目次
序論
第一章 孔子 社会性について
[はじめに]
[第一節 心を惑わすものを排除する不動心]
[第二節 家族における実践と君子における実践]
[第三節 天は人の意志との対立概念か]
第二章 墨子 伝統からの脱中心化
[はじめに]
[第一節 目的明示という手法による思考の在り方]
[第二節 墨子における彼岸 兼愛主義の真髄]
第三章 荘子 生きる存在に関して
[はじめに]
[第一節 心が不動であることと心が束縛されることの違い]
[第二節 究極の対立 生と死の緊張関係]
[第三節 道はどこにあるか]
第四章 陰陽と自己ならざる自己
[第一節 陰陽の思考構造]
[第二節 恒常性への信頼と変化への対応について]
結論
諸子百家は中国群雄割拠の時代の思想家群であり、孔子の生きた春秋時代後期はまさに戦乱の幕開けに当たるとされる
[1] 。周王朝を中心とした旧封建社会体制の秩序が崩れ始めた状況である。政治・軍事的には一国の中においても家臣が君主を打倒し、国と国の間においては軍事力の強いものが勝ち残るといった具合である。その軍事力を支えていたのは、武具の発達、物資量の増大、都市への人口集中による戦闘員の増加等が挙げられる。一方、一般庶民階級においても、様々な要因によって共通意識の変化が見られていたと考えられる。まず、武具同様に農工具の発達を支えた青銅器鋳造技術の発達・安定、農工具の発達による農作物の生産増大、余剰生産物を等価交換するための貨幣経済の誕生 ―― これも青銅器技術によって支えられていた ――、富の蓄積である。これら一連の流れが人々に印象付けたのは、第一に様々な価値の力への一元化 ―― もっとも顕著なのが軍事力であり、またそれを有する国家 ――である。第二に、ものの価値が質から量へと変換されつつあること。これは、農作物の増産によりものの量が増えたこと同様、戦争に動員される人員の増大から推し量れる。力と量は密接に関わり合い、力を持つ者は多くの所有を、富のある者は権力を持つという具合であり、事実上両者は一つの特性の各側面と考える。春秋・戦国時代がそれ以前と何よりも違うのは、力と量が大きな価値を持つということが誰の目にも明らかであり、現に目の前で変化が起こっていることである。後の歴史を先取りすると、この時代は新たな政治的中心を求める気運に包まれていたと見ることができる
[2] 。言わば、あらたな政治体制の模索の時代であると同時に、それを支える思考体系の試行錯誤の時代でもある。
諸子百家と呼ばれる自由な思想家群はこのような時代背景に生まれる。彼ら各々の主張が対立しあい、時には他学派の主張を取り入れたりする動きは、変動する社会をそのまま映し出しているかのようである。しかし、彼らの主張が様々であるにもかかわらず、一定の問題意識を共有していた。その問題意識とは、変動する社会が生み出す矛盾であり、それぞれの立つ視点が異なるがゆえに答えが分かれてくる。ここでは、枝葉末節について述べる余地はない。彼らの主張は、時には矛盾を内包しており、それゆえに他学派の攻撃の的になったりもする。その部分は逆に思想の自由という面白さを描きだしたりもする。それらは、一定の目的を浮き彫りにするための方便として捉えたい。この論文では、「不動心」という統一的テーマで彼らの思想の核心を描き出してゆく。一つの枠組みを与えることによって、一見彼らの思想の自由を制限するようではあるが、真の主張のありかを突き止めることが期待できる。具体的には、一章で孔子を、二章で墨子を、三章で荘子の思想を、中心に採り上げる。続く四章で古代中国思想の総括の意味もこめて「陰陽」について論じ、結論においては、以上で述べ明らかになった思想の光を現代に照らし合わせてみる。彼らの主張は様々ではあるが、その核心たる部分は「不動」である。不動たるがゆえに人の心を惹きつけるのである。その一つの証明が、今日において彼らの思想が語り継がれ、生きていることである。
この論文は、歴史の客観的事実を分析することが目的ではない。諸子百家と呼ばれる学者集団が、当時抱えていた社会問題をどのように見ていたかを探ることが主要な使命である。恐らく、この点に関して「現代人から見た古代思想」に過ぎず、バイアスを排除しきれていないという種類の批判がつきまとうことだろう。だが、その種の批判はむしろ歓迎されるべきである。何故なら、我々の持つ思考のネットワークを使わなければ、書物や過去の歴史に疑問を投じることはできない。さらにその疑問の出所である足元を見れば、我々が平常抱える問題が浮き彫りになることに気付くであろう。
和辻哲郎が彼の著書『孔子』において、一つの興味深い考察を行っており、それを引き合いに出したい
[3] 。孔子、釈迦、キリスト、ソクラテスといった人類の教師は、彼らの死後弟子、孫弟子らの力によってその思想影響が広められたのであり、決して彼ら個人の力のみで普遍的教えを獲得したのではない。このことは、教えを必要とする人がいかに多いか、そして一夜にして伝統が創り出されたわけではないことを物語っている。長い年月を経て、思想は魔力を持って社会を覆ってきたのである。我々の生きる現代も無論、例外ではなくなる。本論文の結論を先取りすると、現代においても、社会はある種の魔法が掛けられている。伝統ではなく進歩、発展という魔法が社会全体に掛かっているのだが。現代人が伝統という呪縛を捨てたとき、自らに新たな魔法を掛けることを望んだに過ぎない。紛れもなくこの論文の意図は、ある特殊地域における古代の思想を読み解くことにより、現代我々が抱える問題を明らかにすることである。その際、我々自身が持ちながらも気付かざる認識を破壊するかもしれない。ただし、その態度は批判的ではあるが、真っ向から対立するが為のものではなく、進歩、発展という非連続的な発想の修正が主意である。
『論語』の大きな特徴は、孔子を中心とした初期儒家集団の対話・問答集である。その内容は、人が社会で生きてゆくこととはどういうことか、何を守らなければならないかを考えた人たちの言行録である。そして、注目すべきことは、孔子を中心とした初期儒家集団が、中国史上において初めて組織化された学者集団であったことである
[4] 。このことは、動乱の春秋時代後期において、いかに「知の体系化」が望まれていたかを物語っている。つまり、一方で孔子たち初期儒家集団が彗星のごとくこの世に現れ、突然の偉業を成し遂げたかのように思われるかもしれないが、他方、彼らの思想を生み出し、また受容する社会がなければ生きた思想として認められるはずがないのだ。『論語』という書物は当時の社会という素地をふんだんに吸収し、彼らの言葉に変換されたものとみなさなければならない。この学者集団の成立という歴史的状況から考えて、そこで行われた知の体系化は歴史の一つの節目を表わしていたと言える。「仁」や「礼」といった考えは、孔子以前には慣習的に交わされていた言葉に過ぎなかった。孔子自身も、仁や礼といった言葉に明確な定義付けを行ったわけではなく、それらの言葉は弟子との問答を通して自在に変化し表れるものであった。むしろ、明確な定義付けを求めたのは、孔子以降の弟子や後世の儒家であったとされる
[5] 。孔子の口から発される仁や礼とは、特殊な状況におけるものであり、実践というコンテクストの中で理解されるものであったのだが、それを聞く弟子たちは、そこに普遍的意味を探ったのだ。そこで、今『論語』という書物を手にとって、孔子の言葉を聞いてその意味を探るべく想像を巡らした弟子たちのように、彼の教えとその意味するところを考察してゆこう。
孔子の生きた時代は、戦乱が加速化し、下剋上によって身分秩序が崩壊しつつある状況であった。誰の目にも社会が変動しつつあることは明らかであっただろうし、その変化が急速であればあるほど明日をも知れないほどの将来への不安も顕在化しつつあったと考えられる。その社会状況の中で生きた孔子の一つの主張が、古代の聖人君子を模倣するといったように古きを温めることである
[6] 。そのことは社会が変動してゆくことに対する真っ向からの否定攻撃を表わしていた。ここに見られる孔子の主張は「分かること」に対する理解である。人の為すべきことは、未来の予測ではなく、過去を吟味反省することであり、新たな創造ではなく既成秩序の保守であり、人を殺すことではなく、人を愛することである。
孔子が排除しようとしたのは、答えることのできない問題を顕在化させることである。たとえば、人は何に突き動かされているかという問題は一定の解決を持たない。人は生まれながらに善であるとする孟子の性善説と、人は生来悪であり、社会が教化しなければ善足り得ないとする筍子の性悪説とが後世に、同じ儒家でありながら全く異なる結論を持ち出すという例がある。これら二者の答えはそれぞれの論を展開させる基礎部分であり、彼らの諸主張はそれぞれ有意義である
