《目次》
はじめに
第1章 フロムの『正気の社会』にみる人間像
 1 人間の存在条件 −発生論の観点から
 2 人間の存在条件から
 3 統合感と個別感を満たすものとしての愛情
第2章 フロムにみる「社会」と「人間」
 1 社会を見る視座
 2 近代以降の社会像
第3章 人間存在の逆説性
 1 フロムにみる現代人の逆説的状況
 2 芸術論にみる人間の苦悩
むすび


はじめに

 現代に生きる私たち「人間」という存在は多かれ少なかれ何等かの違和感を感じて生活を送っている。例えば、個性が大切だと感じていながらも、変わっている人を指し手「天才」だと称える一方で、好ましからぬ、変わり方である場合は「変人」「馬鹿」などと蔑むように。このような違和感は社会という雰囲気の中で生み出されていくものだと感じることが多いが果たして、それだけなのだろうか。人間自信そして社会に本質的に内在する逆説的な存在状況が存在しているとはいえないだろうか。
 本稿においては、エーリッヒ・フロムの「正気の社会」を中心として、人間そしてかれを取り囲む環境世界としての「社会」に関して、@人間存在の本質的状況 A人間を取り囲む社会とはどのようなものなのかを検証し、Bその中での人間と社会の関係性について改めて考え直してみたい。

第1章 フロムの『正気の社会』にみる人間像
1 人間の存在条件 −発生論の観点から

 人間はその身体・生理的な機能面に着目すると動物界の一員として見ることができる。では、この人間を他の動物と区別する由縁は一体何だろうか。『正気の社会』におけるフロムの人間観に関する議論はここからはじまる。フロムは人間とその他の動物を自然との「調和」という関係性に着目し、その親和関係の強弱によって分類を試みた。 (1)フロムによると「動物は、自然の生物学的諸法則にしたがって<生かしてもらっている>。 (2)つまり動物は自然の一部分なのであって、自然を超えることは決してしない。[中略]動物の存在というものは、動物との間にできたある種の調和のあらわれである。」とし、動物は自然と一体的に調和する存在であるとした。一方で、人間は自我意識、理性 (3)、想像力を発達させたことにより、動物の特徴であった自然との「調和」をこわしてしまった存在であるとした。
 つまり、人間は動物界の中の異端であり、自らのすみかである自然から抜け出した存在であるということである。このことは、原始人が原始的な採集・狩猟生活から火の使用や農業をはじめたことにより自然の脅威から自らを解放した歴史的を振り返ってみても理解できる。しかし、フロムは同時にそのような人間の存在を「耐えざる、しかも避けられない不均衡の状態」 (4)「人間の誕生は、消極的な行為(p248)」(5)と呼んだ。
 人間は、その他の動物との分化の過程で、自然から先天的に与えられた本能 (6)を失った。このことは、自我意識、理性そして想像力を獲得した人間が、自然に対して受身的な役割を脱して、能動的、操作的に行動できることが可能になったことを意味する。しかし、同時に、人間は生物学的な面では、自然に対して最も無力な動物になったことを意味する。 (7)ここに人間存在の本質的矛盾があらわれる。人間は、自然の束縛から抜け出すだけの理性・自己意識を得た。しかし、人間は諸動物のなかでは無力な存在である。人間はその理性ゆえに、自然という自らを枠を拘束するものから抜け出すことができたものの、人間には自然と対峙して生活することができるだけの力が無いとともに、それを可能にする本能を失ってしまった。 (8)これがフロムのいう人間の存在が「不均衡」、「消極的」という意味である。 しかし、この矛盾が生んだ積極面も見逃すことはできない。「人間はかつて自然と調和して人間以前の状態にもどるわけにはいかない。つまり、人間は、その理性を発達させて自然をも、支配できるようになるまで前進しなければならない。」 (9)とあるようにフロムのいう人間存在の矛盾、それにともなう不可逆性が人間を発達させた側面も否めない。フロムも人間の歴史を振り返ったとき、進歩の傾向の強さが見られると指摘している (10) 
 これまでフロムの文献から、人間の存在条件をその発生的観点から論じてきた。この存在条件に存在している矛盾・不均衡は、人間に様々な行動欲求の源泉となる。 (11)と同じそこで、人間の存在条件からうまれる諸欲求について述べてみたい。

