目次
第一章 導入
第二章 「個人性と社会の関係」
第一節「個人のあり方が社会によって方向づけられること」
第二節「個人のあり方が社会によって育まれること」
第三章 「社会と個人性の関係を認識することの成果」
第四章 「認識による個人性の追求」
個人性の追求は、全ての人間が自律的に自己のあり方を決定するまでにいたっているのだろうか。人間は自分自身を生きることと社会の中で生きる自己という関係を認識しているのだろうか。個人性と社会の間の軋轢を、個人がそれを自律的に認識するという(人間が取り得る)活動をテーマに考える。
先に個人性と社会との関係を見てから、認識によってそれがどのような影響を受けえるのかを考察する。
ニーチェは個人が自らその行動の基準を創り上げることを欲する。与えられた善悪の価値付けを否定して、個人がおのおのの判断を持つことを欲する。個人は存在や行動の価値判断をすることで自らの世界を作り出す。
(1) これは神によって行動の基準が与えられていることに対する反発である。基準が与えられた世界では人間は自由な精神や人間のあるがままの姿を謳歌することが不可能なのである。すでに決定されている価値を体現することは、個人が各自の世界を体現ことをはばむ。また、彼は自らの価値付けでさえ絶対化してしまうことを嫌い、破壊と創造を常になし続けることで基準が絶対的なものとなることを避ける。個人性の追求は、神による絶対的な価値を体現するための社会では達成する余地がないのである。
現代にいたって個人の自由な行動は法律によって権利として保証されることになった。でもそれは、個人が自己を体現するという、ニーチェの求める個人性の追求と一致するものではない。現代の個人性の追求ももろもろの規制を受けていることは明らかである。目に付くのは法律による規制(つまり共同体の保持のための自由の追求に対する規制)だが、それ以上に社会の常識や明らかにされた事実などによる目にみえない規制がある。以下に目にみえない規制が個人の行動をどのように支配するのかを見ていく。
現代の人間は産業化された文化によってその行動の多様性を狭められている。行動、感情の契機も表現も一律的な文化のあり方に呼応している。映画を選ぶ動機や服装の趣味にある一定の基準が存在すること、ドラマやバラエティ番組の約束事、ひいてはあるべき大学生の姿という社会的な常識や、人生においてなすべき時があるといったような一般化された人間の意味付けは、人間という種の肉体的特徴を超えて、文化的な方向づけが人間のあり方を規定していることをあらわしている。かつて神に行動の基準があったものが、今は文化産業による基準に移行したのである。
(2) 文化産業には明確な一人の担い手というものが存在しないぶん個人は価値基準が自分自身にないことを意識できない。文化産業の提供者達も受け取る消費者も、要求と要求に応えることでの経済的利益の中でどちらが原因か分からないまま、その相互作用によって、ひたすら一つの基準を追い続けてしまう。
また、新たな事実が明らかにされることが個人の行動を無意識のうちに規制する関係も見ておきたい。例として少し前まで良く特集されていた妊娠前検診をとりあげる。妊娠前検診は新生児がダウン症患者である可能性を出産前に知ることを可能にした。イギリスでは政府によって推進されているため、検診を受けることはすでに一般的である。ナチスによる障害者一掃のための虐殺との違いを説明する時、生む生まないの判断が社会によって決定されているのではなく個人(両親)の自由にある点が強調される。しかし妊娠前検診が可能になる前と後では、両親が考慮する選択肢に及ぼす影響は異なる。政府が検診を推進する理由が「障害者を減らすことによる社会的負担の減少」にあることも、むしろ妊娠前検診が可能になったという事実だけでも、そういったことが影響して、ダウン症児を産む親、産むことに対する社会の意識の変化がおこるだろうことは容易に推測できる。
社会における「常識」「前提」といったものがあまりにも固定化してしまうと多くの価値が同居することを難しくする。「やるはずの行動」が決定されて、個人が社会的価値を体現することが無意識の人々によって強制される。「社会」の方向性が持つ力が大きくなりすぎることで、それにそぐわないもしくは排除されようとして苦しむ個人がいるというのは社会と個人のどのような関係から生じることなのだろうか。また、まず社会ありきでそれに個人が順応したり抵抗したりするという関係が個人において疑われないのはなぜなのだろうか、以下に見ていく。
