目次
序論 総合政策学の基礎研究とその課題
第1章 ピアジェの操作的構造主義
第1節 ピアジェの発生的認識論
第2節 全体性・変換性・自己制御
第3節 操作者の存在
第2章 現代社会の操作的構造分析
第1節 欲求内包の変換体系
第2節 共同性の運動
第3節 共同性の思考−操作的構造分析の意義
第3章 擬似的ネットワークの問題
第1節 「客観性」の科学
第2節 擬似的なネットワークの創出
第3節 政策の実行可能性
結論 新しい総合政策学の基礎研究へ向けて
政策には総合的な視点が求められている。その背景には、地球規模の環境問題が人為的に生み出されたことが挙げられる。福祉のために自然を改造し、利用することに疑いを持たなかった。
[1] 現代社会は自然環境に対してまったくの無知であった。しかし無知だったのは自然環境にだけだろうか。現代社会が生み出してきた問題の多さを考えると、自らのことは知っていた、とも言えそうにない。私たちはただ、わかったつもりになっていたようである。
確かに政策学は、既に顕在化した問題の解決を優先するべきだろう。しかし、問題を自らの手で創り出すリスクを軽減することも切実な課題である。なにより私たちの現代社会自体が問題発生の基本的要因なのだから。総合的な政策研究の対象のひとつは、現代社会、つまり私たち自身となる。
これまでにも現代社会を研究対象にした学問は多い。それにもかかわらず、政策学は新たに現代社会の分析を提唱する。これまでの学問の無数の営みが、何ら有益な議論を重ねてこなかったわけではない。ただ、政策や現代社会が問題発生の基本的要因であるといった視点から眺めると、近代科学は実に細分化してしまっているのだ。
[2] ある学問領域での正しさが他の分野では必ずしも正しくないことがある。その確認作業が非常に困難な状況になっている。多くの政策は科学の成果をよりどころとして立案され実施させる。そのため特定の学問分野では予測できないマイナスの結果を生むことがある。このこともまた、政策における学際的総合の必要性を促している。
総合政策学の取り組むべき課題は単に顕在化した問題を解決するだけに止まらない。これまで述べたように、他にも重要な課題がある。第一に、現代社会が問題を生み出す構造を分析することである。第二に、総合的な政策学の理論を確立することである。この二つの問題は、いわば総合政策学の基礎研究ともいうべき領域に位置する。
本稿は総合政策学の基礎研究の第一歩として、第一の課題について考察する。つまり、現代社会が問題発生の基本的要因となっている構造を分析する。まず第1章で構造分析の方法論となる、ピアジェの操作的構造主義を説明する。第2章では、現代社会とその操作者である私たちとの関係を考える。本論となる第3章では、現代社会の擬似的なネットワーク化という特性を指摘し、議論を展開する。また、結論部分では、総合的な政策学の理論への可能性を示したい。
第1章 ピアジェの操作的構造主義
第1節 ピアジェの発生的認識論
ジャン・ピアジェはスイスに生れ、11才で白スズメに関する1ページの論文を発表する。
[3] ピアジェの研究は生物学からはじまった。1918年には軟体動物に関する論文を執筆し、自然科学の博士号を取得している。しかし、その頃には、ベルグソンの著作から影響を受け、生物の認識論の構築に関心を寄せていたようだ。この認識論への興味は生物学や動物学の領域に留まらず、人間の認識論へとうつっていった。その後のピアジェの研究人生は、特定の学問分野に捕らわれることなく、様々な角度から認識論へアプローチを試みる。その背景には、人間の認識構造の解明が、人間の思考構造の理解に役立つというピアジェの壮大な構想が一貫してあったようだ。
今日、ピアジェの業績は発生的認識論で括られてしまうことが多い。1955年にピアジェは発生的認識論センターをジュネーブに設立した。ここで、彼は多くの共同研究を行った。心理学の実験的研究はもちろん、数学や論理学、物理学、社会学、教育学など、その研究は多岐にわっている。[4] その膨大な研究によって裏打ちされたのが、ピアジェの発生的認識論である。
[5]