2 人間の存在条件から生じる諸欲求

 フロムは「人間行動をひき起こすもっとも強い力は、人間存在の条件、つまり<人間の状況>から生ずるのである。人間が静止したままでいきられないのは、人間のもつ内的矛盾が、人間に均衡を求めさせ、動物的な自然との調和を失ったかわりに、新しい調和を求めさせるからである。」 (12)と述べている。 それでは、まず人間の存在条件に端を発する人間の欲求のうち共生的な欲求について論じてみたい。「人間は動物的存在の特徴であったかつての自然とのつながりを失ってしまっている。人間は理性も想像力もともにもっているので、自分の孤立と孤独に気づいている。[中略]本能に制約されていた古いきずなに代わる新しいきずなを、仲間との間に結ぶことができなければ、人間は瞬時たりとも、こういう存在の仕方に対決できない。」 (13) この引用からも理解できるように、自然との調和を失ってしまい、かつ、もとの状態にもどることもできない人間は、それにかわり他の人間との共生的(symbiotic)な関係を求める。
 この関係は2つに大別することができる。「服従」と「支配」である。「服従」的な関係は、ある人間、集団、制度あるいは神など自分のしたがう権威に服従することによって、その対象との同一感を経験する共生のあり方である (14)。他方「支配」の関係に関してフロムは「世界を支配する権力を持ち、他人を彼自身の一部分にしさらに他人を支配しておのれの個別的な存在にうちかつことによって、自分と世界とを結び付けようとすること」とその共生のあり方を述べている。 (15) 
 しかし、この2つの共生のあり方は共に、自分の個性的なあり方を推進せず、むしろその対象への依存を生み出す。ゆえに、人間存在の相矛盾する二つの性質であるから生じる統合感と個別感の両欲求を満たすことができない。 (16)

3 統合感と個別感を満たすものとしての愛情

 この統合感と個別感という共生への二つ欲求を満たす唯一の共生のあり方が愛情である。フロムはこの愛情を次のように定義している「愛情とは、自分自身は切り離され独立したままで、自分以外のだれか、なにものかと結ばれることである。」。 (17)
 フロムはこの愛情を「生産的構え」の一側面であるとした。(18)そして、「愛情」が自分自身、仲間、自然に対して積極的に自らを関係づけ、対象と一体となりながら、いぜんとして相互の個別性を維持するという逆説的な現象をおこすとした。 (19)しかし、フロムはこの「同一感」と「個別感」の逆説的な関係の上に成立する「愛情」の経験の中に、注意、責任、尊敬および知識という特定の態度がみられるといった。 (20)ここにフロムが「愛情」を人間の存在条件の根源的な欲求である「個別感」と「統合感」を発展的に結合する共生のあり方とした理由がある。
 フロムがこの「愛情」を論じる上で、その対象は一人だけに限られるものでなく、生きているすべてを愛する対象としている。 (21)ここで想定されている「愛情」は、特定の他者との統合感だけが際立つ恋愛のようなあり方でなく、生産的な愛情の形である兄弟愛・母性愛においてみられる。フロムはここで恋愛の特性を「分離性をもってはじまり、一体性をもって終わる。」とし、他方で母性愛を「一体性ではじまり、分離性にみちびく」ものと定義した。 (22)この点は、先述の人間存在の諸欲求の持つ不均衡性が生み出す積極面として挙げた、人間が自然と調和して暮らしていた人間以前の状態に戻れないために、自然を支配可能にすべく、前進しなければならないという面と符号する。
 フロムの描いた人間は、その発生的な根源から自然の支配に向けて絶えず前進しなければなら欲求と、その反面で母性的・自然的なものとの同一感・統合感を達成したいという欲求という2つの条件の均衡関係の中にある。この2条件の均衡関係が、その人間の暮らす社会のあり方を決定づける。これが彼が、社会をみる際の基本的な視座である。これ以後はこの視座に基づいて、近代以降の社会がどのように形成されたかどうかを見てみることにしたい。

