目次
はじめに
【1】対象化の運命
【1.1】名の言語
【1.2】フロイトの意義
【1.3】精神分析と行動主義
【1.4】意志の肯定の帰結がもたらす表象としての「客観」
【1.5】精神分析における実証の行方
【2】限定するもの、無限定なもの
【2.1】「意識 Bewusstsein)」に見る近代科学批判
【2.2】心的なもの-アナクシマンドロス・アリストテレス・フロイト-
【2.3】無意識の二つの段階-「限定するもの」と「無限定なもの」
【3】意志の否定としての無
【3.1】フロイトにおける無
【3.2】テオリアとプラクシス
【3.3】意志の肯定と意志の否定
【3.4】罪と道徳
【4】 三項関係-人_神_自然-
【4.1】フロイトによるカント的表現-定言的命法-
【4.2】カントの定言的命法
【4.3】定言的命法をめぐるカントとフロイトの比較
結論
本稿の目的は、フロイトの精神分析の理論的核心となっている無意識が、近代の自然理解にどのような転回点を与えているのかを再解釈することにある。その途上、フロイトの精神分析が近代の思考方法そのものに与える影響の大きさも自ずと表れてくるだろう。そこを基軸にし個と共同性の問題にわけいってみたい。
近代を貫く問題は個と共同性の関係であるが、その関係には人間による自然理解も表れる。自然をどう理解するかは、個と共同性をどう理解するか、と同時平行的であり、自然か人間を分けて考えることはできない。自然と人間を分けることによって近代化は大きな進度を見せたかのようにみえるが、近代が進むに連れ、自然と人間の交錯を認めざるを得ない状況に引き戻されてきた。
近代の思考方法は、解を一義的に求める方向に傾いている。確かに複数の問題群からいくつかの問題を固定することによって、より明確で静止的な一義解を得ることができる。この固定された解答により、アイデンティティーは確保され、人々を確信で満たすことができる。固定解の決定は、それ以上思考をめぐらす必要を迫らないので、終着には思考停止を人は望む。思考停止は、アイデンティティーの実現にすり替えられ、個人のレベルでは、対象として切り出され、決定された「何か」を操作することに確信と平安がもたらされ、自己の実現を見いだすかのようである。一致に成立を見る固定解は数量化され、そこには力が与えられていくのだが、力は共同のレベルにおいて、堰を切るように対象の操作へさらなるアイデンティティーの確信を求め動いていく。
一義性のもとに、「自然とは何か」と問われたとき、思考は本来問いそのもののもつ姿勢にあてられるはずであり、出された解答を実践に結びつけることとは別の問題である。
例えば、およそ1960年以降
[1] 、人類の生存を脅かす危急存亡の問題として浮上してきた環境問題において、解決の性急さゆえに、資源としての自然を扱うことが問題とされがちであり、いまもなお、問題解決は自然の操作という表層の問題として、明確で実効性のある政策へと向かっている。このことは目の前の問題に対処するという実践の問題であるので、明日の危機を切り抜けるのには、実践は抜き差しならない問題であろう。
まさに実践に突き動かされる我々は、人類の自己保存という危急存亡の火事場に立たされているが、この火事場においてこそ、消化作業に携わりながらも、なおも問いのもつ一義性そのものを考えなくてはならない。それというのも、その一義性が目標とするのが、生存を目的とした危険の回避であり、そのためには自然は、物質として、資源として人間の手にいかにコントロールできるかにかけられているからである。つまり、自己保存が可能になったとき、個としての、そして共同性としての肯定が自然の人間化の上に実現されるのである。そのとき、当初の問題であった人間化された自然の肯定は、なおも人間の操作構築によって肯定され続けることになり、これにより本来の環境問題であった人間問題は永遠の循環を回り続ける。この循環は、問いそのもののもつ多義性を忘却させ、人間の個としての、そして共同性としてのアイデンティティーを強める方向にすすみはするものの、現代における自然の人間化が新たなアイデンティティーの確立手段に始まり、いまもなおその方向を歩もうとしていることを反省しようとしない。自然を人間化する手段とは、人間が意志を実現するために、都合の効く対象化という枠に押し込め、操作構築を加えることである。その限りでは、自然は人間にとっての自己保存の踏み台に過ぎなくなってしまった。その方向へと議論を押し進めていけば、人間化された自然とは人間の自己像であり、その自然を踏み台にして自己保存を図ることは、人間が人間を踏み台にして自己保存を図ることに他ならない。
