(4)「・・・干渉しているもの、連結されたものとしての社会がその徴候に対して優位を占めていることは、社会的認識においては、社会の概念に由来する洞察がまずあり、その先取りされたものと特定の素材とが後から対決させられることによって、はじめて社会学的個別問題が出てくると言うところに表現されています。いくぶん一般化していえば、ベーコンやデカルト以来の偉大な哲学によってある程度の自立性を保ちながら展開され伝達されてきたような認識論は、経験論者においても上の方から着想されているのです。これらの認識論は、実際に行われる認識に対しては、しばしば適合しないままにとどまりました。つまりこれらの認識論は、実際の認識には疎遠で外的な、帰納的あるいは演繹的連続体としての科学の企図にしたがって、実際の認識を適当に切り詰めてきたのです。認識論の当面の課題のなかには、認識成果をまず論理的あるいは科学主義的なモデル−−本当はこんなものに生産的な認識が合致するはずもないのですが−−に従って記述する代わりに、では本来いかにして認識されるのかを反省するという究極の課題・・・は含まれていなかったのでしょう」社会科学の論理によせて P136