[25] ここで注意してもらいたい点は、私が記載した原初状態がロールズが提唱する原初状態とは違うことである。ロールズの原初状態とは、 「このような決定は、誰も社会における自分の地位を知らず、生まれつきの才能や能力の配分において自分がどのような状況にあるのかさえも知らないということをその重要な特徴の一つとする、適切に定義された始源状態において行われるものと考えられる」(『公正としての正義』P124) ということだ。『公正としての正義』では、始源状態という言葉が使われているが、これは原初状態と同義である。この原初状態を考えれば、人間は平等を望むというのがロールズの議論である。  しかし、ピアジェの原初状態は 何も「望まない」。ロールズは原初状態そのものに共同性を見出そうとしたが、ピアジェは中心化された原初状態から、自分をあまたある客体の一つとして認識する脱中心化の過程において共同性がくみ上げられていくのである。ピアジェの考える共同性は静的ではなく螺旋をなした動的なものであるところに注意したい。その螺旋に関しては以下の部分を参照した。 「レヴィ=ストロースは弁証法的態度にわずかに《分析的理性以上の何ものか》を認めるにすぎないが、この何ものかは実は《橋をかける》よりはるかに重要なことをおこなうもので、これがおそらく、線形的なモデルや樹木状のモデルのかわりに、あの有名な《螺旋形》すなわち堂々めぐりに終わらぬ円環的前進を導入することになる。この円環的前進は、発生的円環、すなわち発展というものの過程に固有の相互作用に、きわめて類似したものなのである」(『構造主義』P127〜128)  また「主体も客体もないような原初状態で、人間はいかにして自己や環境を把握していくのであろう」という疑問も生じるであろう。つまり、発達の開始はどこにあるのかという問題である。ピアジェは発達の開始段階は二つあるという。一つは吸乳反射のような遺伝的なもの(こちらはあまり大きな要因としては考えられていない)。二つは同じ動作をもう一度行う再生的同化である。後者の論点は、『新しい児童心理学』に詳しい。 「じっさい、発達の出発点は、たんなる孤立的反応と考えられるもろもろの反射に求めうるものではなくて、生体の自発的かつ全体的な諸活動(フォン・ホルストらの研究した)にこそも求めるべきものであり、それらの自発的・全体的諸活動の分化と考えられると同時に、また、場合によっては(繰り返すうち、だんだん消えていったり、いつも一定不変だったりするのではなく、だんだん発達する反射の場合)もろもろの同化のシェマの形成を促すような機能的活動を呈しうるとも考えられる、そういう反射にこそ求めうるものなのである」(『新しい児童心理学』P12〜13)