アイデンティティ形成の必要性とその問題

≪目次≫

第1章  人間生存における認識の必要性       【問題提起】
第2章 「他者」をつくる認識
第3章 「自律」のアイデンティティ−−近代市民社会の特質
第4章 「啓蒙」とアイデンティティ−−破壊と再生
第5章  コミュニケーション            【問題解決】


第1章  人間生存における認識の必要性

「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ陥っていくのか。」『啓蒙の弁証法』序文より

第1節  人間生存に不可欠な外界認知
 考える力は、非力な状態で生まれてくる人間が生きていくために欠かせない能力のひとつである。物理的な受容、排出はもちろん、知恵を得て、それをうまく外界に対して使って生きていく。その行為の歴史的累積により、現在の高度な社会や文明が築かれてきた。現在の多様な人間社会のありようは、人間が生きていくために、外界を認知する必要があることから必然的に社会が分化していった結果である。

第2節  自己規定に付随するもの
 ところで、外界を認知しようとする過程で外界と比較する対象になるもの、また認知するための感覚器であり主体となるのが自己である。そのとき、自己規定は避けえないものとなる。しかし、いったん自己を規定すると、自分以外のものを一元的に他者として規定してしまうことになる。そのさい人間は外界を自分でないもの、すなわち「対象」として見ることができ、それに手をつけることもできると知る。そうなると人間は外界を同化していくか、または排除していく道から逃れられない。人間の歴史を反省的に見ると、カースト制や絶対王権のように共同体内部で身分制を堅持させたり、戦争や紛争にみられるように共同体同士の排除を行い、豊かであった地球の自然においては絶えず搾取を繰り返してきた歴史であったが、今やそうしたものが維持目的であるはずの人間社会そのものに刃を向けることを知った (1)。限界が見えてきたのである。今では歴史的反省が世界で行われ、人権侵害や環境破壊の見直しがいわれるようになってきた。だからといって、人類史の中で長い時間をかけて世界的に社会システムに組み込まれてきた、支配の伝統や自然搾取による人間生活の維持をいきなり壊すことはできない。壊してしまえば、現在それらの方向性によって社会システムが維持されていたのが自己崩壊を起こしかねない。いったん一つのシステムが自己崩壊を起こすと、そのシステムと関連のあるすべてのものにその影響が波及するであろう。個人レベルと集団レベルでの、「自己」規定と「他者」規定という、人が生きていく以上必然性を伴う認識における、避けることのできないコンフリクトを見出さなくてはならない。

第3節  自己保存本能と他者支配
 また、人間には自己保存の本能がある (2)。そのために自己維持をすることが必要となる。有史以来、数々の共同体が生き残ること、すなわち自己保存を第一の目的に成立してきた。大昔の家族単位の小さい共同体から始まって、近代になって確立された国家に至るまでさまざまな共同体が形作られていった。それは、人間が他の動物と同じような自己保存本能によって(またその卓越した環境適応能力と環境操作能力によって)生き延びてきたことを物語っている。より大きな共同体によって社会秩序を保とうとしてきた人間(自己)は、やがて人間社会のシステムの中で、それ以外のものを他者または客体とみなし、支配力を発揮してきた。たとえば、近代において、口がきけないために、自然は人間の思うまま利用される「対象」となっていった。人間は自然のなかに生まれながら、人間(自己)中心の社会システムを確立することに力を注いでいるうちに、自分が外界に含まれる存在であることを、どこかで忘れてしまった。近代の産業発展における自然搾取は、古代には、人間が自然をおそれ、その人力の及ばぬ大いなる存在を敬っていたという過去を切り離した結果であろう。

