目次
【序文】
1「言葉」と「支配」について
2「操作」と「自由」について
3 アドルノ 『啓蒙の弁証法』(文化産業 - 大衆欺瞞としての啓蒙)
4 アドルノ 『社会科学の論理によせて』
【結論】
人間は時間的、空間的に限られた枠の中でしか生きられない存在である。しかし言い方を変えると、時間と空間という無限性を感じさせる、目に見えないものの中で存在していると言うこともできる。そしてそのような存在である人間は、古来より「言葉」を用いて生活し、「言葉」なしには生活を営むことができない。しかしその行為は、自分以外のものを対象化し、操作、支配を加えることを可能にすることを意味する。つまり、人間のわからないもの、超自然的な現象に対して「言葉」による人間自らの意味づけを行い、自分たちに都合のよいヒエラルキーを組み立ててきたと言える
【1】。そして近代以降「自由」という名のもとにおいて、主体としての人間の客体に対する支配は一層の拡大を続け、それと平行するようにして人間は自分自身をも操作の対象と見なすようになる
【2】。そして現代に至っては「自由」というものはすべて、文化産業という無限に閉じられたシステムによって用意された選択肢を選ぶことと同義であるとされる
【3】。自らの想像力を失ってしまった現代人において「自由」という言葉はそれと共にほかの意味をも失ったのであろうか。
この章では、ロゴスとしての言葉、そしてその言葉が西欧の近代市民社会の理性中心主義の基盤となり、社会・文化・思想などあらゆる領域を支配してきたことについて考察する。
バルッチは、『操作万能の自由』の中で、「操作できるように操作することが、本当の力、ほんとうの操作万能である」としているが、その論理を用いると、人間の言語活動における「名前を付ける」という行為も、その対象を操作するための操作であると言うことができる。つまりその対象それ自体の持つ多様性を限定し、人間が扱うことのできるように名前を付け、言葉によってその説明を行うのである。とすれば、人間は「言葉」を用いるようになったときから、そして未知のものに対する恐怖によって真理を追究し始めたときから、周囲の自然だけではなく、自分以外の人間、また自分自身をも操作の対象として支配することになったと言うことができる。
このことについて、アドルノによれば、人間の名前を付けるという行為を、自然を見かけと本質、作用と力とに二重化する行為であるとする。つまりバラバラではなく渾然一体をなしている自然的なものに人間が直面したときに、その得体の知れないものに対する不安から、人間がその自然の現象を認識できるように一定の言葉に当てはめてしまうのである。その行為によってその言葉(名前)は現象を意味するようになるが、同時にその現象そのものではないことも意味する。この二重化の内に主体と客体の分離、対象化の起源がある。人間の自然を二重化する(名前を付ける)行為は、あらゆるものが連続、流動した今までのアナログの世界からの別離であり、それは自然と人間との距離を確実に広げることになる。それとともに人間は自らの力である「知」や「認識」を承認するとともに、自らが自然という客体に対する主体であることを自覚する。言い換えれば、人間が自分の中に生じた主観の意識によって、自分に対する自然(客体)を操作する力(権力)を持ったことを自覚する。このことは、自然が人間にとって単なる手段と化したことを意味し、そして人間は自らを疎外することになり、孤独への一歩を踏みだしたのである
【4】。
ところで、ロゴスは言葉を意味する。ロゴス(logos)の語源は「拾い集める」ことであり、言葉は事の端を拾い集める力を持つ「言の葉」である。また、論理(logic)は「言葉の筋道」という意味であった。そして、事の端を拾い集める言葉は人間の知的活動を活発にし、人間の文化や社会など、あらゆる領域においてその力を行使している。たとえば文化(culture)の語源は「耕すこと」であり、主体である人間が客体である自然を操作するという行為が伺える。
【5】以上のことからも、言葉の起源が人間の自然に対する支配の起源でもあることが言える。
まず、主体としての人間の、客体に対する「操作」についてバルッチの『操作万能の自由』を参考にして考察する。バルッチがあえて「操作万能」という言葉を造ったことに関して、彼の論文の注(4)にその説明がある。以下要約 <「操作万能」と訳されている"Machbarkeit"の語源となる"machen"は、行為の「意図」に重点がかかっており、「明確な意図を持って対象を『操作』し、その対象に即して意図を『実現』する」というニュアンスを持つ。>
3,アドルノ 『啓蒙の弁証法』(文化産業 - 大衆欺瞞としての啓蒙)
文化産業の提供する製品のすべては、否応なしに文化産業が当てはめようとしてきた型通りの人間を再生産し、彼らはその文化産業の提供する製品の中から選択する自由を得るという一種の奴隷状態になることで満足するように仕向けられている。それも自らの想像力と引き替えに。しかしこの循環によって両者はより強く結びつくようになる。そしてその循環は新しさを排除しながら絶え間なく循環し続ける。この章でアドルノは、文化産業の肥大化とそれと平行する啓蒙の衰退、そして文化産業に対する個人の無力さや同一性を徹底して描く。
アドルノの『社会科学の論理によせて』の中に、「批判の衝動は、常に支配的な臆見の堅固な画一性に対する抵抗と一致します。」という一文がある。それは、支配的な権力に抵抗する「批判」の姿を描いている。この一文に端的に現れているように、アドルノはこの著書の中で「批判」の果たす役割を重要視している。また、認識についても言及し、社会学的認識は実際には批判のことであるが、認識は他者との関係性によって成り立つものであるがゆえに、それは社会学的客体の批判にまで移行しなければならないとする。つまりその総体、もしくは関係性を考慮する内在的批判を社会的客体の批判へと方向転換させることである。以上の部分に、『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章において徹底的に否定された個人が「批判」によって支配の下での無力感、諦めを乗り越えられる可能性が垣間見ることができる。
アドルノは、彼の直面したアポリア、つまり啓蒙の自己崩壊に対して、啓蒙的思想と社会における自由が不可分のものであること、そしてまた、ほかならぬその概念の内に、退行への萌芽を含んでいることを認識し、啓蒙的思想が内的に抱える自己矛盾を必然的であるとする。啓蒙を救済する一つのカギは「思想」である。思想は「批判的」、「矛盾を止揚する」、「真理との関わり」という性格をもつ。そして、もう一つのカギは「精神」である。「精神」の真の関心事は物象化の否定にある。この「思想」と「精神」に共通する重要な性質は「批判」である。啓蒙それ自身も自らの内に持つ退行への「批判」なくしては自己解体に陥ってしまう。また、文化産業が社会的主体である社会において、「自由」の意味が「選択の自由」、つまり自ら選び取るという自己規定、自律という意味での自由でしかあり得ないのであれば、啓蒙が自己を回復した社会においては、「自由」はまた別の性格を持ちうる。しかしそれは、まず啓蒙それ自身が内在的批判を行い、そしてその批判を文化産業の支配する社会へと移行させることによってのみ可能となる。つまり、その時において「自由」は、物象化を否定することによって生起する「可能性への自由」という性格を持ちうる。