(18)「計算可能性や有用性という基準に適応しようとしないものは、啓蒙にとっては疑わしいものとみなされる。啓蒙が外からの抑圧に妨げられずにひとたび展開することになれば、もはや止まるところを知らない。その場合、人権という啓蒙固有の理念にとってさえ、事態はより深い普遍概念と何ら異なるところはない。どんな精神的抵抗に出合おうとも、啓蒙はただその強さを増すだけである。このことは、啓蒙が神話のうちにさえ自己自身を再認識するということに由来する。たとえ啓蒙に抵抗する勢力がどんな神話を持ち出してきたとしても、その神話はすでにその対立にあたって論拠として使われているということによって、実は自分が啓蒙に対して非難している当の破壊的合理性の原理への、信仰を告白していることになる。啓蒙はすべてを呑み込む。」P7 「神話は啓蒙へと移行し、自然は単なる客体となる。人間は、自己の力の増大をはかるために、彼らが力を行使するものからの疎外という代価を支払う。啓蒙が事物に対する態度は、独裁者が人間に対するのと変わるところはない。・・・科学者が事物を識るのは、彼がそれらを製作することができるかぎりである。それによって即時的な事物は、彼にとって対自的なものとなる。この転換のうちで、事物の本質はいつも、不変の同一のもの、支配の期待としてあらわになる。この同一性が自然の統一を形づくる。呪術的な悪魔祓いの場合には、自然の統一も主体の統一も前提されてはいなかった。 ・・・呪術師の仕事がいくら同じことの繰り返しだとしても、彼はまだ、やがてささやかな猟場を統一的宇宙へ、獲物を得るあらゆる可能性の総括へ、と収斂していく文明人のようには、自分を目に見えない力の似姿であると言い立てることはなかった。そういう見えない力の似姿として、人間は初めて自己の同一性を獲得する。そして自己は、他のものと同一化することによって喪なわれることのない侵しがたいマスクとして、しっかりと所有される。これこそ精神の同一性であり、それに対応するのが、質の充実の放棄を代償として得られた自然の統一である」P10-11