《 目 次 》

第1章 序論
 1-1 はじめに
 1-2 現代文化に見るアイデンティティーの危機
 1-3 アイデンティティーの危機と現代の問題現象
 1-4 具体的な分析:神戸小学生連続殺傷事件
 1-5 問題提起
第2章 独力によるアイデンティティーの確立 〜 デカルトの視点
 2-1 はじめに
 2-2 アイデンティティー確保としての「我想う故に我あり」
 2-3 デカルト分析
  2-3-1 環境認知の問題
  2-3-2 真偽の可変性
  2-3-3 ダブルバインドの問題
 2-4 結論
第3章 社会に支えられたアイデンティティー 〜 デュルケムの視点
 3-1 はじめに
 3-2 社会とは
 3-3 デュルケム分析
  3-3-1 教育問題
  3-3-2 社会の拒否
  3-3-3 社会実在論の問題
 3-4 結論
  3-4-1 教育の問題
  3-4-2 社会の拒否と社会実在論の問題
第4章 システム的なアイデンティティー 〜 ピアジェ、ルーマンの視点
 4-1 問題点の整理
 4-2 デュルケムにおける真理の揺らぎ
 4-3 方法的構造主義の視点
  4-3-1 全体性と自己制御 〜 相互作用
  4-3-2 変換性 〜 真理のネットワーク化
 4-4 オートポイエーシス的自己
第5章 結論


第1章 序論
1-1 はじめに

 私が校内を歩いていると、
 「これは私が決める」
 「それはあなた自身の問題だから、最後はあなたで解決しないと」
 「あなたの人生はあなたの力でつかんでいかなくては」
 「僕が勉強しているのは自己実現のためだ」
このような声を聞く。これらの言葉からは「個人性を尊ぶ」現代人の姿が読みとれる。そして、このような自律した人間こそ現代社会が求めている人物像なのかもしれない。
 しかし、「これまでは個人性が尊重されない暗黒の時代で、これからは個人性が尊重されるバラ色の時代が到来する」と考えるのは早計ではないか。前の時代を否定して、今の時代を肯定するだけでは、歴史の連続性は見いだせない。私たちがなすべき事は、個人性尊重の時代を手放しで賛美するだけではなく、個人性を尊重する新しい時代に移行するからこそ、過去から培われてきた大切な何かが失われていないか、をチェックすることであろう。
 もう一度、冒頭の言葉に戻ってみよう。これらの言葉にも現代人が失いつつある何かが隠れているはずである。「私が決める」「人生は自分でつかむ」と発言したときに、その私・自分を生成した背後の存在を想定しているだろうか。「あなた自身の問題」と言い切ったときに、問題の共有は存在するのであろうか。自己実現の自己とは、自分の欲求を自分だけの力で満たすことであろうか。これらを考え直してみることによって、個人性の尊重と共に、共同性・社会性が失われつつある現代をかいま見ることができる。
 さて、個人性の尊重、共同性・社会性の崩壊によって生じた一番顕著な問題は環境問題である。地球環境では、それぞれの国が個人主義に走れば、社会的な利益は明らかに悪化する社会的ジレンマなのである。そのような危機感から、ようやく地球レベルでの環境政策が立案されるようになった。しかし、たとえ環境問題の社会的ジレンマが政策という合理性の印籠によって解決されるとしても、心底納得しない各国は存在し続ける。社会的ジレンマの政策的解決は、単に「社会にとって最も合理的な方法」を提示するだけである。それに納得するかしないかは、個人の判断にゆだねられる。もし、個人が「社会にとって最も合理的な方法」に対してフラストレーションを感じるなら、それは真の解決とはいえない。確かに「社会に従わない個人が問題だ」ということは可能だが、社会という巨大な影を恐れ、拒否する人が増えているのは厳然たる事実なのである。
 この問題に何らかの解決があるのなら、それは社会というものを理解できない個人の心理を分析してみることであろう。つまり、共同性を感じることのできない個人の心理を分析することである。

1-2 現代文化に見るアイデンティティーの危機

 この論文を書くにあたって、私はずいぶんとインターネットのお世話になった。論文のデータを集めるために「本当の自分」「自分らしさ」という言葉で検索すると、なんと数千の候補がヒットした。それだけ、現代の人間は、「本当の自分」「自分らしさ」という言葉をキーワードに使い、また、「本当の自分」「自分らしさ」が存在すると考えている。このような考えに至る原因は、外部から抑圧によって本当の自分を表現することができないと考えているからではなかろうか。以上のような現象を「アイデンティティーの危機」とまとめて扱うことにする。
 アイデンティティーの危機は、社会問題として、近年ますます注目されているが、その発端は戦後間もないころから現れている。太宰治の人間失格にはその人間像がよく現れている。人間失格に出てくる主人公は、子どもの頃から絶えず相手を笑わすことに専念してきた。
「何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間達は、自分が彼等の所詮「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死にお道化のサーヴィスをしたのです」(『人間失格』P13)
他人を笑わすことによって自分が存在しているのなら、相手の反応によって自分のアイデンティティーを確立することになる。つまり、彼にとってのアイデンティティーは「本来の自分」から生まれ出てきたものではなく、また自他の相関関係から生まれてきたものでもない [1] 。このような生い立ちを持つゆえ、主人公は切実でありながらも破滅的な人生を送ることになる。
 このアイデンティティーの危機は、個人レベルだけではなく、様々なレベルで考えることができる。例えば、日本国のレベルでアイデンティティーを考えてみる。一つのケースとしては、近年注目されている「歴史教科書問題」があげられるであろう。問題は「現在の歴史教科書は自国の歴史に誇りを持てない自虐的な教科書ではないか」という疑問から始まった。「国家の歴史に誇りを持つこと、つまり自国民としてのアイデンティティーを確立することが大切だ」、このような意見が現在の日本でかなりの共感を生んでいる。裏を返してみれば、現在の日本国民にはアイデンティティーがないと思われていることになる。また、日本の民主化は外圧によってなされ、また憲法もアメリカから押しつけられたという議論もある。これまた、日本国のアイデンティティーとしての憲法を求める発言ととれよう。これらの問題に関して「日本のアイデンティティーはこれである」と、問題を特定化することはしない。存在するのは「日本人は、何かしらアイデンティティーの喪失感を感じている」という事実だけである。

