非暴力による世界平和というのはとても大きなテーマであり、色々な意味を含む。その中でも主にインド独立に際し「非暴力による平和」を実践したガンジーの思想についてとり上げたいと思う。まずガンジーの思想について議論し、次に「非暴力運動」の欠点だと思われる事をネルーの指摘やガンジー自身のもつ矛盾を挙げたい。その次に現代社会で平和の実現を望み、今まさに活躍しているベトナム人の禅僧、学者、詩人そして平和運動家であるティク・ナット・ハンの思想をについて取り上げる。最後に、ガンジーやティク・ナット・ハンの思想をふまえ、これから私達が平和を実現するためにどのような事が必要か論じたい。
私がはじめて「非暴力による平和」という言葉を聞いたのは、中学校の世界史の教科書でガンジーについて書かれていたのを読んだ時だと思う。そのころは全くこの言葉の意味を理解せず、音として頭の中に記憶されていただけであった。大学のゼミで改めて東洋の思想として、ガンジーについて学び初めて本当の意味について考えた。そしてそれまで学んできた西欧の思想とは全く異なっている事がわかった。
第二次世界大戦以降日本は戦争に直接参加した事がなく、私達は平和のまっ只中にいるような錯覚に陥ってしまいがちである。しかし世界中では常に民族間での紛争が絶える事がなく、国家の間での戦争もやむことがない。大きなもので代表的なものを挙げると「ベトナム戦争」「湾岸戦争」、小さなものではアフリカのソマリ族とエチオピアとの間の「オガデン紛争」インドでのヒンドゥーとシク急進派との抗争などがある。また日本国内でも小さな喧嘩、暴力団の暴挙、暴行、殺人事件など数え切れないほどの争いが起こっている。最近話題になったものでは、小学生、中高生のいじめによる自殺や中学生によるナイフ殺人事件が記憶に新しい。物心ついてから今まで争いを起こしたり、人を傷つけたことがないという人はないだろう。程度の違いはあっても私達は自分または他人に対する「怒り」を抱えている。友人間でもなにかきっかけやツールがあると争いが起こってしまうような状態にあると思う。宗教の違い、肌の色の違い、国籍の違い、性別の違い、政治体制の違いなどで争いが起こる事はたやすく、その争いが国家間に発展すれば戦争が起こってしまうだろう。核兵器や細菌兵器などが発達した現代で戦争が起これば、地球は人類滅亡の運命をたどってしまう。湾岸戦争ではアメリカ側ブッシュ大統領は「正義のための戦争」を説き、またサダム・フセインはそれを「聖戦」と呼んでいる。両方とも耳触りのよい言葉を使っているが、実際行なっている事は多少の差はあれど無辜の民を殺し、傷つけているという暴力的行為である。また勝利を得たはずのアメリカでさえ一部の軍人達は、奇形児が生まれるなどの戦争で使った毒ガス対策の為の薬の後遺症で苦しんでいる。このように平和のためであった戦争は罪のないはずのこれから生まれる子供達をまで巻き込み苦しめている。私達は平和という幻想を見ているがゆえに平和を求める事ができなくなっているのではないかと思う。決して平和ではなかった、当時イギリスの植民地であったインドで、非暴力的な方法で独立を求めたガンジーや、ベトナム戦争を経験し非暴力的方法の大切さを説いたティク・ナット・ハンに私達は平和実現についてのヒントを得ることができるのではないか思う。
自叙伝の副題「真実を私の実験の対象として」 とある通り、ガンジーはこの自叙伝でガンジー自身が行なった数々の真実に関する実験について話をしようとしている。その「実験」とは、精神の分野でガンジーが行なったものであり、その実験からガンジーは、政治の分野での活動(サッティヤーグラハ運動)に力を引き出す事ができた
[2] 。ガンジーの生い立ちなどをなぞりながらガンジーがどのような実験を行なおうとして、どういう成果が得られたのかを考えたい。
この自叙伝は9部にわかれている。第一部から第二部までは主にガンジーが生まれてから少年時代を経て、成人するまでの事が書かれている。ここではガンジーの引っ込み思案な性格が描かれており、生計を立てるためにイギリスに留学し、イギリス紳士に成りすますために浪費したり、13才で早すぎる結婚をしたのにも関らず独身を装ったり。と後年のガンジーの姿と似ても似つかない姿が描かれている。その後ガンジーがどのように質素な生活を送る事になったのかが第三部以降に書かれている。第四部でイギリス人暴徒の襲撃にあい、それ以来質素な生活を送るようになり、自己統制を目指すためにブラフマチャリア
[3] を守りとおす誓いをとった。第六部にはサッティヤーグラハ運動について書かれ、第六部以降第九部まではガンジーのいう真実に関する「実験」が強く描かれている。
