コリングウッド『藝術の原理』講義資料


≪第一部≫ 藝術と非藝術


1、 技術の意味は何でしょうか。(2章 1節より)

<引用>技術は真の藝術から区別されるべき第1のものである。
p263〜p265 抜き出し(1)〜(6)技術の特性についての箇所


<解答>
技術は、手段と目的、計画と実施の間に区別がある。手段と目的との関わり方は、計画の過程と実施の 過程において逆になっている。原素材と、完成した製品の間に区別がある。形式と実質との間の区別が ある。ある糸が他の人の必要とするものを供給しある人はほかの人の用意するものを使うというしかた で様々な技術の間にはある階層的な関係がある。

技術は、一時的なものである。時間や人の流れを組み込むことができない。よって、ある一点において、 完成したものはそれ以上成長することができない。すなわち目的と手段、計画と実施は同時には存在しえ ない。また一時的に完成してしまうものは、階層構造を生み出す。階層構造を作らなければ、技術のエネ ルギーは移動することができないからである。

2、 心理学者が技術も芸術だといったのはなぜでしょか。(2章 2節より)

<引用>
P268上段より
「心理学者にとっては、鑑賞者は藝術家によって提供される刺激に一定のしかたで反応する人々から成り立つのであり、藝術家の仕事はどんな反応が望まれており、また望ましいかをしることであり、そしてそれを喚起するような刺激を供給することだということになる。」
p278 上段より
「全藝術作品は一つの技術製品としてすなわち、作品を越えた一つの目的、すまり芸術鑑賞者の心の状態を実現するための手段としてまさにデザインされた技術製品として考えられているのである。」


<解答>
心理学者は、藝術は、人々の心に動きを起こさせるようなものであるべきだとしている。この時、 人の心を動かすという目的のために、様々な手段(藝術作品)があるとしている。つまり、この場 合の藝術は、技術的側面が強い。

3、 それに対する反論はどのように表されているでしょう)(2章 3節より)

芸術にとって目的と手段を分けることはできない。

EX.大仏を作る時。
絵の具を使う。設計図を書くなどは、手段であるが、代替は可能。(絵の具を使わなくても、) 紙粘土を使わなくても大仏は作ることができる。しかし、メガネは、フレームとレンズがなけれ ば作ることはできない。使うものがある程度決定されており、手段がはっきりしているものは、 それに対応する目的との違いがはっきりする。しかし、芸術では手段と目的の区別がはっきりしない。

EX.大仏ができた後
大仏を見て「かわいい」と思う人と「なんじゃこりゃ」と思う人と、大仏が人に対して起こす作用は様々 である。大仏を見て安らぎを得る人もいれば、恐ろしさを覚える人もいる。しかし弓矢を見て、「部屋に 飾るもの」と考える人は限りなく少ないが、「人を打つもの」と考える人は大多数であろう。 芸術は技術と違って、そのものが生み出す結果は一定ではない。

<引用>
P278「芸術家の名を求める人間が意図的に自分の鑑賞者のうちに一定の心の状態を喚起しようという 態度を取る例は無数にある。」
P280「ここには謝って芸術と呼ばれる6種類のものがあることになった。それらが芸術の名で呼ばれるのは それを行う人が自分の熟練を使って鑑賞者のうちに望み通りの反応を起こし得るような技術だからであり 、したがってそれらがすでにすたれながらなお葬り去られていない、詩人の技術、画家の技術といった観 念のもとに含まれるからである。」


<解答>
これら6種のものは魔術、娯楽、パズル、教育、プロパガンダ、懲戒である。これらは擬似芸術と呼ばれ、何かしら芸術ではなくて、しかも芸術と間違えられるものを意味しているのである。芸術でないものが芸術ととらえられてきたのは、心理学者達の謝った芸術観が広く受け入れられたからといえる。

4、 コリングウッドは本来の藝術を描写するときにどのような手法を用いたか。(6章 1節より)

<引用>
p299「ようやくにして我々は、芸術の技術説をかたづけそれが正しく当てはまるような謝って 芸術と呼ばれる様々な偽者を片付けた。」
P300「一つの謝った理論を否定することは彼の研究における1歩の確実な前進を作り出す」


<解答>
コリングウッドは「本来の芸術」とは何かを記述したかったのだが、それをいう前に芸術に対するさま ざまな先入観を取り除き、特に現在誤解されがちな「技術」としての芸術との違いを述べようとした。 この謝った議論を否定することで、彼が否定した古い理論から学んだものの上に新しい問題に直面すると 考えた。彼は物事を簡単にいおうとはしなかったが、このことで、芸術というものに対する誤解が生まれ た19世紀末芸術至上主義、そして芸術の2元性などを暗に批判しようとしていたのではないだろうか 。合理的に判断することがよいわけではない、むしろ、ものごとを簡単に考えて、単純化して、なん でも人間の手に負える範囲にあるという状況を思い描くほうが危険である。

5、 技術説の批判から得られた「本来の藝術」とはどのようなものなのか (P302より)