[7] 。だが、性善説、性悪説それぞれの持つ結論は、一体どういった疑問に対する答えであろうか。それは、人間の本性に関わる問題である。人間がどうして社会の中で生きているのかという事実と、その事実を決定している根本原因 ―― キリスト教等の宗教においては「神」によって表わされる ―― に対する素朴な疑問に対する答えである。人間本性は善であるか悪であるかという問いは、「人間は一体何に突き動かされているのか」という問いの一形態と考えられるだろう。
ここで明らかとなってくるのは、問うてはいけない問題を発現することである。その問題とは、明確な答えの出せない問いであり、そのことを問うことによって心を惑わすものである。その類いは、神霊とは何かであり、死後の世界についてであり、未来の出来事についてであったりする
[8] 。
孔子の、社会の変動に対する否定は、徹底的に保守的な形をとって表れるのだが、社会が変化することを否定するわけではなく、また決して自己完結した社会というものを想定していたとは言い難い。孔子の禁じたことは、非連続的な価値の創造である。『詩』や『書』と言った経典を読むことで内的な完成を目指すことの方が重きを置かれることは、同時に社会の変化への対応、社会的人間関係における実践を想定している。このことは、奇抜なアイデアや人の目を惹く艶やかさといった表層的な部分のみに頼るのではなく、既に創造されたものの価値の中からしか生まれないことを物語っている
[9] 。
およそ孔子の目指したことは、社会の安定であったと要約できる。社会における安定とは、礼による形式的な秩序のみならず、内的な不動心による安定が不可欠なのである。孔子が歳をとるに従って、迷いがなくなり道が見えてくるようになったという言葉があるが
[10] 、それは人格の内的な完成を成し遂げることで実践に対処できることを示している。そこには、創造の意味合いを窺い知れる
[11] 。孔子が案じていたのは、疑いもなく戦乱の世の行く末である。古きを温めることは、未来を案じるがゆえの逆説なのだ。
孔子の言明は実践的である部分が多い。学問をする暇があるなら親孝行をせよ、それでも手間があくなら学問をせよというぐらいである
[12] 。また、親孝行を実践している者に対しては、既に学問を成就したと同等視する。実践のできる人間は既に内面が整っている証拠であると考えられる。孔子自身実践的政治に関われないことを嘆いているほどである
[13] 。だが、孔子の言う実践とは、現代における文脈とは解釈を異にする。何か新しい発見をするためとか、理論を実証するための実践ではない。活発に動き回るとかいう意味でもない。ただ、自己完結しないという意味での実践である。
孔子によると、家族における人間関係と社会における実践とが同質のもので結ばれている。その同質なるものをここで明らかにしよう。家族とは、共同社会への準備段階であり、社会秩序の縮図である。個人にとって一定の立場を持つ場であり、社会において特定の立場から物事を見てゆく基礎である。家族とは自然発生的共同体であり、その共同体秩序を守ることは、社会の秩序を守ることが主意である孔子にとって当然の帰結であったかもしれない。現代においても家族の秩序は社会の秩序の基本であるという解釈は一般的である。だが、中国古代においては墨子のように単純には家族主義を肯定しない立場すら見受けられる
[14] 。現代人の感覚からしても墨子の家族中心主義否定は異質さを感じさせるし、家族と社会との関係が必然的ではないのかもしれないという疑念すら起こさせる。このことを考えると、孔子が描いていた家族共同体と社会との連関を説明するためのより強い理論支柱を必要とする。
家族とは、個人にとっては生まれながらの共同体であり、家族そのものは環境に対する最小の主体システムである。家族は、個人がどの家に生まれるかという選択を与えず、受け入れねばならぬ現実を真っ先に与える試練の場である。しかし、そのような強硬な態度で望むべく環境ではない。受け入れさえすれば良いという状況でもある。ここから、孔子の実践が始まるわけは、その環境が既に自然であるということに大きな意味がある。そこでは、新たな問題を作り出す必要はなく、既に問題が与えられている。ある/ないの問題ではなく、家族はただそこにあるのみである。そこにある現実をどう受け止めるかが「仁」を追求する際の術である。「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、ここに仁至る。」(述而篇 二十九章)によっても仁を求める実践の在り方が知れる。
ところで、家族はそこにあるのみであるということは、その現実は自らの意志によって左右することのできないことも含意される。すなわち、自己がそこから切り離された立場であることを許さないのが、家族という環境である。家族は、今ある問題にどう関わるかを問わしめると同時に、自己が開放的システムであることを要求する最初の場である。個人は家族を通して、自らの身を委ねる存在の恒常性について学ぶ。だが、同時に次のことも知らなければならない。自らが身を委ねるがゆえに、それを独占所有ことが許されるべきではなく、他者が同時に共有するものの存在があることを。それは、共同体のフォーマットであり、それに則ることによって人々の平常の活動が可能になる。孔子の言葉で言うならば、それは「礼」であろう。孔子が保守的であることの理由は、この共同体基盤の動揺を回避するがゆえなのだ。そのことを熟知し、不動であることを体現するのが君子である。
君子とは、政治社会的機能の面では統治者であるが、それ以上に人格の完成者の象徴としての意味合いが大きい
[15] 。精神的な君子を目指すことが儒家における人生目標であったのだが、そこに後者の意味合いを強く取れる
[16] 。
君子が単に政治的統治者であるならば、交換されることはなんら問題にはならない。だが、孔子がそのことを禁じる意味合いを考察してみると、そのような物理的交換が共同体精神に与えるインパクトの否定が読み取れる。君子のポストが自由に交換できることは、物理的交換であることを強調し、また政治と一般社会との非連続性を強める。君子が世襲制であり、特定の血統上の人物に限られることにより、絶対的支配を印象付けるだけではなく、君子が不動であることを知らしめる。君子が不動であることにより、社会はそこに秩序の安定を見出すのである。君子は社会的安定秩序の象徴であり、それを交換することは社会の変動、秩序崩壊を意味する。
このことから、不動心とは、主体にとってそのようであると同時に、他者に対しても動揺を与えないことが重要なのである。君子は他者によって意識されることによってその存在を大いに拘束される。だが、常なる意識によってではなく、潜在的意識によってである。絶大な権力による支配者としての君主は、民衆にとって抑圧者として意識化される。意識されることは既に動揺への契機を内に含んでいる。意識されることの顕在化への否定を強調した主張を、儒家ではなく道家の老子において見ることができる。
「正を以て兵を用う。事無きを以て天下を取る。吾何を以て其の然るを知るや。此れを以てなり。天下に忌諱多くして、而うして民は弥いよ貧し。…故に聖人の云わく、我為すこと無くして而うして民は自ずから化し、我静を好んで而うして民は自ら正しく、我事無くして而うして民は自ら富み、我欲すること無くして而うして民は自ら樸なり。」 (『老子』下篇 第五十七章)
「其の政悶悶たれば、其の民は淳淳たり。其の政察察たれば、其の民は欠欠たり。<政治がぼんやりしているとき、その人民は淳朴で重厚である。政治が目を光らせているとき、その人民は不満で(争いをおこすので)ある。>」(『老子』下篇 第五十八章)
これらの大意は、為政者は人為的な政治をすべきでないということである。為政者が自分の都合に合わせて政治をすればするほど、民衆には抑圧者として意識される。つまり、君子は他者の視点を必要とし、自己の所有を認められない。自己自身の所有すら認められないのである。なぜなら、民衆に共有されるべき存在であるから。そこで、何もしない主体のイメージを描くためモノという言葉を借りてこよう。それを見る人への精神的影響という視点で考えると分かる。モノであるということは、モノがまるでそこにないかのように意識されないことであり、それによって様々な意識の顕在化を防ぐことができよう。他者に与える動揺を極力押さえるという不動心を典型的に表現したものと言える。老子という社会科学者は、君子という人格に「自然」という側面を加えることによって、儒家の政治理念を補ったのである。さらにここで、実践に自然という意味を補わなければならない。人はこの世に生まれる限り、親から生まれるのだが、平常親があるとは意識しない。あるものは当然という認識であり、このことを強調するとまるでモノであるかのような認識である。そして、そのような場における実践とは意志を必要とするものではない。そして、それは荘子の主張する点でもある。
「敬を以って孝なるは易きも、愛を以って孝なるは難し。愛を以って孝なるは易きも、親を忘るるは難し。親を忘るるは易きも、親をして我れを忘れしむるは難し。親をして我れを忘れしむるは易きも、天下を兼ね忘るるは難し。天下を兼ね忘るるは易きも、天下をして我れを兼ね忘れしむるは難しと。」 (『荘子』天運篇 第二章)
