48 『自殺論』エミール・デュルケーム(中央公論社『世界の名著』P160)
「それらすべての超肉体的な生活(芸術、道徳、宗教など)を目覚めさせ、発展させてきたのは、宇宙的環境(気候など自然的な環境)の刺激ではなく、社会的環境による刺激である。他者に対する共感や連帯感を我々に目覚めさせたのは社会のはたらきにほかならない。人間を意のままに型どり、人間の行為を支配するあの宗教的・政治的・道徳的信念をわれわれのなかに植えつけたのも、社会なのだ。人がみずからの知性を豊かにしようとつとめたのも、その社会的役割を果たすことができるようになるためであり、また蓄積してきた知識をわれわれに伝達し、これを発展させる手段を提供してくれたのも、やはり社会である。人間活動のこの最も高度な形態が集合的な起源を持っていることに関連して、その活動の目的は同じく集合的な性質を帯びている。というよりはむしろ、この最も高度な形態が、われわれ各人に体現され、個人化されている社会そのものなのだ。ところで、この活動がわれわれの目に存在理由をもって感ずるためには、それの目ざしている目的がわれわれに無縁のものであってはならない。それゆえ、人々は社会と結びついているかぎりにおいて、はじめてその高度な形態の活動に参加することができる。
これに反して、人々が社会から切り離されていると感ずれば感ずるほどそれだけ、その社会を 根拠にも目的にもしている生からも切り離されていくことになる」
「社会的人間は必ず社会の存在を前提とする。彼が表現し、役立とうとする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、我々の周囲や我々の上に、もはや生き生きとした活動的な社会の姿を感ずることができなくなると、我々の内部に潜む社会的なものも客観的根拠をすっかり失ってしまう。・・・ところがこの社会的人間とは、じつは文明人にほかならない。社会的人間であることがまさに彼らの生を価値あるものにしていたのである」