<引用・解答>
p302「本来の芸術には手段と目的との区別に類似した区別があるがしかしそれは完全に同一の区別 ではない。」
「芸術は感情と何らかの関わりをもっているがしかしそれとの関わりかたは呼び起こすことに一定の類 似性をもっているものの、呼び起こすことではない。」
「芸術は事物を作ることと何らかの関係を持ってはいるがしかしこれらの事物は実質に形式を 押しつけることで作られる実体的な事物ではなく、またそれは熟達によってつくられるものでもない」


それでは本来の藝術とはなんなのだろうか。
→Q6で、2番目の問いの答え
→Q9で、3番目の問いの答えを考えて、もう一度答えを探す。

6、 「本来の藝術家」が「感情を表現する」というのはどういう意味なのか。(6章 2節3節より まとめましょう)

<引用>
p306上段「感情を表現する活動は自分自身の感情に対する一種の探求である。」
p307下段〜p308上段「技術が実現しようととりかかる目的はつねに一般的な用語で思い描かれてい るのであって決して個別化されるということがない。いかに性格にそれが規定されていようともそれ は常に他のものによって分有され得る性格を持ったものの生産として規定される」
P309「本来の芸術家とは一定の感情を表現することと四つに組んで「私はこれをすっきりさせたい」 という人間である。


<解答>
人間は感情というものをどのようなものであるか、あまり理解していない。感情がそこにあるのは 分かっていても、それを上手く説明することができずもどかしく思う。そこで、この救いのない抑圧 されたもやもやの状況から逃れたいと、自分自身の感情を表現することと呼ぶ行為を行い自分を解放し ようとするのである。その表現は理解する人全てに受け取られ、自分自身に向けて発せられたメッセー ジでもある。本来の芸術家は自分自身をすっきりさせたいがために創作活動を行う。

EX.
 テレビコマーシャルは、そのコマーシャルが売り出そうとしている、消費対象者の心を動かすこ とを目的にあらゆる手段(技巧)を用いられている。
「デキタテノムカ、フジワラのりか。」(宝酒造・桃の缶チューハイ)というキャッチコピーは、 韻を踏んだり、人気タレントの起用などの技巧が使われている。このキャッチコピーが求めるもの (=目的)は、缶チューハイを売るということであり、そのために作られた言葉である。」
 しかし、これに対して、小林一茶の俳句「やせがえる 負けるな一茶 ここにあり」という俳句は、 消費対象者もいない。話し手(=芸術家)に対する受け取り手が明確ではない。つまり話し手(=芸術家 )は自分自身に語るのであり、その言葉を理解しうる全ての人が受け取り手となるのである。

7、 芸術家として、評価される「役者」とはどういう役者でしょうか(6章 7節)

<引用>
P312下段「本来の表現の特徴的な一点は正気であること、いいかえれば知的能力のあることである。」
P313上段〜下段「もし俳優の仕事が娯楽ではなくて藝術だとすれば彼が目指している目的はあらかじ め考えられた感情的効果を観客の中に生み出すことではなくむしろ一部はセリフ、一部は仕草から成り 立つ表現、または言語のシステムによって彼自身の感情を探求しかつて無自覚であった自分の内部の感 情を発見することでありさらに観客にこの発見を目撃させることによって彼等自身について類似の発見 を可能ならしめることである」


<解答>
感情表現といっても、自分の感情の特徴を見せるだけではない。感情表現がされる時には、常に正気で あること、知的能力が必要であることが問われる。自分の感情を相手に見せるのではなく、あくまで 、自分の感情の動きを相手に感じさせることが芸術家としての俳優には必要である。

EX. 宮崎駿アニメは娯楽か、芸術か。

宮崎アニメでは、最近のアニメやドラマ、マンガなどに使用されるような激しい暴力シーン、性描写 シーンはない。しかし刺激的なものほど受けるという現代においても、子供から大人まで高い人気を誇る。 そのわけは、宮崎アニメが、「感情の動き」を感じさせるものであり、決して「感情の押しつけではない」 からであろう。「感情」を押し出して、分かりやすくし、それを共有するのは簡単だが、「感情の動き」 を感じ取らせることは難しい。よい芸術作品とは人に涙や笑いを起こさせるのではなく、そのよう な「感情の波」を起こさせた「風」はなんだったのかを分からせるものである。

8、 想像と空想の違いを述べよ(7章 4節)

<引用>
P326「空想という言葉は空想の名で呼ばれるものと実在と呼ばれるものとの区別を引き起こすも のであって、この区別は両者が互いに他を排除しあうような種類の区別である。」
P328「空想は想像を前提とするものであり、そしておそらく特異な力の影響のもとで特異な仕方で働 く想像なのだと言い表すことができる」
「かくして空想は欲望の検閲のもとに働く想像だということになる」

想像は実在、非実在は問題でなく、空想は実在することはない。なぜなら、空想は欲望を前提と しており、欲望は実在することは不可能だからである。芸術は想像に基づくものである。19世紀は 、この欲望と想像の2つの意味が混乱して捉えられたため、多くの大衆文化が芸術とされた。