第2章 フロムにみる『社会と人間』
1 社会をみる視座

 フロムの社会観をみる前に、人間の根源的な二つの欲求がどのような社会構造を生みだすかを観てみたい。人間の個別感、自然を支配しようというという性質を有する家父長的社会と自然や母親と同一感を与えてくれる母性愛的な母家長的社会である。 (23) まず、母家長的社会は自然のきずな、自然への固着、母性愛の持つ無条件の愛情をあらわしている。 (24)そしてこの社会の積極的な側面としてバホーフェンは、「母家長的な社会構造にみなぎる人生や自由や平等に対する肯定感」であるとし、同時にその消極面として「自然や血統や土地に拘束され、人間は個性と理性とを発達させるのを妨げられていること」を挙げた。 (25)一方、家父長的社会は、理性の発達を基盤に、生存と安全感を基礎として、人工の観念、原理などを構築し、それを自然の代替物とする。例えば、抽象、良心、義務、法律、階級性などがそれである。 (26)この社会の積極的な側面は、理性、訓練、良心および個人主義を発達させた点である。消極的な面は、階級制度、抑圧、不平等が肯定される内的な構造を持つことである。 (27)それでは、この2つの社会構造を念頭に置いて、フロムの考える近代以降の社会というものを見てみたい。

2 近代以降の社会像

 古代、母家長的であった社会が、ユダヤの時代以降、家父長的社会構造が支配的となり、その特徴である理性の発達によって、ギリシア哲学などにみられる文化的、社会的な発達を促した。中世に入ると絶対的な権力を有した制度的な教会に母家長的な要素が加わり、その権力に対する母性愛的な無条件の服従が見られるようになる。「暗黒時代」といわれる中世が1000年間続くことになる。
このような流れを経て、再び家父長的な社会構造に基づいた爆発的な社会的精神的発展がふたたびはじまった。「個人と自然の発見」というイタリアのルネサンス、宗教改革がその発展の基礎となる。そのなかでも宗教改革は大きな影響を及ぼすことになる。プロテスタンティズムやカルヴィニズムは、カトリックの母権的な要素を追放し、純粋に家父長的な旧約聖書の精神に復帰した。その結果、人間は孤独となり、また、きびしく厳格な神に直面し、その神に対する絶対的服従という行為をすることなしには神の恩恵を受けることができなくなってしまった。 (28)  
 このように、教会に代表される封建的な束縛から解放された人間は孤立と無力の感情を増大させる結果となったが、家父長的な積極的側面は合理的な思想と個人主義の再生という形であらわれた。合理的な思想は、合理的精神と客観的精神を生み出し、現代の近代科学の隆盛を生む。一方で個人主義は、個人的良心と社会的良心の発達を呼び起こした。しかし、その反面、国家や人がつくった法律や世俗的権威を重んじ服従するという傾向があらわれた。 (29)
 また、宗教の面では母家長的な面は消滅したものの、その要素は現代の西欧社会においても存在する。母家長的な社会が持つ積極面である「人間は平等であり、人生は神聖であって、すべての人間が自然の産物にあずかる権利がある」 (30)という考えは、自然法、人間主義などの目的に表現された。このような考えは、すべての人間が母なる大地の子であり、大地によって養われる権利をもっているという母家長的な精神に由来する。 (31) 
 しかし、このような家父長的精神と母家長的精神の積極面が混合した発展がおこった反面、両方の消極面も発展した。それは次のようなものであった。「中世社会の束縛からは自由になりはしたが、新しい自由が彼を孤立分子に変えてしまうことを恐れて、人間は、血統と土地の新しい偶像へと逃げ込んだ。そのうちで、国家主義と民族主義は、もっともはっきりした二つのあらわれである。」 (32)つまり、発展した近代西欧は、盲目的な氏族崇拝の新しい形式へと逆戻りしてしまった。さらに、進歩的な運動だった国家主義が、封建主義と絶対主義という束縛の変わりの位置をしめることになった。 (33)このような状況をフロムは「17世紀と18世紀のヨーロッパ大革命が、<からの自由>を<への自由>にかえることに失敗した」と論じた。 (34)
 なぜ、人間は国家主義、国家崇拝という近親愛的な固着へ退行 (35)を示すのだろうか。フロムはこの問題に関して、「わたしがわたしである」という同一感 (36)求める欲求と自分を方向づける枠組みを求める欲求 (37)が人間の存在条件から生じるからであると説明した。
 まず、同一感を求める欲求に関してである。近代欧州の大革命の結果、人間を束縛していた権威から解放し、自分で考えるように教え、自分が活動する主体であり、主体として経験することにより「わたし」という経験をさせようという個人主義の考えがひろまった。しかし、多くの者がその経験を得ることに失敗し、個人的な同一感を得ることに失敗した。そこでその代用として国家、宗教、階級および職業という集団との同調が新たな同一感を得る手段として用いられた。個人主義の欠陥が人間の退行を生みだしたという考えである。 (38)
 次に、自分を方向づける枠組みを求める欲求に関してである。人間は、あまりにも沢山の現象に取り囲まれており、このような状況下で、理性を発達させて自らで方向づけをしようとする。この方向づけの欲求には、二つの段階が存在する。第1は真実だろうと虚偽だろうと何等かの方向づけの枠組みを持つことである。第2は理性を発達させ、世界を客観的に把握しようとする欲求である。第2の欲求はともかく、第1の欲求が満たされなければ人は事象を方向付けて考えることができなくなる。この欲求を獲得できない人々にとって有効なのが宗教、国家などである。この第1の欲求が満たされない人々は幸福と落ち着きのためにこのようなものに服従しようとするのである。 (39)