ここまで個人が社会によって方向づけられる形を見てきた。社会による個人の方向づけは個人の主体性が重視されると言われる現代でもやはり存在する。ジンメルにおいてはむしろそれは人間の集まりを社会とみなす必要条件である。彼は、社会の概念はその構成要素の相互作用の集合であるとしたうえで、同時にそこに「一般的なもの」という一つの実体が存在することで初めて社会であるとみとめられるとする。
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人間が空間的に共存を行うえで、個人の自律性を推し進めて、与えられた規範をなくして個人個人が自分の基準を作り上げることは可能なのであろうか。ジンメルをよむことで、個人化がむしろ社会の持つ規範を必要とする関係が見える。個人は集団に属することで人格を形成する。その集団の一員であることを意識し、一定の社会的地位に属していることを意識することで自己に意味付けを行なう。かつて人間が一つ)の強固な集団だけに所属していた時はその性質は集団の持つ性質と完全に一致していた。集団の関心が個人の関心と一致し、個人の人格が社会的関心に統一される。
(5) 現代では集団が大きくなったために個人と集団の関係は緊密さを失いお互いに対する束縛が小さくなった結果、社会的な関心が全人格を統一することはない。しかし集団の関心が個人の行動の方向づけに寄与する関係は現代でも同じである。個性化もやはり集団に所属することによって進められる。個性は個人が種種の集団に所属することで規定される。つまり多種の集団から受け取るそれぞれの行動の規範(関心)が個人において交錯することで、個人は独自の個人たり得るのである。
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ところで個人が社会に依存するのは明確な行動の規範だけではない。個人の性格や感情までも集団による部分が大きい。例えばフロイトは個人の人格の形成に人間との関係が強い影響を与えているという。
(7) 個性の発揮される場所は人間社会である。他人との違いが明らかになることで個人は個性を感じることができ、感じることによって個性は強化される。つまり共同体、人間が人間達と複雑な関係を持った場において人間性ははぐくまれ営まれる。人間がその人間性を(一般的な感情も独自性も)社会においてはじめて存在させることができるというのは、一つにその形成が自分の属する社会という環境に依っていることで説明できる。そして二つに、形成された個性を発揮する社会という場所が、それをどのような感情であるとか個性であるとか形や名前を与え輪郭を明らかにし、一般的に意味付けを共有することによってより強く個人自身に感じさせる作用で説明できる。
人間は自分自身の行動の規範を社会に求めるだけではなく、明文化されたものでもされないものでもルールを守ることを他人に求める。人と人が同じ空間を共有する上でルールは自然にできてくる。それが一般化されることで個人は自分の行動をいちいち吟味する必要がなくなると同時に、他人の行動に予測を立てることができる。一般化されたものが実体として個人の恣意を離れると、すべての構成員は他人に対する無意識の期待によってより安心して暮らすことができるのである。ある程度までは、価値基準を同じくすることは平和を生み出すといえる。 一般化されたものは個人を離れて実体として社会に常に存在するものとなる。ジンメルはそれを『相互作用が凝集して一つの実体となっている』と表現する。
以上のことからも、ある時代を生きる人間がその時代の普遍的な人間のあり方を生きることは当然であるといえる。しかしアドルノやニーチェを上記の主張をするにいたらしめたように、社会が与える行動の規範は時に個人に社会との衝突を感じさせる。行動に対する強制力が大きくなりすぎて、共同体の中にいることを居心地の悪いものにするのである。個人性を求めるという現代の私たちの欲求は共同体の大きすぎる強制を嫌う。個人が共同性に求めるものと、共同性が個人に与えるもののバランスが取れていないと個人において感じられているのが現代であるといえるのではないか。
