「人間のおこなう科学的な認識に関する演繹的な考察の試み」
たとえその題材自体には、その時点での根拠がないとしても、「その題材に関する考察をおこなうこと、という認識」というものとしての共通認識という形を取ったならば、合理的な演繹手法による考察の場に、試験的にであれ、暫定的に提示することができる、ということを示す。このことによって、今現在、科学的なものであるとして皆の共通認識とされていることは、すべて暫定的なものであると認識されているという、現代の学問の基本的な姿勢を確認すると同時に、それらの態度とは、我々人間自身が、やはりその生成に認識主体として関与しているものである、ということを確認する。さらに、「真理は今の時点では(もしくは、永久に)、わからない。よって我々は暫定的な態度を取りつづけるしかない。」という態度が、我々の認識能力によってなされることであるにもかかわらず、本当に謙虚な態度となりうるのかということを、
(1) 認識能力の持つの限界という問題から(操作万能の自由)考
(2) える。
科学的な認識とはいったいどのようなものとして認識されているかに関する考察
実証主義論争において勝利したとされる批判的合理主義者たちの主張した、社会学における理論構築の際の論拠とは次のようなものであった。すなわち、
「経験科学的な言明はすべて誤りうるのであり、それらは常に反証可能性を持つ。」
「演繹論理は、論理的推理ないし、論理的推論の妥当性の理論である。論理的推論にとってもし妥当な推理の前提が真ならば、結論もまた真でなければならない。」
「演繹的論理とは、真理を前提から結論に移行させる理論であるばかりでなく、同時に反対に結論から少なくとも一つの前提に虚偽を遡行させる理論でもある。」
以上の主張によって、演繹論理は合理的批判の理論になる。この方法は
「ある言明が事実に一致ないし対応しているとき、あるいは言明が叙述している事物がまさにそうあるとき、その言明を「真である」とする。」
今、この仕組みにしたがって、ある科学的な共通認識のもとに妥当な推理をおこなうための前提を一つ提示してみたい。それは、カントによって示された、「物事態」という概念について、それをそのまま認めるのではなく、それについて議論がなされたということ自体を認識してみることである。この前提を基にいくつかの演繹的な考察をおこなってみたい。それらはその反証例が提示されるまでは暫定的な真理として認められるはずである。この際大切なことは、カントの提案した表象というものが存在しない(知覚できない)ことを挙げてもそれは反証にはならないということだ。なぜならこの段階においては、知覚できないものの存在の有無を問うているのではなく、そのような論争があったことを認識すること自体を要求しているからである。そうすることによって、仮に、我々にとって知覚できないものがあるとすればどのような世界観が提示できるだろうかという認識、もしくは考察を、演繹的におこなえると考えている。そして、それは同様に、知覚できないものは存在しないということを前提とした場合の世界観がどのようなものになるかということを意識的に考察してみることをも意味する。なぜならこの考察の前提は、繰り返すことになるが、「知覚できないものが存在すること」ではなしに、「知覚できないものは存在するのかどうかという議論があったということを認識すること。」であるからだ。知覚できないものは存在しないのかもしれないが、「知覚できないものは存在するかどうか」という論議があったこと自体は(ただしこのような論文自体が人間によってかつ言語を用いて表現されている以上、知覚できないものが存在しうるかという論議自体がすでに本質的なものではなくなるだろうが、それでもなお、それこそ共通認識を得るための暫定的なものとして)知覚可能である。 少なくとも、ある考察をおこなうための材料としての、一定の言語体系としては存在するということを、暫定的に認識できるだろう。「知覚できないものは存在しない。」と言明することが可能であるのなら、それは「知覚できないものは存在しない。」という「認識」であり、この言明の主張するとおり、存在しないはずの「知覚できないもの」を、あるとかないとか論議すること自体が不可能になってくる。このことは、今現在、問題とされていない(すなわち、知覚可能なものは存在しないとする認識の形態が主流となっている)ので、それと同様な、「もし知覚できないものが存在した場合どのようになるか。」というこの「認識」自体に論拠は必要ないと考える。なぜなら、それは前提としての認識であることにおいて、前者となんら質的な相違はないからだ。すなわち両者供に、暫定的なものであるから。あくまでも、演繹的なある一つの考察を目的とした場合に想定される暫定的な前提にすぎない。
それでは表象という考え方の提案をしてみる。
すなわち我々には最後まで物事の真の姿が見えることはないという概念。また複数の人間が共通の理解を示していると思ってもそれぞれの見えかたが真に同一の物になることは決してないということ。 (カント)