1-3 アイデンティティーの危機と現代の問題現象

 さて、このアイデンティティーの危機という現象は、近年増加してきた若年層の殺人・自殺・マインドコントロールの問題とも直結する。
 少年によるナイフを使った殺傷事件は、単に少年が暴力的になったのではなく、彼らなりのアイデンティティー確立手段なのである。もちろん、それはアイデンティティーの確立というより、「外部を否定し続けた結果、最終的に残ったものが自分のアイデンティティーとなる」という受動的な方法ではある [2]
 自殺の問題もしかりである。殺人には憤りを感じ、自殺には悲しみを感じる人も多く、殺人の原因と自殺の原因を分類したくもなる。しかし、フロイトの分析によれば、攻撃は自虐の裏返しであり、自殺の傾向を持つ人間がその傾向を外部に向けたものが殺人となる。また、デュルケムは、一部の自殺傾向の類型が殺人の原因と同根であることを指摘した [3] 。これを見ても分かるように、殺人と自殺の問題は同じ問題、つまりアイデンティティーの問題を抱えていといえる。
 人は、自分が描く自分自身のイメージと、実際の自分がうまく合致しなくなったときに自殺へと向かう。なぜなら、自殺は、自分らしい生き方ができない自分に対して、自分らしさを発揮する最終手段だからだ。そもそも西洋においても日本においても、古代には今日に見られるような自殺はなかった [4] 。自殺の多発は、確立した個人の存在とアノミー的な社会状態という二つの要素が必要である。自己責任が尊ばれる社会と受験戦争や就職難、不幸にも現代は自殺にはうってつけの時代なのである。
 最後に、マインドコントロールについても触れたい。「自分が分かるようになる」と称する自己啓発セミナーが週刊誌を賑わしている。自己啓発セミナーとは、トレーナーと対話したり、参加者同士で意見を交換することにより、本来の自分を発見し、積極的な人間に生まれ変わるというものである。しかし、近年はカルト宗教的な要素も混ざって、セミナー受講料も高額になり、「自己啓発セミナーはサギやマインドコントロールではないか」との批判も増えている。受講料・トレーニング内容と金額との関連は、主観的なものなのでここでは述べない(セミナーの価値があると思う人は1億円でも安く感じるし、ないと感じる人はびた一文払わないからである)。私が問題にしたいのは、サギ、マインドコントロールという声があるにも関わらず、自己啓発セミナーはなぜ活性化するかということである。それだけ、現代人は「本来の自分の姿を取り戻し、積極的に行動したい」という欲望に縛られているのである。

1-4 具体的な分析:神戸小学生連続殺傷事件

 現代におけるアイデンティティーの危機とその渇望を、殺人・自殺・マインドコントロールの三点から述べたが、問題を明確にするため神戸小学生連続殺傷事件の経過を検討しながら具体的に分析を進めたい。この事件において、犯人が神戸新聞社に送りつけた犯行声明を見れば、近年の少年が抱えている問題が浮き彫りになる。
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない 」
この犯行声明の中では、少年は自分を「透明な存在」と位置づけ、その「透明な存在」を生みだした教育と社会に対する怨みを見ることができる。少年はアイデンティティーの喪失を感じつつも、アイデンティティーを渇望している人間ともいえる。アイデンティティーのない透明な存在が、自分を社会に認知してもらう方法として、少年は殺人を選んだ。つまり、自分から自分らしさを発信して自己確認できないので、周りの関心を引きつけることによって自己確認を行ったのである(丁度、人間失格の主人公が滑稽なことをして周りの関心を引きつけ、自分の居場所を確認したように)。少年は殺人を犯した点では加害者である。しかし、もし現代社会が必然的にアイデンティティーを喪失し、またアイデンティティーを渇望する社会であるならば、少年は被害者といえる。
 この事件を契機に、世論を厳罰主義(少年法の改変など)を主張するものから、現代社会の構造そのものに疑問を問いかける主張まで、さまざまな議論が生まれた。この二つの主張は、一方が正しいのではなく、双方が平行して行なわれなければならない。その中でも、この論文で扱われるのは後者である。後に後者の視点は「心の教育」と呼ばれることとなった。神戸小学生連続殺傷事件の容疑者が中学生だったことについて、日経連の根本二郎会長(当時)が「暗記重視の偏差値教育ばかりで、人格・感性教育の欠如が背景にある」と語ったように、現代の教育は心の側面を無視してきたという反省から「心の教育」と名づけられたのである。これを受けて、小杉隆文相(当時)は中央教育審議会(以下、中教審)に「幼児期からの心の教育の在り方」を諮問した。小学生連続殺傷事件の加害者である少年が抱える問題に、何らかの解決策を見つけるためである。諮問事項は、
(1)子供の心の成長をめぐる状況と今後重視すべき心の教育の視点
(2)幼児期からの発達段階を踏まえた心の教育の在り方
(3)家庭、地域社会、学校、関係機関が連携・協力して取り組む心の教育の在り方
であり、諮問理由は、
(1)少子化や核家族化を背景にした生活体験の減少
(2)親の過保護、過干渉
(3)学校生活の「ゆとり」の欠如
(4)情報機器の普及による間接体験や疑似体験の増加
の4点があげられた。これに関して中教審は、大人社会の利己的・拝金的な風潮や自己責任意識の欠如などによるモラル低下を指摘し、「次世代を育てる心を失う危機」に陥っていると問題発見をした。また、中教審の答申にみる現状打破の問題解決は以下に記載する。
(1)もう一度家庭を見直す
(2)地域社会の力を生かす
(3)心を育てる場として学校を見直す
 率直に言えば、私はこれらの問題発見、問題解決に疑問を持っている。まず問題発見だが、「情報機器の普及による間接体験や疑似体験の増加」が少年の問題行動につながるという根拠はどこにあるのか。これは特に根拠のない推論にすぎない [5] 。また、「親の過保護と過干渉」についても、昔は子どもの好きにさせていたとはいえない。この問題は、親が子どもに干渉していると考えるより、子どもの人生において親が干渉する要素が増えたと考えた方が良い。結論は「ほどほどがよろしい」となるだろうが、これにしても「中庸」を尊ぶ日本の風潮を問題解決に持ってきただけであろう。
 解決策もしかりである。「家庭および地域社会の教育への参加」といっても、夫婦共働きや核家族が増え、家庭が教育に参加することが難しい。また、地域社会といっても、そもそも現代の日本に地域社会は存在するのだろうか。もちろん、地方自治体や自治会などが存在するにはするが、隣人の顔すら分からないマンション生活などを見ると、それらは形式的にしか存在しない。つまり、中教審の答申は「家庭の教育を見直す」「地域社会の力を生かす」と言ってはいるが、なぜ今までそれができなかったのかという視点に欠けているのである。

1-5 問題提起

 アイデンティティーの危機から派生する、殺人・自殺・マインドコントロールの問題は、日に日に明確になりつつあり、そこから目を逸らすことはできない。それらについて問題発見はされているが、問題把握がされていない、ましてや問題解決はもってのほかである。近年勃発する殺人・自殺・マインドコントロールなどの「心の問題」に対して、世間で論じられている対策、中教審が提出した対策などは効果的なのか。そして、もし効果的でないと判断するのであれば、原因はどこにあるのか。私たちは「本当の自分」「自分らしさ」にたどり着き、アイデンティティーを確保できるのであろうか。また、そもそもアイデンティティーとは何ものなのか。アイデンティティーの確立と共に、共同性を確保することができるのだろうか。このような疑問を抱え、これからの章を紐解くことにする。

第2章 独力によるアイデンティティーの確立
〜 デカルトの視点
2-1 はじめに

 ある自己啓発セミナーでは以下のようなことが言われていた。
「人間は生まれたときから初期条件をもっている。例えば、どこの国に生まれるか、家庭環境などは選択不可能である。そのような初期条件を取り払い、本当の自分を見つけだすことによって、人は幸せに暮らすことができる」
これをかみ砕いて考えれば二つのことを意味している。一つは、「本来の自分は初期条件を取り払うと現れてくる」こと、もう一つは、「人間は初期条件に縛られない存在である」ことである。このような「誰にも定義されない自己」を想定することは、16世紀のデカルトの哲学と酷似している。
 自己啓発セミナーは、マスコミでも大きく取り上げられ、また批判も多い。しかし、その批判事態が、彼らと同様のロジックを用いている現状がある。これらの問題を考えるためにも、現代の私たちはデカルトを思想を正確に把握し、その欠点を見つけ出す必要がある。それは、不誠実な自己啓発セミナーや新興宗教の有効性と無効性を見極め、安易なマスコミの批判を冷静に判断することに繋がるであろう。