サッティヤーグラハは政治分野でのガンジーの実験である。ガンジーは1906年にトランスヴァール政府公報に発表された法令案に反対しこの法令に従わない事、そして非服従によって課せられるあらゆる懲罰を甘受する事を決意した
[4] 。これがサッティヤーグラハの起源である。政府の悪法に従わず、暴力的に戦う事なく反対の意を示すこの言葉は既存のものではなくガンジーによって作られた言葉であり、新しい概念ではないかと思う。近代ヨーロッパ社会では征服されたら武力を持って抵抗する事が当たり前であった。やられたらやり返す、血で血を洗うような歴史的背景を持つイギリス側
[5] では真正面から戦ってこないガンジーをどう扱ってよいか戸惑った。スマッツ将軍の秘書のひとりは、インド民族が嫌っていただがガンジー等は彼達が困っている時助けてくれるし、敵でも痛めつけない、自己受難だけで勝利を治めようとしているというようなことをいっていた。またスマッツ将軍も似たような事を言った
[6] 。そこでイギリス政府はインド人を従わせるためにインド人の中でも位の高いものや、指導者格であるガンジーやその他数人を投獄したが、人々はガンジーとの約束通り多数が進んで逮捕され、刑務所をうめ尽くした
[7] 。この運動の結果ガンジーとスマッツ将軍は合意に達し「インド人救済法案」が可決されサッティヤーグラハ運動は勝利に終わった。ガンジーのサッティヤーグラハ運動とはこのように非暴力的な運動でありながらも臆病ではない強い力をもつものであった。
アヒンサの説明を中からそのまま引用すると「アヒンサとは『非暴力』のことで、『害を与えない事』『非殺生』という意味のサンスクリット語。
[8] 」憤怒、怨恨、恐怖などをしりぞけるこのアヒンサがあって人間は存在していると、インドの聖典は説いている。古代以来、インドの思想の底流をなしてきた観念で、平和、非暴力の考えがインドに強いのは、このアヒンサの思想に基づいているからである。ガンジーは、厳密な意味での非殺生とは異なる行動を何度かとっている。ガンジーはアヒンサのために菜食主義を守っていたのだが、新兵徴募運動の間にからだを壊し、体を治すために誓いを破って山羊の乳を飲んだ
[9] 。またガンジーは1914年の第一次世界大戦時に人々に志願兵に応募するように呼びかけた
[10] 。これは実際武器を持って戦うのではなく、雑用をするだけでも戦争に参加する事には違いがない。このことつまり戦争に参戦した事はガンジーも認めている。しかしガンジーはイギリスの危急を自分達の好機に変えないため、またイギリスと連携しイギリスからの恩恵を受けるために参戦する事を決意した
[11] 。私はこのガンジーの態度に疑問を感じるがこの事は後に論じたい。
1・2でも述べたが、ガンジーは第四部でイギリス人暴徒の襲撃にあい、それ以来質素な生活を送るようになった。そして自己統制を目指すためにブラフマチャリア
[12] を守りとおす誓いをとるようになった。これらの事はガンジーが非暴力的方法のために必要であった。ガンジーは1902年に「フェニックス農園」開設した。この農園当時ガンジーが携わっていた「インディアンオピニオン紙」を農場にうつし、誰もが労働し皮膚の色や国籍に関らず同じ賃金をもらい、あまった時間で新聞発行を行なうという計画のもとに開設された
[13] 。ガンジーはこのように肉体労働によって生活の糧を得るという簡素な生活を実践した。その後ガンジーの質素な生活を求める心はのちに「手織布地(カーディー)」をうみだした。これはインドの貧困にたいする解決法として生み出された。自分の着る着物は自分の手で紡いだ糸で自分の手で織るという簡単なものであるがこれまで外国産の織物に頼っていたインド人に国産の糸で国内で生産させる事により、失業者を助け、インドの独立を促すものであった。
またガンジーはブラフマチャリア(肉体の節制)を行なう事によって、自己抑制の能力を訓練した。具体的には妻と寝床を同じくすることや、人目につかないところで一緒にいる事を止めた
[14] 。妻を持ちながらこのような禁欲を生涯にわたって行なう事にどういう意義があるのだろうか。このことも後で論じたい。
私はガンジーの自叙伝を読み、幾つかの疑問点を感じた。それはネルーが指摘した事と重なる部分もあり、またガンジー自身が抱える矛盾もあると思う。それらの疑問点の幾つかを提示し、非暴力運動の抱える問題点についても触れたいと思う。