この発生的認識論は、人間の認識構造が、発生段階から発展する過程を明らかにした。認識の構造は、完成品を神によって与えられる訳ではない。人間が獲得していくものである。ただし、これは単純な経験論ではない。経験論の多くが、経験自体を可能にする基本的なツールに関しては、「神が与えた」と同じ程度にしか説明しない。時には、そのような基本的なツールがあることを人間の前提条件として議論を展開することもある。では、私たちはなぜ経験を経験できるのだろう。つまり経験の形式をどのようにして学び取るのだろう。古典的な認識論は既に出来上がった大人の認識のみを対象にした。
[6] それに対して、ピアジェは幼児期から大人の認識が出来上がるまでを数多くの実験から分析している。つまり、まったくのゼロの状態から認識構造が確立していく過程を追ったのが、ピアジェの発生的認識論の大きな特徴である。
[7]
しかし残念ながら、このピアジェの発生的認識論でさえ、一般的ではない。おそらく多くの人には、なじみの薄い研究であろう。これはピアジェの発生的認識論以上に、ピアジェの特徴ある方法論の認知度が低いからである。その方法論こそ、本稿が取り上げるピアジェの操作的構造主義に他ならない。本稿は心理学者ではなく、社会思想家としてのピアジェに注目している。
[8]
ピアジェは操作的構造には「全体性」・「変換性」・「自己制御」3つの性格があると指摘する。
[9] ある一定の枠組みを与えて構造を把握する作業を考えてほしい。私たちは今「1・2・3・4・5…」という自然数のみを認識していると仮定する。それらに「整数」という枠組みを与えて理解する。そうすると整数という全体性には、数列という法則があることに気づく。あるいは数列という法則があるからこそ、枠組みを与えることができたのだ。次ぎに新たに「0」という自然数以外の記号が作られたとしよう。この時点では「0」はまだ記号に過ぎない。しかしよく考えてみると整数の数列の法則に矛盾しない。「2」の前に「1」があるのと同じように、「1」の前に「0」を置くことができる。「0」という記号は整数の枠組みに入れ、数字として扱うことができる。同じように「−1」も法則を満たす。「整数」の枠組みは、その枠組みを壊すことなく、以前より豊かになった。
[10]
全体性とは、単なる要素の集合ではない。
[11] 各要素は全体性を特徴づける法則によって成立している。数字の例の場合なら数列である。操作的構造はこのように全体として認識され、その固有の法則性によって特徴づけられている。この構造を特徴づける法則があることが、変換性という性格である。
ピアジェは操作的構造を、ひとつの変換体系である、と表現している。
[12] 全体性は操作的構造が閉ざされた変換体系であることを意味する。ただし、閉ざされてはいるが、「変換」の働きによって、操作的構造の外にあるものを内に取り込むことが可能である。枠によって内と外に分けられてはいるが、内のルールに合致するなら、外のものを内に入れることができるのだ。
操作的構造は変換性によって構造化していく。操作的構造は新しいものを構造化しながら変容する。このとき第3の性格、自己制御が働く。操作的構造は構造自体が維持される限りにおいて、構造化される。操作的構造は自己を保存するように、自己を制御しているのである。別の例をあげてみよう。
「虚数i」はガウスによって提唱された。
[13] この特殊な記号は二乗すると「−1」になると決められた。また実数と同じように四則演算の法則も満たすものとした。この手続きによって、「虚数i」は既存の数学の操作的構造(全体性)の変換法則に矛盾しない。つまり数字と同じように扱うことができるのだ(変換性)。これによってすべての二次方程式「aX*+bX+c=0」は解を持つことになる。数学の体系は維持されながらも(自己制御)、「虚数i」によって拡大され整備された。
以上のように操作的構造には、全体性・変換性・自己制御という3つの性格が含まれる。そしてこれらの特質によって、操作的構造は構造化され、構成されるのである。
一般的に構造という概念は時間軸から独立して存在するように思われる。構造概念による分析は、対象を静止した固定的なものとして扱われることが多いからだ。しかし、ピアジェは構造を決して固定的なものとは考えていない。むしろ私たちの時間軸に沿って変容していく運動として捉えている。そして運動体としての構造は、私たちの操作によって可能であるのだ。
[14]