2-2 アイデンティティー確保としての「我想う故に我あり」

 まずはじめに、なぜデカルトが「我思う故に我あり」を獲得したのは、
「自分の行為をはっきりともってこの人生を歩むために、真と偽とを区別することを学びたいという、何よりも強い願望をたえず抱いていた」(『方法序説』P18)
からである。つまり、デカルトは「正しい人生を送りたい」と考えると同時に「間違った人生を送りたくない」と考えていた。すると、まず様々な通俗が真なのか偽なのか明確に分類し、最終的に真か偽かをはっきりと判断できる立場を設ける必要が出てくる。デカルトは以下のような方法的懐疑を用いて、その立場を見つけだそうとした。
「第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何も私の判断のなかに含めないこと」(『方法序説』P28)
ここで注意を要するのは、デカルトは真を明確にしようとしたが、偽には関心がないところである。今日の私たちが「真偽を確かめる」というと、一方に真、もう一方に偽と分類するイメージを浮かべる。しかし、今日の偽とデカルトの偽は別物である。デカルトにおける偽は「真の欠如」「真として受け入れられないもの」である。このように、デカルトの二元論と近代デジタル型思考 [6] は分別する必要がある。
 さて、方法的懐疑を用いることによってデカルトは以下の真理に到達した。
「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして『私は考える、ゆえに私は存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]』というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえでも揺るがし得ないほど堅固なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した」(『方法序説』P46)
この分析の結果、私を私たらしめている本質は「考えること」、つまり精神となる。しかし、この手法は必ずしも個人のアイデンティティー確保にはつながらない。その説明は以下に譲ることにする。

2-3 デカルト分析
2-3-1 環境認知の問題

 一時的には「自分は一人で暮らしていける」と思う人がいるかもしれない。だが、これだけ都市化と過密化が進んだ現代において、まったく一人で暮らしていくことは不可能であろう。無言で街を歩いていても既にコミュニケーションは存在している。なぜなら、私たちは前方から他人が歩いてきたら脇によけるだろうし、人だかりがあればそちらの方に歩いたりもする。これらの行為も立派なコミュニケーションである。その意味で「自分は一人で生きていける」と思うこと自体は可能だが、外界との関係を絶つことは不可能である [7] 。同様に、自分のアイデンティティーを自分でつかもうとすることは可能だが、その時に外的環境を無視することは不可能であろう(外部環境がアイデンティティー構築に必要か否かは別として)。確かに、「我思う故に我あり」という自己の存在証明から派生するアイデンティティー確立は、いったん環境を切断した自己というレベルで成功するかもしれない。しかし、自己と環境の両方の要素が存在するという前提に立つなら、それだけが唯一の方法とは言えないであろう [8]
 環境と自己が存在するという前提に立つなら、そこで自己確認を行う方法は二つある。それは、自分で自分を捜しだす方法と、対象の存在を理解し、その反措定として自分を知る方法である。例えば、ひとつの物体と接触したとしよう。その時、実は二つの作用が私たちの内部で起こっている。一つは「物体を触っている自己の感覚によって、自己の存在を確かめる方法」、もう一つは「物体に触れることによって、物体と自己の間に境界を感じ、空間から自分の存在を切り取る方法」である [9] 。注意していただきたいのは、ここで扱っている方法はクーリーが指摘したような「鏡に映った自我」 [10] と同様の意図を持っていながら、一線を画す=ということである。なぜなら、クーリーが提唱したのは「他人の評価によって自己のあり方を知る」のに対して、私が記述したものは、他(環境)を必要とするが、必ずしも他人の評価を必要としないからである。
 デカルトは「我思う故に我あり」という論証で、私を私たらしめている精神という一点から思想を構築した。そして、その一点から環境も明らかしようとしたところ、つまり、一つの最終的原因を把握し、そこから因果律によって結果を把握する方法に問題があった。
 しかし、特筆すべきは、デカルトが環境を無視していたのではないということだ。デカルトにとって環境は証明する必要がないというより、むしろ不確かなままなのである。なぜなら、デカルトが著したものは方法論の紹介であって目的ではない。つまり、デカルトの方法論を使いながら、何かを証明することに意義がある。デカルトの方法論は「我思う故に我あり」で完結するのではなく、そこからスタートするのである。ところが、一部の人はそれを「自己による自己の存在証明」「理性による環境からの独立宣言」と解釈した。なぜなら、デカルトの哲学的な意義が「理性が普遍的なものであることを証明した」ことに絞られるからである。だから、環境を証明する必要がないものと勘違いしてしまったといえる。

2-3-2 真偽の可変性

 デカルトのそもそもの問題点は、良識が各個人に公平に分配されていると考えたところ、普遍的な真や偽が存在すると考えたところにもある。デカルトが普遍的な真偽を信じて疑わなかったのは、当時はキリスト教による堅固な道徳構造が存在したからであろう。その道徳に基づいて真や偽の概念が成り立っていた。デカルトの方法による真偽の判断は、デカルトのパラダイムにおいて真偽であったとは言えても、現在のパラダイムに同様の真偽が適応されうるとは限らない。きわめて堅固だと思われたデカルトは幾何学のロジックは絶対的に堅固だと考えていた。
「それゆえ、以上のことから、こう結論してもよいであろう。自然学、天文学、医学その他、すべて複合的な事物の考察に依存する学問は、確かに疑わしいものであるが、しかし、代数、幾何学、その他この種の学問は、きわめて単純できわめて一般的なものだけしかとり扱わず、しかも、こういうものが自然のうちにあるかどうかにはほとんどとんちゃくしないのであるから、何か確実で疑いえないものを含んでいる」(『省察』P241)
それまでのスコラ哲学を根拠が不明瞭なものと解していたからこそ、デカルトは代数や幾何学のような明晰な方法で哲学を再構築しようとした。しかし、例えば幾何学さえも19世紀には非ユークリッド幾何学が発見され、その絶対性が揺らぐことになったのである。またフロイトによって無意識が発見されるに至り、デカルトが信じて疑わなかった理性の絶対性そのものも揺らいだ [11]
 また、自己とは徐々に生成されるものといえる。例えば、まだ言葉の習得が不完全な子どもを考えてみる。言葉の習得が不完全な子どもは、まずもって「我」という概念を正確に把握しておらず、「我」という概念を徐々に形成していく。だから、子ども自身が「我思う故に我あり」と考えることは難しい。デカルト的手法による自己の存在証明は「成熟して成長が止まった大人の存在証明」であって、同様の方法で精神発達に乏しい幼児が自分自身の存在を証明することは難しいのである。