カントの提唱したもの自体という考え方は、「各個人が一方的に持つであろう世界観同士の間にさえ共通性があると感じられるとすれば、その共通性という現象さえも、表象という、ごく限られた領域においてしか(そのような存在としてしか)存在しないであろう。」という設定を我々に与える。
人間の認識という物が常に表象の域に留まりもの自体を見ることがないというのならば(常に不完全な物であり、得ることのできたデータの寄せ集めもしくはそれらからの人間の考察による演繹が実際の世界自体を再現することがないのであるとすれば)そのような操作の中での行為、もしくは何かの表象は、自分以外の対象と永久に一致することはない。どのような認識の形態であれそれ自体単体で存在することが可能であるとは考えられない。表象としての認識である以上その対象が必要であるし(他者との関係を持つことが必要になってくる)、人間の認識が世界そのものになることはないからである。ある人間にとってはある状態が認識の限度であるとする。それ以上は考えたこともなければこのさき考えることもできない。人間は表象の世界を抜け出ることがない。その一方で、人間には見える物しか見えないのだから、その中にいるしかないというのであればその中でベストをつくせばよいのではないかというようにかんがえることもできる。しかし、ある一定の領域内でベストをつくせばよいと考えることが存在した時点で、ある一つの思考が行われているわけで、それは当然のように使われる言語の意味を狭める働きを持つであろう。ある領域内でベストをつくすとした時点で、その言葉には本来的な意味がなくなる。すなわち、ある一定の領域という設定自体が否定される可能性が出てくる。ある一定の目的のための、合理的な考察は、ある一定の目的というものをどうしても逸脱することになる。意識的な思考を行えば限定が発生するのである。この限定は、我々自信が我々にとっての限界を定めることをもさせはしない。範囲が決定されて、その中での操作が可能であるという状態に陥る。その、設定された範囲というものは、どのように存在すると考えられるだろうか。たとえば、他の人間がそれに直接的に関与することは不可能であるし、そして、また同様に、それを意識した、当の個人にとっても、到達できないものとなる。人間は「意識」や「認識」ではないからだ。いま次のことを、意識的な明確性を持った論文の中において、主張する。人間の本質は人間自体であり、意識的に行われる、もしくは行われたことに対して意識的な解釈を行ったとしても、それ自体には何ら影響をあたえることはできない。そしてそれから自分の力を持って脱出する方法はない。脱出しようとする行為自体が自らの、認識という名の座敷牢を拡張する働きを持つとこの際考えることができるからである。
さて、いま人間の認識という表象が存在するという仮定に立って話を進めているわけだが、 何者かとしてある物が存在するといった際、人間が言葉によってそれを定義付け考察している限り、そのものにはかぎられた範囲という物が(我の認識の中において、そしてこの場合、なんと、認識そのものに対して)あたえられる。その地平こそが認識の持つ限界であり、そのさきにあることは(もしあるとするならば)我々には見えていない。そしてそれとまったく同時点において認識は認識としての存在を我々に認識されることが可能になるのである。 そしてさきほどの、ある一種の方法によって自らの思考の及ぶ範囲を設定したものは、そのなかにおいてのみ、操作性としての自由と、そして自分という主体性を持つことが(意識領域において)可能になる。 もの自体に関する議論の存在を認めるためには、我々は自らの意志を必要とする。意識的な領域において物事を認識するということはそれが意図的であったにしろなかったにしろ、その対象物に関して常に理性的に考察することが可能になるわけで、この状態はある意味において我々がより操作的にその対象と関わること(主体的に対象と関わること)になると考えることもできる。科学的といえる。
ある時点において認識できないものに対して、「見えないもの」という言語をもちいて言い表すことによりそれは本来的な意味を失うのではないか。よって暫定的という言葉は世界を先取りしよう、世界観を構築しようとしているのではなく、逆に、世界観の構築を放棄することになる。 このような態度はその時点に於いて見えないものを見ようとはしない。自分以外のものを存在として認めることがない。自分に見えた時点において見たことを認識するばかりである。暫定的であると同時に、その認識を自らの限界とするものにとっては、それゆえに決定的なものとなる。対象を意識的に捉えることによって起こりうる不都合があると考えられる。常に操作可能なものを根拠とすることが科学の原則であるが、あたかもそれとおなじように、主体性を、自らの意志として持つしかない状況に現代人はある。超越への道のりは自らの意志において、すなわち、社会的に存在すると認められた一個人としての存在を保とうと思った瞬間、その個人は自らの意志においてもしくは意志とみなされる状況において、けっしてそれらから世界を演繹することはないとわかっている、ある一定の言語体系によってつくられた世界の表象とともに、努力をつづけるしかない。社会的に存在を認められるというしくみを、個人の中にもおなじように今、見出してみることにする。自分自身の意識にとっての自分自身という存在を保とうとした瞬間である。自らが何者であるのかという問いかけへの答えとして、何者であるを問いはじめることである。しかし、結局は、その存在を見出すことはその問いを続ける認識主体である自分をめぐって循環し、終わることがない。