実践に傾くことで「自然とは何か」という問いのもつ歴史的な背景(問題群の変換)や自然理解に重なってくる人間存在の複雑性の局面を顧慮し難くし、問いは、実践の彼方に押しやられる。そのことにより人はさらに、自然から離れていくのである。他方、歴史の黙せる深層においては、堪えず自然の複層的理解が様々な変換を見せながら展開され、秘やかに身を横たえている。
人類史を貫く問題でもあり、それゆえ近代を貫く問題でもあるのは、個と共同性の関係であることは確かであるが、この関係に接近するためには「個と共同性」という言及の仕方は、言及の瞬間から問題を孕んでいる。それというのも1999年1月までの時点に限れば、人間の基本的人権は、どのアスペクトにおいても個人の尊重に傾いており
[2] 、個人尊重の発想のもとに、誰をも彼をも漏らさず施行され設計されるだろう教育においては、すみずみまで広範に、この表面的な方便は浸透しつつある。それがもとになり、どの人間にとってもこれ以上は分けきれない個人(individual)の存在を、もっとも良識のある基礎的態度と据えるだろう。これらの事情を念頭に置けば、どの論もまがいなりに持ち出す「個と共同性」は、高々個人に対向する他者を目に見える数として数え上げる限りにおいてそれぞれの結論を見いだすだろう。これが第一の言及の現実的問題であり、その現実においては共同性は「全体主義」とみなされるか、個人を妨げるものとして受けとめられるだろう。共同性が嫌悪の感情を人にもよおさせるのは逆説的である。それというのも人間がもっとも嫌がるものは、もっとも自分に欠如しているからである。
第二に、少なくとも聖書において、神は最初の孤独な人であるアダムには、そのあばら骨から共に生きる人であるイヴを造り上げたのであり、楽園においては類としての個は実現していた
[3] 。現実を比喩的に語るならば、現実は楽園追放後であり、楽園追放前は永久に実現できない。楽園追放は、個と共同性の同時実現を同時喪失したことであり、それを外見の上で語ることは現実の個人主義を強化するように働きはするものの、同時喪失を押し進めるばかりとなる。外見の上で語るとは、未だに個人があるところから語りを出発せざるをえないことにあり、個人と名付けざるを得ないことにあり、個人を仮おきしなければ近代以降は生きにくくなっていることに気づこうとしないことにある。なおかつ同時に、個人性を欲し、個人に悩む人間が共同性を欲し、共同性に悩むことを認めようとしないことである。というのも認めたくない心情の内に共同性が覗いていることによる。個人を想定せざるを得ない語りとは、個と共同性が同一の言語規範に基づく支配構造を意図的に貫徹しようとする試みをもつか、或いは支配的意図に利用されるかのいずれかである。そのような同一言語内の「個と共同性」の地平に立とうとする場合、忘れ去られるのは、最初の世の権力者となったニムロデが建て、崩壊した、同一言語による支配構造の象徴的建築物バベルの運命であろう
[4] 。
いずれにせよ、聖書の物語からはじめるならば、知恵の実
[5] を欲求する意志を比喩として出発することが「個と共同性」への根源的な接近を果たす。知恵の実を欲求することによって、個として互いを分け隔て、互いを求めようと苦悩し、その上に個の所有する対象化の力を手に入れたのである。換言すれば、真の共同性の肯定を個の意志肯定の獲得と同時に失ったのである。同時に、共同性の実現が神の別名であるならば、その限りでは神の喪失ともいえ、以降は神の別名を求めるのである。或いは自然と人間の関係においてはこうも言えよう。楽園においては、人が生物に与える名はその名となるのであり