2-3-3 ダブルバインドの問題

 たとえデカルト的手法によって自己の存在証明ができたとしても、それを伝達する時点でダブルバインドの問題が出てくる。現代人にはアイデンティティーを確立したい欲求があることは前述した。そして、一般的に、アイデンティティーとは「他人にはないその人自身の個性」と解釈されている。ならば、自己のアイデンティティーは純粋に自己の力で獲得されるべきものとなってしまう。もし、ある人が他人に対して「アイデンティティーを確立せよ」と発言するなら、彼自身の力でアイデンティティーを獲得したことにはならない。この手のメッセージは、表層の部分では他人の主体的行動を尊重しながら、メタ・レベルでは相手を自分に同化させるメッセージであり、言われた人間を混乱におとしめるだけである。この問題に対してデカルトは先見の明を持っていた。だからこそ、
「このようにわたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである」(『方法序説』P11)
と、語っているのである。
 デカルトは「デカルト思う故にデカルトあり」と証明したのではない。あくまで「我思う故に我あり」としたのは、我と語る人全員に当てはまる普遍的な表現となりえるからである。そして、普遍性の源は「すべての人間は良識を持っているから、その良識を正確に導くのであるなら、必然的に共同性が得られる」という考えに立脚していた。しかし、現代のアイデンティティーの問題はデカルトの良識の問題とは別次元である。なぜなら、デカルトの良識は神から与えられたものである一方、現代のアイデンティティーは誰からも与えられない生得的なものと捉えられているからだ。そこでは、どこにも共同性がなく、浮遊した個人がアイデンティティーを確立し、それを前提として共同性を生みだしていくのである。だから、アイデンティティーの確立と共同性の発見は矛盾した問題と感じられ、「我想う故に我あり」という問いかけさえ、ダブルバインドの要因となるのである。

2-4 結論

 真偽を理性的に判断できる自分という人間が、絶対的なゴールにたどり着きたい。過剰なまでの理性信仰と真理の渇望、これらが現代人心理の奥底にあるのではなかろうか。もちろん、人間は自己判断なしでは生きていけないし、また真理を探究しなければどこに進んで良いのか分からない。その欲望自体は間違いではない。だからといって、いったんつかんだ自分に固執していては、自分の変更を余儀なくする外界と隔絶するしかない。よって、自分をつかんでいく行為と、環境と関わりを持っていく行為は並行して行われなければならない。
 しかし、必ずしもすべての人が「環境の認知と真偽の可変性」を前提としているわけではない。一つの堅固なシステムによって、環境を否定し、真偽を固定化することも可能である。例えば、閉鎖的共同生活を前提とするカルト宗教は、修行によって自分のアイデンティティーをつかみ、また限定された教団のコミュニティーで生活する点で、完成されたシステムをもっている。外界との接触を完全に遮断されるため、環境を認知する必要もなく、真偽の可変性も考えなくても良いわけだ。ダブルバインドの問題からも、不誠実なカルト宗教や自己啓発セミナーの盲点が見えてくる。例えば、「解脱せよ」というメッセージは、メッセージを発した人から解脱することができないことを意味している。しかし、彼らの世界は「解脱せよ」を発言する人物が構築する世界である。よって、ここでも様々な可能性を考えずに、一人の人物に盲従しておけばよいことになる。
 もし人間になんらかの動機づけがなされないのなら、それが虚偽であろうとお構いなしに何らかの方向づけを欲する衝動が人間にはある。そのことの証明はフロムを引用すれば良い。
「しかし、たとえ人間の方向づけの枠組みがまったく幻想的なものであっても、それはかれにとって意味のあるなんらかの心像を求める欲求を満足させる。トーテムの動物だろうと雨の神だろうと、氏族の優位性と運命だろうと、どんな力を信じていても、方向づけの枠組みを求める欲求は満たされる」(『正気の社会』P280)
つまり、カルト的共同体はこれをうまく利用したマインドコントロールである。閉鎖的な環境に置かれるなら、他に正しさの基準は存在しないわけだから、当の本人がバインドコントロールされていることにも気づかないだろう。
 しかし、カルト的コミュニティーが外部との接触を断ったとしても、やはり環境は存在する。そして、彼らにとっての環境に属する俗世間の人間は、彼らの活動がずいぶんと世間離れしていると感じる。私が意図していることは、俗世間の生活が正しくて、カルト的共同体が間違っているということではない。現代は、デカルトのように永遠不変の真理から演繹的に考えられる世界ではなく、地域には地域ごとの正しさがあり、時間には時間ごとの正しさがある世界である。この前提に立つなら、まずそれぞれの枠組みにはそれなりの一貫性があることを認め、さらに相互の枠組みに横断的な一貫性を想定していかなければならない。だからこそ、私は、俗世間の正しさとカルト的共同体の正しさの間に過度の差異が生じ、相互にネットワーク化できないという事実を問題にしているのである [12]
 カルト的コミュニティーも現代の俗世間も同様の問題点を抱えている。それは、双方「自分の立場に絶対的な真理がある」としているところである。ここからは、絶対的な真理を把握し、そこから演繹的に物事を証明しようとする現代人の姿が見えてくる。だから、絶対的な真理をつかもうとするアイデンティティーの問題は、必然的に闘争にならざるを得ないのである。

第3章 社会に支えられたアイデンティティー
〜 デュルケムの視点
3-1 はじめに

 前章では、環境と切り放された一つの個体としてアイデンティティーを探求する方法を示した。そこで見いだされたものは、アイデンティティーは個人だけで追求できるものではなく、常に外部を必要とすることである。そこで、この章ではアイデンティティーの構築に関する外部の役割を分析する。その外部をここでは社会と置き換えることにする。後に詳しく述べるが、私が扱う社会とは「時間性」と「空間性」を包括するものである。近年の少年犯罪に対しては、社会から少年個人をバックアップする形で政策が立案されている。自治会を設備することなどはその典型である。しかし、社会は果たして個人をバックアップできるのか。そのような疑問をもってこの章を始めることにする。

3-2 社会とは

 社会を定義するに当たって、まず参照しなければならないのは社会学の祖デュルケムである。デュルケムによると、ホッブスやルソーによって定義された社会は、人工的に生み出された個人との対立項であり、スペンサーによって定義された社会は、自然発生的で本質的に個人とは対立しない [13] 。この二つの立場とは違って、デュルケムが定義する社会とは以下の通りである。
「すなわち、それらは、行動、思考および感覚の諸形式から成っていて、個人に対しては外在し、かつ個人の上にいやおおなく影響を課すことができる一種の強制力をもっている」(『社会学的方法の基準』P54)
これを参照すれば、デュルケムの社会とは、単に個人と対立するものでもなく、また個人を擁護するだけのものではない。それまでの社会認識であれば、社会が主体的に行動する(つまり、個人と対立したり、擁護したりする)前提があった。だが、デュルケムの定義であれば、社会は個人に対して確かに影響を与えるが、それは社会が個人に対して主体的に働きかけるのではない。むしろ、社会とは、個人が主体的に活動するときに必然的に参照しなければならない客体といえるであろう。主体的に活動するのは常に個人だけである [14]
 さて、その客体としての社会には「通時性」と「共時性」が含まれることとなる。まず「通時性」だが、これは歴史・伝統などの言葉に置き換えても良い。デュルケムは自殺論の中で、自殺における宗教的要因を分析しているが、それも宗教的伝統が持つ通時性が社会の定義に含まれると考えたからであろう [15] 。また、「共時性」に関しては、家族社会や政治社会などを参照すればよい。共時性は、同一の時間内で支え合う共同体としての社会であり、具体的には家族・同業者組合などがあげられる [16] 。自殺論において、デュルケムは宗教社会、家族社会、政治社会の三つの視点から自殺について分析した。それは、彼が今日、一般に使われている社会の定義とは異なり、時間的に空間的に開かれた形で社会を定義していたからなのだ。