前節で挙げた操作的構造の性格のほかに、私たちの操作が加わる、という重要な特徴をピアジェは考察している。操作的構造主義とは、構造と操作主体である私たちとの関係性を内包する立場である。操作する主体の働きがあるからこそ、構造の概念が成立するといえよう。
意味連関の体系を把握する作業、つまり構造を認識する作業がすでに私たちの操作性によるものである。全体性の把握は、同時に意味の連関法則を伴いなされる。そして意味連関に新たな意味を内包させようと操作するとき、意味連関の自己制御を誘発する。操作的構造の変容は私たちの操作が契機となる。その意味で操作的構造は、私たちの時間軸に沿って変容しているといえるだろう。
したがって操作的構造主義による構造分析は、私たち操作者の存在に注目しなくてはならない。第2章では、操作性に着目しながら、現代社会という操作的構造を分析してみよう。
第一章ではピアジェの3つの性格からなる操作的構造を説明してきた。そこで明らかとなったのは、構造と主体の関係を前提とした操作的構造分析の手法である。この節では、操作的構造分析によって今日の「政策」をめぐる現代社会を眺めてみよう。
政策には何かしらの期待が込められている。現状を改善する目的や現在の問題を解決する目的、あるいは今よりも良い状況を求めて、私たちは政策を実施する。現代社会はそのような私たちの欲求を政策よって内在化し、変容してきた。政策は、現代社会に私たちの希望を聞き入れてもらう手続きなのである。
個人の欲求を満たすためのプロセスは意外に単純である。個人の欲求を外在化させ、それが社会に内在化されればいいのである。移動の時間を短縮したいと思う。社会は交通手段を整備を進めることでその欲求を満たす。欲求が個人を越えて外在化された。そして社会に内在化されたのである。政策とは、個人の欲求を外在化し、その欲求を社会が内在化するプロセスを制度化したものである。これ自体、欲求を満たすプロセスが簡略化されればいい、という欲求を社会が内在化したのである。
このような欲求の内在化の歴史こそ、近代社会の歴史ではなかっただろうか。またそれは、欲求を外在化し顕在化させることで、私たち自身に欲求を再認識させてきた歴史でもある。欲求充足の装置としての近代社会と、私たちの欲求とは相互に影響しあって形成してきたといえよう。社会という全体性の認識の裏には、このような欲求の内包という変換性が成立しているのである。
最後に現代社会を操作的構造と位置づけてみよう。先に述べたように、現代社会の全体性は、欲求の内在化の変換体系である。私たちは操作主体として新たな欲求を社会に内在化させようとする。つまりそれに見合う政策を実施するのである。このとき当然、欲求内在化の変換体系は自己制御の性格を有している。そのため政策の結果は、変換性と自己制御によって判定される。
[15]
ピアジェの操作的構造は、主体と客体とのネットワーク化によって形成されたものを、ある時「構造」として捉え直す作業である。
[16] これは一見、時間軸上の一点での分析であるように思える。しかしこれは動的な構造を把握するための布石にすぎない。操作的構造分析は時間や運動、つまり発生・発展過程の考察に対して開かれた議論である。
また、時間的な考察だけではなく、主体と客体の関係性に対しても開かれている。主体の構造認識は個々の内に独立であるのではない。個人を越えて構造化されてはじめて、主体の認識として意味を持つようになるのだ。
個人の内にある言葉や表現は、他の個人と共有することで社会的な意味を持ち、個人の認識へと構造化される。私たちの認識は、個人と共同性との関係性の上に成り立っている。認識は、外在化を経て顕在化するプロセスである。少なくとも操作的構造との関係で生きている私たちには、顕在化されない認識は、認識ではないのだ。私たちが何かを認識するのは、他者と共有する認識のネットワークに位置づけできる、ということに他ならない。
私の言葉を私だけが理解している。それをあなたに話してみる。私とあなたの会話のなかで私の言葉は修正され、私の個人的な言葉はあなたも共有できる言葉となる。共有できるとはつまりあなたの言葉のネットワークに私の言葉が受け入れられたのである。同時に私だけ理解していた言葉はあなたにも理解できる言葉に修正されて私の言葉のネットワークに再受容される。しかし、その言葉を第三者の彼は共有できるだろうか。私とあなたの言葉はさらに彼も共有できる言葉へと修正される必要があるかもしれない。そのようにして、私の言葉はあなたも彼も彼女も共有できる言葉へと洗練されていく。
