『近代真理観とその展開可能性』
目次

【序】
【第1章】 クーンによる近代批判
【1.1】 パラダイムに関する考察
【1.2】 翻訳可能性について
【第2章】ウェーバーとジンメルにおける真理観
【2.1】 「理念型」に関する考察
【2.2】 「社会圏の交錯」に関する考察
【2.2.1】 自然のアナロジーとしての社会
【2.2.2】 社会はいかにして可能であるか
【結】


【序】

 中世における真理が「知」と「もの」の一致 [1] にあったとするならば、それは一方では、主体と客体の分離を促し、またその一致面に存在するものを実体化することにより、主体が表象として捉えることのできないそれ以外の関係性を省みることを、無意味、或いは不可能なこととして切り捨ててしまう態度を生じさせることになった。つまり、表象として捉えることが可能なものを存在として捉え、たとえ捉えられない場合でも、様々な条件を付加することにより捉えるものにしてしまうことの帰結は、存在の同一性をなんとかして保持しようとすると同時に、その唯一普遍性を無反省に押し付ける態度に転じることになるのではないだろうか。さらにこのような態度に異を唱えるために、複雑性や関係性といった言葉を持ち出したとしても、ただ異を唱えるための手段としてそれらの言葉を用いるならば、それ自体が実体化され、またもや存在としての同一性の追求へと転じることになるのではないだろうか。本稿では、言葉を用いて表現せざるをえない以上、自らも同じ事態へ陥ってしまう危険性を覚悟した上で、敢えてそれらの言葉がどのように語られてきたのかということを考えることにより、それらの言葉の意味を解きほぐしていくことができればと考えている。
 したがって以下においてはまず、トマス・クーンの意義を考えてみたい。なぜなら、彼はパラダイムという概念を持ち出すことによって従来の累積的発展科学史観を覆した以上の意味をもっているからである。彼は決して「時代状況の異なるそれぞれのパラダイムには、それぞれの真理がそれぞれの意義を持っている」ということを言うためにパラダイムという概念を持ち出したのではない。その本質は翻訳可能性にある。すなわち、パラダイムという概念を実体化させることなく、それ自体をダイナミックな機能体系として想定することにより、単なる相対主義に陥ることなく真理に対する深い洞察を加えているのである。

【1】 クーンによる近代批判
【1.1】 「パラダイム」に関する考察

"History, if viewed as a repository for more than anecdote or chronology, could produce a decisive transformation in the image of science by which we are now possessed." [2]