以上のようにして社会と個人というようにその存在を物事の契機として切り取ってその関係を見ることはどのような意味と意義を持っているのだろうか。以下に人間が上記のように自己の状態を認識することの意味を問う。アドルノとホルクハイマーが啓蒙の性質を述べている文章を読むことで、人間が物事を意識下に取り組んでいく仕組みが明らかになる。物事を人間の理解の下に組み込むことがすなわち物事を支配することであるということと、そのような認識が持つ危険性が語られる。認識するにはまず自分を主体とおき、対象を客体と規定することが必要である。この時点で対象は無数の属性を持ったそのもの自体としての存在から、認識主体によっていくつかの属性だけに意味付けされ、主体の見方に沿った存在となる。客体を明らかな本質を持つ独立した存在だと想定することで、人間が操作することができる。
(8) ここに認識することがすなわち事物を認識主体の支配の下に置いてしまう関係が明らかである。一度客体として意識に上った時点で事物はそのものの持つ多様な可能性を省みられず、主体が捉えた性質を本質として固定してしまう。一度与えた価値は絶対のものとなり、ついには立場は逆転して 主体が対象に対して行なう意味付けの暴力性は省みられず想定した価値が絶対のものになり、ついには逆転してそれが本質であるとして主体の意識を束縛することになる。そこに新たなる呪術の創造の危険性がある。
現代において、物事を主体と客体の関係に分離し、問題を問題として捉えることは、新たな事実を明らかにして解決に導くものとして普通に活用されていることであり、危険性を内在しながらも、社会の中で使命を持って働いている。認識本来の役割として、やはり第一ステップにおいては呪術から解放する力は持っているのである。現代の人間が個性化を求める傾向も、物事を支配下において自律的に操作していく人間の性質の当然の帰結といえる。しかしその性質は社会と個人の関係に置いては個人を呪術から開放するだけの認識にいたっていないことが、社会と個人性の間に衝突が起こっていることを見た後では明らかである。
そこで、そのような認識による支配の構造を社会を見ることに当てはめてみる。人間が物事を認識することによって先ほど引用したジンメルの考える「社会という概念」にもあったように、社会と個人の関係を見るといった場合でも、社会も個人もその無数の相互作用を通じて現れるということに注意を払わなければならない。つまり個人の活動がある唯一絶対の結果を生むと見ることもできないし、一つの社会的な出来事を一つの明らかな原因に結び付けることもできない。
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物事を客体として切り取ることの危険はすでに述べた。この危険に注意を払った上であえて、意識する範囲を推し進めていくことを進化とする人間の性向を社会との関係の中での人間の行動を明確化する所まで進めてみる。人間が普通に生きていく上で、一般化されたものに注意を払うことはまれである。ジンメルはその理由を普遍的なものは知覚せず、差異を知覚する人間の性質に求める。
(10) 社会が個人にもたらす規範は社会的な前提としてほぼ同じ物がほぼすべての構成員たちに与えられる。そこに個人間の差異はないため人間はそれを知覚しづらいのである。また、制度が最終的には身体化することで完全に規律として働くように、明文化されない規範も繰り返し全員が行なっているうちに身体化する。自然な行いとして身についたものはあたかもそれが絶対の価値であるかのように個人に対する強制力をもつにいたる。ここに個人による欲求が強制に転回する様が見て取れる。この強制力が個人にプラスとして働くことはすでに述べたが、同時に人間のあり方の狭さを感じさせていることは文化産業や神の下での世界の例に見た通りである。ジンメルの主張する個性の成り立ちをひっくり返してみると、多数の集団に所属することことで多くの要素を持つ個人を(全人格としてみれば)個性的であるといえるが、ある一つの集団においては規範を同じくするということで没個性であるといえる。所属するさまざまな集団を比べてみると、近代人であるという所属は個人に対して特に大きな影響を与えている。それゆえに個人は近代が持つ一元的な価値(一般的なもの)を体現する存在になりやすい。個人と社会的な規範を実体化してその関係に絞って機能論的に考えることで、この近代人としての個人の共通した傾向を明らかにすることができる。
