目次
1章 はじめに
2章 文化産業が社会に及ぼす影響
3章 文化産業による環境問題への抑圧(特別視、無害化)
4章 パラダイムという見方
5章 まとめ


第1章 はじめに

最近は、環境という単語が身の回りにあふれている。環境問題といえば地球規模の温暖化、酸性雨、森林破壊、オゾン層破壊などの問題とともに、天然資源の枯渇問題。身近なところでは、ゴミ問題。環境ホルモン、ダイオキシンなど。地球規模の問題では、南北問題などとも密接に関わってくる。そこには、構造的不平等などの根の深い問題が存在している。身の回りに話を戻すと、スーパーには環境に配慮した商品が立ち並び、テレビのコマーシャルでは、環境に配慮していることをアピールするコマーシャルが流れている。 97年に京都で地球温暖化防止への国際会議が開かれたことによって、CO2削減に関するものが多く見受けられるようにだが、電力会社のようにCO2削減の手段として原子力発電の推進を呼びかけるようなコマーシャルもある。しかし、先に述べたように環境問題といわれる問題はCO2だけではない。原子力発電には、放射能という恐ろしい問題が常に付きまとう上、使用後の核燃料の処理方法についても安全で確実な方法というものは見出されていない。それにも関わらず、推進の呼びかけを行なう電力会社は、環境問題の解決を考えているというよりも、環境、とくに温暖化という時代の流れの中で、環境問題を自分たちの営業活動の手段として利用していると言えないだろうか。この論文では、このような環境問題の取り扱い方に関して、とくに企業を取り上げて、それが何を目的としているのか、どんな効果をもっているのか、ということを文化産業、パラダイムなどの社会のしくみを説明する概念と見比べながら、考えていきたいと思う。

第2章 文化産業が社会に及ぼす影響

アドルノ、ホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』の「文化産業−大衆欺瞞としての啓蒙」では、文化産業は次のように語られている。
文化というインプットを制御できる完全なシステム[1]のなかで、ラジオや雑誌、レジャー、住宅などを提供するプロダクションが、文化産業という身分を生かして、彼らの良いように消費者を操作している。消費者は自由に選択をしていると思っているかもしれないが、その選択は文化産業が与えた数少ない選択肢のうちの一つでしかないのである。[2]その上、文化産業はその圧倒的な強さを見せつけることによって、さらに大衆をひきつける。[3]そうして、文化産業は完全に大衆のインプット、アウトプットを制御し、操作するのである。[4]
こうして、人々はシステムに従属し、自由を奪われ、文化産業の思うままになっている。このことは、環境問題のはじまりと大きく関わりがある。文化産業はお金を儲けるために大量の製品をつくり、広告によって消費者の購買意欲を刺激し、売りさばく。[5]これが現在の「大量生産、大量消費」につながり、資源の浪費、汚染(環境問題促進)物質の増加となっている。

第3章 文化産業による環境問題への抑圧(特別視、無害化)

環境問題の深刻化が問題視されるようになるにつれて、文化産業のなかでも環境保護活動というのが取り上げられるようになった。しかし、文化産業はインプットを主体的に制御することによって、完全なシステムとして成り立っているので、環境問題のように、溢れんばかりの膨大なインプットとなるものは、今までのシステムを脅かすものとなるので[6]、一定の距離を持とうとしているようだ。とくに環境破壊を率先して行っている企業の環境保護活動は、問題を直視するようなものよりも、緑豊かな自然のイメージをアピールするようなものが多い。「人類は環境問題に直面しています。私たちは協力して、豊かな自然を守りましょう。」このようなPRには、環境問題がメディアなどで大きく取り上げられている現状から、企業イメージアップのために、真剣に取り組む姿勢をみせておく。といったねらいが見え隠れしている[7]。環境問題が大きな問題であること、多様な原因が考えられ、多様なアプローチがあること、これらの要素から、社会の構造を問い、自分たちの立っている場所を問うことも可能なのだが、あえてそのようなことはせず、「考えている」ことだけを表明する、または、環境問題といわれるものの一部に焦点をあて、それに対する取り組みを紹介する。そうすることによって、環境問題の敵ではないことをアピールするのである。これは、環境問題が先程の文化産業におけるシステムの構造に似たところがあることを利用している。つまり、かつての公害問題とは違い、実体験にもとづく問題認識がしにくい環境問題という特性は、文化や情報という精神レベルに基いたものと同じように、受け取る人間のインプットを制御することを可能にしているのである。そのため、環境問題の実態を知らない人々に、効果的な企業アピールとなりえる。また、環境問題についてある程度の知識を持っている人々でも、あまりの問題の複雑さから、原因を追求し続けるのを断念し、とにかくできることから取組もうという考えに至った場合、その自分の姿勢と企業の姿勢が重なり、共感を得ることができるだろう。このように環境問題は、文化産業が芸術において人々を操作するために、異分子を特別なものとして扱い、無害化したように[8]、特別な手の届かないもののように扱われるのである。

第4章 パラダイムという見方

次に、人々が問題の追求を断念するという行動について、クーンのパラダイムという概念と比べながら論じたい。
トマス・クーンは「科学革命の構造」において、パラダイムという概念を用いて、自然科学の累積的進歩ということに対して、新しい視点(歴史的視点)で分析する。唯一不変ではないが、科学者集団内には方向性があり、それが通常科学においてパラダイムとして機能する[9]。パラダイムの成立には教育が大きく関わっている。科学者の教育はその時点でのパラダイムをなじませて科学の進歩に貢献させるために、はじめから応用することを前提にした基礎を学ばせる[10]。しかし、コペルニクスの発見のように、今までの歴史をくつがえすような科学革命は起こりうるのである[11]。科学者教育でつかわれる教科書では、累積的進歩をしてきたかのような錯覚を与えるため、科学の仕事の本質について学生や素人が問うことはない。それどころか、科学はこういうものであるというイメージもできてしまうのである[12]。しかし、そのことが通常科学が行き詰まったときに不都合となってしまうのである[13]。先程の環境問題と文化産業の例でも、大衆は問題への追求を中断すると述べたが、クーンが述べる科学者の性質においても、本質を追求しようとしないことによる弊害が指摘されている。

第5章 まとめ

以上に述べてきたように、環境問題は文化産業と密接な関係をもち、その複雑性は実態以上に、文化産業によって複雑なもの、手におえないものとされているのではないだろうか。われわれは、安易に単純化して受け止めるのではなく、またあきらめるのでもなく、複雑さの中の本質を追い続け、文化産業も含めた、社会のあり方、人間のあり方を問うきっかけにして、問題の根に迫っていく必要がある。


参照文献一覧
「啓蒙の弁証法」マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ、徳永 恂 訳(岩波書店)
「科学革命の構造」トーマス・クーン、中山 茂 訳 (みすず書房)