 クーンの意義は冒頭のこの一文に集約されている。すなわち、科学史を直線的な発展過程としてしか見れないような状況に置かれている限りでは、科学の本質を洞察することはできないのである。そして彼によって浮き彫りにされた科学研究の本質とは、自然を1つの真理という箱の中に押し込めることができるのだという科学者集団の中で共有された強い確信であり、その確信は対象となる自然を同一性のもとで捉えようとする試みへと転じる。しかし、この試みは常に成功するとは限らず、時には修正に修正を重ねて無理にでも理論に適合させる必要も生じる。そのような場合には科学者集団という特殊な制度的性格上、外部を気にせずにその作業に没頭することが可能であるのだが、このことは裏を返せば、同一性を保つことの難しさを表現しているといえる。
 すなわち、同一性を保とうとすることは、静止した「同一状態」が存在することを前提として科学研究は進められているということであり、このことは、理論が「目にみえる」経験的観察事実を求め、事実を理論に従属させようとすることに帰結する。つまり「見ること」によってデジタル的に捉えた一時停止画像を繋ぎあわせれば自然のダイナミックな運動を捉えることができるのだという確信がもはや疑いも無く受け入れられているのである。しかしこのような前提がもろく崩れる危険性に常に迫られているのは、目にみえる形で恣意的に顕在化された表象は同一性のもとに留まることを許さず、常に潜在的な運動によって変容・生成され続けるからである。そう考えるならば、そのような表象に対して求められる客観性、さらにはそれと同時に保たれる集団内の共同性というものほどもろく同一性を欠いたものはないということになる。
 また、パラダイムと通常科学研究の関係はどちらが先でどちらが後だということはできない。なぜなら「パラダイム」という概念そのものが多義的な意味を内包しているからである。補章に挙げられている4つの意味、つまり「記号的一般化」、「形而上的パラダイム」、「価値」、「見本例(exemplars)」を考えるなら、3番目の「価値」はパラダイム形成の最初期から共有されているものとして考えることができるだろうし、残りの3つは最初期からというよりもその後の形成過程にしたがって強化されていくものとして考えることができるだろう。とにかく、これらについて厳密にする必要はない。重要なのは、科学革命によって更新されるパラダイムの歴史的な変遷を追うことによって、それぞれのパラダイムを比較相対化する視点を提示したことにある。
 しかしクーンの意義はこれだけにとどまるのではない。なぜなら、単に諸パラダイムを相対化するだけであれば、そのときクーン自身が立脚する観点を相対化することはできるのかという問題が残るからである。この問題を考えるためには次のような問いを立てることが有効であろう。すなわち、パラダイムはどのように機能するのか、という問いである。この問いが想定しているのは次のような事態である。すなわち、科学革命が生じたとき、必ずしもすべての科学者集団が既存のパラダイムを破棄し、新たなパラダイムへと移行するわけではないということである。あるいはまた、パラダイムが更新されれば既存のパラダイムは烙印を押され、もはや省みられないという事態である。
 ここにクーンの視点の本質的な意義が存在する。つまり、諸々のパラダイム間の相互作用とパラダイム内の自己制御行為である。言いかえれば、一方で外部に対する開かれた関係を持ち、それと同時に外部からの影響を選択、あるいは拒否する契機を常に保持した存在としてパラダイムは描かれている。上に述べた通常研究における科学者集団の確信はその一側面に過ぎない。ここで明らかになることは、クーンも述べるとおり、純粋な中立言語が存在しない以上、諸パラダイム間の通約不可能性は否定することができない。しかし、彼がそこで立ち止まることは許されない。なぜなら、その可能性を完全に否定するならば、パラダイムの移行は不可能になるからであり、このことは既存のパラダイムにおける言語体系が、大きく変容しながらも大部分を保存されたままで移行するというところにも現れている。そして彼が辿り着いたのは、諸パラダイム間における翻訳可能性についての洞察である。

【1.2】 翻訳可能性について

"To translate a theory or worldview into one's own language is not to make it one's own. For that one must go native, discover that one is thinking and working in, not simply translating out of, a language that was previously foreign." [3]

 まず注目すべきところは "thinking and working in, not simply translating out of, a language that was previously foreign" というところである。なぜなら、"in" と "out of" の違いに注意しないなら、彼が意図する翻訳の本質を見落とすことになってしまうからである。"in" が「〜の中において」という意味であり、"out of" が「〜の中から外へ」、「〜から離れて」という意味であることを考えるならば、この箇所は次のように理解できる。すなわち、「翻訳の対象となる異言語体系自体の内部において思考することが重要なのであって、そこから離れてただ単に自らの言語に当てはめるだけでは、言語の表象的な意味のほんの一部分しか翻訳することはできない」ということになる。
 したがって、翻訳とは、異なる言語体系を自らの言語体系の下へと同化させることであってはならないのである。あくまで相手の言語体系「の中において」考えるべきなのであって、その行為が意味するのは次のことである。すなわち、異言語体系において言語自体が有している諸々の関係を体験することによって、すべてを1つの真理のもとに引き寄せようとする思考形態そのものを相対化させると同時に、削ぎ落とされた諸関係性への連関を洞察する可能性を得るのである。このような視野はもはや、それぞれのパラダイムにはそれぞれの真理が存在するのだという単なる相対主義ではなく、そこからから遠く離れた地平へと展開されるのである。