第4節  近代文明の根本原理の矛盾
 はたしてどのようにして古代では考えられなかったような「自然搾取」が人々によって考えられるようになったのだろうか。自己規定と、他者(人間でも動植物でも)搾取の暴力性は切り離せない。私は、この問題を認識の面から読み解いてみる。そして一方で、認識の際には「自己規定」と呼ぶ、それと同じ性質のものが、今の文明社会の根本原理を支配していることにも着目する。アイデンティティである。民主主義や資本主義が勝利している現在の社会(先進国でも、そして先進国が主導権を握る傾向のある国際社会でも)では、近代法や政治経済体制に見られるように、常識として一人一人が生きる権利を持ち、個性を尊重され、男女や白人・黒人間、また健常者・障害者間は平等に扱われなくてはならない。成長することは自律することである。そして、人間は究極的には自己責任のもとで何事も行わなくてはならないのである。そういった価値観が、解放や自由をもたらすと言われるが、逆に多様な世界を統一的に、一様に仕上げてしまおうという根本原理に内在する暴力的な性質を見過ごすことはできない。こうした個々人がアイデンティティを形成する必要性とその問題がこの論文の主題であり、それを近代市民社会の抱える二律背反として掲げる。

第2章 「他者」をつくる認識

 この章では、社会学的研究や社会学の方法論についての論文から「認識」のメカニズムをとりだし、人間が本当に「自己」や「他者」をあるがままに認知できているのかどうかについて言及する。生きていくのに両者の規定は必要であるが、両者を絶対的に定義することが可能なのだろうか。人間の主観または主体の恣意を取り除くことができるのかどうか、「客観性」問題を考える。ここでは触れないが、のちに第4章で著す啓蒙という人間の性や、科学主義から、「認識」のはらむ同じ問題が見出せるであろう。

第1節 歪みの存在
 他者(外界)認知では、それが人間の感覚や意識などの、非画一的で不安定な要素群の複雑なつながりによる行為であるため、認知主体による誤解または歪みの発生が避けられない。ここでは、外界認知がどういった歪みをもたらすのか考える。
 まず、「認識がどのようになされるか」という哲学的議論自体がはじめから歪みをはらんでいた。古くからの認識論では、人間がはじめから外界を認知する仕掛けをもっているのか、それとも外界から認知が人間に与えられるのか、どちらかで議論がなされてきた (3)。偉大な思想家による認識論が伝統化し、実際の認識がどうなっているかは考え直されてこず、実証もされなかった (4)
 近代になるとそういった二元論の議論とは趣を異にした新たな認識論が現れてくる。ジャン・ピアジェは、主体と客体は相互に認知作用がはたらき、そうして同時に発展していくことを、子供の精神が発達する過程の生体学的な観察から、新しい認識論として打ち出した。認識の最初の段階においては、認知する人間と認知される外界は未分化であった。最初は自分と外界は一体で、徐々に互いの分化が起こってくる。自己と外界とが分化してくると、自己の外界に対する認識は、事実として必然性を伴い、客観性を獲得するようになる (5)。そして未分化な状態では操作性ははたらかないが、主客分化(脱中心化)後、客体操作が可能になる。相手の構造を理解しているから、そのはたらきや性質を利用したり自己に取り込むことができるのである。
 しかし、主体の自覚は、客体操作を支配的に行う危険性を伴う。秩序をつくろうとする(再構成する)ことでさえ自然支配の第一歩である (6)認識には力がある (7)。その力は、客体操作から支配におよんで、その力を発揮するためには自己を犠牲にすることをも恐れない。自己も犠牲にされうるというが、人間が自己保存を目的とするならそれは矛盾ではないか。いや、そもそも「自己」「他者」という定義そのものに問題があるのではないだろうか。
 個人レベルではもちろん、集団レベルにおいても認識の威力は歴史上で大いに発揮されてきた。私たちはトーマス・クーンの著作「科学革命の構造」において、いったんある一定の価値観に基づく方法論(パラダイム)が定まると、科学は飛躍的に発展を遂げることを知った。通常科学と呼ばれる、自然の現象とうまく一致している間は、その価値観は科学者集団で共通了解となりなかなか疑われない。しかし、いったん集団内でパラダイム移行が起こると、ゲシュタルト転換が生じる。すなわち根本的な認識がまったく変わり、価値観も方法論も変化の前後では完全に相容れないものとなる。認識の転換が示すように、「他者」規定の仕方は決して一様ではない。思考はつねに、周囲へアンテナをのばし、外界から情報を得ようとしている。外界との接触がつねにあるからこそ、本来はあいまいな「自己」の規定も可能になるのであろう。