[6] 、楽園追放後には、神と共同性の喪失のもとに自然に名を与え、名づけられた支配不可能なものに支配欲を投影するのである。
以上は次のようにまとめることができる。楽園追放以来、人間は人間による意味づけの中で、名を与える言語による決着の付かない知の営みの中を這い回り続けている。名の言語は、個に対象化の力を与え、個による個の実現をなし得ようとする力を与えた。同時に、名の言語により、共同性は実現が拒まれるのであり、実現されたかのように思われる共同性は自らの実現あるいはアイデンティティーを、個の否定の上にもくろむ。総じてこの段階に至り、つまり、対象化によるアイデンティティーの実現を意志の肯定とみる段階に至りつくことによりはじめて、個と共同性が語りの始源に立つのである。個と共同性は、それぞれが対象化の力をもち、それぞれのアイデンティティーの実現に賭けようとするのであり、対象化の力は個と共同の交錯点においては、力の相克であり、各々の対象同一化の力である意志の力によって各々を喪失するのである。
一九世紀後半から二〇世紀初頭の時代は、諸学が隆盛した時代である。その中で心理学や社会学は生まれてきた。それぞれの学が意図せざるままに、互いの仕事を分担し、分類のもとに陳列され、互いの袂をわかってしまった。互いの仕事は互いにはわからないまま、心理学は意識の上での抑圧からの解放へ、社会学は社会的諸関係における抑圧からの解放へとそれぞれの砲口は固定されてしまった。両者の今日的状況は、内的な対象同化の力と外的な対象同化の力が分割された状況であり、その接点が意外に見いだしにくいのである。
どの学も対象化の力を分割して捉えようとしない。受け手の側においてこの分割は生じてくるのである。まず本稿は、人間の対象同化の性質を根源的な視座で見据えたフロイトに焦点を絞ってみたい。どこに根源的な意味を見いだすかといえば、主観か客観かという永遠に結びつかない(心理学における)分割された認識構造を捉え直し、心的意識と社会的な諸関係に二分割された各々の抑圧の問題に議論を収めることなく、神と共同性と自然の諸連関における命名のもたらす個と共同性の支配構造を、単に支配構造の観点からは語ることのできない精神構造あるいは世界構造として捉えなおしたことに根源的な意味を見いだす。
その上で、フロイトの思想を二つの時期に分けるとするならば、最初の段階は、無意識の発見の時期といえる。この無意識の発見を発展させた段階は、エス_自我_超自我の構造分析に基礎づけられている。要するにそこでは、個人から自律的にもたらされる道徳の問題が共同を実現しようとしながら、逆に個人の主体性を先鋭化させてしまった近代におけるテロスの議論を受け継いでいることを特徴として挙げることができる。
フロイトの議論を共同性の議論として位置づけをするには、近代の歴史を振り返る必要がある。つまり近代において、対象化の欲求を越え出ることのできない個による共同性への思いやりが、外的原因から制限を受けない意志の自律のもとに抑圧から解放することを目指してきた。にもかかわらず、その個の自律は共同性へと向かわずに、個の主張を貫こうとし、それ故に他者とのコンフリクトをもたらた。言い換えれば、結局、個の先鋭化という方向へ向かってしまうという事態を招いてしまったのである。かつて人間理性の限りない発露という輝かしい自由への賛歌は、人間による道徳の帰結である絶対支配という暴力を他者に振るうテロに幕を閉じた
[7] 。その流れをなおも現代に世界観、道徳観として引きずっている我々にとって、対象同一化を新たに位置づけ、その位置づけによりエコロジーの時代状況に顧みることが求められている。
このようなことを念頭におきながらフロイトを論じてみたい。
