「方向性としての真理」

目次

 1)自然からの解放
   1人間を取り巻く現実世界
   2自然科学
   3認識でつくり上げられた現実
 2)構築される真理
   1自然保護
   2真理
   3真理の多様性


1)自然からの解放
[1人間を取り巻く現実世界]

 かつて人間の生活は現在よりも自然と密接な関係にあった。人間はまさに自然の一構成員であり、狩猟採集によって食を得、洞穴に住んだように人間の生活は自然と直接向かい合っていた。人間にとって自然が環境であり、それが現実世界そのものであった。しかし現在、わたしたちは人工物に囲まれて暮らしている。コタツ、家、道路、電車、田畑、貨幣、法律、社会制度・・・人間によってつくらた二次的な自然が人間を取り巻く環境をなしている。
 人間は、自己を取り巻く現実そのものである自然に手を加え、現実を塗り変えることをもって自然からの解放を願う。現在わたしたちは二次的な自然、自然科学のもたらす技術開発によって操作可能となった限られた枠の中の世界において生活している。この現実は、それを塗り変えた人間の認識・意識の投影である。

[2自然科学]

 自然科学は、技術開発と結び付くことによって人間を自然から解放するのに貢献した。自然を理解することが前提となることから事象の認識、説明に重点が置かれ、物理的・論理的に研究が展開される。時空を超えた永遠普遍の法則の探求に向かって、現実の自然現象と一致する理論が「真理」であるとされ、その構築が専らの目標となる。 (1)
 科学者集団においては、その基本的前提であるパラダイムに則って研究がなされる。研究者間のパラダイム共有によって、研究の基礎部分を顧慮することなく応用問題から出発し、より効率的・専門的に研究が進められる。また同時に、パラダイムはそれを受容する科学者集団に認識の範囲や方向性を指示する。その限定された枠組みは科学者に確信をもたらし、ひたすらそれに基づく研究に没頭する環境を提供する。パラダイムを共有することによってもたらされた詳細な研究は、自然科学の発展に大きく貢献した。 (2)
 しかしパラダイムに則る研究は、新しい理論の構築を目標とするのではない。自然の方を、理論に適応させる形がとられる。既成の理論に自然を詰め込む作業を通して理論と自然の一致を計り、パラダイムの強化が試みられるのである。パラダイムは問題を設定すると同時に、その理論の方向に解を保証する。それに基づく研究において予期される結果が得られない場合、科学者側の欠陥つまり人間の認識が問題であるとされるのである。 (3)
 また問題発見も、人間の認識の欠陥が出発点とされる。人間は既存の知識体系では解決できない事実に気付くことによって、問題を発見する。その無知の知によって人間の認識の向上、つまり知識の拡大がなされると考えられる。 (4) 科学者は時間・空間的、つまり永遠普遍の真理の獲得を目標とするが、批判によってより多く真であると認められる理論をさしあたって採用しつつ、その理論もくり返し批判にさらすことによって真理へ接近が試みられる。 (5)
 自然科学において人間の認識がとりざたされるのも、「理論と自然の一致」という真理の探求による。両者の一致を困難にしている理論の未熟さは、研究よって導き出された法則や知識に基づく技術開発、またそれに基づく知識の拡大による人間の認識の向上によって克服可能であるとされ、客観性のために多くを捨象し、数字に還元された世界においてその普遍法則を追い求める。

[3認識でつくりあげられた現実]

 自然からの開放を目指した結果、人間によってつくられた第2の自然が現実を支配した。自然科学を媒介に自然現象を自己に適応させてつくったその枠組みに加え、人間の認識可能なものだけにインプットを制限することで、その世界において人間は環境の操作を可能とした。自然現象の理解、そして操作を前提とするこの現実においては、因果関係・普遍の法則の探求、そしてそれらを説明する論理性といった、人間の認識がもっとも重要な関心となり、この現実ではすべてが認識問題にシフトされる。
 この現実は、わたしたちに自己の無意識の部分を意識化することを強制する。人間に認識される/されないに関わらずそこにあり、そして現にわたしたちを動かしているようなメカニズムは、ここでは「そのもの」として存在する理由を与えられない。 (6)
 自然保護を唱える際、自然を保護するという、どこからきたのか論理的な説明に困難を要するが実際に人間が共通に納得する思いは、この認識によってつくられた現実においては門前払いされる。
 法治国家、人間は自己の認識がつくりだした「法」概念によって治められる現実においては、「権利」概念あるいは「価値」基準に照らし合わされて始めて議論上にあがることができる。自然保護を法に訴えるために、権利概念の拡大に伴って快苦の感覚の有無あるいは理性の有無といった権利を有するための基準創出の議論がなされるが、それは同時にその資格となる能力をもたない胎児や重度の障害者などの生存の権利に矛盾を生じさせることになる。法を巡って展開される事象の末端に位置するこういった問題に対してはもはや認識による解決は期待されず、ここで初めてこの現実が根差すメカニズムそのものの洞察に、大きく迂回してたどり着くことになる。
  ギリシア時代の神話のように、目にみえないもので世界が説明されていたときもあった。現代は、人間と人間の関係においても「権利」や「価値」という媒介概念をもってしか相手を受け入れることができないと読み取ることもできる。わたしたちは、無意識をこういった言語化・数値化によって意識のところまで引き上げる作業なしには、リアリティを感じられないのだろうか。

2)構築される真理概念
[1自然保護]