第2節  排除できないもの−−「客観性」の限界
 社会学の方法論で、いくつもの事実から理論を創っていくときに実証主義的に問題とされていたのが、どうしても恣意的なものが介在してしまう点であった。社会学の目標、つまり社会そのものを見ようとする(定義づけする)とき、主観は排除されるべきか、排除できうるのかが実証主義論争での論題だった。
 カール・ポパーは「社会科学の論理」という論文で、排除不可能であっても、区別をしていくことは必要であると述べている (8)。あくまでも、研究は客観性を追求したものであってこそ、真実に近づいていけると彼は信じた。
 ここでまた、問題は歪みにある。社会をある方法論をもって社会学という学問に移しかえる際には、必ずそっくりそのままにはならない。そこで排除できない主観的なものの存在をどうするか。事実と理論は決して互いに同一化せず、またどちらが先行するとも言えない。客観的といっても限界がある。認識のときにも、これが主観で客観がそれ、と二元的に分類してしまえないのと同様である。認識において、たとえ主客分化が進んで対象の構造を綿密に把握してどんな形ででも利用できるようになっても、主客はお互いを前提としながら分かれていくから、両者はいつまでたっても切り離せない (9)
 ポパーは、その上でより正確で純粋な理論を創る為に余計なものを取り除こうとするが、アドルノは違った。彼は、主観的付加物を完全に排することはできないし、それを排除しようとすることは経験主義の伝統からであって、根拠を認めなかった (10)真理を追求して他の問題との関連性を切り離すと、科学が客観性を達成したと思われ絶対化されてしまうと危惧した (11)。科学がいくら客観的真理を追求目標としようと、研究結果は認識の範囲内に限定される。そこで得られる「真理」らしきものは、認識という媒介を経ている以上、事象そのものではない。したがって即自的に事象そのものをとらえることは不可能である (12)
 さらに付け加えると、認識は相対的なものである。クーンの「科学革命の構造」によると、認識の変化は、累積的な発展だけではなく、あるとき革命的な意識基盤の変化によって一変することがわかる。その前後で、価値観はまったくことなってくる。しかも、個人レベルの幻想でなく「客観」的志向性をもつ科学者集団においてである。価値観変革前後で共通理解は不可能であり(通約不可能性)、方法論も基本的な思考方法も異なる。パラダイムは人間の設定する前提条件(認識)で、その規定の枠組みがあってこそ科学は進歩をとげてきた。認識は相対的であるが、だからといって信頼できないものではない。本来自己保存が目的であった(であろう)外界認識が、人間や人間社会のあらゆる発展に対してもっとも貢献してきたのもまた事実である。認識は人間のもつ最大の武器である。自他共に対して危険な武器である。

第3章  自律のアイデンティティ−−近代市民社会の特質

 認識は力となる。主体が認識することで、外界がある形をもって把握され、主体の内部に取りこまれる。ものをある状態に捉える「認識」は、自己維持や集団維持の原動力となる。人間の根本的な自己保存の欲求が達成される方向に認識がはたらく。そして、さらに高度な認識になると外界はもちろんのこと、自己破壊ももたらしうるほどの操作性をもつ。
 近代では、神という絶対者を取り除くことで自由を得られるとされた。また、目に見えるものを好み、見えないものを見える形にすることを求める人間の傾向(次章に出てくる啓蒙もそうである)が、神という漠然とした存在を共同体の規律として信じ続けることを拒否したと言える。それによって社会はどのように変わったのだろうか。

第1節 力への意志−−自然搾取の肯定
 ニーチェは著作「ツァラトゥストラはこう言った」において、神を越えて、人間が自律して意志することの必要性を述べる (13)。近代における自己責任制を思わせる。弱く不完全であった人間一人一人が、自己を肯定していくことで、(限られた領域において)全能となる。個々人の自由というものが叫ばれ、解放を求めていた人間は、認識の変化によって、外界支配の制限を失い、自然は人間に際限なく搾取された。近代の個人主義は、自然搾取に対する絶対的な神という最後の砦を外し、自然の従属者であった人間を自然の支配者へと祭り上げた。大いなる勘違いであった。