以上のような世界観に関して
実証主義論争において、世界を人間がデータから還元することは不可能だというのが双方の共通の認識であるらしいが、その様な状態が本当に存在するのだろうか。それでは言葉による定義付けは世界をデータで現わそうとしていることになるのだろうか。現わせないものがあるという主張をすると、それは主張としての意味を失う。よって劇中劇をしてみることにする。
今、仮に、試みとしてつぎのことを主張してみる。
「人間によって認識もしくは構築された理論的なものは限定されたものであり、それゆえ 世界それ自体が理論的なものによって演繹的に再現されることはない。」
このことは、もし、その主張が受け入れられたなら、それは同時に
「この主張の考察の及ぶ範囲も同様に限定されたものであり、このような主張それ自体が覆されることは往々にしてある。」ということを主張しているに等しい。
すなわち、
1、人間が構築した理論が世界を再現することはない。 と主張することは、
2、人間が構築した理論は世界を再現するものである。 ということをも認めることになる。なぜなら、1がすでに人間によって考察、提示された理論だから。
(「世界を再現することはない」という部分は人間によって提案されたものであり、よって自らの提案によって自らの主張が否定されることになる必要が出てくるから)
さて、1と2を提示したわけだがこの両者によって世界観というものは完成されるのだろうか。この論文の行う主張によると、両者によって世界観が完成されることはない。しかし、(そしてこれはもちろんのこと、これまでに多くの場で様々な形を取って論じられてきたことだが)ここでまた先程と同じような状態に陥る。
すなわち、
「世界観が完成されることはない。」ということがこの論文の主張だったはずだが、ところがこの主張自体が先程と同じように、あろうことか自らの主張によって再度覆される。
すなわち
1‘ 世界観は完成されない と主張することは同時に、
2‘ 世界観は完成される ということをも認めざるをえない。なぜなら、自らの当初の主張が、「人間によってなされた認識が世界それ自体を演繹的に再現することはない。」だったからだ。
以上のように この考察には終わりがない。そしてこの事は、同時に終わりがあることをも意味すると考える。それは、最初に提示された主張が、認識可能な物として認められなかった場合であり(「世界」という知覚不可能な言葉を使っているという理由による)、考察事態が妥当なものとして為されなかった場合である。その際、当初の主張自体が知覚不可能なものとして取り扱われることとなる
(3) 。したがって、人間は今のところ、世界自体が、自分自身によって構築した理論によって演繹的に再現することが、可能なのか不可能なのかは、わからない。皮肉的に言い換えるなら、妥当な演繹論理によって示されたものであれば、その世界観がどのようなものであったとしても、それはそれとして、暫定的に正しいとされる。この状態が認識の限界が認識されたことを意味する。世界観なるものをその時点において、構築しおわってしまうのである。そしてそれは、「世界観」という言語を用いて表される、何らかの限定を持った、「知覚することのできる」意識の集まりになろう。 不完全であるということを意識的に認識した時点で、それは本来の意味を失う。意識的に完全な、「不完全なもの」とされる。
人間は、自らのことを、「主体的に意志し、認識を積み重ねる存在である」意識的に認識した時点で、人間の主体性というものが同時に、意志的に捉えられることとなり人間は、それゆえに、みずからが意志する存在であるということを、意識的に捉えることにするという認識が起こる可能性がある。合理的な場所とは合理的な場所のことでありすなわち人間にとって共通に認識可能な場、共通言語圏のことであり、それ以外の場所ではない。このことが指し示すのは合理的認識はその認識をした本人にしかわからない、ということである。以上のように意識化するという過程が、本来的な言語の意味を問題にせず、どのようなものでも知覚可能にするという働きを持つ、とする主張を、同じように、「操作万能の自由」、「啓蒙の弁証法」の中にみる。「操作万能の自由の中」でなされている主張は次のようなものである。「本来的には開かれたものであったはずの自由というものが操作性の中に生きている人間によって言葉による限定を受けるようになり、結局、本来の意味を失った。」