 自然価値を、
@それが資源であることに見出す立場と、
Aそれを生態系として捉え、そのものに価値を内在させる立場がある。
 これらは後にジョン・パスモアによって自然の「保全@」と「保存A」という対立する考え方として捉えられる (7) が、それぞれ異なる自然保護対策に結び付く。
 ・経済的なアプローチ
 自然を資源とみなす経済的「価値」を動機とした自然保護は農業経営的な性格をもち、土地の生産性の向上がもっぱら焦点とされる。品種改良や肥料・機械が投入され、土地の生産性は人間の技術の発展で解決可能であるとみなされる。また、稲の保護・育成のために除草剤、防虫剤が散布されるように、このアプローチでは、経済的に価値のある構成要素の保護にあたって他の構成要素の犠牲は顧みられない傾向にある。
・生態学的アプローチ
 生態学的見地に立った「土地」全体に関心をもつ場合に展開される自然保護のアプローチでは、「土地」における自己再生能力である「健康状態」に目が向けられる。「土地」の健康を保つその安定性を、生物相の複雑な構造である「土地共同体」における相互依存関係のなかに捉え、人間によって外側から作用を及ぼすのではなく、「土地」の自己再生能力である生態系の複雑性の保護が必要とされる。 (8)
 しかし果たして、生態学的知識によって統一的な自然保護が達成されるのだろうか。考慮すべき「健康状態」を維持する生態系の複雑性を、人間は完全に把握できるとは言い切れない。その「健康状態」自身、程度概念であり、“優・良・劣”と、基準を簡単には設定できない。
 生態学的知識をもってみると、先の経済的な価値が動機となった自然保護の主な戦略である技術開発による生産性の衰えを補う行為では、問題は解決されないばかりか、表面的な因果関係の処理へと問題をすりかえるにすぎない。この認識問題へのシフトによって生産性の衰えをもたらす「土地」の「健康状態」という、目に見えないが世界を形作っているメカニズムに対する考察が放置されることになる。ここにも数値化され認識可能な「生産性」という要素が即問題とされる事実をうかがうことができる。また自然=資源という、人間が経済的「価値」、利用価値を基準に自然を認識することによって、人間と自然との接点が、利用を前提とした生産物を介してもたらされていることが示される。 (9) 自然はもはや人間にとって環境の一部でしかない。
 

[2真理]

 環境保護という同じ目的においても全く異なるアプローチが展開された。これは世界が様々な事象の相互依存関係の上に複雑に成り立ち、「真理」と掲げられるものが多様であることを物語っている。自然科学・社会科学・生態学・経済学といった学問分野がそれぞれの「真理」を掲げて活動していることからも実感できる。
 ある共同体において「真理」が掲げられた瞬間からその世界ではすべてがそれを巡って動き出し、次第にそのメカニズムは大きな波となり、絶対的な力を獲得してその歯車にすべてのものを飲み込みつつ自ら回転し始める。「真理」やそれに基づく「価値」、「善悪」、「問題」とされるものは絶対的なものとして、共同体の構成員の認識の方向を規定する。科学者集団が共有するパラダイムはこの概念の一種であろう。
 ある限られた共同体の中での「真理」とされたものを唯一絶対のものとして捉えるところに矛盾が生じる。生態学や、社会科学が扱う事象においては、自然科学が唯一絶対として掲げた永遠普遍の法則は真理とはなり得ない。それを転用することはむしろ、自然保護において見られるように問題を誤った方向へ導きかねない。

[3真理の多様性]

 現在問題とされる少子化の傾向は、高齢化社会と結び付いて国民労働層の経済的負担が増加するという視点からの論議がなされる。一方、地球のcarrying capacityは人口の増加で限界に近づいており、全人口を満たす食糧の生産についての安否が問われるという生物学的見解がある。しかし普通この2つの見解は同時には展開されない。日本国内では少子化が問題、一歩世界に出ると人口圧が切迫した問題とされる。自然の自律的なメカニズムについての生態学的知識の欠如により、わたしたちは地球の「健康状態」についておそまつな危機感にとどまるのと同時に、食糧不足は未開拓の土地を技術発展によって農地に転化することで解決可能であるという今までと同じ技術依存の人間中心的見解に捕らわれる。現在わたしたちが懸念することができるのは、個々人に直接に影響を及ぼす経済的な要因に依るところが大きい。
 人口問題や環境破壊に限らず、問題は、政治・経済・文化など、分化された世界において、様々な要素が絡み合って、複雑に展開される。多様な「真理」が飛び交い、身動きがとれない状態がつくりだされる。
 「真理」概念はわたしたちに進むべき方向、目指す目的を示す。なににおいての真理なのか、なにを目指しての真理なのか、その前提を問うことなしに固定化された「真理」概念や、それによってもたらされたシステムや価値観に満たされた世界に従属してきた姿勢が今、問われるだろう。
 個々の真理が交錯するところに人間が探求してきた根本のものが現れるだろう。わたしはそこに「豊かさ」への欲求を見出す。環境破壊という複雑な問題を目の前にして、自然とともに生きる人間が、今一度この「豊かさ」の意味を問い、自己の態度を顧み、真にに求められる「真理」を再構築する機会であると考える。


[参考文献]
『社会科学の論理』河出書房新社(1992)所収
 −『社会学と経験的研究』テオドール・W・アドルノ
 −『社会科学の論理』カール・R・ポパー
 −『社会科学の論理によせて』テオドール・W・アドルノ
『科学革命の構造』トーマス・クーン(1971)みすず書房
『環境思想の系譜3』東海大学出版社(1995)所収
  『自然保護−全体として保護するのか、それとも部分的に保護するのか−』
  アルド・レオポルド
『野生のうたが聞こえる』アルド・レオポルド著、講談社学術文庫(1997)所収
 −『土地倫理』(1949)