フロイトの『精神分析学入門』は1915年からウィーン大学ではじめられた一連の講義をまとめたもので、精神分析の理論が、体系だってまとめられた節目の著作である。『精神分析学入門』においては、互いに相反し、干渉し合う意識と無意識の葛藤を力動的に捉えることが主な理論的見地である
[8] が、その方法はフロイトも認めるように「ただ話をするだけ」だった
[9] 。精神分析学を受ける側にとってみれば「ただ話をするだけ」の療法はいかにも曖昧さを残すものであり、これがもととなり精神分析への懐疑は引き起こされる。この点、フロイトはむしろ、周囲の懐疑を逆手に取ることで、主観と客観の解離を再検討するための理論を提供している
[10] 。そのために、第一項の序においては、示説教育
[11] を皮切りに、歴史実証の問題が扱われている
[12] 。歴史実証問題の流れにおいて、アレクサンダー大王は実在したか、否か、に端を発し、モーゼやニムロデの存在に至るまで、歴史を実体化することで確信を得られるかと、実証の意味を問いただしている。フロイトの問題設定は、「歴史は目に見える事実として外化されるか」であり、ここから敷衍して、歴史上の事実は、どのように客観的な確証を得られるのか、である。いま展開したとおり、「事実とは何か」という問題は、明らかに、いかにして事実と一致する確信が得られるのか、と位相を示している。
実証の問題が学の方法論にどのように結びついていたか、を論点にあげながら、19世紀後半から20世紀前半の心理学をめぐる時代状況を振り返ってみたい。ヨーロッパのフロイト(1856〜1939)に対し、大西洋を隔てた向こう岸のアメリカでは、ワトソン(1889〜1958)に代表される行動主義心理学が、パブロフ(1849〜1936)たちの生理学に影響を受けながら、心理学に新しい運動を巻き起こしていた。生理学から行動主義に至るいわゆる行動主義心理学の展開を、実証の観点から眺めてみると、とても偶然とは思われない形で、フロイトと同じ問題提起が出発点でなされ、実証に対する肯定的態度は、行動主義心理学の大前提とされている。
確かに、『大脳半球の働きについての講義』(1927)において、パブロフは、対象の客観的な研究を生理学的な見地にとどめ、人間の心理学的な見地にまで応用することに対し躊躇を示す
[13] 。従って、生理学は心理学とは一線を画す性格をもっている。しかしながら、機械主義的心理学を提唱する行動主義が、「客観的」という言葉を生理学の延長線上にもっている限りは、「客観的」とは、どのような意味で使われているのかを、生理学及び行動主義において把握する必要がある。その上で、生理学が「客観的」という言葉を使いたくなる動機は、ある出来事に象徴されている。あるとき、消化腺の活動について研究していたパブロフと共同研究者とのあいだに、実験の結果に対する意見が一致を見なかったのである
[14] 。この事件を経験したパブロフは「対象の心理学的な取り扱いに断固として反対し、対象を純客観的に外側から研究しようと思い至った」
[15] のである。このように「対象を純客観的に外側から」研究する方法は、行動主義者に受け継がれていく
[16] 。そして、彼ら行動主義者の唯一の目的は、
「行動についての事実を集め、-データを実証し-それを論理と数学にゆだねる」
[17]
と言明されるに至る。つまり、行動主義心理学に象徴される機械主義的心理学の流れにおいて、科学とは、他の状況と自分の状況が一致することであり、さもなければ非科学的とみなされる
[18] 。
二〇世紀初頭の心理学をめぐる諸状況は、実証に対する態度一つにしても、まったく対極的な様相を見せている。現代に至るまで心理学の受容は、一方の極である精神分析に対し、個人の心理を見ていく主観的な学との裁定を下し、他方の極である行動主義にたいしては、機械主義あるいは客観主義との裁定を下してきた。しかしながら、本稿はその裁定の満足を思考停止とし不満に覚える。それゆえ、両者の問題意識を実証を切り口にし、再検討することで、問題の別な連関を明らかにするものである。