【2】ウェーバーとジンメルにおける真理観
【2.1】 「理念型」に関する考察

 ウェーバーが主張する理念型は、それ自体は一種の虚構であり現実には起こり得ないが、理論の構成に一定の方向性を与えるものとして考えられている。つまり異なる時代や地域において反復してみられる特性を抽出し、それを統制的に用いることで、錯綜した諸事実の複雑な絡まりを、そして時には支配的な理念によって隠されてしまっている諸事実の関係に光を当て得るものとして想定されている。ここで注意しなければならないことは、理念型[Idealtypus]は決して諸事実がそれに従うべき理念としてではなく、可能的に構成された1つの完全な論理体系であるということである。このとき「完全な論理」というのは言うまでもなく、事実が(あるいは現実が)必然的に完全な論理に収納されるということを意味するのでない。彼はその暴力性をはっきりと自覚した上で理念型について論じているのである [4]
 それでは彼が敢えて完全な論理性を主張するのはなぜなのだろうか。1つは、そのような統制的手段が存在しなければ、膨大な諸事実を前にしてただ途方に暮れるしかなくなってしまうことになり、その際支配的な通念的理念に従属することになってしまう危険性があるからである。そしてもう1つは、(完全な論理性によって汲み尽くされることのない無限の豊かさを洞察することは不可能であるとしても)その流動的な無限の豊かさが産み出す余波によって連動させられる顕在的諸関係が、絶えず新たな理念型を構成し直すことを要請するということを想定しているのである [5]。つまり、一方において、ある1つの意義を諸事実と関連付けることによって理論内部の完全性を高めると同時に、他方においては、そのような完全性がそれ自体差異を生み出し、ある観点においては合理的な同一性を保っているものとして仮定されていたものが、その同一性を次第に喪失していく過程において、もはや固定化された実体として捉えられることなく洞察されうるのである。したがって、理念型は理論を方向づけるためのものではあるが、その結果できた理論に経験的データを押し込めていくことによって、理念型を1つの理念として構築しようとする意図は、無限の豊かさを形骸化することによってしか成功しないのである。
 しかしながら、以上のことは社会科学の任務が絶えず新しい理想系を構成していくことにある、ということを意味しているのではない。彼が強調するのは、あくまで「具体的な歴史的連関の文化意義の認識に仕えること」[6] なのであり、理論や方法を優先させることにあるのではない。だが実際には、このことを理解せずに、ただ経験的観察によって得た事実を、理念型にしたがって一つの概念体系に秩序付けることこそが目的なのであり、その概念体系からすべての経験的事実を演繹することができるという錯覚に陥るものが多いのである。そのときもはや空虚にそびえ立つ概念体系という名の外枠からはすべての歴史的連関は流れ落ちてしまうのであって、残るのはただ無理矢理にでもその枠の中に押し込めてやろうという確信のみである。
 また、彼が考える社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」[7] は何処に存在するのかという問いに対しては次のように答えられる。すなわち、客観性は存在するものではない、あるいは少なくとも「存在」として捉えられるものではない、と。なぜなら、ある特定の認識価値に基づいて構成された理念型を用いることによって、経験的事実(正確に言うなら、経験的「事実」として考え得るものとして捉えることができると仮定した上での存在)に対してある特定の価値連関を付与することが可能となるのであるが、それは同時に経験的事実がある特定の認識価値によってすべて導き出せるということの証明は不可能であるということに対する洞察を意味するからである。したがって、客観性が同一性を保った存在として無反省に志向されるとき、彼の言葉を借りるなら「最後の人々」による傲慢な自惚れ [8]へと変容してしまうのである。

【2.2】 「社会圏の交錯」に関する考察
【2.2.1】 自然のアナロジーとしての社会

 ジンメルが「個」と「社会」の相関関係について言及する際、その両者の関係性を存在として捉えることができると考えているわけではないのは言うまでもないことだが、同時にまた、「個」と「社会」という言葉で表されるそれぞれの意味内容も、ただ知覚表象として想定されているわけではない。つまり、個人がまず存在し、諸個人間において生じる相互作用が社会を形成するのではなく、また社会があらかじめ存在して、その社会の特性から諸個人を結ぶネットワークの性質がもたらされるわけでもない。しかしながらこのことは、人間が表象として受け取った認識を、存在に対して賦与しようとする衝動を完全に否定するものではない [9]。したがって彼の問題関心は、個人がどのようにして社会を認識し、また社会存在としての自己がどのようにして自らの認識への意志を可能としていくのか、ということに対する洞察へと向けられる。
 彼はまず、「自然はいかにして可能であるか」という問いに対して、カントを手がかりにして論を展開する [10]。それによれば、自然とは人間の認識作用の一定の様式において生じる表象であり、その作用とは受動的に受け取った感覚を知性の形式によって秩序付けることであるとされる。その意味においては、自然とは、主体の能動的な働きかけによって成立される客体として想定されている。だがそのとき、自然を認識する人間もまた自然の一部であるということによって、人間と自然との円環的な構造もまた想定されているのであり、彼はこの両者の関係を、人間と社会との関係へと重ねようとするのである。すなわち、