(4)
合理的批判主義の想定する無知に関して、これと同様に考えるなら、「本来的には開かれたものであったはずの無知という状態が、科学者という人間によって無知という言葉で表されることによって、自分自身の立場をよりはっきりと説明付けようとする試みのための手段として使われた場合、本来の意味を失うことになる。これは、科学的な思考を行おうとする人間が、自分自身がどのようなものであるかをよりくわしく合理的に意識しようとした結果であると考えられる。よってこの無知という言葉は、本質的に認識することが不可能な無知の状態を表す言葉では有り得ない。」ということになると考える。
同様に、人間にとって、本来捉えられなかったものを(考察の対象にはなりえなかったものを)捉えるようになった行為の例を挙げる。
観念論に関して
中世以降において観念を表すことばイデアは神の中に存在するものとして認識されていた。したがって、人間がそれをなんらかの方法によって知覚した時点で、それはイデアではなくなるのだった。しかしある時代以降、観念を人間の中に沸き起こるものとして捉えるむきがおこるにつれ、それ以前の意味はなくなっていった。それ以降においては、観念とは人間の中に確認できたものを確認してそう呼ぶのであり、なぜ人間の中に出現するかということについて言及した人はいない。もしくは表象のできるまでのしくみをカントは説明することを試みたが、その説明自体が一つの表象であるということを彼は認めるであろう。
これらはすべて、人間が、自身の主体性を獲得もしくは意識しようとすると同時に発生している。すなわち、 人間が言葉によって何ものかを規定、認識するとき、その認識されたものは人間の認識の範囲内にあるがゆえに何らかの具体的なかたちをとるもの(とっている状態にあるもの)とされ、それゆえにその何ものかの持つ能力自体が限定されたものとなる。 実証主義者の加速度的な排他性と操作万能の自由
(5) 、啓蒙の弁証法に提案される世界観の類似性を見出せる。
このように、その題材自体の存在に関して、その存在を疑い、何らかの方法で否定し出すと、それまで行われていた論議自体がその意味をなくす。したがって、人間のおこなう科学的な認識とは、意識的で、意図的であるものと認識されるがゆえに、その限度を持たざるをえない。知覚不可能なものを知覚することはできないという主張は、その自らの主張ゆえに、知覚できないものを知覚することはできないという主張を本来的になすことができない。にもかかわらず、人間の置かれているとおもわれる加速性について述べる事にどのような意味があるか。すなわち、 ここで理論という物に人間が要求した限定を見出すことができる。それはまさに自由に対して人間がおこなったと同じようなことであり、我々はそのような加速性の中にいる。
(6)
特に社会学において、ギリシャのデモクリトスに始まったような原子論的な世界観をいくら突き詰めたところで世界そのものをを再現することは不可能である。再現された世界は再現された世界であるとの認識のもとにおくことも可能であるが、その認識自体が自ら再現した世界の表象二対する表象であるということになってしまうので、そのような(本来的な社会の表象を再現したにすぎないという)認識自体は本質的には何の意味も持たない。どこで歯止めを掛けるかという問題になってくるが、そもそも自分で歯止めを掛けるということが、
そしてその範囲を限定するということが(世界に対して)可能なのだろうか。自ら主体的に何かをすることが人間には可能なのだろうか。もしそれらが無理だとしても、基準を作るということに常に付きまとう状況とは、そのことを考慮に入れるのではなく、いちど考えてみることである一定の仕組みというシステムを見出すことができ、たとえそのシステムは限られた領域のなかでの我々の活動であっても、なんらかの実証主義的な効果と、常に付きまとう悲しみをもたらしてくれるのではないか。その状況を現代人に強要することは残酷かもしれないが寄り一層の「広い」視野を得るためのきっかけの一つにはなると思われる。
実証主義的な世界観において世界のすべてを意識下において認識することは不可能でありすなわち人間にとって不可能となる。よって人間の持つ世界観という物は自らの拠って立つ基盤にしたがってそれぞれがそれぞれの制約を受けながら作り上げる物である。それはより広い視野というものを養ったところでどうなるものでもない。意志主体としての人間が見ていることに変わりはないからである。さらに多くの物を見た見えるようになったといった瞬間に見ていない物は存在するだろう。その人にとってその時存在しないといっても他の人にとってその時存在するのであれはその時点に置いてさえその人の知覚している世界に何らかの影響を与えつづけているはずだ、との認識を持つことのみが可能なのである。例えば、感謝をする能力など人間は持ち合わせてはいない。感謝をしようとする能力が与えられているのみである。感謝をすることはできない。感謝をしつづけたいと願う自分を認識するのみである。