客観性を唱える一連の行動主義は、他の状況と自分の状況が一致しないことを非科学的であると斥けた。それゆえ彼らは、科学的方法を可視的対象の外部からの客観的研究に求めようとする。「自分が正しい」と決めつけることでもたらされる不確定な我の張り合いを取り除く態度は、換言すれば、一致を目指そうとする試みが客観を求める態度である。それゆえ、この態度そのものは、個人の自己中心性を脱しようとする脱自己中心化の試みと解釈することができる。このように他を思う一致の気持ちから、科学的という定義が出ているならば、その定義は行動主義者が最大限に払う普遍共通化への努力であると認めることができる。普遍共通化は、まず第一に、誰にでも説明可能であること、第二に誰にでも、ある条件のもとでは、再構成可能であることをいう。この二点に限れば、彼らが客観性と呼ぶ、普遍共通化は保証される。以上が理由となり、可視的な現象のみを扱おうとすることで一致を図り、そして不可視的で、あやふやな心理学根拠に基づく対象の処理に反対するのだ。少なく見積もってもこのような態度は、個の普遍への努力と位置づけることができるだろう。
さらに詳細に行動主義がもつ基本的な方向性を考えたい。可視的現象のみを扱うという第一の実証方法の他に、特徴的な第二の方法及び態度が挙げられる。第二の方向性として、外化された、というよりも、むしろ強いて外化させたために現れてきた人間の行動を観察し、外化されたものに共同認識を求める、という方法である。そして第三に、外化された行動を支配するテーゼである。
第一、第二の方向性において理解されるのは、対象を外的に置くことにより、目を向ける観察主体と対象とのあいだに存在する距離を永久に縮められないことだ。つまり、観察する主体と対象は結びついていないことも、二重の解釈として付け加えることができる。このとき他者との関係は、人間の行動をデータ化する方法の上で、どのような意味をもつのだろうか。
他者との共通同一化を図るため、一方向から得られたデータには差異がなく共通のものであると保証されたにも関わらず、たえず対象、ひいては他者にもなりうる対象とのあいだに距離を置き、対象(ひいては他者)と主体の相互関与を認めない。さらに、主体にとっての観察の手段、つまり、「見る」という行為は、外化しないのである。それゆえ刺激と反射の経路にデータの処理を求める方法は、見るという行為の主観的関与は考慮に入れない。それどころか、自己観察の末に残るのは、眼球の表象と表象をもたらそうとする無限の欲求、つまり個人に与えられた対象化の力と対象化された残存の肯定である。対象化の力を肯定する限りにおいては、肯定するのは意志であり、その限りにおいては、みずからの意志とは、一致という確信の拠り所を対象の操作に求める人間の根源的な欲求の単なる確認にすぎない。それゆえ、あやふやな現象理解から、安心に満ちた未来を操作する手だてを人間に示すことに行動主義の心理はある。というのも、人間は立てられた未来(=仮説)に従い、資源を投資し、自己の欲求を満足させる方向に邁進する、埋没することができるからである。ここに至っては、欲求そのもののを相対化しない、科学的一致という名の共通普遍化事業は、個と共同性の相互作用から事実と規範の関係を見ようとせず、「こうしたい」という欲求の実現を自己の実現に、巧みにすり替えられた意志の肯定に他ならない。それは、当初の意図に反し、諸対象の連関から切り離された孤独な人間の自然支配・共同性支配を学というカモフラージュに温存するたくらみを可能性として秘めている。
他方、フロイトは実証の問題をどう考えているのだろうか。フロイトがアレクサンダー大王の実在を問いとして聴衆に投げかけるとき、その問いは目には見えない歴史を外在化できるかという問いである。このような問いを発する根拠は、精神分析の方法が言葉の交換
[19] により成り立ち、その方法を目に見えるものにすることはできないからである。従って、歴史実証の問いにどう答えるかは、精神分析の立場をかけた問題であった。
行動主義の客観的方法と精神分析の方法を比較するとき、精神分析の方法における自己観察