このように、君子は民衆の共同体精神の象徴ではあるが、対象として意識上に顕在化されることは回避されねばならない。であるにも関わらず、社会的混乱が起こったときには、真っ先に意識に上る存在であり、社会の代表としての責任を負わされることになるであろう。統治者としての君子は顕在性への契機を最も含んだ存在であり、それゆえに通常においては意識されないことが重要なのである。孟子の説く「易姓革命」はこの意味で説得力を持つ。易姓革命によれば、君子の徳がなくなると別の姓の者が君子になることは天の命が革まったとして是認される。君子の徳がなくなり「ケ枯れ」になった状態を祓うハレの儀式であるというように、社会変動の必然性を肯定する考えであることが一般的な解釈かもしれない。だが、君子を交換することによって新たな気=ケを充満させる必然性を問えば、社会の安定性を願う思いが隠されていることに気付くだろう
[17] 。
孔子以前の天の一般的解釈を求めると、宗教的色彩が濃いことが分かる。武内義雄著『儒教の精神』によれば、「支那古代の民族は、人間は天から生れたもので天の意思に順ふことが即ち人間の道徳であると信じて居たらしい。
[18] 」とする。そして、それは政治の決定を求めるための占いを左右する意思という実践的意味に転化する。孔子の時代においても、特に民間信仰のレベルでその慣習は生きていた。『論語』に見られる天は、運命、天命、神霊等の意味合いを持つと解釈できる。予期せぬ人の死に対する嘆き、思いがかなえられぬ悔しさ
[19] が「天」に託して表わされている。そして、祭祀儀礼への積極的参加も見受けられる
[20] 。では、孔子の解釈する天とは一体、訳の分からぬ原因を全て押し込めることのできるスケープゴートとしての機能を持つのであろうか
[21] 。それとも、訳の分からぬ存在であると捉えられるなら、合理的解釈に基づく説明により、最終的には分かるようになると仕向けるために用いられる概念なのだろうか。一切の人間の営為を空しくさせる圧倒的な支配力を持った存在なのだろうか。これらの問いに答えることは、いずれも「天」のもつ機能を明らかにする作業に終始するであろうし、また、問いに答えることに執着することすら予想される。
だが、孔子のとる態度はこれらとは明らかに違い、むしろ天に代表されるような不明解な存在を遠ざける風である。遠ざけるとは、拒否することではない。拒否することに執着するのに転じてはならないからだ。遠ざけることは、その問題に関わることを忘れさせることにつながる。ここでは「天」そのものに対する解答を求めるのではなく、まさに孔子がやったように、遠ざけることによる効果について論じなければならない。
孔子は、上に見たように宗教を否定したわけではなく、かと言って、自らの学問の中に積極的に取り入れたわけではない。このことから推測するには、孔子の天に対する解釈は、信仰という心の在り方よりも、その行為自体の及ぼす社会的影響という意味を重視していたものだと考えられる。すなわち、盲目的な彼岸の信仰よりも、現世における鎮魂の効果を見抜いていたのだ。現世における共同性維持を目的とした孔子としては、当然の結果であったろう。そこで導かれる結論とは、天は漠然とした禁止である。「その禁止するものとは何か」という問いすら拒む限界である。漠然の意味するところは、超えてはならない境界を引くことではなく、越えてもしょうがないことにすぎない。天とは非構築であり、意志の関与するところではない。学を志す孔子にとって、共同体秩序を謀るためには、もはや素朴な安定への追従によってではなく、絶えざる変化を続ける社会への対応を求める思考の営為によって為されなければならなかった。そこで示される天とは、一切の意志による生産作業を放棄させるのではなく、むしろその肯定を際立たせる手段であり、人間の意志の向かう方向を決定する役割へと昇華される。天なる存在に左右されるような受け入れがたい問題に悩まされるのではなく、受け入れられる問題をどう処理するかについて思考を方向づけするのである。突然人を襲う死とは、生の意味付けによって為されるものである
[22]。それゆえ、我々が生きている現実をどう受け止めるかについて考えるように孔子は仕向ける。
あえて、人と天の構造を明らかにしてみたのだが、そのことより明らかにすべきことがある。こうして一旦遠ざけられた天は、人間社会を支える基盤となるのである。人の意志の範疇から遠ざけられた天は、潜在的な存在としてあるにすぎず、孔子にとっても孔子の時代の人々にとっても、潜在的であるからこそ支えることができるものとして認識されていたと考える。
さて、人間の営為を肯定するものとしての「天」が明らかになったのだが、実際のところ孔子の示唆する人間の営為とは何であろうか。それは、有限性を通して、無限なるものの考察を行うことである。復唱するが、孔子が志を向けたのは、天ではなく、社会の安定を体現する不動心をいかに得るかである。歴史への考察という次元において、この思考の在り方がよく表わされている。『論語』において日々の反省、過去の君子の業績が尊ばれているのだが
[23] 、孔子にとって、歴史とは可逆性を意味していたと言える
[24] 。一方、現代人にとっては、現代が主体であり、過去は現代のために前進、構築してきたという従属的な意味合いが強調される傾向がある。孔子にとっても、孔子の生きた時代が依って立つ基盤であり、その意味では自己中心的であるのだが、そのようなことを暴露することには意味がない。歴史を顧みることは思考の複雑性への旅であり、もはや現代が中心であるということは忘れられるのだから。歴史への考察によって得られた彼岸との可逆性の効用は、共時性において実践される。人間は、時間的にも空間的にも有限性を持った存在である。だが、天が人を有限性の中に閉じ込めるためのものではないように、時間・空間は人を支配するのではなく、有限なる存在の中に潜む潜在性を探り出すツールを与えてくれる。このような思考作業をする共同性の態度を孔子は「仁」という言葉に集約しているのだ。さらに、次のようにも言える。「仁」とは、人間社会のレベルで「天」について考えることであると。非連続的な彼岸たる天が起こす現象への考察は、一旦退けられ、近し彼岸たる隣人への考察という形で再現されるのである。
「天」は、共同体の潜在意識である。人間の意識に表れることによってその純粋な混沌性は失われるのだが、人間の営為が日常性を帯びてくるに従い、また意識の潜在的部分を回復するのである。『論語』によると、「天」は排除されることが強調されるのだが、意識の顕在性と潜在性との交換を描いた部分を『老子』の道によって知ることができる。
「天地の間は、其れ猶、たく籥(ふいご)のごとき乎。虚しくして屈きず、動かせば、愈いよ出だす。」(『老子』上篇 第五章)
老子は天ではなく、道を至上原理として見ているのだが、次の結論を導くためにはその差は考慮しない。すなわち、ここでは人が道として形容されている。一つの人格として自律した個人とは、それ自体としてある一方、他者との意味交換を行う存在である。個を不動たらしめるのも他者である。人がこの世に名を持って生まれた時点で、世界に意味付けされる客体という宿命を持ちあわせている。また、このことは主体としての世界=天が不動であることを証明しており、孔子の社会秩序安定が意味するところである。
孔子以後、彼を祖とする儒家集団が思想潮流の大きな位置を占めることになる。学派が大きくなるにつれ、学派としてのまとまりを持つために思想自体が硬直するのはやむを得ない動きである
[25] 。また一方、そのように自己完結した思想が、現実の社会になんら与えるところがないと敏感に気付く者は、思想の更なる発展を目指すのである。儒家教団の中においてもそうであるが、その他学派が生まれ、各々の得意に応じて社会を分析してゆくことに諸子百家の大きな特徴がある。墨子の儒家批判は、強国を作る諸侯に売り込むための職業集団と化し、その思想は伝統の中に埋没してしまった点に集中する。そのため、彼は社会の利益という理想を明確に打ち出し、そのためのより具体的な実践へと関心が向けられていった。だが、必ずしも儒家集団そのものを否定していたと読むべきではなく、社会の矛盾に答えるべく力を持たない思想として攻撃したのである
[26] 。言わば、彼の社会批判が儒家批判という口を借りて表れたものである。そのため、我々が墨子について語るには、当時の社会が抱えていた問題を見るという土俵において為されなければならない。
墨子のやり方は、目的を明らかにすることである。国家万民に対する政治の主張がそれである
[27] 。その目的のためには、倹約をし、無益な戦争を停止し、能力のある人間は貴族に限らず政治に登用すべきだとする