3-3 デュルケム分析
3-3-1 教育問題

 殺人・自殺・マインドコントロールなどを抑制するために、現代では教育が重要視されている。しかし、デュルケムによれば、教育では大した効果は望めない。それに関しては以下の2点を参照したい。
「教育とは、社会を映す像であり、またその反映にすぎない。教育は社会を模倣し、それを縮図的に再現しているであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるとき、はじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民とともに腐敗するものであって、自力で変化するものではないのである」(『自殺論』P355)
「それゆえ、社会が改革されないかぎり、教育の改革も行われえないのである」(『自殺論』P356)
教育には必ず当時の世相を反映した指針がある。よって、教育は世相に従属しているといえよう。だから、教育は世相(=社会)を変革させることができないのである。「教育は社会を変革させるために存在する」という根強い反論に対しては、クーンのパラダイム理論を参照すればよい。クーンによると、科学史は通常科学と科学革命によって進む。通常科学については、以下の引用を見てもらいたい。
「本書で『通常科学』という場合には、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を意味している」(『科学革命の構造』P12)
「歴史の上でも、また現在実験室で行われていることでも、よく調べてみると、このような仕事は、パラダイムが支えるお仕着せの、かなり融通の利かない鋳型に自然に嵌め込む試みである」(『科学革命の構造』P28)
以上の引用をまとめると、一定のパラダイムでは、すべての事象をそのパラダイムを作りあげた基礎に関連づけようとする通常科学が行われる。ここから敷衍するなら、教育は通常科学のようなものであり、根本的な革命(パラダイムシフト)が発生しない限り、同じ基準によって教育指針が作られる。また、通常科学の累積が科学革命に至らないのと同様、教育によって社会変化を期待するのは空振りとなる。
 社会に求められる人間を産み出すのが教育であるなら、教育によって社会が変革することはあり得ない。教育こそ現代社会を作り上げた要素そのものだからである。突きつめれば、現代のような殺人・自殺・マインドコントロールが横行した社会は、現在の教育自身が作り上げた社会と言える。もちろん、それらの社会に対する自己反省によって、新たな人間観が生まれてくるかもしれない。だが、その新たな人間観もまた教育から生まるものではなく、社会から生まれてくるものなのだ。指針は無意識のうちに存在し、教育はその指針に添って行われているのである。だから教育のみで自己改革が行われることはない。

3-3-2 社会の拒否

 教育による社会の変革が不可能と判断したデュルケムは、自殺抑制政策として同業者組合の再興を考えた。なぜならデュルケムは近代人を「社会を必要とする存在」と定義したからである。それは以下の点によく現れている。
「社会的人間は必ず社会の存在を前提とする。彼が表現し役立とうする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、我々の周囲や我々の上に、もはや生き生きとした活動的な社会の姿を感ずることができなくなると、我々の内部に潜む社会的なものも、客観的根拠をすっかり失ってしまう。……すなわち我々の行為の目的となりうるようなものが消滅してしまうのである。ところが、この社会的人間とは、実は文明人に他ならない。社会的人間があることが、まさに彼らの生を価値あるものにしてきたのである」(『自殺論』P161)
ここでデュルケムが想定した社会的人間は、結局のところ人間そのもの、特に近代人を意味している。密集した都会に住む近代人は自分を表現する場所としての社会を必要とし、必然的に社会との繋がりを絶つことができない。なぜなら、ふと何か思いたち、外出すれば、そこにあるのは街の雑踏なのだ。つまり、個人が動けば必ず社会に接触してしまうのである。かといって、これに不快感を持ち、社会との関係を絶とうとしても、無理な話だ。なぜなら、自給自足の農村共同体ならいざ知らず、外部と接触せず自分の食料を自給することは不可能だからである。同様に、アイデンティティーでさえ自給することができない。
 この必然的に社会と接触しなければならないときに、近代人は社会での役割を求めるようになる。よって、デュルケムが想定した自己実現は、個人的な自己としての自己実現だけではなく、社会で役に立つ自己としての自己実現を包括するものであった。社会を失った個人はもはや後者の自己実現が困難になり、個人としてはなりたたない。もし、同業組合を再興するなら、個々人は分断されず、一定の道徳的環境に支えられた社会によってまとめられ、同業者組合内部で役割を与えられる。最終的に個々人は、社会から方向付けを与えられ、アノミー状態から脱することができるというわけである。
 しかし、現代のアノミー状態はデュルケムが生きた時代のアノミー状態とは異質である。デュルケムが想定したアノミー状態は「ある社会が突然崩壊の危機にみまわれ、無規制状態におちいる」というものであった。そしてその崩壊の発端は戦争・経済危機・政治危機などを想定していた。そこで視点を現在に移したい。現代は戦争も経済危機も政治危機もない豊かな時代である [17] 。ところが、やはりアノミー状態は存在する。豊かな時代には豊かな時代特有のアノミー状態が定義されなければならない。ボードリヤールは以下のように言う。
「アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的喘側面が、欲求(ブズワン)の原則と効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間の常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって無視され、検閲されることになる。その結果、欲望の否定的側面はもはや投資=備給の対象とはならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する」(『消費社会の神話と構造』P271)
多くの人々は、日常の生活が、経済の発達・技術の進歩によって、より合理的になると思い込んでいた(いや、今でも思い込んでいる)。しかし、これが大きな誤りなのだ。私たちが発達や進歩と合理性を同一に考えるからこそ、進歩によって生まれる非合理性を認めることができない。このことは疎外の問題によく現れている。人々は合理性を追求し機械化を進めてきたが、その結果産み出される人間疎外の問題に目を向けて経営を行うものは少なかった。このような非合理性は「発達・進歩は合理的である」という一般通念に抑圧され、深層心理でトラウマとなる。ボードリヤールの分析を現代に当てはめると、現代における多くの殺人・自殺・マインドコントロールはこのトラウマが爆発したものだと言える。
 このように、アノミー状態一つをとっても現代とデュルケムの時代とは大きな隔たりがある。その視点から考えるなら、デュルケムが想定する同業者組合は現代のアノミー状態に対する効果的な解決法とは言えないであろう。なぜなら、この同業者組合をも拒否するのが現代の状況だからである。
 第三次産業が発達した日本社会では、ゲマインシャフトはもちろんのこと、ゲゼルシャフトも存在しない。利益共同体であるゲゼルシャフトの場合、労働と個人利益の連関が不明瞭であることは、共同体存続にとって致命的である。第三次産業(特に大企業)になればなるほど、自分の仕事と利益の結びつきが薄弱になり、利益によって共同体を構築することは難しくなる。よって、日本社会のゲゼルシャフト的要素は縮小していると言えるだろう。このように、現代人は社会と結びつきにくい傾向があり、その結果残るのは浮遊した個人である。もちろん、デュルケムが言うように潜在意識では、一定の道徳規範としての社会を求めているのかもしれない。しかし、もはや現代人は?縁・地縁でも利害関心でも共同体を作ることができない。たとえ、同業者組合のようなものを再興しても、個々人は意識上でその同業者組合に加盟する理由が感じられないため、社会は創設されえない。もっといえば、個人は社会につなぎ止められること事態に嫌悪感を持っているといえよう。意識下では社会を求め、意識上では社会を拒否している、それが現代のアノミー状態なのだ。
 だから、デュルケムの時代で、同業者組合がアノミー状態に対する効果的な政策であっても、現代で同様に効果的であるとは言いがたい。社会を整備することによって個人が支えられるとは言えないのである。なぜなら、たとえ個人は社会に支えられるとしても、現代人の深層心理では個人と社会がデジタル的な対立概念になっているのである。

