところ 、すなわち「異郷がはじまるところでは、放たれた猛獣と殆ど択ぶところがない。」 「貴族的種族とは、通ってきたすべての足跡に「蛮人」の概念を遺した者たちのことだ。」(P42) このような、「『人間』という猛獣を」「家畜にすることがあらゆる文化の意義であ」れば、(P43) 「貴族的種族を」「圧服するのに与っていた力のあったすべてのあの反動と《反感》の本能は 、疑いもなく真の文化の道具と見なされなくてはならないだろう。」だが、これらの「道具の所持者」 (僧侶的評価様式でよい人たち)が「同時にその文化の体現者でもあるというのではない。」また 「この『文化の道具』は人間の恥辱であり、むしろ『文化』一般に対する懐疑であり、抗弁だ!」 そして何より問題なのは、僧侶的評価様式でよい人たちが自らを「『より高級な人間』 として感じることを知ったということ」(P44)であり、またそういう人たちがヨーロッパ中に 蔓延していることだ。



第二論文 「負い目」・「良心の疚しさ」・その他

1.「あの逆説的な課題」とは何か?(1節)
答え:「約束をなしうる動物を育て上げる」ということは、 「健忘」という人間の自然な力に反する逆説的な課題そのものだといえる。


2.ドイツの古い刑罰の例にあげられるような残忍な手段で行われたその目的とは何か?(P68、3節)
答え:その目的とは、残忍な法式によって、抹消しがたい、遍在的な、忘れがたい、「固定的な」ものにし、 神経と理知の全体系に催眠術をかけることにある。

3.負い目の意識「良心の疚しさ」なるものは一体いかにして世界にあらわれたか?   →債務法を使って説明してください。(P69、4節)
答え:「負い目」という道徳上主要概念は「負債」という極めて物質的な概念に由来している。 損害と苦痛の等価という思想から、加害者に損害と等価の苦痛を与えるという手段によって、 その報復が可能であると考えた。

4.「良心の疚しさ」の起源とは何か。(P99、16節)
答え:野蛮・戦争・漂泊・冒険などに、表されるようなあらゆる本能は、価値を奪われ、 その要求を満たすことが困難になった。そして外へは向けて放出されないすべての本能は内へ (人間自身へ)向けられた。これこそが、「良心の疚しさ」の起源である。

5.「大なる愛、と侮蔑とをもったあの救済する人間」とはあなたはどのような存在だとおもいますか?(P115、24節)
引用:われわれを従来の理想から救済するこの未来の人間は、同様にまたわれわれを、 その理想から必然に生じたものから、大なる吐き気から、無への意志から、ニヒリスムスから救済するであろう。 この正午の、また大いなる決定の時鐘は、意志を再び自由にし、世界にはその目標を、 人間にはその希望を返すであろう。この反キリスト者、反ニヒリスト、この世界の、 また無の超克者―彼はいつか来なければならない。

第3論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

1.(1節及び最終節)
「人間意志は一つの目標を必要とする、−そしてそれを欲しないよりは、まだしも無を欲する。−」(P118、L12.13)
「人間は何も欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と…。」
(P208最終行)
とはどう言うことか説明せよ。

(P108、L14)
「ちっともわかりません! 先生!」
(P207、節はじめからL9〜11)
人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりはしない。 彼はそれを欲する、求めさえもする。もしその意義が彼に示されるとすればだ。

答え:その1
人間は現世の苦しみに対して意義を見出せずには耐えることができない。 その苦しみに対して無意味、無意義であるというよりはこの現世においての意義を「徒だ(いたずら)」 と否定し、天上での救いにおいてその意義を期待せずにはいられないのが人間である。

その2
人間は現世の苦しみに対し定義を見出せずには耐えることができない。それよりは、 つまりその苦しみに対して無意味、無意義であるというよりは禁欲主義的理想を掲げその無意味、 無意義であることを肯定し求めていく(=無を欲する)こと



2.真理そのものにたいする信仰が、禁欲主義的理想のうちでのみ保証され確認されるものである とはどういうことか、説明せよ。(24節)

該当箇所→『悦ばしき知識』(第五書三四四節)引用箇所より

答え:真理そのものは、形而上(形のない・観念的・抽象的な物)学的な概念である。
そして、その形而上学的概念とは現世否定というキリスト教の禁欲主義的理想
のなかで発生した。ゆえに,真理そのものに対する信仰が禁欲主義的理想のなかで 保証されるということができる。


3.芸術が禁欲主義的理想(P196後ろから2・3行目)に対立するものであるというのはなぜか。(25節)

(直前)
そこにおいてはまさに虚偽が聖化され、 欺瞞への意志が良心の疚しさなしにはたらきうるがゆえ
(P197、L1)
前者は最善の意志をもった<彼岸の人>、生の大なる誹謗者であり、後者は無意天真に生を神化した人、 黄金の自然の人である



答え:禁欲主義的理想は形而上学的価値(真理など)に基づき生を否定するものである。 それに対して芸術は形而上学的価値などには基づかないで生を肯定すべきものであるから。   

4.「無条件的に誠実な無神論が見た目にはそう見えるほどあの理想に対立したものではない」(P205、L4・5) というのはなぜか。(27節)

(直後)
それはむしろ、その最後の発展段階の一つであり、その推論形式および内面的論決の一つであるにすぎない。
(P205、L14〜16)
キリスト教道徳そのもの、ますます厳密な意味にとられて来ている誠実の概念、あらゆる犠牲を払って科学的良心や知的潔白に翻訳され、 醇化されたキリスト教的良心の聴罪師的な繊細さがそれだ。

答え:無神論とは、キリスト教の禁欲主義的理想を推し進めたとき、 形而上学的価値が発展して誠実性の概念、科学的良心が生まれた結果である。


5.禁欲主義的理想が人類に提供した意味とは何か。(28節)

答え:(P207、L5・6より抜き出し)
何者かが欠如していたということ、人間の周囲に一つの巨大な空隙があったということ、 このことをこそ禁欲主義的理想は意味するのだ。




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