ネルーは、インド独立運動の指導者であり、ガンジーと並びインドの独立運動を語るうえでかかせない人物である。ネルーはガンジーを真の指導者と考え、ガンジーに従ったが、二人の性質には大きな隔たりがあり、対立は何度も起こった。ヨーロッパ的思想に近いネルーがガンジーのどのようなところに疑問を持ったのかを考えながらガンジーの思想を別の角度から分析したい。
チョウリ・チョウラ村で村人の暴徒が巡査に対する報復として、派出所に放火し6名近くの巡査を焼き殺したという事件の後ガンジーは突然運動を停止した
[15] 。この事はネルーを含め、会議派指導者の大部分反感を買った。ネルーは一部の民衆のためになぜ運動を停止しなければならないかという疑問を抱き、このような状況を作り出すのは非暴力の欠点ではないかと考えた。この事件の後からネルーはガンジーに対し疑問を持つようになった。ネルーは非暴力には賛同したがガンジーが真実を求めるためがゆえにより完全な意味での運動を実現をのぞんで突然運動を停止するような事は。混乱を招く事であり、政治的に成功しないと思った。
1・3ですでに述べてあることであるが、アヒンサを探求するガンジーがなぜイギリスに参戦したのかという疑問点についてである。このことについてはガンジーも「戦争への参加が非殺生とけっして両立するものではないことは私には全く明らかであった。」と述べている。それにもかかわらずガンジーは、戦争参加を願い出る事を義務とし、この行動を後悔しなかった。その理由は、「イギリスの危急を私達の好機にかえてはいけないし、戦争が続いているあいだ、私達の要求をつきつけないほうがかえって適当であり、将来を考える事であると判断した。
[16] 」とある。目的の為には手段選ばないのであろうか。それともガンジーにとってイギリスを敵にしないということが大事なことだったのだろうか。ガンジーは自叙伝の結びに「真実を実現するただ一つの手段は、非殺生であること」と述べている。またガンジーは自分自身の非殺生追究の努力は不完全で適切でないものとも言っている
[17] 。私達は道を歩くだけでも地面を這う虫を無意識のうちに殺している事もあり全てのものにおいて非殺生である事は不可能といってもよいだろう。その中で一番大切なものを選択する事が必要であり、それは時々とても困難なことであり、何を重視すればよいか混乱する事になることが多いと思う。例えば、自分の家族が殺人鬼に襲われそうになったとき非暴力でいることができるだろうか。ガンジーは、別の著書でこう述べている。「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。だからこそ、1908年に私が瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったかー逃げ出して私を見殺しにするべきか、それとも、彼の用いることのできる、また用いようと思う腕力に訴えてわたしを護るべきであったかとたずねたとき、私は息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務であると語ったのである。」
[18] 私も心情的にはガンジーに賛同するが、アヒンサを達成する上での関係性からみるとやはり疑問を抱かざるを得ない。
ブラフマチャリアとはサンスクリット語で純潔という意味なのだが、ガンジーは肉欲だけではなく食事、感情、言葉の節制をはじめ、思想、言語、行為の抑制を行なうことを純潔とした。私は自叙伝の中でも「ブラフマチャリア」という言葉に違和感を感じた。何故かというと夫婦の間に距離をおくことにどのような意味があるのだろうと疑問に思ったからである。ガンジーは自己抑制の訓練のために行なうと述べているが、まず自己を抑制するには一番身近な家庭の中からはじめる事が必要だったのかもしれないと理解している。
ティク・ナット・ハンは現在活躍するベトナムの禅僧、学者、詩人、平和運動家であり、1996年にはノーベル平和賞候補に推薦された。ティク・ナット・ハンはベトナム戦争を経験し、その悲惨な経験を受けながらも、アメリカに対し暴力的な反抗の心を抱く事なく非暴力による社会変革を目指している。著書「ラブ・イン・アクション」に書かれている具体的な方法論について論じたい。この本はティク・ナット・ハンの今まで雑誌や本に発表した文章や、実際講演したものなどをまとめたものである。一つ一つの章で別々のアプローチの仕方で書かれてあるが、この本を読むとティク・ナット・ハンが一貫したテーマで、非暴力による社会変革を目指してきたということがよく解る。この本のキーワードはマインドフルネス(気づきの心)そしてその為のウォーキングメディテーションである。