3-3-3 社会実在論の問題

 さて、このように社会と個人を対立概念と捕らえてしまう発想の裏には、社会が既に実在している視点から論理を組み立てる事への不信感があると言える。デュルケムはこう語っている。
「歴史の発端においては、社会がすべてであり、個人は無に等しい。それゆえ最も強力な社会的感情は、個人を集合体に結びつける感情であり、集合体はそれ自身にとっての固有の目的である」(『自殺論』P311)
これは、自己の存在証明の呪縛に囚われたデカルトから見ると、大きなパラダイムシフトであろう。しかし、これはあくまで社会学的分析方法が確立しただけのことであって、一方で自己の存在証明への渇望は残り続ける。個の証明を望むのに、もし「社会によって個人が支えられる」と言うなら、重要度の比重が個人から社会へシフトする。その結果、現代人は、社会が個人を支えるというより、個人が社会に飲み込まれると解釈してしまいがちになる。つまり、デュルケムの方法では個人はアイデンティティーを確立できるどころか、存在意義を疑われることになる。
 これは社会学が社会を扱う学問だからであろうが、この論文では「自分の存在証明をしたい」という個人の欲求が問題となる。その点では、デュルケムの社会理論は、個人は社会によって支えらる視点によって自己の存在証明を行う手がかりにはなるだろう。しかし、デュルケムの視点は社会という大きな枠組みに向けられている。その意味で、デュルケムの視点は現代人のアイデンティティーの危機を救う手がかりにはなりにくい。

3-4 結論
3-4-1 教育の問題

 以上の考察を参照すると、マスコミで頻繁に使われている「心の教育」という言葉は眉唾物だ。この問題を慎重に分析するため、まず教育の概念を二つに分類する。一つは個性化で、もう一つは社会化である。
 まず、個性化の側面は、近年「個性を尊ぶ教育」で世間に認知されている。しかし、そもそも「個性を尊ぶ教育」という言葉そのものが危険な要素を抱えている。前章で論証したことだが、まずもって「個性を尊ぶ教育」という言葉はダブルバインドである。個性を尊ぶようで、実は個性をつぶしているといえよう。また、現代は個性を尊重できるほど豊かな社会になったが、その社会では個性を持つのが義務となり、義務が脅迫概念となっている。多くの少年が「個性を認めないから学校は嫌だ」「拘束に縛られるのは嫌だ」と語るが、突然「個性を尊重します」と言ったところで、それは脅迫概念にしかならないのだ。個性化の教育が「個性を持つ人間が社会に望まれている」点から敷衍されたものであるなら、個性を尊ぶどころか、新手の社会化の教育なのである。以上のように現在の教育システムでは、個性化の教育そのものに問題がある。
 すると、現在の教育システムは個性化よりも社会化の側面が強調されていると言えよう。これまでの倫理・道徳システムに当てはまる行動をとるように学生を教育するのが、教育の社会化である。「心の教育」とは、人間として最低限守らなければならないルールを身につける教育のことだ。その点からここでは「心の教育」を教育の社会化の側面としてとらえることにする。
 ここで一つの問題が明確になる。「心の教育」といっても、結局はこれまでの倫理・道徳システムに立脚した教育が施されるのである。これまでの倫理・道徳システム自身が揺らいでいるなら、それに立脚した「心の教育」では根本的な問題解決にはならないのではないか。そもそも「心の教育」は、問題を分析し、熟考した上に出てきた言葉とは言い難い。むしろ、近年多発した少年犯罪の原因発見が明確ではないのに、無理矢理問題解決を求めた末に作られた言葉に過ぎないであろう。確かに「心の教育」はスローガンとして良い言葉ではあるが、内実は急場しのぎの根本的な原因を見つめない発言ともとれる。
 「『心の教育』は古来から受け継がれてきた永久不変の常識からなされるものである」と言われる方がいるなら、それは「昔は倫理的だった」という懐古主義か、「倫理・道徳システムは普遍のものである」と主張する絶対主義にすぎない。歴史の変遷と共に、倫理・道徳システムも変容してきたのはあまりに自明だ [18] 。よって、「教育が社会を変革する」という考え方には無理があるのだ [19] 。「個人を社会化する(=現代社会に適合する人間を育てる)」視点からの反省がないなら、社会の変革どころか、事態をいっそう悪くするだけであろう。

3-4-2 社会の拒否と社会実在論の問題

 また、少年犯罪を安易に「地域の責任」と言うのにも問題がある。デュルケムが同業者組合を想定したように、自治会などの機能を強化することで少年と社会を結びつけようとしても、問題は解決しない。なぜなら、まず第一に、少年自身が自治会と関係を持つ必然性がない。せっかくの地域住民の交流会も、交流しなければならない理由、交流することによって得られるメリットがなければ成り立たない。同様に、「地域の責任」といったところで、地域がどのような共同体かが不明瞭なのだ。なにより、問題が発生してから「地域」「社会」という言葉が出てくるのも疑問である。また、少年個人はその繋ごうとする行為そのものに憎悪を抱いている。ボードリヤールの分析を見るなら、繋ぐことは選択肢の増加ではなく、選択肢の強制にしかならないのだ。
 これらの状態に対して「社会で支えてあげようとしているのに、それを拒否するなら、それは個人の責任だ」ということもできる。しかし、それではあまりに確立した個人を想定しすぎである。少年法の意図は現に「社会から逸脱しようとする人」「社会に恐怖心を持つ人」は存在する。それは、外から与えられる枠にいらだち、不透明な社会を拒否する少年たちであり。個人が社会に支えられるのを拒否した場合、問題は一行に解決しないのだ。なぜ、社会に対していらだつのか、社会を拒否するのか、そのレベルから考えなければ政策的問題解決はいっこうに問題解決になっていないのだ。

第4章 システム的なアイデンティティー
〜ピアジェ、ルーマンの視点
4-1 問題点の整理

 この4章では、2章3章で発見された現代人の問題点を、いかにして克服していくかについて述べる。4章を始めるにあたって、まずはこれまでの論点を整理したい。

《現代人の問題点:簡潔な表記》
1)真理を判断できる自己を想定する
2)関係から切り放された自己を想定する
3)不動の真理にたどり着きたい欲求がある
4)心の底で社会を求めていながら、社会を拘束と見なし、拒否する

 デカルトは自己の存在証明を行い、そこから演繹的に社会関係の証明を試みようとした。また、デュルケムはまず社会の存在を証明し、そこから個人の存在意義を探ろうとした。2章の考察を参照するなら、個人で個人のアイデンティティーを証明することが困難であることが分かる。3章では、社会が個人を支えようとしても個人の方が社会の干渉を拒否することを証明した。すると、現代人の性向は「独力で自己のアイデンティティーが証明され得るはずもないのに、それを望み、なおかつ社会の干渉を拒否する」ということになる。