9、 「正しい努力のできない人 あるいはしようとしない人にとってはい かに彼が自分のいる部屋を満たす音響を完全に聞いていても永遠に近づくこともできないままに残 るなにものかなのである。」(P332 より引用)から考えて、「本来の藝術作品」について述べよ(7章全体通して)

<引用>
P330「芸術作品、すなわち音楽は音の集合体ではなく、芸術家の頭の中にある楽曲なのである。」

想像による創造は、自分自身で取り出して再構成がなされなければならない。芸術鑑賞は創作に劣ら ないくらいエネルギーが必要である。セザンヌは「触覚」を利用して絵を描いたといわれている。 セザンヌは「手」で触ることを「演じ」それを絵で表したのである。セザンヌの絵を見て 、想像力を用いて、リンゴを感じる。創造による体験、あるいは活動をみずから創造することによ って私達は感情を表現する。これが可能なのが本来の芸術作品である。

マルティン・ブーバー「我と汝」p17より引用
「形体が人間と向かい合い、人間を通して作品となることは芸術の永遠の源泉である」
マルティン・ブーバー「我と汝」P54より引用
「芸術の場合もまた以上のことがあてはまる。画家にとって形体は向かい合うものを凝視することに よって明らかとなる。彼は形体を絵に封じ込む。その絵は神々の世界で生まれたものではなく素晴ら しいこの人間の世界で生まれたものである。−中略―作品は夢の中とおなじように人との出会いを待ち うけ、呪縛から解放され時間のない一瞬においてその形体を抱擁してくれるのを待望している。 だがその一瞬が過ぎ去れればこの作品はこのように作られているとかこんな風に表現しているとか こういった性質があり、芸術的な位置付けはどうであるとか、といったような経験できる事柄をすべて 経験するのである。」


10、 なぜコリングウッドは藝術の原理をしたためたのだろうか。


ワイドショーや、ゴシップなどメディアが闊歩しはじめた
18世紀後半、そういう現実の方が面白いと感じる人が増える

現実に敵対するために刺激的な作品を作る

「人生のための芸術」⇔「芸術のための芸術」
芸術に対する盲信  ⇔ 芸術に対する不信観   ← 現代まで続く芸術観



「現実に対抗する刺激的な作品が増える」
EX マルセル デュシャン「泉」(トイレの便器のみ)
   ピアノの上に乗って 演奏が終わり
   シュールレアリズム  など

2章 「大衆化時代の芸術論」
2−1
19世紀「大衆化の時代」
18世紀 「教養主義の始まり」
●市民社会の中で、芸術に親しむ(音楽を聴く、絵画を集める)ことが
一般的になった。芸術を親しむことは「美徳」
● 一般市民の間で、芸術は「美徳の仮面をつけた快楽」

           美徳 と 快楽 は対立概念

(芸術が人生に奉仕すること)⇔(芸術の有用性を否定)
  ↓
相対する方向から、芸術の大衆化現象に抵抗を始める。

「芸術の役割の単純化が行われた」
芸術と人生を対置して考える奇妙な二元論の誕生

大衆化社会は批判や、反省をも大衆社会的にしてしまう
(批判は、大衆の耳にはいりやすい。安易な批判が氾濫する。)

大衆社会の真の批判を妨げる存在になりうる。(擬似的批判の氾濫)

そ・こ・で
「芸術の存在を自明とするのでなく、芸術の営みがどうして生まれるのか調べた人がでてくる」
芸術だけでなく、人生そのものにまで踏み込んで考えた。

★ フィードラー(ドイツザクセン生まれ)「人生のための芸術」批判
★ ハリソン(イギリスヨークシャー生まれ)「芸術のための芸術」批判

●共通してあるのは「芸術大衆化社会に対する批判」
2−2 p14
フィードラー(ドイツ)
裕福な家の息子で俗物的な芸術愛好家を見てきたであろう。
知的な実用主義と感覚的な耽溺との間に分裂しているから 社会は病んでいる
「人々は感覚的な関わりと、知識的な関わり以上のものを芸術に求めない」
★俗物的な芸術に対する態度を批判したところで、それは哲学的主義主張で2つの立場を明るみ にしただけにすぎないことを、批判
  →大衆社会の安易な批判に対する批判
★知識的関わりなら、芸術でなくてもできるのに、なぜ芸術に求めるのかということが明かでない。

ハリソン(イギリス)
芸術家と彼の生きる広い実社会とが分裂しているから芸術の不幸が生じた。
「自分自身を説明しうる小説だけが成功を収めていた時代」
自己埋没的 人生信仰と 自己中心的 自己顕治欲のせめぎあい
「描いたり彫ったりして、自分の中を見るより外で遊ぼう」と「抒情詩を描こう、仮装行列にでて自分 を表現しよう」とのせめぎあい
★芸術家たちが自分が生きる社会に目を向けずに自分の中に入りこむことだけが芸術とされていること に対する批判