[20] の位置づけが、一致の確信という点を最もついたものであり、この点においては、行動主義の方法論と重なりを見せる。というのも、自分自身の身体、或いは自分という人間を研究することと言う限りは、患者と向き合いながらもあくまでも自分自身について観察するというならば、自分自身の語りは、一致以外の何ものでもない。
それ故に、ここに残された三つの問題は、第一に、一致の確信という限りにおいては、行動主義の掲げる客観性よりも、遙かに一致の確信に満ちた意志の肯定であり、見ようによっては、一人の観察者の語ることが世界であるということは、観察者個人の我の主張ともいえる。その意味でフロイトを理解すれば、行動主義が目標にしていた共通普遍化、つまり、表象により確保される共同のアイデンティティーは可視的な保証を伴ったものとして、フロイトにおいては見いだしにくい。ここには言葉の問題が残る。第二に、自己の身体は、観察により表象とされる可視的なものなのかどうかという、身体の問題である。第三に、観察という見る行為を認めることは、対象化の力の肯定に相当するが、この対象化の力に関してはどのような位置づけがフロイトによりなされているか、端的に換言すれば、意志の力そのものをどう把握するかが問題として残る。
【2】限定するもの、無限定なもの
【2.1】「意識 Bewusstsein)」に見る近代科学批判
フロイトにおける意識(Bewusstsein)とは、「知れらたもの(Bewusst)」と「あること(Sein)」の一致、つまり、「知」と「存在」の一致と位置づけされている。知られるとは、記述的な命名法(名の言語)により脈絡のある体系をなすことでもある
[21] 。例えば、「机の上にコップがある」といったときに、現象に対して名前を与え、名の付けられた操作支配可能な対象に主体を結びつけ、そのことで知により、存在がもたらされる。ここには名前を与えることで現象を支配し、明らかな本質を目指そうとしてきた近代科学に対するフロイトの批判が読みとれる。
それでは、フロイト自身の科学観はどのように汲み取ればいいのであろうか。限られた経験の処理を通じて、ある程度構成的な方法を認めつつも
[22] 、フロイトにとっての科学とは、どのように世界を語ることができるかという問題につきるのであり、そのことは、夢や精神病という実証的なデータになり得ない現象と向き合うことに示されている。そもそも夢や精神病は、実証的なデータになり得ないからである。
【2.2】心的なもの-アナクシマンドロス・アリストテレス・フロイト-
フロイトにあっては、SeelenかPshychischen
[23] かのいずれかの言葉で表現されることから、フロイトはアリストテレスの『霊魂論』を念頭に置いていることはある程度推測される。もとより心理学がPsychologyと冠せられる限りにおいては、フロイトに限らず、霊魂の問題をどう考えているかによって、諸心理学の位置づけがなされるはずである。詳述すれば、アリストテレスによる霊魂の定義-「可能的に生命をもつ自然的物体の第一の現実性」
[24] -において、「可能的」と「現実性」をどう見るかによって、諸心理学の実証の度合いが推察されるともいえるわけで、そのような心理学観は、より実証の問題に迫った視点と思われる。
知と存在の一致の観点からすれば、「可能的に生命をもつ自然的物体の第一の現実性」は、目が生物及び質料であるならば、見る働きが霊魂及び形相であるという議論に収まりを付けてしまう。机をつくる大工にとって、材料である木が質料であり、机という大工の頭に宿る構造を与えるものが形相というたとえは、フロイトの立場からすれば、身体が質料であり、霊魂が形相である、といった心身二元論的な受けとめられ方がなされる可能性を残してしまう。この理解に立てば、潜在性(可能性)は、一面的な可視的物体に貶められてしまうので、可視的という一面性に限り身体は把握され得ない。さらにいえば、
「霊魂は身体ではなくて、身体のあるものであり、そしてこのゆえに身体に、それもこれこれのような性質の身体の内にあるのである」
