[23] 私のデュルケム解釈によると、社会とは実在的な主体ではなく、常に主体としての人間が参照しなければならない対象、もしくは主体的な行動が通過するフィルターのようなものである。この点を考慮に入れれば、デュルケムは個人の主体的な点を軽視しているとは言えない。  しかし、デュルケムは社会がどのように形成されるか、突きつめると、個人が必然的に参照しなければならない対象や個人の行動が通過するフィルターがいかにして成立するかについて説明はない。そして、そのフィルターに対する人間の主体的な営みを想定していない。ピアジェが言うように、それらの対象やフィルターが個人の内に存在すると仮定して、なおかつそれらを参照しながら個人は自己制御しているとするなら、デュルケムは個人の主体的な点を軽視しているといえる。  毎年、一定の自殺率を示すことを不動の社会ということはできる。しかし、ここでの私の論点は、個々人がどのように環境と接していくか(不動の社会というものを、いかに 個人が咀嚼して取り入れて行動するか)の問題である。よって、デュルケムとは同様の問題を扱いながらも、視点が違うのである。