2−3 p18

フィードラーとハリソンの芸術論が一般社会に受け入れられることはなかった

マスメディアの影響
マスメディアが時事について伝える。
芸術に関する「学問」と「評論」が分化し始める
「芸術評論家としてのマスメディア」(時事問題とからめられる)と
「芸術に関する学問としての美学者」との対立
★ フィードラーやハリソンの芸術論は、学問の世界に閉じ込められて、現実社会に対する ジャーナリズムに対して指導力を持たなくなってしまった

コリングウッド  講段美学とジャーナリズムの仲介役を果たした人。
人間の想像力を批評した。美学者も自分の周りのものに関心を持つべきである。とした。 現在は、2種の擬似芸術(魔術と娯楽)がせめぎあっており、真の芸術が見えなくなっているのではな いだろうか。真の芸術とは「社会に共通の感情を起こさせるもの」であり「詩的感情の誤解を恐れる」 ものであったはずであった。しかし大衆消費社会の進展とともに、現実の刺激に心を奪われて、 感情の伝達のみに焦点が当てられるようになった。そこで感情表現を直接的におこなう芸術家達は、 社会との溝を深めていった。本来なら、社会感情を表さなければならない芸術家が、 個人の感情を表し社会と対立していくことは、共同体の自己実現を阻み、結果的に、 共同性の崩壊へとつながるとコリングウッドは考えたのではないだろうか。19世紀の大衆化が呼んだ波紋 にいち早く気付き、芸術という側面から共同性の崩壊の危険性を説いたかったからこの本を記したのでは ないだろうか。


≪第二部≫ 想像力の理論


1.「(p345)…考えることと感じることという対照である。どんなふうに対照的な のであろうか。」とありますが、「考え」と"感じ#のそれぞれについての著者の考え(感じ)方を述べてください。

<引用>
感じについて
「(p346)(1)…われわれは色、音、香、その他の『感じ』を感覚と呼び、そうした個々の感覚の底 にある共通した活動性を感覚作用と呼んでいる。(2)われわれはまた喜びを、苦しみ,怒り、恐れ等々 を感じると言う。ここにも個々の感じに共通する日取るの一般的活動性ともいうべきものがあるが、 …こちらの方を感情と呼ぶことにしたい。」
「(p346)感情はたんに感覚の結果というにとどまらないのであって、それはそれとして一個の独立した 自律的な経験要素なのである。」
「(p346)感情にたいする感覚のこうした先行状態を指して、 わたしは、ある与えられた感情が対応する感覚の『荷重』になっている、という言い方をしたいと思う。」

考えについて
「(p347)その第一次形式においては、思考内容はもっぱら感じにかかわっているように見える。 つまり、感じが考えの唯一の材料だ、というわけである。」
「(p347)『暑いな』と口に出して言うことは、自分の現在の感覚内容の一つを温度感覚としてまず 分類し、次にそれを他のもろもろの温度感覚、全体として自分が慣れ親しんできた種類の温度感覚と 比較し、されにその比較の結果を表現していることになる。」
「(p347)…あらゆる考えのケースに、経験的と呼ばれる考えのすべてにあてはまりそうだ、というの は言い過ぎであろうか。」
「(p347~348)…われわれがとどのつまり表現しようとしているのは、感覚内容と感覚内容との関係に ついての自分の考えであるように思われる。」
「(p348)この第二次形式におけるしこうによって主張された命題は、ここの内容の違いにおかまいなし に言えば、 考えと考えとのあいだの関係を断定していると言えるわけであるから、これを思惟法則と呼んで、 伝統的に自然法則と呼ばれているものから区別してもよいであろう。」

両方について
(p345)の(1)(2)(3)
「(p346)…伝統的な『心』と『精神』との区別である。これは、私自身の区別でいうと、ちょうど感じと考えとに当たる。」


<解答>




感じ(sense,feeling) 考え(think)
単一性(正誤、良否、真偽の区別なし) 両極性(正誤、良否、真偽の区別あり)
個人的(共有できない) 公共的(共有できる)
個々の感じは独立している 個々の考えは互いに確証したり、矛盾したりする。
一瞬、現在 永続可能、過去・未来
操作不可能 操作可能
心(心理学の対象) 精神 (心理学以外の対象)