このように私たちは共有する意味連関を洗練する作業を繰り返している。その作業を通じて、私たち個々の意味連関もまた、洗練されるのである。この意味連関(または認識のネットワークと呼ぶこともできるが)も、操作的構造である。つまり操作的構造とは、いわば他者との共有による「共同性の運動」なのである。
「社会」という概念(意味付け)は、私たちの意味連関の中において、実在していると言うことができる。そしてこの概念は共同性の運動である。そのため、絶えず構造化しながら変容している。その変容を促しているのは、他でもない私たちの政策という操作である。政策は共同性の運動の中で存在している。
ピアジェの構造主義は、共有されてゆく運動を捉えようとした。そしてその運動を、主体を越えたネットワーク化として操作的構造と表現した。運動としての操作的構造とは私たちの共同性の問題を扱っているのに他ならない。ピアジェの構造主義は共同性のレベルでの分析なのである。操作的構造は、操作者と構造の共同性の思考であり、欲求内包の変換体系と私たちの共同性の問題である。
操作的構造の視点は以下の2点に端的にまとめることができる。私たちはいかにして共同性を作り上げてきたのか。そして現時点で作り上げた共同性を土台として、いかなる共同性を作ろうとしているのか。
共同性を問うことは、時代の要請であるといえる。これまで自明のものとしてあった共同性は機能を失いつつある。伝統的な文化や地域性は、近代化の流れの中で、画一化していった。しかし、その画一化によって変貌した共同性がもたらしたのは、共同性に生きる私たちの内に他者を創出したことではないだろうか。
近代は個人の欲求を顕在化し、それを内包することに従事してきた。近代の共同性は、欲求充足のシステム構築に他ならない。私たちはその共同性に従がって、欲求を外在化させ続ける。欲求が満たされたことを確認しながら、それ以上に何かを求めなくてはならない。豊かになった私たちは、次ぎにどのような豊かさを求めるのか。私以外の人々は何を求めているのか。そして私自身は、何を求めるのか。欲求することを義務づけられながら、欲求するものを探しつづける。私自身が、私自身にはわからない他者となってしまったのである。
しかしそのことに気が付くならば、私たちは自己の他者性を怖れる必要はない。私たちの課題は、新たな欲求を探すことではない。欲求することを課せられる構図を理解することなのである。
共同性への問いは、私たちと操作的構造の関係性を問うことである。操作的構造主義は共同性の分析にのみ有効なわけではない。むしろ、分析をした上で、私たちがどのように共同性と関わっていくのかを考える方法論である。本稿が操作的構造分析を取り上げる意義がここにある。
操作主体として私たちは政策を立てる豊かな社会の担い手である。しかしながら、実のところ操作と構造の関係をそれほど知っているわけではない。私たちはようやく操作的構造分析の入り口に到着したようだ。第3章では現代社会という操作的構造を分析し、操作自体の限定性を解明してみよう。
前章で述べたように、共同性は拡大していく運動である。共同性の運動とは、私たちの認識・思考のネットワークの拡大を意味する。私たちはネットワークの拡大を「発展」と称し、ネットワークの発展は豊かさの追求としてプラスに価値付けをした。そうしてネットワーク化できる思考を追い続けたのが近代市民社会だった。近代社会という欲求内包の変換体系は、欲求を内在化することで拡大してきた。この内在化を支えたのは、ネットワーク化できるものだけを追う思考構造、つまり近代科学であった。見方を変えれば、科学は私たちが共同性に操作を加えるための道具となる。
近代科学は、ネットワーク化を「客観性」という言葉で特化させることで、操作的構造を拡大への一方向へと進めてきた。近代科学とは客観性の科学に他ならない。近代から現代へと受け継がれてきた共同性は、客観性を最優先に形成されてきた。客観性を前提に科学の発展させることは、そのまま社会の発展を伴った。客観性の思考である近代科学は近/現代社会の発展の原動力と成り得たのである。しかしながら、こうした特化した「客観性」は光の部分と共に、影を落してもいるのだ。