[28] 。社会の利益という目的を明示することにより、平常我々が漠然とした体系として社会を見ていることを明らかにする。そのため、平常の行いとは、惰性によって為される部分が多いと言える。そして、そのことは、裏を返せば現実の政治がそうではないことを意味し、そこに思考の硬直そのものを彼は読み取っていた。儒家の主要な主張である家族中心主義、世襲の権力を拠り所とする貴族主義、運命を素直に受け入れてしまう悲観主義などがその批判の的として挙げられるが
[29] 、必ずしも伝統そのものを廃棄する反動思想として捉えられるべきではない。批判材料があまりにも露骨に現実を否定するものを含んでいたためそのように思われてしまうだけである
[30] 。だが、その過激な毒気自体を思想体系の中に持たなければなかった理由はなんであろうか。それは、伝統を重視することを理由に現実に起こっている不正を認めている状態を批判するためである。そこには、孔子が重きをおいた反省というものはなく、道家が自然に身を任せると言ったようでもなく、現実に身を委ねている緩慢さがあるだけである。彼は、馴れ合いの同一性が自己と現実の間に起こっていることを問題とし、その関係性を一旦捨象するのである。かつて、孔子が社会の基礎として、自然発生的な家族を提示したのだが
[31] 、墨子は、そのことが同時に自己中心的考えに陥る可能性を指摘した。代わりに提示された兼愛思想の中には、自然的認識の脱構築を行わなければならないことを含んでいたのだ。
再びここで、孔子の反省の概念を引き合いに出したい。人は、歳を取るとともに、様々な体験が蓄積されることになる。だが、それら全ての記憶が量的に蓄積されているわけではなく、ある一定のコンテクストによって縮減されているのである。何故なら、環境に適応したかたちに人間の思考は決定付けられ、その制限のもとに構築され得るものだからである。そのことにより、人は常に環境の変化と相関的であり、そのことで自らを変革させてゆくといえる
[32] 。孔子は、このような人格を目指したのだ
[33] 。しかし、一方そのようでない場合、固定された思考のネットワークによってしか世界を見れない、自己中心的な人間に陥る可能性がある。そこで、人は反省を行う必要がある。反省とは、構築された思考のネットワークを脱構築する試みである。我々は、普段存在を「存在する」とは確認しない。漠然とした直感で、「あれ」や「これ」を認識しているに過ぎない。なぜなら、赤ん坊が新しい世界に接して驚くほど、成長した人間にとって自己を取り巻く環境は珍しいものではない。そこには、既に構造化された思考のネットワークを無意識のうちに使用し、環境を認識するといった作業が潜んでいる。故に、平常の外界認識は、極言すれば固定された思考のネットワークを使っていると言えよう。
兼愛主義、能力主義、非攻論等はいずれも自己中心性を否定する考えである。社会の利益を最優先に考えることは、既存の自己中心的利益を否定しなければならない。それは、自己を中心とした関係性の脱構築である。つまり、自己と自己を取り巻く環境との関係性を否定してゆく思考である。 時に応じて反省するとは、脱構築によって固定化された思考回路を解放する作業である。そこではじめて脱構築は再構築に転ずる。必要か必要でないかは、そのとき初めて分かるのである。実用は必要であり、本来の目的が何であるかを問う
[34] 。付加価値は贅沢品であり、人の目を惑わすものである。
そもそも、墨子が脱中心化を答えとしたのは、社会において個が埋没していることである。社会に対して不正を働く人間、特に為政者に限らず、その不正を容認している民衆もが持つ思考の硬直そのものが、自己中心を引き起こしていると考えた
[35] 。墨子は脱中心化を説くに当たり、そのベクトルの方向性として社会全体を示唆した。
社会の中に生きていると、それ自体は混沌としているようにしか見えない。だが、社会が一つのまとまりとして見えてくる視点がある。それは、統治者のものである。天子とは、雑然とした全体が一つのものとして見える視点なのである。殿上の高みから地上の世界を覗いてみよう。すると、彼ら民衆は統治者の意思に関与することなく動いていることが分かる。人々は雑然そのものの中に生きている。それ自体が一つのまとまりとしてある。この視点を持つものが天子である。だが、政治と完全に関与することなく彼らが動いているわけではなく、統治者が自己の富を貯えると民衆は窮乏し、兵役や徴用で民衆を酷使すると国の人口が減るといったことをも目の当たりにするのである
[36] 。民衆全体が社会をそして国家を支えている事実に気付くのだ。社会が民衆から成り立ち、天子は自己がそのような全体を必要とする自覚する。同時に、民衆はその天子の視点を必要としているのである。安定が守られることを約束する鎮護の目を。天子は最大の他者を有し、そして、民衆は最大の視点を共有することになる。墨子において、兼愛主義、天といった思想は、全体を明らかにするための材料である。閉鎖的な個の視野を解放するための全体である。
日本の伝統的な言い回し「お天道様が見てらっしゃる」というのは、案外墨子の思想から来ているのではないかと思わせるほどにその考えが鮮明に出ている。
「且つ語にこれあり、曰わく、この晏日において罪を得ば、将悪にかこれを避逃せん。曰わく、これを避逃する所なし、と。夫れ天は、林谷幽間に人なしと為すべからず。明必ずこれを見る。」(天志篇上、一章)
天は、人間社会の善悪を見極める管理者として述べられているのである。社会全体の利益を最優先とする墨子の考えからすると、「天を法と為す」(法儀篇、一章)として、社会全体の利益を測る基準としているように、天は社会と限りなく同一視されており、またそれが本来主張されるところである。しかし、天が全体とは極限のところで同一視されず、社会全体の上位概念であることを述べる理由とは何であろうか。孔子においては、遠ざけられた天が墨子において積極的に取り入れられているのである。孔子では、敬して遠ざけられる鬼神もまた、墨子においては雄弁に語られていることと合わせて考えてみよう。
「巫馬子、子墨子に謂いて曰わく、子の義を為すや、人には而(なんじ)を助くるものを見ず、鬼には而を富ますを見ず。而るに子これを為すは、狂疾あるか、と。子墨子曰わく、今、子をして此に二臣を有たしむるに、其の一人の者は、子を見れば事に従い、子を見ざれば即ち事に従わず、其の一人の者は、子を見るも亦事に従い、子を見ざるも亦事に従う。子、此の二人に於いて誰をか貴ぶや、と。巫馬子曰わく、我は、其の我を見るも亦事に従い、我を見ざるも亦事に従う者を貴ぶ、と。子墨子曰わく、然らば即ち是れ子も亦狂疾あるを貴ぶなり、と。」(耕柱篇、五章)
ここでは、見えない鬼神をどうして敬うのかという巫馬子なる人物の問いに、自分が見ていなくても勤勉に働く者を信頼するという例を出して、それと同様だと答えている。ここで、墨子の持つ鬼神論の概要がかなり見受けられるはずである。すなわち、墨子は見えない者への愛であると言っているのであり、兼愛主義の支柱を成す考え方である。そもそも、我々が人を思うとき、その人自体としてみるわけではなく、その人を構成する様々なコンテクストにおいて判断するのである。その人という存在のみを見ているのではなく、その人を条件付ける背景を認識構造の中に入力し、記憶しているから、その人を見たときには瞬時にその情報が出力され、その人全体が浮かび上がるのである。我々の思考活動とは、存在を条件付けるものの考察こそが真の姿であり、平常我々が「ある」とする存在自体はネガが反転して表れたものでしかないのである。とすると、墨子の主張は当然正当化されるものである。その人が目の前にいなくても、我々の主観世界の中で構成される他者であることには変わりはなく、むしろ見ることのできない他者を思い描くことの方が、思考は鍛えられるのである。人の目を引く奇抜な現象といったものは、思考の簡便化であり、下手をすると思考能力を奪う危険なものである。
語ることのできない者との語らいは、墨子に限らず多くの宗教が示すところである。様々な宗教が偶像崇拝を禁じていたことの理由はここにあると考えられる。だが、たとえ偶像として祭られたとしても、信者はその物言わぬ媒介を通じて、神の世界の複雑性を懸命に描くのである。我々現代人は、信仰を盲目的な目的を持たないものとして排除しがちであるが、それらが目的や価値を持たないと決め付けることの方がよっぽど軽々しくできてしまうのである。それら見えないものあるいは語ることのできないものとの対話の目的とは、共同性である。見えないものを心に描く作業は複雑難解であるが、その本質は日常の実践に回帰して実感されるものである。現実と思い込んでる世界で起こる現象に心が惑わされないための営為である。まさに、このことは、孔子が歴史を愛した理由と同一である
[37] 。一方では、孔子が宗教を遠ざけ、墨子は宗教を重視した。このように、違う主張として発現した両者の考えだが、その問題意識は共有されている。そして墨子は兼愛主義を単なる標語として飾らず、鬼神を用いた論理構成でもって見事に裏付けたのである。