ティク・ナット・ハンは平和についてこう言っている。「平和とは、ただ武力紛争がないという事ではない。それは、私達自身の感覚とものの見方との間の不一致をも含めて、いかなる種類の紛争も存在していないという事だ。
[19] 」戦争がない事イコール平和ではないということである。ティク・ナット・ハンはベトナム戦争と湾岸戦争を比較して違いを認めなかった。両方ともアメリカ人にとって正義の戦いであったが不要なものであったという事である
[20] 。メディテーションを行ない自分のした暴力的行ないを見つめるところから真実をみる事ができる
[21] 。
ティク・ナット・ハンは私達の集合意識に戦争の本性は存在すると考えている。その理由として私達は自分自身から疎外されていて、その空虚さを埋めるために、暴力的な映画や雑誌小説を読みさらに自分達の心の毒性を高めているという事を挙げている
[22] 。つまり私達と非難すべき戦争を起こす当事者とに大きな違いはないという事ではないかと思う。ベトナム戦争を起こしたブッシュ大統領にアメリカ国民の80%が支持した
[23] 。のは私達自身でありその証拠に戦争の根源は特定の人が持っているのではなく、すべての人が持ちうるものであるということだろう。それではティク・ナット・ハンが、どのようにして各々の人がもつ戦争の根源をなくそうとしたのか次に述べたい。
ティク・ナット・ハンは、平和は欲すれば直ちにあなたのもとに。と言っている
[24] 。度々苦境に陥った時ティク・ナット・ハンは、ウォーキングメディテーションを行なった。例えばティク・ナット・ハンが、マレーシアでボートピープルを助けようとしたがマレーシアの警察はボートピープルを受け入れず、結果的に2隻の船のうち1隻のが目の前で転覆してしまった。無事であった1隻の60人もの人々とティク・ナット・ハンはもう一方の船が沈み、人々が死ぬところを目撃した。このような状況でもウォーキングメディテーションを行なうことで彼らは活動を続けることができた
[25] 。ティク・ナット・ハンはメディテーションについてこう語っている。「メディテーションとは自己の本性を見つめ、目覚めているということなのです
[26] 」ティク・ナット・ハンは、日常生活で常に目覚めていること(マインドフルネス)の難しさについても語っている。マインドフルネスを実行するために、ティク・ナット・ハンは、沈黙の昼食に少年を誘ったことがある。慣れない少年ははじめは沈黙の食事に居心地の悪い思いをしたが、食事を更に楽しむために沈黙の食事を行なうということを理解した後は、少年は食事を楽しむことができた
[27] 。ウォーキングメディテーションとはこのように自分の本性を見つめ目覚めるためのものである。
ティク・ナット・ハンはアヒンサを行なうためにはまず自分中で実践しなければならないと説いている。ティク・ナット・ハンは完璧に非暴力であることは誰にもできないが、誰もが実践できるものであり、少しずつでも非暴力の方向に進むことができるという考えを持つ
[28] 。ティク・ナット・ハンはこのような例を出している。「たとえば陸軍元師でもその作戦を指揮するのに、無辜の民を殺さないようにして行なうことができるでしょう。
[29] 」このような一見暴力的にみえるやり方にさえ少しの変革を求める事ができるという事を言っている。
この章でティク・ナット・ハンは私が2・2でガンジーに投げかけた疑問「自分の家族が殺人鬼に襲われそうになったとき非暴力でいることができるだろうか。」の答えとなる次のような文章を書いている。「もしもあなたに覚悟ができているならば、できる得る限り最も非暴力的なやり方で静かに、しかも知性的に振る舞うことができるでしょう。しかし知性をもって、しかも非暴力的に振る舞うためには、前もって自分自身をよく訓練しておかなければならないのです。それには十年、あるいはそれ以上かかることでしょう。
[30] 」この答えはガンジーのものと大きく違っている。言葉通りに理解すると、私達が日頃から目覚めの心を持ち、少しずつでも非暴力の方向に進む事によって、暴力的手段に訴えることなく、行動することができる解釈できる。
ガンジーとティク・ナット・ハンの両方の思想に共通しているのは「自己統制」ではないかと思う。ガンジーは自ら質素な生活を送り厳しい規制を課す事によって、自己統制を行なった。ティク・ナット・ハンはウォーキングメディテーションを行ない、自ら覚醒する事によって自己統制を計った。方法は違うが自らに「自己統制」を課す事により非暴力的方法をとっている。平和実現の柱になる非暴力的方法のとりかたについて、その為の自己統制の在り方について述べたい。
