(3) 非合理的なものは存在するかという議論
1 人間の認識思考は特定のフィルターとツールをもっておりそれによって環境世界を認識したり環境世界に介入したりする場合にセレクティブに働きます これは文化的時代的制約を受けて様々な形をとります その選択によってかもし出される一定の(バイアスがかかった)世界の捉えかたを解釈、意味付けと呼ぶこともできるでしょう 合理性とは近代人が強制的にかけさせられた色眼鏡です 
2 ただその場合フィルターを介さない真実の世界というものは存在しません なぜなら全ての人間は生まれたときから死ぬまではずせないフィルター色眼鏡をかけているからです
3 この考えを更に進めて見ましょう 人間の合理性を越えたところに何かがあると主張した人がいます しかしその人自身が現代の言葉(それは合理性にどっぷりつかり合理性そのものを体現しています)をつかって「合理的なものの背後に確かに何か非合理的なものがある」と言った場合その主張自身は合理的な主張なのでしょうか
(1)もし合理的な主張だとしたらその非合理的なものの存在が合理的精神にとってしか確信できないつまりその非合理的なものの存在と認知とは合理的精神に依存することになります
(2)もし非合理的な主張だとしたらそもそも「非合理的なものが存在する」という主張自身を信ずる根拠がありません
(3)この矛盾から逃れるために現代人がよく持ち出す議論は「非合理的なものは合理的言葉で云々できることではない それは非合理的なものが存在するという実感ないし感情である」 というものです
もしそうだとしても
3、1そのような主張それ自身は合理的な主張であるのか
3、2それとも非合理的な主張であるのかと問うことによってはじめの1に逆もどりしますそのようなわけで「非合理的なもの」は仮に一歩譲ってだれかが「実感」したとしても伝達不可能ですし、「感じた」ことから「存在する」ことへの跳躍の根拠もありません 伝達も不可能です したがって存在するという妥当性はありません(実在しません) 
4、上の議論はじつは19世紀末から現代までしばしば繰り返されてきた議論です もし上のような議論をかわしてなおかつ「非合理」なものがあるという場合はそれを別の仕方で(あくまでも共同言語としての合理性をつかいながら)示す必要があります