第3章 人間存在の逆説性
1、フロムに見る現代人の逆説性

 このような家父長的な側面と母家長的な側面が混合している近代以降の社会構造を踏まえて、フロムは資本主義社会の分析も試みている。その中でも、特に20世紀の資本主義社会において、母権的な社会の中で指摘されている人間主義的な側面の長所によって、王侯貴族や教会、資本主義の黎明期にみられた封建的な搾取などの非合理的権威は消滅したものの、合理的な権威も同時に廃れた。とって変わったのは、市場と契約の調整機能が人間関係における調整機能をもち、何が正しいのか、なにが善であり、悪であるのかより、ものごとの公正が重要になった。 (40)
 このような社会構造においては、必要とされる人間とは、大集団においておだやかに協力し、標準化されていて予想可能な人間であるとフロムは考えた。 (41)また、理性の発達と不可分な抽象化 (42)が産業の巨大化・複雑化にともなって、生産・消費のみならず様々な生活の範囲にまでひろがった。そのことによって、人間の世界についての概念は具体的な経験可能な領域をはるかに超えてしまい人間的な性質を失い、数値などにとって変わることとなる。 (43)さらに人間は、他人をも自分をも、あるがままに経験できなくなり、無意識のうちに歪められたものとして経験するようになった。 (44) 
 このような人間の状況をフロムは、社会的に規定された欠陥ではあるものの、規範的な人間主義の立場 (45)から病的であると考えた。ここで言われている人間主義的な健康の状態とは、「自分を能力の主体として経験することに基づく同一感、そして、自分の内心および外界の現実を把握すること、つまり客観性と理性の発達である。」 (46)とフロムは考えている。そして、現代が不安の時代と呼ばれるのは、人間主義的な健康を獲得できない自己喪失から生じていると考えた。
 しかし、病的な人間はこのような環境世界との積極的、生産的 (47)な関りを求めることによって問題を「同調」することによって不安を解消しようと試みる。それは、いままでみてきた社会の変化によって、数世代前には宗教的な罪に関連して感じた罪の意識が、現代では他人と違うことに対する不安や不当の意識に置き換えられたからである。このような背景から、薬物中毒者が薬物に頼るように、「他人」と同じであることを望むのである。 (48)
 フロムは、人間が自分を世界に関係づけるには2つの方法があると述べている。まず第1に「世界をあやつり、利用するために、それを自分がみたいようにみるありやり方」 (49)であり、感覚的、常識的な経験のしかたともいえる。第2の方法は、感情、気分などによってつくられた自分の内部体験、すなわち主観的な関係づけの仕方である。 (50)彼は、正常な人間は、外界、内面の両方において世界との関連づけができておいる人であり、その人の生産性はこのような近くの両極性から生じるものであるといえる。 (51)このような考えに基づいて、フロムは病的な疎外された人間のあり方を「子供っぽいえら偉がりの考えから脱却して、限られているが現実の力を確信すること、だれもが宇宙におけるもっとも重要な存在であると同時に、一匹の蠅や一本の草ほどの重要さかも知れない、という逆説を受け入れる事である。」 (52)とした。