だが、孔子は鬼神を非連続的な心的現象を引き起こすものとして遠ざけ、動揺が顕在化することを避けたのである
[38] 。この問題は墨子においてどのように解消されるのであろうか。認識の矛盾という点で論じてみる。現代人からすると、鬼神は、日常の合理的認識とは対立する矛盾関係にある。矛盾とは、それが意識に顕在化されるときに、矛盾と感じるのであり、意識されるまではまるでそうは感じない。いや、むしろ矛盾は始めからあったと考えるのはどうだろう。すなわち、鬼神とは日常において意識されない存在であり、時に応じて心の中に顕在化する見えない主体である
[39] 。そうなると、鬼神は矛盾が起こりうることを当然化する思考の基盤となる。認識の外側に矛盾があるのではなく、認識のうちに既に矛盾を内包しており、そのことが顕在化するのはごく当たり前のことなのだという思考の強化である。だが、自己にとって不利益な何らかの矛盾が生じたとして、鬼神をスケープゴートに原因を求めるということではない。それは、むしろ悲観的な運命論として、墨子が退けるところである
[40] 。鬼神がたまに表れることによって、見えないものへの信頼を再び回復するのである。このことは、同時に自己には分からないものの潜在性への信頼確認である。我々が既に彼岸の中に生きているという錯覚が、共同体を包み込んでいるのだ。その認識が恒常的であることによって、変化に対する動揺を極力押さえることができる。そのような共同体においては、死後の世界は断絶された彼岸ではなく、日常を包む彼岸としてそこにあるのみである。
このことが明らかになって、社会全体を主宰する天について論じることができる。
「天は苟に兼ねてこれを有ち食う。夫れ奚ぞ以て人の相愛し相利することを欲せずと説かん。故に曰わく、人を愛し人を利する者は、天必ずこれに福し、人を悪み人を賤う者は、天必ず禍いす、と。」(法儀篇、四章)
「天が人を必要としているように、人は人を必要とする」のロジックである。天は最大の他者であり、天が人を愛するように、他人は私を愛している。それゆえに、私は天を愛するように、他人を愛するのである。天が主体として語られるとき、実は人間や自然といった他者を必要とする不完全な存在である。これは、正に人間そのものを表わしていると言えよう
[41] 。人が人として成り立つには、他者が必要であることが本来の主張目的である。と同時に、墨子の真に示すべきは、天は全体そのもののことであり、天が全体の主宰者なのではないということである。ただ、天に主体があることは自己の主体と重ねあわせて考える思考を容易にする。全体を見下ろす視点を得ることで、客体化された自己と社会との関係を知ることができるようになる。墨子の天のロジックには、このように個を全体の視点に高める巧妙な手段が隠されていると言えよう。
善悪といった判断は、主観が生み出した結果に過ぎず、評価自体は己の依るべきところではない
[42] 。このような善悪、大小といった判断基準は虚構であり、一時的な仮の姿に過ぎないのである。あらゆる存在が認識の範疇に入る以前とは、複雑性である。あらゆる存在が「自ずから然り」すなわち、自然であること
[43] の意味は、我々の認識の範疇に入ってくる存在が最早不完全な性質のものであり、絶えず認識の外側に存在はあり続けることである。我々が目にする自然とは、切り取られた自然なのである。自己が自己以外の存在を支配できるという思い込みは、虚構――認識の範疇に入った存在――の上に虚構を重ねる愚考に過ぎない。以上のことを吟味して、自然に身を委ねるということができよう。荘子の言う自然とは、この複雑性のことであり、身を自然に委ねることとは、虚構の判断を絶対なるものとして委ねないということである。確かに、これらの価値基準は物事を判断する器になるが、時として我々は器そのものを掲げて物事の質を測ろうとする。そしてこれらは、我々が事物を観察したり思考作業をする際の妨げにさえなる。科学史家クーンの言う「通常科学」の状態と同様の精神状況である。そこでは、通常の持つ意味が正統であるという誤解から招かれる、個別研究領域における学派の閉鎖性とそれら自身の持つジレンマが描き出されている
[44] 。
荘子は作り上げられた事物や、作り出す意図 ― 作為には見向きしない。物事を推し量るための客観的スケールと呼ばれるものは、まことに安易な代物である。それらを振りかざすことによって、ある存在を構成するコンテクストを放棄させる。荘子は一旦、それらの価値基準を排除する。そして、束縛から解放された思考を複雑性へと向かわせるのだ。
韓非子の次の言葉が時代を象徴していると言えよう。韓非子は、法家と呼ばれる思想家であり、彼の書物に魅了された秦の政王(後の始皇帝)は法至上政策の力によって天下統一成し遂げした
[45] 。
「人主将に姦を禁ぜんと欲すれば、即ち刑名を審合せよとは、言と事となり。<『君主が、よこしまなことを禁止しようと思うならば、ものごとの実質と名目とを良く吟味せよ』ということの意味は、言葉と実際とを一致させよということである。>」(『韓非子』二柄篇 第二章)
彼は、荘子より後の時代の人物であるが、法家の思想が当時の政治思想として有力になりつつあったことは参考にすべき事柄である。さて、韓非子に代表される法家の思想は、「名実一致」が特徴的である。名は事物の名称を、実とは本質と言ってもいいし、名によって表わされる具体的な内容のことである。この両者を一致させることにより、人の行動においてその効力を発揮する。つまり、自らの言明と行動との相違があってはならず、法はそれらが相違する場合に当為者を裁くことができるというものである。人間は先天的に悪であるとした儒家の筍子が「礼」の概念を形式的なものでしかないとし
[46] 、それを受け継いだところに多くの法家の思想があるのも特筆すべき部分である。秦の国家統治はこの行動の形式化という点で徹底され、人々を管理するという概念の新しさと強力さを世に知らしめたことであろう。何故に名実一致思想が強力かと言えば、それは人の善し悪しを行動によって測りさえすれば良いという簡便さにある。法という客観的基準によって人を計りさえすれば良く、その他のコンテクストは考慮に入れる必要はない。そこには、データとして扱うために数量化された人間があるのみである
[47] 。価値の一元化と中央管理システムとの緊密な関係が既に当時の歴史によって表れている。しかし、ここで問題が生じる。行動が法の命じるように規制されることは、心も同時に規制されうる可能性を秘めている。心が不動であるというのではなく、心は緊縛されてしまうのである。
荘子は具体的には儒家を道徳至上主義者として反駁した。恐らく、法家思想の萌芽を見ていたことだろう。そして、彼の描く思想の特徴は、自然と一体となり心を自由にすることである。現代でも心地よいキャッチフレーズとして用いられそうな言葉である。あるいは、新興宗教の宣伝文句と見て怪訝な顔をする人も少なくないかもしれない。どちらにせよ、ここで為されるべきは、言葉の直感的な快さに浸るのではなく、荘子の思想的意義の探索である。荘子の一番の問題としたのは人間の心であり、その在り方はやはり不動心にある。『荘子』の特徴は戯画的で特異な表現が多いことだろう。動物や木に語らせたり、社会で全く無用であるような人間が有用であるといった逆説的なものが多い。たとえば、次のようである。
「北冥に魚あり、其の名を鯤と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒して飛べば、其の垂天の雲の若し。是の鳥や、海の運くとき即ち將に南冥に徒らんとす。南冥とは天池なり。
[48] 」(逍遥遊篇 第一章)
鵬は想像の飛翔を表わしている。鵬の視点により、下界すなわち我々の生活が営まれる世界を見下ろすのである。墨子が描くような君子の視点と似ている。だが、荘子の取る対比表現は既存の現実世界と思われている境界をぶち壊す。それにより却って現実世界の輪郭をはっきりと示し出すのである。
あるいは、常識と矛盾することを殊更に述べたてたりする
[49] 。この逆説表現の目的は思考の脱構築である。写真のネガを想定すればよいが、ただ単にある性質が反転するということにはあまり意味はない。既存の認識と逆転されたものとの差に違和感が生じ、既知のものを疑うという過程がある。そのことにより、一度既存の認識は輪郭を失う。そこで、我々は既存の認識構造の修復をしなければならない。そしてそれを再構築することによって、かつての認識よりその輪郭はくっきりと浮かび上がる。このことは、如何に我々が漠然とした境界認識しか持っていないことと、それにも関わらず自己を閉鎖的環境に閉じ込めて生きていることを認識させる。ちっぽけで卑小な存在に貶めるのではなく、これまで何とちっぽけな存在であったかを気付かせるのである。外部の存在におびえる姿は何ともちっぽけであり、また自己中心的である