ジンメルが述べたように社会的な基準は多様な相互作用の結果であるため、一つ一つの原因を個人の主体性を契機として求めてそこに操作を加えることは不可能である。また、原因の一つ一つは人間が自己を存在させるために必要としているものであるため契機としての行動を変えることは現代の人間の性質を歪めることになる。しかし、社会的基準の存在を意識することで、結果としての存在自体に操作を加えることは可能だ。結果は意識することによって目にみえるものになる。個人性を求める個人に対して必要以上に巨大である共同体の影響力を、それに意識を向けることで操作することができる。つまり現在一般的である基準に無意識のうちに支配されている状態から、必要な基準であるか人間に制限を与えるだけのものであるか吟味することが可能になる。具体的にいうと、近代的な価値観にのっとらない個人にまで、個性化を広げることができるであろう。 意識に顕在化させなくとも自由であることは可能である。人間が自由を感じることが個人自身にとっては自由が存在することであるという面においては、である。むしろ枠に気づかない方がより簡単に枠を乗り越えられる場合もある。しかしその時人は知らずに与えられた価値に乗ってしまっていることが多い。本人が自由を楽しむという意味では何の問題もないのであるがしかしそこで問題になるのは社会全体の枠をより強固にする方向に荷担してしまっているということである。社会全体の価値の多元性、すべての人間の自由なあり方に対しては大きなマイナスをもたらすといえよう。
ここまで個人性の追求に対してマイナスに働く基準を再吟味することについて述べてきたが、一方で意識することは共同体とその中にある人間性を守る働きもする。個人の自由や合理性追求も現代社会の流れであるから、それは個人において無意識のうちに追求されやすい。共同体の果たす役割を考慮しないでそれらを追求することは、上で述べたような集団との関わりによるメリット、社会に共有するものの価値を無遠慮に打ち壊し、共同体の中での人間性を狭める。社会に存在する非合理な感情やその他の非合理性はむしろ意識化によって守られるのである。政策的な面では、グローバル化や規制緩和といった一つの価値として追求されやすいものに対しても、たくさんの約束や規定が自由な行動の保証とともに働いており役割をになっていることを顕在化することで、個人の行動と社会の役割を相対化してみることが可能になり、人間による吟味が常になされることが可能になる。
ここにもう一度、個性化と共同性、そして認識の関係を整理してみる。ニーチェが力への意志を語る時、それは認識という操作を持って自律していく意志と捉えることができる。ニーチェは、与えられた価値から逃れてありのままの自己を認識することの必要を説く。
(11) 認識の暴力性はむしろ意志という力となって現れる。彼が重きを置くのは、人間がそのものを意識し価値付けや意味付けをすることでそのものは存在する、という人間を中心とした世界の構築である。そのことは、ニーチェが想定する世界がキリスト教の神を中心にして徳不徳が作り上げられた社会と、超人が自分で創り上げた社会の二つだけが語られ、人間の意識から逃れた存在についての言及がないところからも読み取れる。そして、自律の意志が創造したものでもみなで共有することは結局絶対的な価値に個人が支配されるというように、規範の絶対化にこそ注意を払う。人間が創造し、さらにそれを個人で追求する所に究極の個人性の追求が見て取れる。究極の個人性とは自律性である。ところでジンメルにおいては個性化とはそこに差異が在ることによって認められるものであった。これに対してニーチェの考える個性は意志によって確立される自分自身全体である。全体の中には差異も同も含まれる。(同とは共同体の中で共有されるものを指す。)社会と個人との関係(それは同の部分も含む)を認識することに始まる自律性こそが、自分自身であること、つまり個性化であるといえる。ここにようやく個人性と共同体の間のバランスの問題は解消に向かうことができる。まず個人個人が自分自身のあり方を追求でき、存在のより広い多様性が社会による阻止を免れる。共同体において同であり壊すべきではないとする部分が個人によって違ったとしても、それは認識の結果顕在化することではじめて議論に乗せることができ、無意識のうちに方向づけられるのではなく、その存在に自ら荷担することができるのである。
以上に社会と個人性の関係を見、そしてそれを認識することの意味を考えたことで、自律が個性化であり人間が自分自身を生きることを可能にする作用を述べた。
参考文献一覧
・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫
・マックス・ホルクハイマー テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』岩波書店
・ジンメル『社会的文化論』中央公論社
・フロイト『精神分析学概要』講談社学術文庫「原典による心理学入門」より