[1] トマスアクィナスの真理概念について 「さて、認識は総じて認識者が認識事象に類同化されることによって成立するから、いうところの「類同化」が認識の原因をなす。その点は、視覚が色の形象の刺戟に応じることによって、色を認識することを思えばよい。こうして知性に対する<現体>の最初の関係は、<現体>が知性に和合することにあり、この和合が知性と事象との一致(adaequatio intellectus et rei)といわれる。そしてここにおいて<真>の概念はその点睛を得る。<真>が<現体>に付与する意味層はとはこの点に、すなわち事象と知性の合同性(conformitas)ないし合致(adaequatio)にあり、先述のように、この合同性から事象の認識が生ずるのである。してみると、事象の有する現体成分が真理の概念に先行するのであるが、認識は真理から生じる或る結果なのである(entitas rei praecedit rationem veritatis, sed cognitio est quidam effectus veritatis)」『真理論』p.28 「神は単に或る音声を用いて或る事柄を表示させるだけではなく(このことならば人間にもできる)、更にまた、事柄それ自体を用いて別の或る事柄を表示させる力をも有している。そこで、音声が何らかの事柄を表示するのはすべての学に共通のことであるが、この学は特に、音声によって表示される事柄それ自体が、更にまた何事かを表示するという特徴を有している。そこで音声が事柄を表示するというこの第一の表示の仕方は第一の意味に関わり、それが歴史的ないし文字的意味である。これに対し、音声によって表される事柄が更にまた別の事柄を表すという表示の仕方は霊的意味といわれ、それは文字的意味を基本とし前提としている」『神学大全』p.112  人間の認識における表象が、知と存在の一致とどのように関係してくるか、ということについては次のように考えられる。つまり、認識が生じる原因となる真理の概念には、事象の有する現体成分が先立っており、その限りでは認識において捉えられた表象と事象との一致を真理と呼ぶことはできない。なぜなら認識の結果として、真理が想定されているのではないからである。したがって、人間が扱いうるのは第一の意味における歴史的及び文字的意味にすぎず、主体の認識によって産み出される自律体系を考えるならば、神によって与えられる霊的意味をも表示させることはできないからである。したがって、文字的意味を霊的意味と取り違えて、人間の認識における表象を事象に賦与することによって存在を構築しようとするに至っては、自ら作り上げた存在と、結果としての知との一致の確信は疑われることがないのである。