4-2 デュルケムにおける真理の揺らぎ

 現代人には「真偽を理性的に判断できる自分が、絶対的な目標にたどり着きたい」という欲求がある。この問題を考える場合、まずデカルトの時代と現代で真理概念が変化していることに注目せざるを得ない。デカルトの時代は絶対的な真理が存在したが、現代では絶対的な真理を想定することはできないはずである。このような真理の揺らぎ自体はもはやデュルケムの時代に現れていた。デュルケムは正常と病理を区別するのに、通俗的な道徳による主観的な判断を排除しようとしている。
「そこで、もっとも一般的な諸形態を示している事実を正常的とよび、他方を病態的もしくは病理的と名づけることにしよう。もしも、同一の種においてもっとも頻繁にあらわれる形態の下にもっとも頻繁に示されている諸特徴を、ひとつのおなじ全体のうちに、そして一種の抽象的個性のうちにまとめあげて構成する図式的な存在に、平均的類型(type moyen)という名を与えるならば、正常的類型と平均的類型は重なり合うといえようし、健康のこの基準からへだたっているすべてのものは、病態的現象であるということができよう」(『社会学的方法の基準』P134)
私たちは犯罪は異常だと決めつけがちであるが、その根拠は至って薄弱なものである。「社会学的研究によって、長年に渡って一定の犯罪率の存在が確認できたなら、その一定の犯罪率を正常と見なそう」というのがデュルケムの議論だ。これによると、犯罪件数の激増は異常であり、犯罪件数の激減も同様に異常(病理的)なのである。以上の引用から見えてくるデュルケムのスタンスは、社会学的研究と通俗的な道徳・倫理とを分けて考える姿勢である。
 しかし、この視点はいくつかの問題を抱えている。第一に、デュルケムが分析したのは、正常なものと病理的なものの区別に関する社会学的諸基準である。個人における判別の方法は提唱されていないのだ [20] 。第二に、統計的データは必ずしも客観的ではないという点である。デュルケムは、正常類型が時代の進行と共に変化することは考慮に入れているが、同時間帯でも複数の人間が統計を取ると、統計をとった人ごとに違いが現れることは考慮に入れていない。また、確かに自殺論では正気の自殺と狂気の自殺を分類することは不可能であるとして、純粋な自殺数で社会学的分析をしている(正気か否かの認定基準が曖昧だから)。だが、それでは「死にきれずに生きている」人間を把握することはできない [21] 。つまり、デュルケムの方法では、必然的にデジタル的な手法でしか社会心理を分析できないのだ。
 現在、社会が求めているものは、殺人・自殺・マインドコントロール予備軍、もしくはすべての人間が抱えている葛藤をいかに理解するかにある。その意味で、デュルケムの方法は確立してはいるが、この論文のケースには使えないであろう。

4-3 方法的構造主義の視点

 それでは、必然的にデジタル的にならざるを得ない研究方法を回避するにはどうすればよいのか。その突破口をピアジェに見ることができる。ピアジェによると、構造は全体性・変換・自己制御という三つの性格をもっている。

4-3-1 全体性と自己制御 〜 相互作用

 まず、全体性についてだが、これはデカルトやデュルケムの議論のように、原子論的合成が先か、全体性が先かという二者択一の問題ではない。また、原子論的合成から全体を考える帰納的手法や、全体性から個々の証明が為される演繹的手法をも想定しない。ピアジェが関心を払っているのは、当初から分断されている認識の主体・客体そのものではないのだ。なぜなら、人間はいかにその研究の精度を高めたところで完全無垢の客観性にたどり着くことができないからである [22]
「この叙述は、観念論的でなく、主体の活動を明らかにしており、そして客体を一つの限界として(したがって、わたくしたちとは無関係に存在するものとして、しかし決して完全に到達されないものとして)みなしながらも、同様に、客体にも依存している。そして、とくに、認識の中にたえざる構成をみるのである(『発生的認識論』P17)
ピアジェは客観性自身を否定しないが、以上を見ればその客観性に新たな意味を投げかけていることが分かる。客観性とは静的な一つの状態ではなく、認識過程の家庭に発見されると考えるべきであろう。この考え方に立脚するなら、デュルケムの研究対象、つまり個人を個人たらしめる客観としての社会 [23] は考察対象にならない。そのかわりに、新たにピアジェが提唱した第三の立場は、最初から関係的態度を取り入れ、認識の合成過程そのものに注目する立場である。この合成過程こそ、ピアジェが考える「全体性」である。構造の全体性をふまえると、個々人の認識は、
「主体と客体との中間に生じる相互作用、したがって、同時に両方に属している相互作用から生じるのだ。しかし、それは、はっきりした形のもの同士の相互交渉によるのではなく、完全に未分化であることによるのである」(『発生的認識論』P19)
以上のような形で成立する。この考え方に立脚すれば、人間の営みは主体・客体の相互作用から創出され [24] 、またアイデンティティーも個人と社会の動的な自己制御関係と見なすことができる。アイデンティティー形成や個人・社会形成の原初段階 [25] では、このような相互作用により徐々に認識のシェマ(=フィルター)が形成される。そして、そのシェマを参照しながら、その人独自の認識やアイデンティティーが表出することになる。よってアイデンティティーとは、生得的なものでもなく、経験的なものでもない。だから、デカルト的手法で自己と向き合ったとしてもアイデンティティーは獲得されない。我という概念ですら生得的なものではなく、個人とも社会ともいえない原初状態から脱中心化 [26] していく過程、つまり発生的な認識によって捉えられるものなのだ。もちろん社会によって個人に意味付与を行うような行為も同様の論法で否定される。個人にしても社会にしても、それらは当初は「はっきりとした形をもたないもの」に過ぎない。
 この発想を個々人が持つなら、強大な社会の存在によって個人が無力感を感じることはない。そして、そこから生じる「社会の拒否」を回避することができる。なぜなら、この発想では社会と個人が対立概念になっていないからである。個人の主体性のみで社会が構築されるわけでもないし、社会は個人の主体性を押し殺すものではない。個人と社会という構図は維持され、なおかつ相互作用による自己調整によって、互いに発達していく。相互作用の発想では、個人は社会に対して従属していると同時に、社会から自立していることになるのである [27]

4-3-2 変換性 〜 真理のネットワーク化

 構造における全体性は、全体性として維持されるだけでなく、その全体が変換していくことを前提としている。この点が構造の第二の特徴、変換性である。変換性の意図するところは、
「構造化された全体性が、それらの合成法則にかかわっているとするなら、この全体は、その性質上、構造化する性質をもつ。そして、いつも構造化すると当時に構造化されるという不変の二重性格、いやもっと正確にいうと、両極的特性こそ、この構造という概念の成功を説明するものなのだ」(『構造主義』P19)
以上にある。つまり、構造化するという能動的な営みと構造化されるという受動的な営みは表裏一体というわけである。なぜなら、能動的な営みはこれまでに構築されたシェマの参照を前提とするし、シェマを構築するには能動的な営みが必要だからである。したがって、
「言語の共時的体系は、不動ではない。それは体系の対立や連結によって決定されるような必要に応じて、革新を抑圧したり受け入れたりしている。」(『構造主義』P20)
を見れば分かるように、一つの体系は(ここでは言語体系になっているが)、常に何らかの影響を受け、流動的なのである。もし現在、世間一般で受け入れられている倫理・道徳を、構造の変換性の視点から捕らえ直すなら、倫理・道徳が不動ではないことがわかる。先に絶対的な倫理・道徳が存在するのではなく、まず雑多多数の事実が存在し、主体と客体の相互作用によって一つの倫理・道徳が受け入れられる [28] 。つまり、ネットワークの中で真理として受け入れられたものが、まさに倫理・道徳なのである。
 現代人は「倫理・道徳=真理=絶対的」という等式に縛られる傾向がある。フロムの引用を用いて前述したが、このことは、現代人は絶対的な真理に合わせて行動し、また絶対的な真理がない場合は勝手に真理を構築する例を見ても分かる。よって1966年に中教審が示した「期待される人間像」は確かに非難を浴びたが、「期待される人間像」は当時の社会に必要だったのである。去年、中教審の審議において有馬朗人は「モデル的な(家族の)理想像を検討してみたい。反発もあるかもしれないが、いうべきだと思う」と述べている。これも何らかの「絶対的なもの」を構築する発言ととれるであろう。しか「必要とされるもの」が問題解決であるとは限らない。残念ながら中教審の視点は、現代人が渇望する絶対的な目標、つまりモデル的な理想像が常に移り変わることに対して無関心だと言えよう。

