[8]『世界の名著53 ベルクソン』中央公論社、p12より抜粋
澤瀉久敬は「ベルクソン哲学の素描」のなかでこの引用を用いている。ここからは少々先走りになるが、さらに氏は同項の文章で、「翻訳とは、例えば「源氏物語」を原文のままで読み、オリジナルなままで知ることではなく、それを現代語に移したり、外国語に移して知ることであるが、外からの認識である分析的認識はまさにそのような性格をもつものなのである。この点から言えば、分析とは本体的認識ではなく射影的認識である。ものについての知識ではなく、ものの影についての知識なのである。」と述べている。
同文献の付録「ベルクソン哲学の性格」のp3には、翻訳という事柄に関して以下のような記述がある。「ことばというものは実用のためにつくられているので、実存そのものを真にとらえることができない。したがって、大事なことは、ことばにだまされないでその底にある生命の流れに接触することにある。ギリシア語とフランス語のように全く性質の違ったことばにそれぞれの古典の深い意味をうつすためには、ことばの氷をうち砕いてその下に流れている生命の流れをとらえなければならない。だから、リセにおける古典語の訓練というのは、ことばの勉強であるようにみえながら、じつはことばから解放されて実存を直観することにあるのだ。」とある。