[50] 。そのような状態から逃れて、荘子の戯画的描写を真に受けて自然の雰囲気に浸るのも悪くないと思う。だが、そのこと自体を目的化していると読むのは誤りであろう。彼の表現はあくまで手段である。荘子が積極的に主張する自然とは、このような自己の習慣的認識を脱構築し、再び自己に帰ってくる作業を通して得られるものである。
人が、死について考えるとき、それは考えるというよりも悩むというかたちを取って表れることが多い
[51] 。死とは生きるものにとってこちらの世界からみたあちら側であり、死について考えることそれ自体辿り着くことのできない世界について考えることである。そう、我々は「世界として」死後を描いたり、現実の世界の認識によってしか想像することができないのである。つまり、存在の論理を持って描きがちである。しかし、生きている自己と死が同一ではないことに気付いたとき、有と無のロジックは無効になってしまう。死は、このとき自らの所有できない他者を演じる。死とは、我々を超えた存在なのであり、既に孔子はそのことに関して考えることを禁じていた。彼は、死について考える作業を、生きる人間に対する考察へと昇華した。同じように、様々な宗教は、生きるものにとって最大の恐怖である死について答えてくれる。しかも、死という恐怖を逆手にとって、現世を鎮護するという手法が多くの宗教においてみられる
[52] 。それらの宗教においては、死後の世界を描いてみせたりあの世の者に語らせたりして、現世との対話を行う。『荘子』においてもこの技法は使われている。それは、髑髏が死後の世界を楽しげに語り、現世を心惑わされる場として忌み嫌うといった感じである
[53] 。死後の世界は現世を相対化し、今現実に生きている世界を彼岸から覗かせるのである。このことにより、改めて自分がどの位置にいるかを確認させる。
ここで、『荘子』の特徴の一つである夢と現実の二元論を話の筋道として出してみたい。
「昔者、荘周(荘子)、夢に胡蝶と為る。栩栩然
[54] として胡蝶なり。自ら喩みて(たのしみて)志に適うか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、即ちきょきょ然
[55] として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、即ち必ず分からん。此れをこれ物化と謂う。」(斉物論篇 第十三章)
この章は、名文としてあまりにも有名であるが、『荘子』において夢は現実を相対化する手段であり、現実世界の持つ輪郭を打ち壊すものであると同時に、現実そのものの実在性を疑わせる魔力を持つ。その顕著な影響として、厭世主義、後世の特に南北朝時代における隠遁主義が挙げられる。人が現実を拒否したい場合に、あらゆる現実性を無効にしてしまう格好の手段として、老荘思想は大いにもてはやされてきた
[56] 。現実をフィクションにしてしまう効力は確かにこの思想にはある。実際、人間の営為は虚構との契約と信頼の上にしか築かれないことに気付いてしまうかもしれない。夢が現実と同じ程の力を持ったとき、夢は現実世界と交換される。夢もまた、死後の世界同様の効力を持つ。そして、生とは実際のところ虚構に過ぎないことをも暴露する。このような精神状況がペシミズムの源泉であろうが、ペシミズムは彼の目的とするところではない。現世への執着を剥奪することが真の目的である。実際、死は人が現世において創造した、あらゆる所有物を剥奪する。物質的所有物のみならず、自らの存在そのものさえも失せる。そもそも、我々は自らの所有物や日常慣れ親しんだ人を失って初めて、それらがあったことの重要さに気付くことが多い。生が所有の肯定であれば、それは裏切りの連続をも意味する。荘子の主張する死が強力な毒でなければならないのは、無に帰する事実を目の当たりにすることにより、虚構の脱構築をも行わなければならないからだ。生そのものすら無であることを自覚して、初めて生と死が同一であると言える。生そのものは借り物に過ぎず、誰かにお返ししなければならない。その誰かとは、自然と呼ばれるものである。
「然くの若き者は、金を山に蔵し、珠を淵に沈め、家財を利とせず、貴富に近づかず、寿を楽しまず夭を哀しまず、通を栄とせず窮を醜とせず、一世の利を狗って以て己れの私分と為さず。天下に王たるを以て己れ顕に処ると為さず。万物は一府、死生は同条たりと。」(天道篇 第二章)
死は、その時がくるまで体験できないため、日常的ではない。荘子が説く、死を生と同じくし、心安らかにするという意味は、その精神状況が平常において実践されることを至上とする。そのため、我々の日常の営為である「眠りに陥る」といった例を用いて説明をしてみたい。眠りに陥ることは、自己に同一化することである。だが、自己という対象と同一化するのではない。対象を持たないところに真の同一化が起こり得る。対象を持たない限り、もはや同一化という言葉は適切ではないかもしれない。あらゆる対象認識がシャットアウトされるときに人は安らかな眠りへと落ち込むのだ。だが、我々は起きている時間しか自覚にないため、眠りが彼岸の世界に心が行くということだとは認識していない。眠るということだけで現実世界を超越しているのだ。
だが、孔子が死=他者の構図を、そのまま生きる者に対して考察の目を向けさせたようには、荘子は現実の共同性に直接には回帰しない。そのような手法は取らず、再び夢で現実の世界を覆うのだ。それはすでに閉塞的な悪夢ではなく、自由な夢であり、現実世界からの自由である。現実世界から自由であるというのは、現実に閉じ込められたままではないという意味である。対象として認識された現実世界は、それ自身で同一性を持つものではなく、常に他者を必要としている。その他者は渾沌と呼ばれる。
「南海の帝をシュクと為す。北海の帝を忽と為し、中央の帝を渾沌と為す。シュクと忽と、時に相い与に渾沌の地に遇う。渾沌これを待つこと甚だ善し。シュクと忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて曰わく、人みな七キョウ(七つの感覚器官)ありて、以て視聴食息す、此れ独りあることなし。嘗試にこれを鑿たんと。日に一キョウを鑿てるに、七日にして渾沌死せり。」(応帝王篇 第七章)
その渾沌に身を委ねることが、荘子における因循思想の姿であろう。渾沌は、雑然としたありのままの自然の複雑性を表わすが、同時に純粋性をも強調する。すなわち、認識の範疇に入ることで、その渾沌は死んでしまうという純粋性である。死が決して自己のものにならないように、渾沌は絶対なる彼岸である。そのことにより、自己を寄せ付けない他者を想起すべきではなく、自己を委ねるべく他者が描かれなくてはならない。それは、我々が既に彼岸の中に生きているという思いでなければならない。このことは、孔子が非連続的な彼岸の想起を遠ざけ、「仁遠からんや」(述而篇 第二十九章)と言った意味でもある。
さて、ここで一つの疑問が浮かびあがる。一体世界を見下ろしている主体の視点は一体どこにあるのかという疑問である。「視点がどこにあるか」という問題は極めて難解であり、むしろ危険な種類のものかもしれない。なぜなら、この問いの前提とは、元あった場所の視点と自己と自己の世界を客体化する視点との分離を含んでいるからである。更に言えば、この問いに対する答えは、達成されることのない此岸と彼岸の同一化の契機を含む。どこに視点を定めるかという問題は、再び自らの立場を緊縛する呪いに等しい。
荘子は、しきりに様々な価値基準は相対的に過ぎないと言う。なぜなら、それぞれの価値基準が絶対不変のものであるという思い込みによって判断が為されるからである
[57] 。価値基準とは、人が物事の質を定めるのに用いられる道具である。ただし、これらは仮の基準であり、言葉に完全な説明を求めることができないように
[58] 、その物自体を言い当てるわけではない。言わば虚構の産物に過ぎない代物への過信は、一方では存在と独り善がりな価値との同一化を求めることになる。他方では、両者の乖離が契機となり、喪失感とより一層の執着を助長することになる。荘子は、そういった借り物の姿に過ぎない卑小な価値基準によって現象を判断することを退ける。荘子の主張の方向は、現代的な言い方をすれば、「もっと物事の本質を見極めろ」という言葉に近い。人は平常、いかに安易に虚構の産物を過信し身を委ねているかが明かされる。荘子が説く人為の否定は、より根源的な存在=道へと身を委ねるという言葉によって補われ
[59] るが、その根本主張は、すでに見た通り、仮の姿に過ぎない判断基準への過信の否定である。このことを、肯定的に言い換えると、「些事に捕らわれることなく、大きな視野で物事を見よ」という言葉が当てはまる。物事の大小に悩むように瑣末な問題にこだわることは、それだけ精神を閉塞的状況に追い込むであろう。荘子の持ち出す鵬の視点は、閉鎖的個の解放が背景にあると言える。
さて、大小といった仮の価値基準を排した精神状況とは一体どのようなものであろうか。道に委ねることの、より具体的な説明として儒家の「中庸」の概念を借りてこよう。