第2節  近代の自由−−自律と孤独
 人間が自律した存在となり、自己責任制がとられるようになると、カトリック的精神に見られるような慈愛や同情は不要となる。個々人は独立した存在でなければならないので、やたらと他者に頼ることは許されない。従って、近代の自由は、孤独をも生じさせる (14)。近代市民が自分自身を律するとき、どうしようもない孤独感も含めて、自己を律して自由が得られる。このように、一番進化していると思われる近代の自由も明確に意味が限定されていて、行き先もはっきりしている。
 一方、自律システムに基づく自由において、「自己」は外界との接触を常態としてはならない。個人は他の誰からも独立した存在であり、「誰」であるのかはっきりと定義されなければならない。全体性という癒着か、個人性という孤立か。近代人は自由の為に後者を優先する。それは、主体である「自己」が外界との関係性を絶つことを要請する。人間は産まれたときから外界と複雑に関連してきた。高度な進化を遂げた動物だと言われるが、産まれるときは最もひ弱な状態で母親はじめ外界からの助けなしには生きていかれない。(だから環境適応能力が最も優れているのであろう。)もともと環境依存型の人間が、「人間社会」という壁を築いて外界との関連性を絶ち、「自律」を達成しようとするのはなぜだろうか。そのことを近代の歴史的背景から考えてみる。

第3節  近代市民社会の特質
 近代に入って、社会という共同体の機能は、それまで外界に対して保守的であったのが、外界をとりこむ体質へと変化していった。
 近代市民社会は、成立から現在にいたるまで「独立」をキーとして見ることができる。アメリカ独立戦争における植民地の勝利と自立、フランス革命に見られる絶対王政の崩壊、今世紀半ばのアジア・アフリカにみられる植民地の独立など、歴史的に大規模な共同体がアイデンティティを主張し、自立を求めた。絶対主義崩壊では、王すなわち神概念が精神面での共同体維持に役立たなくなってきたのであるが、そこには強力な国家からの圧力が国家共同体成員に一方的にかかっていくという事情があった。また当時は産業革命以降で工業と資本主義が発達し、資源と資本が一極集中するタイプの「都市」が世界各地に生まれた。多くの人々が村での生業を離れ都会に流れ出し労働者となっていった。都市の繁栄は、一見して人間にとって理想の楽園を築き上げているかに見えた。しかし、それは資本主義によって一方的な資源搾取がなされるようになったからこそ成り立っている、虚構の繁栄であった。
 そうした事情に抵抗して独立を果たして新しい共同体が形成されたり、また既存の共同体の体質改善がなされた。共同体は、その経緯から必然的に自立をアイデンティティとし、人間同士の一方的な搾取の傷みから学び、共同体内において個人主義を導入した。そうして近代社会では、権利問題の出現に見られるように人間同士のコンフリクトには敏感となってきた。他方これまで人間社会は自然の力とのバランスをとる役割も担っていたのが崩れはじめた。個々の市民社会がそれぞれ力を増し、社会間の共生をはかるうちに、社会の真の外部である自然への扱いがひどくなってきた。資本主義の弊害であった。
 力の不均衡が共同体の独立、自立を呼び覚ましたのであるが、市民社会に浸透してきた資本主義というシステムは、自然搾取という本質的な問題を加速させた。まだ認識されていなかったので、深刻なレベルに達するまで自然搾取は問題にもされなかった。それほどまでに人間中心主義となってきていた。すなわち、人間社会は自律でき自己アイデンティティを確立したが、そのため自然環境や他社会などの外界を「他者」として規定することになった。

第4章 「啓蒙」とアイデンティティ−−破壊と再生

 人間が外界との密着性を絶とうとするのには、重大な人間の本性も関係している。「啓蒙」という本性である。ここでは、その本性を明らかにし、アイデンティティに与える影響を見ていく。

第1節  自然への畏敬と宗教性
 すべて外界の事象は、はじめ人間にとって未知の世界であった。古代に書かれた神話や口伝えに残ってきた伝承は、自然や自然物という身のまわりのすべてが、大昔の人間にとって何がなんだかわからないという恐怖 (15)から起こった。つまり、決して一つにアイデンティファイされないが、生き延びるために意味づけることは必要だったので、なんとか形をこしらえてきた。神話や伝承は世界各地の人々に共通する知恵であり、生存への意志の表れであった。