2 芸術論にみる人間の苦悩

    このような人間存在の逆説的な議論は、芸術活動と人間の関係を述べた山崎正和の著書においてもみることができる。そのなかで彼は、人間の認識プロセスの実用性と非実用性に着目し、次のように述べている。「現実的であれ、芸術的であれ、行動する人間がまず、一種の漠然たる感情から出発することには、違いはない。しかし、人間が現実的な行動に進む場合、彼は最初の瞬間に、それを名づけ得る明快な感情に置き換えてしまうのである。漠然たる不安は《怒り》や《悲しみに》と命名され、あらゆる微妙なニュアンスはそのことによって容赦なく切り捨てられる。<中略>しかし、人間はその虚構の感情の上に立ってはじめて行動の目的を決めることができる。私たちが《決意》とか《選択》とか《企て》と呼ぶものはすべて同様であって、それを明快に基礎づけているのはこのにせの感情の明快さなのである。」 (53)と述べている。
 このように、人間の内面、外面に横たわる様々な情報 (54)を無意識的に選別することによって、その目的に適した行動をしているといえる。
 このような認識構造にあり、またそのことによってしか生きることのできない人間は、さらに時間に翻弄されるとい宿命的な性向がある。山崎正和はそのあり方を2つに分類している。第1はそのような時の流れに対して受動的に身を委ねているというあり方である。第2は、一般的にいう「前向き」な生き方、あり方である。 (55)
 このような「前向き」に生きている人間は、未来の目的に絶えず引きずられていると彼は述べている。そして、そのような状況下において人間は、「いまだない自分」と「もはやない自分」との二重の空虚の中に人間はあり、さらにかれを絶えず引きずる未来の目的というものも存在していない為に、常に自分を置き去りにしている。 (56)  
 このような状況にある人間にとって、芸術活動を「自己とこの世界との関係を確認する仕事である」と述べるとともに、ハリソン、コリングウッドという思想家の言葉を用いて次のようにも述べている。「人間にとって自分が何を見ているかを確認する仕事である。(フィードラー)」「自分がいかに行動しつつあるかを確認する仕事である。(コリングウッド)」。 (57)
 すなわち、自らの環境世界たる時間、空間の双方を抽象化された形でしか捉えられず、またそれに翻弄されている人間が環境世界を再度検証し、忘れかけていた自らの本質を呼び戻す作業であるといえる。

むすび

 ここまで人間、そして、かれを取り巻く環境世界たる社会に関して検証をしてきた。今回の検証プロセスの中で明らかになったのは、人間の存在には、その発生的、生物的な起源か発する外部環境たる「自然」との対立的な構造があること。理性や想像力を発達させた存在であるがゆえに「常に前進すること」を欲求があること。そして、多量の情報を取り込むことが出来ると同時に、言葉という抽象化プロセスを伴うコミュニケーションが出来る故に、無意識のうちに行動目的の選別をおこなうことができること。その反面、「目的」によってしかモノを認識できないという危険性が伴うこと。などを改めて理解することができた。しかし、このような人間の存在状況のいずれもが現代の人間の隆盛の基盤となっていることも否定できない。
 しかし、近代以降から現在に至るまでの社会の状況は、このような人間の存在状況を先鋭化させるきらいがあったことが伺える。その中でも特に「常に前進すること」を要求する人間の本質に根ざした欲求は、目的合理性を志向する「科学」や「市場」との関係性のなかでその傾向を強めたといえる。その結果が、近代以降から現代まで、特に顕著になった人間の感じる違和感の理由といえるだろう。
 その打開策として、フロムは自己の限界、己のはかなさを知りつつ、生産的な主体としてベストの行動を尽くそうと考えた。一方で芸術論は、その活動の源泉となる脱目的的な視点を確保することで、目的合理性とそれに付随する「前向き」という名の未来からの絶えざる引きずり回しをうける人間を「現在」に引き留めうること考えた。この考えは一見、「人間」の生き方、あり方に関して相容れないようにも見える。しかし、芸術論の指摘している「前向き」とは、自己の置かれている状況に対する無自覚のもとに行われているものである。一方で、フロムの指摘した人生にベストを尽せということは、その前提として自分の置かれている状況への自覚と受容の態度がある。この点において、私は、この2つの意見が目指すところが同一でないまでも、自己の置かれている状況に対する自覚という点で共通しており、類似した打開策を提示しているのではないかと思う。
 これでは、人間の置かれている状況に対して何等の解決策を提示していないようにも見えるが、この問題に関して重要なのは、その置かれている状況に対して気が付いているかいないかにあるように思える。


【記号】
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引用範囲内の「」:〈〉

フロム『正気の社会』:(Fromm, 1955, 訳pxxx)
山崎正和『人生にとって芸術とはなにか』:(山崎, 1979, pxxx)

【参考文献】
 Fromm, Erich (1955), The Sane Society, New York, Rinehart & Winston(加藤正明・佐瀬隆夫訳『正気の社会』世界の名著76 中央公論社 1979)
山崎正和著(1979) 『人生にとって芸術とは何か −近代の芸術論の発見したもの−』世界の名著81