1、人間は社会の一部である。
2、社会は人間の認識における表象でしかない。

 この両者の円環関係を明らかにすることによって彼が意図していたのはまさしく、自然を存在として捉えようとする衝動が圧倒的な凱歌を上げることによって損なわれてしまった自然と人間との円環関係を快復しようとすることであったのである。

【2.2.2】 社会はいかにして可能であるか

 社会圏の内部において個人はまず、他者についての知覚表象を秩序付けることによって他者の形像を構成するのであるが、これは両者が同じ社会圏に属しているという認識から起こるものである。またこの作業が相互に行われることによって、他者についての部分的な表象である形像は、ただそれだけが他者の人格のすべてではないという条件の下で、その類似性を認め合う。このとき、社会圏内における個人の断片的要素は、それ以外の部分と無関係に存在するのではなく、表象としては現れない個人的本質との関わりこそが、部分的表象のための必要条件となる。以上が社会存在としての個人が行う認識作用であるのだが、このような認識が成立するためのアプリオリな条件として、個と社会の原理的な調和がまず想定されている。しかしながらこの社会との調和が個の意識にもたらされる時点は、時間的前後関係でいえば、過去において予定されていた同時的に並存する潜在的諸力の調和関係の現実化に過ぎない[11] 。すなわち、社会圏内においてその対象となりうる潜在的内容の発現と同時に顕在化したものを認識する限りでは、その時点における個と社会の調和状態というのは認識の地平の裏へと滑り落ちてしまうのである [12]
 したがって、認識として捉えることのできる社会によってすべてを論理的に関係づけるという試みは徒労に終わるほかないのであり、この洞察によって、自然を社会と類比するジンメルの思考は決して社会の対象化だけに陥ることがないのである。そしてさらに展開するならば、社会圏の交錯における社会とは、社会であると同時に社会ではない、つまり、知覚表象としての社会は、個の知覚表象である限りでは「包括的」社会とは言えないが、その知覚表象が、個人的本質及び他者の個人的本質、さらに社会外的本質との関わりを持つ限りにおいては社会といえる [13]。したがって、自然との類比で語るならば、人間によって認識された自然とは、自然ではないと同時に自然である、ということである。なぜなら、自然ではない領域を設定することと、自然はそれ以外にあると語ることはまさしく近代的思考そのものであるからである。ジンメルの議論は、認識の地平面における時間的及び空間的関係に対する論理的秩序構築をも解体へと導いているのであり、また個と社会における連関を描き出すことにより自己生成としての共同性を描こうとしているのではないだろうか。

【結】

真理は、受けとめ方次第では武器になりうる。それは科学の方法論を何らかの手段として用いた場合に、それが定式した領域に対しても領域外に対しても同時に操作を加えるという意味で武器になるのと同じ関係である。しかし本稿で扱うそれぞれの真理観は、必ずしもそのような意図を持って主張されているのではないことが分かる。なぜなら存在を同一性という枠の中にとじこめるのではなく、その言葉から紡ぎ出されるさまざまなネットワークを通して近代における近代批判を行っていると考えられるからである。そう考えるならば、近代における真理観を考えるときに、「近代真理観とは何か、或いは何であったか」と問を立てるよりも、「近代真理観を巡ってさまざまな言葉がどのように語られてきたのか」という問を立てる方がふさわしい。なぜならその問に対する問題関心はあくまでわれわれの側にあるからである。


【参照文献一覧】
1.『科学革命の構造』トマス・クーン 中山茂訳 みすず書房
2."THE STRUCTURE OF SCIENTIFIC REVOLUTION" THOMAS S. KUHN THE UNIVERSITY OF CHICAGO PRESS
3.『社会学』(第1章「社会学の問題」)ジンメル 居安正訳 白水社
4.『社会的分化論』ジンメル 世界の名著 中央公論社
5.『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』マックス・ウェーバー 岩波文庫
6.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバー 世界の名著 中央公論社
7.『真理論』トマス・アクィナス 花井一典訳 哲学書房
8.『神学大全』トマス・アクィナス 世界の名著 中央公論社