「子の曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。」(雍也篇 第二十九章)
[60]
中庸とは、高過ぎず低過ぎず、多過ぎず少な過ぎずといったような捉えどころのない概念である。孔子の言うには、高いということを禁じ、低いということを禁ずることで安定した秩序が得られるというものである。荘子によると、高いと思い込む認識を排除し、低いと思い込む認識を排除したところに自由が得られるのである。ところで、荘子の解釈を先に進めると、彼にとっては肯定も否定も対立概念のレベルでは同じである。なぜなら、両者は相対的であり、肯定は否定を排除し、否定は肯定を排除する。だが、自由とは、存在を忘れたところにあるのだ。この言葉は、存在の肯定でもなく否定でもないという荘子の主張に合致する
[61] 。確かに、中庸や道の概念は存在を否定することによって成り立つのだが、ある存在を否定したいという強い思いは、他ならぬ肯定に転ずる可能性を秘めている。考えたくない対象あるいは認識を抑圧することが、むしろその存在を気にすることになるというこの逆説はフロイトの指摘する通りである
[62] 。では、荘子の言う忘れるとはどのようなものか。
それは、既に本章二節で見た通りである。我々は、既に彼岸の中に生きているという漠然とした錯覚が意味するところである。墨子における脱構築で既に述べたが
[63] 、我々は平常モノが「ある」と確信するわけではなく、ある漠然とした信頼によって日々の活動を為している。そして、集中力を必要とするような激しい運動の場合を想起すると一層分かりやすい。ある特定の目標に対して、選手の集中力は注がれるのだが、それ以外の対象というのは、弱い否定によって除外されるのである。完全に否定されるわけではなく、それらを構成する漠然とした全体として一時的に保存される。この必要以外の対象除去という心の動きを、「緩やかな否定」と名づけよう。ここに挙げた例は、集中力を必要とする特殊な場面ではあるが、我々の日常の認識も程度の差はあれ同じことが言える。全体の仮保存とは、全体を忘れることに相違ない。すなわち、我々は平常、全体を忘れることによって何らかの営為をスムーズに行うことができる。その時、人は、全体という環境を意識することはないが、その中に生き、自と他の境界はなく同一である。忘れることは、すなわち全体が恒常性を持つことへの漠然とした信頼から起こり得る心的状況である。そこで初めて、道とはそのような恒常性を持ち、我々の認識範疇から独立した存在と言える。
「凡そ物は成るとこわるるとなく復た通じて一たり。唯だ達者のみ通じて一たることを知り、是れが為めに用いずして諸れを庸に寓す。庸なる者は用なり。用なる者は通なり、通なる者は得なり。適得にして畿くす。是れに因る已。已にして其の然るを知らず、これを道と謂う。<すべての事物は、完成といわず破壊といわず、みなひとしく一つのものである。ただ道に達した者だけが、みなひとしく一つであることをわきまえて、そのために自分の判断を働かせないで平常(ありきたりの自然さ)にまかせていく。平常ということは働きのあることであり、働くということは広くゆきわたることであり、ゆきわたるということは自得(すなわち自己の本分をとげて自己の生を楽しむこと)である。ぴったりと自得したならば、〔究極の立場に〕ゆきついたことになる。そこに身をまかせてゆくばかり、まかせてゆくばかりでそのことを意識しない。それを道の境地というのである。>」(斉物論篇 第四章)
道とは、日常への信頼そのものである。『荘子』に描かれる日常逃避は、常に現実世界を対象としており、それを相対化せんがために使われる手法である。そしてそれは、日常の輪郭を取り戻すためのものであり、日常に回帰するところに彼の真の目的があると言えよう。
陰陽は、占いである易の中枢概念であるが
[64] 、変化に重きを置くところに中国自然観の特色がある。占いの目的は、政の方向性を定める神権政治等の時代を除いて、多くの場合自己や自己に関連する物事の利益を推し量るものである。しかし、その方法は、様々な自然の変移や当事者の環境に照らし合わせて行われるというものであり、決して利己的なコンテクストによる解釈が許されるわけではない。八卦もしくは六十四卦によって表わされる答えは、複雑性の縮減を意味する
[65] 。ここに、目に見える現象をある固定範疇の中に捉える思考の働きが表現されている。と同時に、その固定範疇から変化しないものはないことを物語る。変化の中に当該問題を捉えるという思考をも含んでいるのである。占いに答えを求めること自体、すでに自己のみの力によっては解決できない問題を何らかのかたちで他のものに委ねるという心の動きが前提にあるのだが、陰陽によって表わされる答えを目の当たりにすることによって、その他者依存の実態がますます明らかになる。結論から言うと、陰陽は自己否定の一表現である。「陰が陽に転ず」、あるいは「陽が陰に転ず」といった変化の文脈において、現在の自己は、自己ならざる自己を写し出すのである。占いとは、多くの現代人の通念であろう通り、フィクションである。未来が占いの結果の通りであるかどうかは疑わしいものである。しかし、そのことよりも、自己を時間・空間の設計図の中に描き出すという行為において、より重要な意味がある。変化とは、自己が他のモノを完全に操作できないことと、自己自身をも所有しきることはできず、他のモノに委ねねばならないと理解できる。
既に、三章において荘子の自己同一の緊縛からの解放を見たが、死が他者であると同時に、そこに変化が当然視される思想が反映されている。儒家の経典である『易経』の思想との関連から類推すると、どちらがどちらに影響を与えたかという議論以前に、陰陽は彼らが共有する自然観であると考えた方が良い。このような自然観が、中国史において異民族との攻防や内紛による栄枯盛衰を繰り返すことによって、ますます説得力を持つものであるが、四季変遷と広大な山河によって培われた農産物の恵みが、既に、この富を我が物にせんとする者たちの運命をも操るだろうことを描きだしていたかもしれない。
陰陽によって世界を浮かび上がらせる行為の中に、見えないモノをも目の当たりにすることが含まれる。「陰」とは単純に言うと、見えないものの総体である
[66] 。ここで、二章の墨子を参考にすることができよう。陰陽は見えない他者に対する愛を培う場と考えることができる。「陰」を仮に、光が物体に当たり、反対側にできるカゲと考えてみると、我々は普段これを意識することはない。だが、我々は、これがあることを知っている。このような心的現象を、常ならざる意識、あるいは漠然たる意識と呼ぼうか。ここで、カゲの比喩によって意識の状態を表わしたが、我々の日常はこのような漠然たる意識の機能が働くことによって多分に構成されている。我々は、常ならざる意識に恒常性の信頼を与え、それに身を委ねて生きているのである。老子や荘子において道と呼ばれる客観的実在物の正体にほかならない。
だが、人が時を知るのは、事件においてのみである。悲しみや楽しいといった感情は、突如表れ、非連続的なかたちとして捉えられがちである。そのことに、心は動かされざるを得ない。だが、実態は連続的に変化を何かによって支配されているのである。 それが対象として意識化されるとき、もはや、自己がそれと同一でないと言うことと同時に、同一であったかもしれないという認識を催す。これは、気付くという現象である。一章の孔子で見た通り、新たな発見をするわけではなく、既知ではあるが潜在であるものの中から意味を見出すのみである。
ここまで通して論じてきたことは、中国という世界の特殊地域における二千年以上前の古代思想の構造についてである。それらを集約した書物は、短文の寄せ集めという形であることが多い。短いが故に、その言明は、何らかの意図を凝縮したものの発現とみなさなくてはならない。そして、その言葉を頼りに、彼らの思考を支える前提を推論する自由がそこにはある。既に、一章の孔子において述べたが、歴史とは可逆性である。時間が逆行するとか、歴史が繰り返されるという意味ではなく、それは純粋に我々の精神の中において発現する現象である。そのとき、人は過去に意味を与える主体であるが、同時に自らの思考構造を用いなければならない。我々はその思考構造を意図して使うわけではなく、荘子の忘れるという言葉が示すように
[67] 、我を忘れた主体が意味のネットワークの中を泳ぐことを通して、そのとき同時に思考構造の使用と変革が起こるのである
[68] 。もう少し具体的に述べると、主体は自らの思考構造と対象の持つ意味体系 ―― たとえば、古代の中国思想 ―― との差異に気付き、それに疑問を投げかけることを通じて、整合的解釈を求めるのである。このとき、疑問は自己が彼方に投げかけるのであるが、彼方から自己の認識を疑えとの投げかけも同時に起こる。つまり、自らの思考構造は意味付けされる客体であり、他者は主体の役割を果たしている。この自己が主体となり客体となり、他者が主体となり客体となる変化を通して得られる意味交換作業を、対話と呼ぶ。そのとき、初めて人は自らを客観的に見ることができ、自己がそれまで持たなかった新たな事実に気付くという現象が起こる。このことは、自らと断絶したところに非連続的な発見を求めることはできないことを意味し、既にそこにあるのみである自己と他の関係性について知るに過ぎないことである