 自然にみられるような外界から人間が受けとる「恐怖」は本質的であり、免れえない。外界に対して支配的に「発展」してきた人間もまた、自己には「はかりしれない」自然の力によって「造られた」存在だからである。よって、自己の認識を生存目的の力に換え、他のどんな動植物に比してより外界を操作する意志をもつようになった人間も、「恐怖」をすべて克服しようとするものの、かなわない。
 自然は普段穏やかでいて、突然態度を豹変させる。そのメカニズムは巨視的でなく、目に見えない現象が多い。19世紀までは自然科学研究も行きつくところまで行きついたと思われたが、その地盤(パラダイム)であったデカルトの二元論的世界観やニュートンの絶対時間・絶対空間の定義が崩れて、ふたたび安定感を失ってしまった。人間にとって、外界である「自然」は科学的に分析しうるようにみせかけて、なかなか正体を現さない。また、表出する現象とそれを起こすもとの力が「自然」にはある。後者が人間には見えないゆえに「説明」が必要となる。そこで自然現象は神話となり、自然科学もそののちに発展してきた (16)。宗教の神秘性もそこからはじまったといえるだろう。こうして自然現象は人間にとって異世界から来た他者として規定され (17)、また自然物は自己(人)を主体として利用可能な動かぬ客体として、人間から扱われるようになった。人間は、現象を支配する「見えない」何かや、目に見える物と物の間を関係付ける何かになんらかの形をとらせるという「他者規定」を基準に、「自己(共同体)」を形成、または規定してきた。
 人間と外界とのつながりは避けられない。しかしそれをも排除しようとする性質もまた人間が生きていく上でよくも悪くもついてくるのである。

第2節  アイデンティティにおける「啓蒙」の浸透

 人間のもつ自己保存の努力からアイデンティティ形成の必然性があることは最初に述べたが、アイデンティティ形成の際に、主客分化と同じで「啓蒙」も自動的に人間の精神内へ組み込まれる。啓蒙の傾向は、曖昧なものを明確化し、具体的な複数の事象を単純化しようとする (18)

「啓蒙」の自己崩壊(*)の危機  (*)序文 ]U

・神話と啓蒙:啓蒙は神話を排除しようとするが、それ自身に神話が入り込んでいる
「神話はそれ自身啓蒙であり・・・啓蒙が進展していくにつれて、個々の理論的見解は、いずれも避けがたい必然性をもって、単なる信仰にすぎないのではないかという否定的な批判に服し、ついには精神や真理の概念、それどころか啓蒙の概念さえ、アニミズム的な呪術になってしまった」P13

第3節  アイデンティティの失敗

(*)「産業社会の再生産諸条件のもとでは、諸個人は、技術的に利用可能な知識だけは意のままにするであろうが、自己自身についても自分の行動の目標についても、もはやいかなる合理的解明も期待しえないのであり、その同一性(アイデンティティ)を失うであろう。諸個人の脱神話化された世界は、神話の威力が実証主義的には打破されえないのであるから、鬼神(デーモン)に満ちたものとなろう」第二論文 P266

(*)「人間をひたすら先へ突き進む野獣に仕立てあげ、主体と客体との同一性を招来しないところに、理性の狡智が働いているのだ」啓蒙の弁証法 P355

・コミュニケーションによる疎隔 (*)啓蒙の弁証法 W文化産業、P353
「進歩は文字どおり、人々を互いに隔離してしまうのだ。・・・自分達が、ますます疎隔されていきながら、ますます似た者同士になったことに気付く。コミュニケーションは、個別化を通じて人間を均一化するのだ。」P353

(*)個性の崩壊
「今日における個性の崩壊は、たんに個性というカテゴリーが歴史的なものでしかないと理解することを教えるだけでなく、個性が積極的な本質をもつことへの疑いをも喚起する。個人に対して加えられる不正は、競争の時代には、原理的には個人自身の問題だった。だがこのことは、たんに社会の中での個人の機能、個人の個別的利害の機能に関して言われるだけではない。個性の内的連関そのものにかかわる問題なのだ。個性を旗印として、人間の解放運動は進められてきたが、同時に個性は、そこから人間を解放することが求められている当のメカニズムが生み出した結果でもある。個人の独立性とかけがえのなさのうちには、非合理的全体のもつ盲目の抑圧的力に対する抵抗が結晶している」啓蒙の弁証法 P384