[25]
における霊魂と身体の関係は、やはり、身体と霊魂の分離の上にしか成り立たない。
霊魂を表すpsycheは同時に、「気息」であり、息をするとはまさに個と共同性の相関関係を表現する学である。ゆえに、身体と霊魂を切り離すことは、個と共同性を分離することでもある。
質料(materie)としての身体と形相(form)としての霊魂といった区別がされた場合、それは潜在性・可能性(dynamic)と現実性(energeia)の分離にしかなり得ない。身体と霊魂の結びつきについて考えることが、まさに心理学の課題でもあり、霊魂から身体の分離を押し進めていったのが行動主義の霊魂に対する態度でもあった。或いは、気息のたとえから19世紀の諸学を俯瞰したときに、社会学と心理学の関係は両者の接近が課題になっていることがわかる。社会学が社会的諸関係の抑圧からの解放を目指し、心理学が意識の上での抑圧から解放を目指すという二分割も、二者択一の問題として、質的な溝をつくり、分け隔て難くしているかの観が見受けられる。
アリストテレスの形相と質料の問題は、さらに歴史をさかのぼることでよりフロイトの出発点にまで接近することが可能になると思われる。そもそも形相と質料は、アナクシマンドロスによって「限定するもの」と「無限定なもの」とされ
[26] 、霊魂の定義においては、「現実性」と「可能性」と解釈することができる。まさにフロイトが「意識」的なるものを括弧づけにしたのは、近代科学の流れが知と存在の関係を「限定するもの」と「限定される」ものに依拠し本質を語ろうとした点にある。むしろ、限定する働きが対象化の力であり、自らが対象化の力を帯びていることすらも相対化しない。知は、意識の作用において、それ自身が対象化の力を帯びているという当たり前のことを当たり前のままに放置している。見る作用、対象化、名の言語、意志の肯定という思考そのものは置き去りにすることへの批判は、フロイトによる近代科学批判の口火なのである。
【2.3】無意識の二つの段階-「限定するもの」と「無限定なもの」
アナクシマンドロスとフロイトを結ぶ線は、フロイトの二つの無意識によって確かめることができる。少なくとも1917年に出版された『精神分析学入門』における無意識と1923年に著された『自我とエス』における無意識は、その内実に大きな変化を見せる。第一次世界大戦後のわずか数年間における無意識理論の変化は、フロイトの読み手に大きな混乱をもたらすものである。
この無意識の移行は、動力学的(dynamic)考察から構造的(structural)洞察への移行
[27] と大きく把握できよう。動力学的洞察における無意識が確立した地歩は、対象化の力により表象が立つこと(前意識)であり、さらに、表象を妨げる抑圧の力を経験のうちに見いだしたことにある。このことにより、人間の意志の力が表象を立てる対象化の力と人間の思うがままにはならない意志の力を確定し、抑圧を軸にし、無意識が名づけられた。まさに、無意識を名づけるということによりフロイト自身が、対象化の行為を抜け出ようとしても、やはり名前を与えるという行為から抜け出ることのできないジレンマに陥ってしまうのである。非常に逆説的なことだが、フロイトも名の言語の同一規範性を抜け出ることができないのだ。それならば、無意識の意味は失われてしまう。つまり、名は言語表象によって与えられるので、名の言語によっては潜在性を語ることができない。
いったんここで、この名の言語の同一規範といった問題を意志の問題に引きつけて整理してみると
対象化を脱却できるか ↓↑ 同一の言語規範を抜け出ることができるか ↓↑ 対象化を帯びた主体が依存する言語規範を同一の言語規範により抜け出ることができるか ↓↑ 自分の対象化の働き(見る作用)を自分の目で見ることができるか ↓↑ 意志を意志することができるかとの位相を見せる。対象化を対象化によって片付けようとすることは、意志を意志することであり、意志の強化に他ならない。
