[5] <参考:尾高邦雄「世界の名著 ウェーバー」東京、中央公論社、1979、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、p.118>
『「非合理」という語はそのもの自身についていわれるのではなく、つねに特定の「合理的」な立場からいわれるのである。無信仰者にとって一切の宗教的生活は「非合理」であり、快楽主義者にとって一切の禁欲的生活は「非合理」であるが、これはその究極の価値から見れば一つの「合理化」にほかならならい。』