[69] 。
自らの思考構造の変化は、問題意識の顕在化によって引き起こされる。だが、問題が彼方にあるわけではなく、我々が平常気付かない潜在的構造の中に内在している
[70] 。
対話が、当事者双方の差異に気付くことによるものだとしたが、他方そのことにより、より強調されるべき点が、互いの共通認識である。差異に気付くことそれ自体、互いの共通認識の恒常性に対する信頼が前提となって為されるものである。三章で述べた通り、自己の思考構造および他者との共通認識の恒常性への信頼は、漠然とした全体の保存というかたちで為される
[71] 。人が変化を知るのは、非連続的に発現する事件においてのみであるが、再び次第に恒常性への信頼を修復することとなる
[72] 。古代中国で、このことを知り、不動心を体現する理想像とされたのが君子である。人が歳を取るとともに智慧を蓄えてゆくと言われるのは、経験が豊富である以上に、思考がスリムであるからだ。大した意味のないことと、重要な意味を持つ事柄を思考の脱構築によって熟知しているため、時々の状況に応じた対応ができるのである。
現代の大衆消費社会は、心を惑わすことを肯定する社会である。まさに、孔子が禁じた社会の実現である。西欧に単を発する近代化が、生活の向上と領土拡大を実践してきたことの精神的影響は大きい。多くの西欧諸国においては既に発展は死後となりつつあるかもしれないが、その他多くの諸地域においては未だ神話の域を脱していない。このオプティミズムは彼岸との同一化を目指して為される動きだが、西欧は前世紀においてそれをほぼ実現してしまった。その営為は今ここにある真の彼岸を省みずに為されてきたのだ。だが、自己が唯我的に演じることを許した近代は、純粋なる渾沌に穴を穿つ作業
[73] 、すなわち他者を傷つけることによって自己拡大して行く過程を目の当たりにした。他の地域を従属するだけに止まらず、それに並行して近し彼岸なる隣人をも犠牲にしてきたと言えよう。今日においても、その精神的影響は生き続けている。
現代に生きるオプティミズムの顕著な例として、奇抜な商品は、社会のネガを戯画化したものである。マックス.ホルクハイマー、テオドール.W.アドルノが『啓蒙の弁証法』において、型通りの商品を自己生産してゆくのみである文化産業の実態を指摘した通りである。それによると、企業は商品の中に、ちょっとばかり気の利いたスパイスを入れてやるだけで消費者は満足する。社会の企画者に飼い慣らされた消費者は、共通の認識構造との不透明な同一を確認する一方、その思考能力は退化してゆくのみであると。平等の名によって一元化された大衆の快い笑いは、自らの潜在意識を軽く擽られることで発される。大衆消費社会においては、企業はお節介なまでにモノを与えようとし、それを快く受取らない者は流行という魔法の効かない奴だと罵られる
[74] 。ここに表わされているのは、小手先で作り出された変化を良しとし、非連続的に起こる現象を好ましいものとする認識を植え込む啓蒙である。そして、その実態は有りもしない恒久的な平和を前提とした仮想の変化の押し売りである。荘子が人の死を前提とし、その上で生まれてくる他者への信頼を描いたのとは対照的である
[75] 。このような社会は、平和の象徴として高揚されるかもしれないが、動揺が内在した社会でもある。
お客様の満足は、絶えざる不満が前提であり、次々と作り出される商品とは不満の大量生産でしかない。躍らされてるうちは幸せだが、そのような自己に気付いたとき、自分が何に突き動かされているのかを疑問に思わざるを得ない。それが、現代における孤独の正体である。実際、近代市民社会は孤独の大量生産システムである。通勤電車は孤独を極限まで押し殺した半死人を目的地まで輸送する棺桶である。そこでは、自己は望むべくもない死の仮面を自らに被せることを強制するのだが、そうなると本当に誰にやらされてそのような役を演じているのか分からない。同じような境遇を持つだろう他人に同情を求めて、「こんな風にした社会が悪い」と言ったところで、大抵は沈黙がこだまするだけである。半ば死んだ者にとっては、自殺は最終的に残された彼岸への逃避であり、また唯一の勝利への賭けである。生涯孤独を愛したとされる荘子
[76] は、自己強制によってではなく、望んでそうしたと信じたい。荘子における自己同一性は、既に彼岸との同一を果たしているという自覚のもとに安定が図られたことを考えると、もはやそれ以上に望むべく彼岸はなかったはずであるから
[77] 。
大衆消費社会では、禁欲は美徳とされない。この論文で扱った古代中国の思想家たちが口を揃えて唱えるのが禁欲であるが、そのことは偶然の一致ではない。当時既に、モノが次第に増えつつあり、都市が成長するにつれて人の交流が活発になってきていた。同様に、現代社会における問題は、既に発現しつつあったのだ。何故に不動心を体現するそれらの思想が現代までに生き続けてきたかは、単なるロマンティシズムではなしに、同様の問題が継続されてきたことのネガに他ならない。
現代における、主体性の尊重あるいは啓発とは、孤独の殻を破る為の可能性として残された数少ない道だが、非常に不安定な啓示でもある。何故なら、自らの欲求とそれによって創造される目標の実現という近代より培ってきた手法が、現代社会の潜在的部分にプログラムされているため、他者の支配的操作というかたちをとって表われやすい。そして、多くの場合自己著有を助長するに過ぎないのである。
だが、自己の環境に対する意味付けは、同時に自己の認識構造の意味付けでもある
[78] 。特に意味の無いという理由で為される安易な行為の報いとしては、環境から来る自己への干渉は特に明確な理由の知れないものとして捉えられ、時として理由のない苛立ちへと変貌する。
何を隠そう、これら動揺する個の中に、自己を支配するものを求めているに過ぎないのである。大抵の場合、安易な商品等にその支配は求められるのだが、重要なのは、自らの心を乗せる何かが求められているという点である。古代中国思想においては、それは社会そのものであったり、天と呼ばれたり、自然自然と呼ばれるものである。それら、名称付けられた対象そのものには意味はない。彼岸が既に、自己を潜在的に支えているという事実に気付くときに、彼らが生きていることを確信するように、喜びと新たな知の進歩を味わうのみである。
参考文献
(注)本文中、脚註文中の書き下し文、現代語訳は下記の訳者に拠り、それらの文献を訳者名の右に(*)マークで示しておく。
小川環訳注*『老子』中央公論社、1973年
貝塚茂樹責任編集『孔子・孟子(世界の名著3)』中央公論社、昭和41年
−貝塚茂樹訳『孟子』
貝塚茂樹著『孔子』岩波新書、1951年
貝塚茂樹責任編集『司馬遷(世界の名著11)』 中央公論社、昭和43年
−司馬遷著、貝塚茂樹、川勝義雄訳『史記列伝』
貝塚茂樹著『諸子百家』岩波文庫、1961年
懸田克躬責任編集『フロイト(世界の名著49)』中央公論社、昭和41年
−S.フロイト著、懸田克躬訳『精神分析学入門』
金谷治責任編集『諸子百家(世界の名著10)』中央公論社、昭和41年
−金谷治訳*『墨子』
−沢田多喜男、小野四平訳『筍子』
−金谷治、町田三郎訳*『韓非子』
金谷治訳注*『荘子』岩波文庫
−「第一冊」1971年、「第二冊」1975年、「第三冊」1982年、「第四冊」1983年
金谷治著『中国思想を考える−未来を開く伝統』中央公論社、1993年
金谷治訳注*『論語』岩波文庫、1963年
鎌田ゼミ編「『コーラン』発表原稿」関西学院大学総合政策学部研究演習T(鎌田康男担当)、1998年
J.ピアジェ著、滝沢武久訳『発生的認識論』白水社クセジュ文庫、1972年
高田真治、後藤基巳訳『易経・上』岩波文庫、1969年
武内義雄著『儒教の精神』岩波新書、1939年
武内義雄著『中国思想史』岩波全書、1936年
トーマス.クーン著、中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房、1971年
テオドール.W.アドルノ/カール.R.ポパー他著、城塚登、浜井修、遠藤克彦訳『社会科学の論理』河出書房新社、1992年
−テオドール.W.アドルノ著「社会学と経験的研究」、「社会科学の論理に寄せて」
福永光司著『荘子−古代中国の実存主義』中央公論社、昭和39年
藤本勝次責任編集『コーラン(世界の名著17)』中央公論社、1979年
−藤本勝次、伴康哉、池田修訳「メッカ啓示」、「メディナ啓示」
マックス.ホルクハイマー、テオドール.W.アドルノ著、徳永恂訳『啓蒙の弁証法』岩波書店、1990年
和辻哲郎著『孔子』岩波文庫、1988年