・社会学において、避けられないが乗り越えていくべきであろう問題。自己了解(同一性)を一つにすることは不可能。
「社会学は、それが経験的−分析的研究の試みに自らを制限するのであれば、社会体系の自己維持と自己破壊とを、プラグマティックに効果的な調整過程という次元でしか研究することができないであろうし、他の諸次元は否定しなければならないであろう。厳密な行動科学としての社会学の内部では、社会集団の自己了解に関係する問題は、定式化されることがない」第二論文 P266

・同一性の維持と破壊、相互のコミュニケーションとの連関

「再三にわたって−新しく−自己を−同一化していくという困難な過程を、我々はヘーゲルの精神現象学からもフロイトの精神分析学からも学び知っている。・・・同一性の問題は、同時に、没言語的合一と没言語的疎外との、個人性の犠牲と抽象的個別者の孤立化との幸運なバランスを可能とするコミュニケーションの問題でもある。このような、同一性喪失の脅威や言語的コミュニケーションの停滞の経験を、各人はその生活史の危機の中で繰り返している。

しかしそれらの経験は、全社会的主体が自然との対決において同時に自らのみに蒙っている人類史の集合的経験よりも、現実的であるわけではない。この経験領域の問題は、それが技術的に利用可能な情報によっては答えられるはずがないから、経験的−分析的研究によっては解明されえないのである。にもかかわらず、社会学は・・・とりわけこの問題に論及しようと試みてきた。

そのさい社会学は、歴史的方向をもった解釈を放棄することはできないし、また明らかに、この問題が初めてその勢力範囲内で提起されるコミュニケーションの形態を回避することもできない。すなわち私が考えているのは、その中で諸個人が物象化の危険と形態喪失の危険とのあいだを通り抜けるよう舵を取りながら、彼らの壊れやすい同一性を形作っていくところの、コミュニケーション連関の弁証法的な網である。これが同一性の論理的形態のなかにある経験的核心である。意識の進展の中では、同一性問題は同時に、生き延びることや反省の問題として提起される。この問題から、かつて弁証法的哲学は出発したのである。」第二論文 P267-268

第5章  コミュニケーション      【問題解決】

第1節  西欧の認識思想
 長い間、西欧を支配する認識思想は、実体主義から機能主義にとどまっており、二元論から抜け出せず、操作性もせいぜい自己内のシステムを制御するにとどまっていた。しかし、近代に入って複数の事象の関係性を重視する構造主義が現れてきたので、認識の面からも人間の操作領域は広がってきた。認識の力は自然搾取をほしいままにしていく一方で、権利の拡大など自己反省の領域をも広げてきた。

第2節  同一性の生成、破壊(仮題)
 アイデンティティも、認識の力によって大きく揺れ動く。その力で同一性は構成されては破壊される (19)。認識の力自体が不安定なので、本来安定している外の環境世界とのバランスをとり、アイデンティティを固定しないようにする必要がある。自然存在としての人間が自然との共存を図る為には、自然との距離をもちつつも、自己が自然とのつながりを絶って暴走しないよう自己管理する必要もある。人間社会が高度に発達し、個人が自律的に存在するまでに進化を遂げた近代文明において、自分達の社会を外部から管理してもらうことは退化を意味するであろうし、考えがたい。
 現在では、西欧にはじまる文明化、つまり便利で快適な暮しを求めて、発明や技術開発が行われ、効率のよい機械化がすすんでいる。人間にとってだけ「合理的な」システム化(社会制度を含めて)を進行させた結果、人間は自然との関連性を排除し、その弊害として、人間が作り上げたはずの社会が形成されたときの生きた動機 (20)を忘れ、無機的な機能を果たす (21)ことから、人間同士の温かいコミュニケーションが薄れる原因をなしてきた。人間が生存する以上必ず付きまとう不安を、解消しようとするのは永遠の課題である。人間はそのために自然から独立しようとして、自然に一方的なつきあいを強制しようとしてきたのみならず、人間内でも今や関係性を保つのが困難になる状況をつくりだしてきた。そんな状況で、どのように人間が「他者」的存在(他人や自然などの外界)と接していけるかを考える必要がある。