感じと考えの違いについて、〈暑さ〉を例にとって説明してみる。
まず、ある〈暑さ〉を皮膚が知覚し、それを外的刺激「感覚(sense)」として受け取り、 我々の体が汗をかいたりする生理的な反応を起こす。その「感覚」にたいして、 快か不快かのいずれかをわれわれはひとつの内的刺激(「感情(feeling)」)として持つに至る。 この二つのものを「感じ」と定義付けている。
そして次に、「暑い」と言語化することによって、われわれはひとつの「考え」を表す。 我々が「暑い」と言ったときに、過去の経験によって構築された温度感覚の総体と比べて、 感覚した〈暑さ〉を位置づける。それによって、ひとつの「第一次形式」としての「考え」ができる。 この時、初めて「暑い」と「暑くない」という両極の表現が可能になるし、また、「暑いなぁ!」とその 「考え」を他人と共有できるのである。
その次に、「暑いから服を脱ぐ」ということを考えてみよう。「暑い」という「第一次形式」としての 「考え」と、服を脱いだ状態の「暑くない」という「第一次形式」としての「考え」とが比較され、 一つの「服を脱ぐ」という「第二次形式」としての「考え」ができる。つまり、第一次形式の考えが 「感じ」と「感じ」との関係性において生成されるのにたいして、第二次形式の思考は「考え」と 「考え」との関係性において生成されるものであると言える。この第二次形式おける思考は、 「思惟法則」と呼ばれる。

2.「(p367)(われわれに支配されるや)感じは感覚作用の印象から想像力の 観念へと転じる。」とはどのようなことでしょうか。具体的に説明してください。

<引用>
「(p354)要するに、じっさいの感覚と想像力との違いは、われわれがはっきりした目的をもっ て自分の感覚経験をコントロールできないかできるか、という違いに帰着するのである。」
「(p358)ここ(ロックの観念二種類説)に問題があるのに気づいた最初に人はヒュームであった。 彼はその問題を観念と印象とを区別することによって解こうとした。」
「(p361)…われわれが意識することで、見たり感じたりする経験の方にはすでに変化が生じており、 さらにそれに伴って、われわれの見る内容、感じる内容の方にも相応の変化が起こってくる。 この変化のことを、ヒュームは印象と観念との相違として表現したのである。」
「(p361)意識は絶対に自律的である。…いかなる感じを自分の意識の焦点に据えるかを決定する自由 は持っているのである。」
「(p362)この自意識がもっと強固になり、もっと習慣的になると、幼児はいつのまにか激怒に注意を 向けただけでそれを支配できるようになる。幼児はわめくのを止める。感じに振り回される代わりに、 それを思うがままに操れるようになったわけである。」
「(p363)われわれはいわば感覚の流れといっしょに動きながら、ある種の新しい経験を手に入れるの であって、その結果、自我と対象との少しのあいだ相対的に静止しあうことになる。 この少しのあいだに重大なことが行われる。われわれは、一瞬、感覚の流れから自由になり、 そのあいだあるものを自分の前にじっとさせておいてそれをくまなく眺めるのである。 これが、同時に、そのものを印象から観念へと変換させることになる。 われわれは自分がそのものの主人になったのを意識する。」
「(p365)意識の活動は印象を観念へ、感覚を想像へ変換させる。」
「(p365)想像とは、こんなふうに、意識の活動によって変形せしめられたとき感じとる新しいかたち をいうのである。」
「それ(第八章での「感じ」)は純粋に心的な経験としてのなまの感じ(印象)ではなく、 意識による変様をうけた感じ(観念)だからである。」
「(p367)感じそのものは感覚と感情との二面性を持っているが、経験されるときはひとつである。 それは、そのつど、われわれの視野全体を独占してしまう。」
「(p367)現在の感じと他の場合の感じとの関係は、たんなる感じに基づいては主張されない。 のみならず、たんなる感じは、私がいま何を感じているかさえ教えてくれない。 その性質について何かを説明しようと私が注意を向けたとたん、 すでにそのものは変化してしまっている。」
「(p367)それ(注意力をはたらかせることによって視野が拡大すること)は、 自分がその感じの持ち主であるというわれわれの自己主張を意味している。 この自己主張と共にわれわれは自分の感じが支配できるようになる。」


<解答>
「われわれに支配される」とは「意識」するということである。 例えば、目に映った〈一〉という記号をひとつの印象(ただの線)として漠然ととらえる。 そして、その記号に意識を向ける(注意力を働かせる)ことによって、 その印象はただちに「一」という観念(一の次には二があるなど)に変化してしまうのである。 したがって、われわれは、目に映った(感覚作用による)〈一〉の印象だけで、「一」 という観念を得ることができない。われわれは意識することによってはじめて 、二や三になる想像上の「一」を手に入れることができるのである。
しかし、この印象と観念は分割不可能なものである。 われわれが印象としての〈一〉を捉えようとした瞬間に、 すでにそれは観念としての「一」になっている。 われわれはこの一連の流れ(印象から観念への変換)の中で生きており、 その流れを止めることはできない。 このことは、もっとも興奮しているときに、自分が興奮しているなどと言えないことからもわかるであろう。 本当に興奮をしているときには、その生の感じ(印象)を観念に変換する暇がない。 その興奮からさめたときに、「興奮していた」といえるのだろう。この変換までの期間が短ければ、 「興奮している」と言えるのであろうが、その変換された感覚内容は、過去のものであって、 今の感覚作用によってもたらされるものとは違うのである。 しかし、その感覚内容は保存可能であり、経験としてコントロールできるものになるのである。