ある科学研究が客観的あるとは何を意味するだろう。それはその研究が既存の認識のネットワークに位置づけられる、ということである。操作的構造の性格で考えるならば、変換法則に従い、自己制御作用によって、構造化されることである。構造化されるならば、私たちはその研究を正しいと判定したことになる。換言すれば、私たちの正しさの判定は、構造化されるか否かにかかっている。
理論や概念の客観的な正しさは、認識のネットワークに受け入れ位置が確定したことを意味する。「二乗すると−1になる虚数i」の正しさを、日常生活の内に求めても見出すことはできないだろう。虚数という概念が客観的に正しいのは、数学の体系に位置づけられたからである。また、虚数の正しさによって、数という概念が実数に留まらないことが示される。実数のみを数と呼んでいたのが間違っていたことになる。
このように客観性の科学は、新しい正しさの獲得と、既存の正しさの修正によって洗練されるネットワークである。
[17]
操作的構造は主体と主体が共有したネットワークに他ならない。近代科学の体系や現代社会という共同性などのすべての操作的構造は、主体が関わることで形成されたのである。また、操作的構造は主体と主体の共有作業によって変容し続ける。ただしこのネットワークは、主体の操作性に依存しているが、個人が完全に思い通りに操作することはできない。唯一操作できるとしたら、その共有したネットワークを整理し、体系として言語で表現することである。これは操作的構造そのものを変容させるような操作ではない。しかしながら「表現する」という行為は、特定の価値観に沿って恣意的に意味を付与される危険にさられている。操作的構造を主体の思惑に合致する操作をするために、主体にとって都合いいようなネットワークとして把握するのである。これを擬似的なネットワークの創出と呼ぶことにする。
[18]
操作的構造を特定の価値観で整理し体系化して表現する。その表現が正しいことを示すために「客観性」を与えようとする。このような本末転倒の試みは、いわば体系化という操作をした後で、それが客観性を獲得するように仕向ける擬似的なネットワーク化である。
[19]
擬似的なネットワーク化を強めるために、自らが創造した体系を拡大することで部分的な「客観性」を示し、その体系の正当性を訴える。部分的なネットワークを捏造し、その限定的なネットワークの中で客観性を主張する。客観性の獲得が最優先の目的となってしまうのである。客観性の思考としての近代科学を含め、操作的構造は、擬似的なネットワーク化に陥ってしまう危険性をはらんでいるのではないだろうか。
[20]
操作的構造は全体性におけるネットワーク化と部分的に創り出した擬似的な全体性のネットワーク化という2つの客観性に身を委ねている。今日の政策は、社会という操作的構造において、その構造を構造化する作用として機能する。政策もまた客観性というネットワーク化の大前提に従がわざるを得ない。操作的構造における変換性としての政策もまた、構造化による客観性の獲得を宿命付けらている。したがって、政策の操作的構造も擬似的なネットワーク化の問題の危険性を含んでいるのである。
政策とは社会を変容させる操作的行為である。しかしながら政策を立案するのもまた、社会という操作的構造に他ならない。仮に政策の立案者と実行者、そしてその政策の対象となる受け手がまったく異なっているとしても、個々の主体はネットワークを共有している。つまり政策はある特定の主体や集団にのみ実施されるのではない。立案者も実行者も共有するネットワークに対して実施するのである。この意味で政策の送り手は、その政策が自分に向けられているかいないかにかかわらず、同時に受け手でもあるのだ。
政策の対象は主体が共有するネットワーク、すなわち操作的構造である。社会は政策によってみずからを新たに構造化し構成していく。したがって変換体系として機能しなくては政策は成り得ない。政策の有効性とは安定した変換体系にそって作用することである。政策の実行可能性とは、既存の社会の合成法則と合致した上で量られるのである。その意味で政策の実行可能性は科学における客観的実在性と同じである。政策が実行可能かどうか、とは社会という操作的構造に対して構造化されるかどうかの判断に基づく。つまり実行不可能な政策は政策とはいえないのだ。構造において合成法則から逸脱した作用は生じ得ないのである。