第3節  社会問題と本質的認識
 地域レベル、国家レベル、国際レベルのすべてにおいて、アイデンティティ形成からうまれる複雑なあらゆる問題は複雑な事情が絡み合っているが、結局は特定の価値観からくる偏った「認識」(アイデンティティ)が解決を必要以上に難しくしていることもある。それぞれの文化も大事であるが、「認識」の本質を見つめていくことで、他者に対する排除性、具体的には民族紛争など、アイデンティティに関連する問題の根本的な解決に大きな一歩が踏み出せるのではないだろうか。

第4節  社会と社会学の媒介−−社会学の方法論
 ところで、私たちが秋学期に研究演習Tで扱った、社会学的方法論を中心とした学術的論文(実証主義論争は特に熱心に取り組んだと思う)では、ともすれば現実に程遠いとされてしまうアカデミックな状況で、さまざまなコミュニケーションを通して、生きている社会そのものと社会学、言い換えれば現実と学問とのあいだに行き来するものについて見てきた。

▽社会学が、自己反省の学としてありうるか。
「これまで社会学はまず第一に、決して問題をはらんでいない仕方では、所与の歴史的状況における社会集団の自己反省に寄与してこなかった。社会学は今日もなおそこから脱却してはいないし、社会学が公然と社会的活動の経験的規則性についての情報だけを提供しようとするところでさえ、そうなのである。私は、我々が我々の学科においてこの種のより多くの、またよりよき情報を手に入れるためにあらゆる努力を払うべきだという点では、アルバートに賛成である。私は、我々がそのことに我々を制限しうるし制限すべきであり、あるいは全く制限せねばならないという点では彼に不賛成である」(265)

▽自己反省的社会学における、弁証法の有効性。
 ・・・自分達が弁証法的な思考過程に落ち込んでいることをおりにふれて意識することがある実証主義者達にとっては、弁証法とは、我々が伝統的な推論の規則に従えば本来もはや思考することが許されないようなときにもなお、我々は思考するし思考しうるという経験だけを、語るものとされる。思考が弁証法のなかに巻き込まれるのは、思考が形式論理学の規則を・・・反省一般を中断させる代わりに、自己反省の平面の上でも遵守する為である。厳密な経験諸科学の自己反省は、実証主義的期待に対して遠慮するよう警告している、と私は考える。その自己反省は、我々の理論が現実を単純に記述するものではないという洞察を伴っている。他方では、経験科学的分析が十分の理由があって依拠している境界設定によれば存在することが許されないはずの連関をも解明するものだ、という定義によって、この自己反省が勇気を阻喪させられることはないのである」(268)

第5節  アイデンティティ重視の社会構造
この論文では、認識のもつ力に焦点をあて、威力を明らかにしてきた。そして同時に、認識の相対性、つまり変化する可能性を失わないであろうアイデンティティの形成を見てきた。自己を規定しようとすれば、その周囲も固定的に見る視点が必要になる。そこで自己と外界は境界をもつ。しかし、認識において切り離さざるをえない両者も、まったく関わりをなくすことはできず、常に根本的には関わりあっている (22) 事実に目を向けると、境界が便宜上の仮の存在でしかなく、異なるアイデンティティ間の衝突やアイデンティティの一時的な喪失も、回復の可能性を見出すことができるであろう。また、現在はアイデンティティが重んじられる社会構造ではあるが絶対化はされず、やがては構造自体が変化していくであろう。もちろん、アイデンティティの問題が解決されようと、決してポパー的意味での問題は尽きないと信じた上である。


≪参考文献≫
Tクーン著「科学革命の構造」みすず書房
Jピアジェ著「発生的認識論」クセジュ文庫
ホルクハイマー/アドルノ他著「啓蒙の弁証法」岩波書店
Fニーチェ著「ツァラトゥストラはこう言った」岩波文庫
Tアドルノ「社会学と経験的研究」、「社会科学の論理によせて」
Kポパー「社会科学の論理」
Jハーバマス著「実証主義的に二分割された合理主義への反論」(注:論文中の引用では「第二論文」と省略)
 <以上4論文 アドルノ/ポパー他著「社会科学の論理」河出書房新社 所収>