4-4 オートポイエーシス的自己

 以上の「構造の三要素」を総括して個人を語るなら、オートポイエーシスという概念がよく当てはまる。オートポイエーシスとは、
「生体の環境のなかには、他の生体が見いだされるし、意識の環境の中には他の意識が存している。そうはいっても、生体システムのばあいも、意識システムのばあいも、そのシステムそれ自体の再生産過程はそのシステムの内部でしか進められない」(『社会システム理論・上』P53)
以上のようなシステムである。つまり、オートポイエーシスは、システムがみずからの自己構成を継続的に再生産する意味で閉鎖的な概念であり、システムの環境 [29] に接触して差異を産み出す点で開放的な概念なのである。この考え方を用いるなら、個人と社会は必ずしも対立項にはならない。なぜなら、まず個人は個人で自律的なシステムを持っている。そして、社会とコミュニケーションによって繋がり、相互浸透によって、新たな自己を生みだしていくからである。
 これは個人がオートポイエーシスであるだけではなく、社会システム自体もオートポイエーシスであることを意味する、個人という心的システムにとって社会は環境であり、社会システムにとって個人は環境だからである。その意味で社会システムは心的システムの存在を前提とするし、心的システムは社会システムの存在を前提とする [30] 。その詳細については以下の引用を検討したい。
「このようにシステムと環境が区別され、人間が社会にとっての環境の一部であるとみなされると、人間が社会の一部とみなされざるをえないばあいに考えられるうるよりも、人間がいっそう複雑的であり、同時に非拘束的であると把握できるのである。というのも、環境は、システムに比べて、より高次の複雑性を有することや、より少なくしか秩序づけられないことが見て取れる点で、システムから区別される領域のことにほかならないからである。こうした考え方では、人間には、人間の環境に比べれば、より高次の自由が容認されており、とりわけ非理性的で非モラル的な行動に対する自由が認められている」(『社会システム理論・上』P335)
この考え方は従来の社会理論とはまるで違う。多くの社会理論の場合、人間と社会のどちらが大きな概念枠か、という論争に終始するのに対して、ルーマンの社会理論によれば、人間も社会も同等に複雑なのである。社会にとって人間は複雑なものであり、人間にとって社会は複雑なものなのである。相互に複雑だからこそ、人間からアナロジーで社会を捉えることは不可能であるし、またその逆も不可能である。アナロジーによって世界を捉えようとするからこそ、人間が先か社会が先かの議論になってしまい、「社会の拒否」「没個性」などの議論が生まれてくるのであろう [31]
 オートポイエーシス的自己によって、現代を見つめると、近年よくに使われる「自立」という言葉の問題点が見えてくる。現代人にとって自立は、美徳の一つである。しかし、この言葉は二つの要素に分解したほうが良い。一つは「自律」の要素であり、もう一つは「自足」の要素である。自律は個人としてのシステムにおける独立である。しかし、私たちは自律ではあるべきだが、自足であると考えるのは思い上がりに過ぎない。例えば、人間は身体を維持させる限りにおいては自律している。しかし、人間は絶えず栄養分を補給しなければならない点で、自足ではないのである。アイデンティティーの問題も同様である。個人は一個人としてアイデンティティー確立する上では自律的であるが、アイデンティティの形成において外部の影響を無視できない点で自足ではない。そして、自足不可能なことは自律の要素と対立するものではないのである。それは、単にアナロジーによって物事を捉えてようとするから、そう見えるだけなのである。

第5章 結論

 殺人・自殺・マインドコントロールを誘発するアイデンティティー危機の根幹にあるものは、時を経て強くなる「自分のアイデンティティーを知りたい」という欲求である。もちろん、カルト的コミュニティーのような、自身の力によってアイデンティティーを問うて行くことも大切である。生まれながらにして各自の方向性が綿密に設定されないのが現代である。自分の問題を社会が自動的に解決してくれない、良くも悪くも自由な時代だ。自分で選択肢を選ばなければならない限り、はっきりと自分のアイデンティティーを自分で把握している必要がある。同時に、自分が育ってきた家庭環境・地域環境という社会からの影響を無視することはできない。最新の自分の姿が、自分一人によって産み出されるはずがないのだ。そう考えるのは、現代の「何でも独りで構築していく」という個人性が影響しているのであろう。個人の生成過程には、家庭・地域という大きな要素の存在を認めなければならないが、個人は単にそれらの要素の組み合わせではない。なぜなら、発生的な見地によると個人・社会は当初から存在せず、共応関係によって徐々に構成されていくものだからである。個人の内部で社会を捉えていくシェマを発達させることにより、個々の事象の組み合わせが創発的に作用することもある。
 それらすべての行為の前提として、私たちはオートポイエーシス的な自己を想定する必要がある。さもなければ、個人と社会は絶えず対立項になり、溜まったフラストレーションは抑圧され、殺人・自殺・マインドコントロールの問題はいっこうに解決され得ないだろう。オートポイエーシス的自己によると、私たちは、各自のフィルターで自分が認識しやすい形で世界を縮減するが、それが一つの縮減方法であることを認識する(=脱中心化する)ことができなければならない。また、私たちは自律ではあるべきだが、自足であると考えるのは問題がある。近年はこの自律と自足という概念を同一に考える傾向がある。「大人になるには、精神的にも金銭的にも自立できなければ」という言葉もよく耳にする。しかし、自律と自足を混同することは、万能の個人を想定した近代人の傲慢を賛美するか、対話の断絶を意味することにしかならない。まず、私たちはこれらの誤解を払拭する必要がある。アイデンティティーの危機を迎えて、私たちは安易な「アイデンティティー神話」に踊らされず、現代のコンテクストでアイデンティティーの問題を再定義しなければならない時期が来たといえる。


《 文 献 抄 》

太宰治著『人間失格』新潮文庫(1952年)
野田又夫責任編集『世界の名著22 デカルト』中央公論社(1967)
 - デカルト著、野田又夫訳『省察』
デカルト著、谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫(1997)
クーン著、中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房(1971)
懸田克躬責任編集『世界の名著76 ユング・フロム』中央公論社(1979)
 - フロム著、加藤正明・佐瀬隆夫訳『正気の社会』
デュルケム著、宮島喬訳『社会学的方法の基準』岩波文庫(1978)
尾高邦雄責任編集『世界の名著47 デュルケム・ジンメル』中央公論社(1968)
 - デュルケム著、宮島喬訳『自殺論』
ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店(1979)
ピアジェ著、滝沢武久・佐々木明訳『構造主義』クセジュ文庫(1970)
ピアジェ著、滝沢武久訳『発生的認識論』クセジュ文庫(1972)
ロールズ著、田中成明編訳 『公正としての正義』木鐸社(1984)
ピアジェ・イネルデ著『新しい児童心理学』クセジュ文庫(1969)
ルーマン著、佐藤勉監訳『社会システム理論 上・下』恒星社厚生閣(1993)