3.「シンボルは言語であって、言語でない。(p378)」とありますが、 この同語反復的な言い方にこめられている意味はどのような意味でしょうか。

<引用>
「(p368)言語は想像上の活動であり、その機能は感情を表現することである。」
「(p376)ここでいう感情とは、なまの印象ではなく、意識の活動によって観念に変質された感情なのである。」
「(p376)芸術は思考そのものを表現するのではなく感情のみを表現するのであるけれども、 その感情はたんなる意識的経験者のそれではなく、考える者の感情もをも含んでいるからである。」
「(p377)この(文法家の)操作の目的は言語を思考表現の完全な道具にすることにある。」
「(p378)論理は言語の変様であって、言語の理論ではない。それは科学でもなく芸術でもない一種の『術』、 言語をシンボルに変える術である。」
「それ(シンボル)はおよそいかんる感情的な表現力ももたないと考えられている。 しかし、いったんある特殊なシンボルが開発され、その使用法がマスターされるや、 そのシンボルは本来の言語の感情的な表現力を要求するようになる。」
「シンボルはこんなふうに言語の知性化されたもの、知的言語である。 言語だというのは、それが感情を表現しているからである。」
「これ(想像の中にある言語において感情のみが表現されること)に対して、 知性化されたかたちの言語では、意味と表現力とが区別される。」
「われわれは感情的雰囲気を捨てて合理的雰囲気へ飛び込もうとしているのではない。 そうではなく、新しい感情とそれを表現する新しい手段とを求めているのである。」


<解答>
 「シンボル(symbol)」とは、暗号という意味でのコード(code)の概念と同じである。化学者たちは、] 「Cu」という文字を銅という元素の記号として定義づける。これの「Cu」は、金でもなければ銀でもない。 ただ銅に対して一対一の対応で「Cu」とされる。この操作によって言語を思考表現のための完全な道具に する。そして、この道具化した知性言語には感情は表現されない。そのため、「想像上の活動であり、 その機能が感情を表現する」という本来の意味での言語ではなくなる。しかし、その「Cu」という記号が 「2Cu+O2→2CuO」などと書き記したり、実際に化学者たちが仲間内で共有することによって、 そのシンボルは分節され特殊化された感情を表現するようになるのである。 つまり、ただ定義するだけでは何の感情も生み出さないが、その定義されたものを組み合わせることで 、新たな感情とそれを表現する方法を生み出すことができるのである。結局、感情を表現するというも ので、シンボルは言語とよべるようになるのである。
 この同語反復の表現によって、コリングウッドは科学と芸術の間に共通するものを見出そうとしている。それは、いずれも感情表現をしているものであるということである。われわれは科学が無機質なものと考えがちであるが、それは知性化された言語自体が感情の無いものなのであって、その言語を使うことによって一科学者がひとつの特殊な感情を表現できるのである。この意味で、科学と芸術の営みは相反することがないといいたいのである。

≪第三部≫ 芸術の理論


1. 本来の芸術、誤って芸術と呼ばれるものを説明せよ。(第12章 第2節)

<引用>
P.380 上段 L6 「本来の芸術が…(1)表現的で、(2)想像上のものだ」
P.382 下段 L3〜6
「美的経験、もしくは芸術活動は、人の感情を表現する経験である。そして、感情を表現するものは全体 的想像体験、ひとしく言語とも芸術とも呼ばれる活動である。これが本来の芸術である。」
P.383 下段 L21〜P.384 上段 L2
「もともとそれ(誤って芸術と呼ばれるもの)は芸術ではなく、〔あらかじめ想定されたある目的のため に手段を使用しているのであるから〕技術なのである。」


<解答>
 本来の芸術とは、人がその意識のもとで感情を表現する経験のことである。そして人は自分の感情 を表現してしまうまで、それがどんな感情かを知らないのであり、表現することによってその感情が どのようなものであるかを知る。また、意識によって印象や感覚作用が観念や想像力に変換されると いう意味で、それは想像上の経験である。
 誤って芸術と呼ばれるものとは、ある一定の種類の心の状態を人びとの中に作りだすことを目的とする技術 のことである。

2. 悪い芸術とはどのようなものか?(第12章 第3節)

<引用・解答>
P.390 下段 L18〜21
「感情を表現するということは、それを意識するようになるということと同じである。悪い芸術作品とは、与えられた感情を意識しようとして成功しなかった試みのことである。」
P.391 上段 L2〜3
「自分の感情をつかみ損ねた意識は腐敗堕落した意識、ないし嘘をつく意識である」
P.391 下段 L13〜15
「たんに心理的にすぎないもの〔印象〕を、意識化されたもの〔観念〕へ変換する行為をやり損なうこと」
P.393 上段 L6〜7
「われわれが決定的に悪い芸術だと認めるものは、こんなふうに涸疾化した意識の腐敗堕落なのである。」
P.393 下段 L21
「意識の腐敗堕落と悪い芸術とは同一物なのである。」


3. 観照(テオリア)的な活動と行為(プラクシス)的な活動とは何か? また、芸術とはどのような活動であるのか、これらの点から説明せよ。(第13章 第2節)