私達は、今現在、非暴力的な方法が採る事の難しい状況下にあるのではないかと思う。なぜなら自己実現や自分の欲求を満たすためにあまりにも他人やまた自分までも暴力的方法で虐げているからである。生き残るためには他人を踏み台にしてしまう。それは過度の拝金主義の弊害ではないかと思う。男のが生まれると、親は早ければ、幼稚園や小学校から世間的評判の良い学校に入るために受験勉強を強い、偏差値の高い大学を目指す事を目標とさせる。偏差値の高い大学を目指すのは一流企業に就職するためであり、一流企業に就職するのは、やはり高い給料が目的である。これが女子ならば、世間的評判の良い女子大いわゆるお嬢様学校にいれる、それは質の良い結婚相手を得るためであり、質のよい結婚相手とは容姿、性格よりも家が代々資産家でお金を持っている男性、一流企業の社員で出世が見込まれそうな男性なのではないかと思う。結局将来的に親が子供に望む事はより沢山のお金を得る事である。そこにはもちろん「性格のよい子に育つように」「頭のよい子に育つように」「健康に育つように」というような願いが入る余地がないという事ではないが、性格、頭脳、健康という概念はすべてお金に結び付けられ、親が子供に注ぐ愛情までお金が絡んでいるのではないかと思う。これだけ女子高校生の、援助交際つまり売春が流行ったのは、親がそして周りの人達の拝金主義を小さい頃から見てきた結果ではないかと思う。彼女達が売春という方法を選んだのは、一番てっとりばやく目的に達する事、即ちお金を得る事ができるからである。その方法は難しいプロセスを通過する事がなく、誰もが欲しがっているお金を最も簡単に得ることができる。彼女達は「自分のからだだから他人に迷惑かけているわけではない。」という。それにも関らず、援助交際によってお金を得る事は決して非暴力的なやり方ではない。他人を傷つけるよりも、まず自覚症状のあるなしに関らず自分を傷つける事になる。自分を傷つける事により、知らないうちに怒りの芽が生まれ、それが結果的に他人を傷つけるという精神的、肉体的暴力にまで発展する事になるだろう。精神的、肉体的暴力への誘惑が多い社会でどのように私達は自己抑制する事ができるのか次に述べたい。
ガンジーが質素な生活をおくろうとしたのは、豊かな生活を送る事によってお金にこだわりが出来、お金にこだわる事は非暴力的方法に反する事を知っていたからではないかと思う。今の日本でガンジーが行なったような共同体的生活は送る事は難しいし、そのような生活を求める人もいないだろう。しかし「必要なだけ買う」「無駄なものは買わない」という意志を持つ事は必要ではないかと思う。例えば、バブル時代、お金持ちの人達は高級車といわれる車を何台も買い、ガレージにそろえた。しかし車は同時に一台しか使う事ができない、車の上に車を載せて使う事などできないのである。自分に必要なものだけを選ぶ事によって、もっとお金を・・・ もっと高級なものを・・・というような不安要因が取り除かれ、非暴力的方法が見えてくるのではないかと思う。
ティク・ナット・ハンがウォーキングメディテーションを勧めるのはやはり自分に本当に必要なものを冷静に見極める為であると思う。静寂の中で感じる事のできる真実に目をつぶって、喧騒に逃げるのではなく、真実を見つめる事により、もはやその真実を妄想化し誇大評価する事がなく、怖れるものがなくなるだろう。そのような状態では非暴力的方法が見えてくるのではないかと思う。
このテーマを取り上げて私は非暴力であるという事についての難しさを改めて感じた。ガンジーが実践した事やティク・ナット・ハンが実践している事は難しい知識を必要とはしないが、実践し、続けるためには、私達にとって大変な勇気と努力が必要であると思った。しかしガンジーやティク・ナット・ハンが目指したものは「世界の平和を非暴力的に実現する」という当たり前の事だが、実際はどの国の指導者も実行不可能なほど難しいものである。ガンジーやティク・ナット・ハンが実践したその方法は完璧なものではないだろう。しかしアヒンサ(非暴力)を実践する事は核戦争がボタン一つで始まってしまうような狂気にあふれた現代社会を生きるための重要なキーワードの一つではないかと思った。
参考文献
高橋通浩「世界の民族地図」作品社、1994年
マハトマ・ガンディー著、森本達雄訳 「私の非暴力1」みすず書房、1997年
マハトマ・ガンディー著、森本達雄訳 「私の非暴力2」みすず書房、1997年
ガンジー「自叙伝」 蝋山芳郎訳『世界の名著63ガンジー ネルー』中央公論社、1967年
ネルー「自叙伝」 蝋山芳郎訳『世界の名著63ガンジー ネルー』中央公論社、1967年
ティク・ナット・ハン著、滝久和訳 「ラブ・イン・アクション」渓声社、1995年