そのような政策の特性は、同時に政策環境としての社会が自己制御的性格であることを説明する。政策は共有したネットワークを前提にして、共有したネットワークに作用するように作られ、構造化される。それはあたかも構造自身がみずからを変容させる作業のようである。問題に直面した構造は、その問題を構造の内側から解決しようとする。その解決の仕方は構造自身の崩壊を招かないように行う。
問題解決は構造自体を作りかえることではなく、構造を制御しながら変容させることである。このような自己制御型の問題解決を支えるのは、他ならぬ変換体系である。発見した問題を様々に変換して、その解決案を構造に適するように構造化するのである。
しかしながら、政策が必ずしも自己制御として構造化する変換を実行できない場合も考えられる。すなわち、先に延べた擬似的なネットワークだけを考慮した政策を立案した場合である。問題を擬似的なネットワークによって発見した場合、解決もまた擬似的なネットワークを前提としてなされる。問題発見に用いる方法論が擬似的なネットワークの可能性もあるのだ。つまり私たちの共同性のネットワークを特定の価値観で表現した体系における問題発見の危険性がここにあらわれてくる。
擬似的な共同性とは、全体性としての操作的構造を意図的ではないにしろなんらかの読み替えを行ってしまうことである。しかし擬似的ではあっても、操作的構造の性格を有するために、政策は自己制御として構造化する変換性に従がわざるを得ない。その政策が考慮するのが擬似的なネットワークにおける客観性にすぎないとしたら、果たしてその擬似的な政策はどれほど共同性のネットワークに有効であるのだろうか。
現代社会において政策は、擬似的なネットワークの中から立案されるべきではない。政策の実行可能性を考慮しながら、それが擬似的なネットワークではなく、本質的な共同性のネットワークへの位置づけとして実行されなくてはならない。政策を考えることは、まず私たちの共同性を考えることなのである。
操作的構造主義の分析によって、今日の政策を取り巻く状況が明らかとなった。操作的構造という共同性のネットワークの中で私たちは生きている。そして私たちは操作者という役割を担っている。今日、現代社会は、極めて巨大なネットワークとなった。だからと言ってその全体像を見失ってはいけない。現代社会の分析という膨大な作業を放り出して、自分達に都合のいい全体像を創り出してはいけないのである。
私たちは問題を発見して政策を立案する際、前提となる認識のネットワークについて細心の注意を払う必要がある。擬似的なネットワークでは、全体のネットワークに有効な政策は立案できないからである。部分的な解釈は、ただ全体性の歪曲を生む。全体を見渡すことができない政策立案は、新たな問題発生の要因となるだけである。そのことに気がつけば、私たちは実行可能で極めて有効な政策を立案していけるだろう。
政策とは、未来を想像する作業である。私たちがどのような未来を望むのかを表現し、実現しようとする操作である。政策は理想論で終わっては意味がない。実現不可能な理想だけを語り、現在で止まることはできないのである。操作と構造の共同性は、もはや動き続けなくてはいけない宿命にある。私たちは欲求内包の変換体系に生き、それ故に未来を望みことを止めることはできないのである。
しかし、私たちが欲求することに疲れてしまったら、どうすればいいのだろう。欲求内包の変換体系は、限定的に私たちに欲求し続けることを課す。私たちは欲求内包の変換体系が許す限りでの欲求しか追うことができない。
そのような欲求の連続に疲れてしまっても、それでもなお最後に欲求するのが、真の総合政策の基礎研究ではないだろうか。現代社会の共同性を相対化して眺める、今とは別の現代社会の可能性を追求する視点が必要となるのではないだろうか。そしてそれが単に現代社会への批判に終わることがなく、現代社会への提言や政策によって今に反映しようとする。
すでに私たちは、そのような総合的な理論研究の道を求め始めているのかもしれない。可能性を模索しながら、現代を問い続けることが、総合政策学の重要な使命であることを、忘れてはならない。
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