<引用>
P.400 上段 L17〜19
「芸術の場合には観照と行為、思想と行動の区別が忘れられたというわけではない。 その区別はまだ生じていないのである。」
P.400 下段 L13〜19
「芸術的意識〔つまり、意識そのもの〕は自分と世界とを区別しないのであるから、 ここでは世界とは自分にとっていまここで経験されているもののことにすぎず、 自分とはそのものがいまここで経験されているという事実を指すにすぎないわけであり、 したがって、芸術的意識に独特な活動はまさしく観照的でもなければ行為的でもない」
P.402 下段 L13〜P.403 上段 L9
「それ(美的経験)は自分自身を知ることであり自分の世界を知ることであるが、 この二組の知るものと知られるものとはまだ区別されていない。 その結果、自我は世界において表現されることになるが、 その世界は自我を構成するあの感情体験を意味内容とする言語から成り立っている。 他方、自我はさまざまの感情から成るのであるけれども、それらの感情が知られるのは、 世界そのものにほかならぬあの言語に表現されたかぎりにおいてなのである。 美的経験はまた自分自身を作ることであり自分の世界を作ることなのであるが、 そのさい、自我は心の動きから作り直されて意識になり、世界はなまの感覚内容から作り直されて 言語になる。いいかえれば、感覚内容が変換されて想像内容になり、そこに感情的意味内容が負荷される ことになるわけである。経験が展開されて心的レヴェルから意識のレヴェルへ前進すると 〔そして、その歩みは芸術でなければ踏み出せなかったのであるけれども〕、 その前進はこんなふうに観照と行為との双方において行われることになる。」


<解答>
観照の活動と行為の活動とを分けることの意義…自分と環境との関係を見ることができる
・ 観照的な活動――ある活動が自分自身の内部のものであって、自分の中にはある変化を 
          産みだすが環境には何の変化も産みださないもの。(P.399)
         われわれ自身に感する事柄を見出すこと、またわれわれが何を行いつ
          つあるかを考えることから成立している活動。(P.400)
・ 行為的な活動――ある活動が環境の中には変化を産みだすが自分の内部には何の変化も
          産みださないもの。(P.399)
         われわれの思想を行為に移すことから成立している活動。(P.400)
 芸術とは、人間にとって自分が何を見ているか(=観照的)、自分がいかに行動しつつあるか
 (=行為的)を含めて、自分が何を感じているかを確認する、いわゆる自己確認の営みのこ
 とである。

4. 芸術家と鑑賞者の美的経験をそれぞれ説明せよ。(第14章 第1節)

<解答> P.413 上段 参照
・ 芸術家の美的経験――内面的経験が外在化、ないし変換されてひとつの知覚対象(=「芸  
   術作品」)になりうる。ただし、美的経験とはひとつの想像上の経験であるため、そ 
   れが知覚対象とならねばならない本質的理由は存在しない。
・ 鑑賞者の美的経験――最初に物質的で知覚可能な「芸術作品」にふれるという観照的な
   外的経験があり、これが変換されて内面的経験、いわゆる美的経験となる。つまり
   芸術家の美的経験と逆の経過をとる。
    ↓↓
  芸術家と鑑賞者のコミュニケーションの問題提起
 内面と外面とのあいだの関係が、芸術家の場合においては不定で偶然的(*)なのに、 鑑賞者の場合では不可欠になっている。また、物質的で知覚可能な「芸術作品」が、 芸術家の場合には美的経験にとって必ずしも必要でないのに、 鑑賞者の場合には美的経験にとって必要となる。 芸術家においてはこの種の外的な事物とまったく無関係に成立している美的経験が、 鑑賞者においてはその種の事物に依存しており、かつ、その種の事物の観照から得られているとすれば、 それはいかにして両方の場合を通じて同じ種類の美的経験でありうるのか? いかにしてそこにコミュニケーションが成立しうるのであろうか?(P.413 上段 L12〜下段 L5)

 (*)「見ること」=「描くこと」
    「見ること」が本来「描くこと」を内に含んでいた
      ―→たんなる視覚という感覚の働きではなく、全身的な行為である
          =想像…もともと全身的な働きである→「全体的想像体験」
     芸術家の中では、「見ること」と「描くこと」は分割できない経験である
      ⇒よって、外在化については何の疑義も存在しない

5. 芸術作品とは、個人の所産であるのかどうか? また、その理由を説明せよ。(第14章 第5節)

<引用>
P.424 下段 L18〜21
「彼(=芸術家)は自分を鑑賞者のスポークスマンに見立て、鑑賞者を代弁して、彼らの言いたいこと、 ただし助けなしには言えないことを言ってやろうとするようになる」
P.425 上段 L8〜10
「いまや芸術家と鑑賞者との関係は芸術家の美的経験そのものを完全にするのに欠くべからざる部分 となるであろう」
P.428 上段 L7〜15
「自分が表現しようとした感情が自分独特のものではなく鑑賞者と共通のものであり、 自分の達成した当の感情の表現が〔もしほんとうに達成しているとすれば〕鑑賞者にたいしても、 自分にとって有効なのと同じくらい有効なのだ、…いいかえれば、彼が芸術労働を引き受けているのは、 自分のプライヴェートな利益のための個人的努力としてではなく、 自分の属している共同体の利益のための公共労働としてだからである。」


<解答>
 芸術家の表現はつねに鑑賞者の理解を考慮に入れてなされねばならない。 芸術家は誰しも、鑑賞者の判断に多少とも重きを置くものである。 これはなぜなら、鑑賞者に評価してもらうことにより、自らの美的経験の正当性を確かめるためである。 そしてここには、芸術家から鑑賞者へのたんなる伝達以上のもの、 すなわち芸術家と鑑賞者とのあいだの共働が存在する。 そして芸術家の自己表現が鑑賞者に分け持たれ、結局はそれが共同体そのものの自己表現となるのである。 したがって、芸術家が芸術活動を行うのは、彼の属する共同体の利益のためであり、 彼の私的な利益のためではない。このことから、芸術作品とは個人の所産ではないといえる。

6. 芸術において、個人主義的理論は成立するか?また、その理由を説明せよ。 (第14章 第6節)<引用>
P.430 上段 L2〜10
「個人主義というものは、人間をあたかも神のように考える。 すなわち、人間とは円満具足の創造者であって、その唯一の仕事というのはみずから存在すること、 そして、適当な作品があれば何でもいいからその中へ自分の本性を顕わしてゆくことだ、 と考えるわけである。しかし、人間は、芸術においても他のあらゆる事柄におけるのと同じで、 やはり一箇の有限存在にしかすぎない。 人間のやることはすべて自分に似た他者との関係においてなされる。」
P.430 下段 L14〜15
「美的活動とは語る活動のことである。言葉が言葉であるためには、語られると共に聞かれなければ ならない。」
P.431 下段 L9〜16
「個人主義の美学に最後の止めを刺すには、したがって、芸術家と鑑賞者とのあいだの関係の分析が必要に なろう。…すなわち、両者の関係は共働関係のひとつのケースにほかならないという見解である」


<解答>
 芸術家と鑑賞者とのあいだの関係は共働的である。この関係を分析していくと、芸術家間の関係、 作者と演奏者とのあいだの関係、芸術家とその鑑賞者との関係のすべてが共働的なものであることが分かる。 結局、芸術家のやることはすべて他者との共働的な関係においてなされるものであるため、 芸術創造における個人主義的理論は誤りである。


■□芸術家と鑑賞者のコミュニケーション□■

 コリングウッドが「芸術の原理」を著した時代においては、芸術家たちは芸術の本質を見誤ってしまっていた。 芸術を感情的な効果の刺激手段だと考え、それを効果的に伝達し、他人のなかにそれと同じ感情を ひきおこすことを芸術の仕事だと彼らは信じており、また彼らの私的な感情が社会に誤解されることを 恐れるようになっていたのである。
 こうして、芸術家と鑑賞者とのコミュニケーションが以前のようにとれなくなっていた近代という時代に、 コリングウッドはこの問題を芸術家の課題としてとらえた。本来、芸術家の作品は社会の共通の感情を ほりおこすものであり、「共同体」という言葉を用いて、芸術家の表現は鑑賞者の理解を考慮に入れて なされねばならないと主張する。芸術家ははじめから鑑賞者と同じ「言語」で語っており、 全てとはいかないまでも、その「言語」は十分に鑑賞者に理解されうるとしている。 そして鑑賞者は、理解者、また共働者として芸術家とコミュニケーションをはかるのである。 理解者として、鑑賞者は自分の精神の中で芸術家の想像上の経験を何とか精確に再構成しようと試みる。 これは一種際限のない探求の行為であり、鑑賞者はこの再構成を部分的にしか果たせない。 しかし、鑑賞者は共働者として、芸術家の美的経験に必要不可欠な部分となっており、 鑑賞者は「見ること」(=想像〔たんなる視覚という感覚の働きではなく、全身的な行為である〕) における創造活動を芸術家と共にすることによってコミュニケーションをとるのである。


☆結局コリングウッドは芸術家と鑑賞者の関係から
社会や共同体ということの問題を見ていたのではないだろうか。
P.442 下段 L15〜25
「共同体のスポークスマンとして、芸術家の吐き出さねばならないのは共同体の人びとの秘密である。 彼らが芸術家を必要とするのはなぜか。それは、共同体が全体として自分の心を知ることはありえないから である。自分の心を知らないがゆえに、共同体というものは、いかなる無知が死を意味するかという一点 について誤る。この無知からくる禍にたいして、詩人は予言者のくせに何の救済策も示さない。 というのも、彼はすでにそれを与えているからである。詩そのものがすなわち救済策である。 芸術とは共同体の医薬、それももっとも重い心の病い、かの意識の腐敗堕落のための医薬なのである。」




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