意識とは、意志の力が目に見える痕跡として表れた表象に過ぎず、表象と意志とは区別される。しかし、その区別は前述の「限定するもの」と「限定されるもの」の域を抜け出ていない。意識には表象が見る働きを必要とする以上、見ることによる主観と客観の分離がもたらされる。すなわち表象によって立てられた客観界が主観を生み出すと考えることは、同時に主観が表象世界を操作的に扱うことであり、その議論上では、表象にはそれぞれの視点からの意味づけがなされることが反省されず、操作的対象の客観化(前述においては共通普遍化とされている)という目標が、多くの学において目標にされている。
抑圧の力は表象を妨げるのだが、その力とは、人間の操作対象とはなり得ない意志であり、この発見の意味は、人間中心的な思考からの脱却である。別の表現を与えるならば、個人性とは、脈絡のある体系に執着し、体系の保守に努めようとするのだが、抑圧の力の発見は、執着の及びもつかない意志の力を認めることであり、脱個人主義である。このことにより、少なくともまず、個人性の確立に裏打ちされた近代市民社会の大前提は括弧付きのものになるのではないだろうか。
表象と抑圧の力の関係は、表象についていえば、名の言語に寄りかかる知が存在を操作することの暴露をなし、表象と意志の肯定が裏表の関係にある。これに付言して、抑圧の力について言えば、個人の操作不可能な意志の力を認め、意志の力は個人の内を肯定か否定かを争う意志の格闘場にするのである。
「個人と社会」や「個と共同性」といった素朴な表現を素材に使う議論は、常に表象として「知られたもの」に限定されており、これらの素朴単純さを貫いているのは、アトム論的な発想に貫かれた意志の力と意志の肯定の論理である。この論理は、人間の袂に引き寄せられた人間中心的な連続性の中で個人性を主張する方向を核心としてもち、論の先には、表象をもたらそうとする論者個人の先鋭化が残されている。この過ちは、表象として一人歩きしてゆく実体と、表象に接近するどころか、解離していく孤独な人間の今日的状況である。アドルノはこれを次のように言い表している。
「諸対象についての経験の効力は、これらの対象がそれはそれで-社会のように-本質的には主観的に媒介されている限り、認識する人々の主観的関与の度合いが高まるに連れて上昇するのであって低下するものではないという洞察を、社会諸科学はまだ自分の血肉と化していない。」
[28]
つまり、実体化された社会が個の内をしめるのではなく、また社会問題を自己意識に背負わせることもできない。
さて、フロイトによると
「無意識は抑圧されたものと一致しないことを認めなければならないのである。全ての抑圧されたものが無意識的なものであることはあくまでも正しいが、全ての無意識が抑圧されたものであるとは限らない。自我の一部が、しかも自我にとって非常に重要な部分が、無意識的なものであり得るのであり、そして確実に無意識的なものなのである。」
[29]
とある。ここは一見すると何も言い得ていないように見えながら非常に大きな議論がなされている。ここでは、抑圧されたものは、無意識的なものの必要条件であるが、十分条件になり得ないのであり
[30] 、フロイトによれば、抑圧された無意識が指し示すことのできない無意識があることになる。この論理は、不完全な論理であるが、対象化の力そのものが射程にあると考えれば、フロイトの意図が凝縮されている。つまり、抑圧されるか、されないかは、個の意志の力を否定することにあった。それにも関わらず、目には見えない動力学的なプロセスが語り尽くされないのは、不可視なプロセスに名を与えることができないのであり、フロイト自身がフロイト自身の意志の肯定に阻まれているのであり、完全性をもつ有に傾く論理である。「確実に無意識的なもの」は、意志の否定であり、無である。無、意志の否定、ということによって、はじめて意志の肯定を意志の肯定に沿うことなく論ずる地平を確立しようとしたのである。
通常、「無」は「何かがない」という事態を表すが、「何かがない」ということは、絶えず「何かの表象がある」ことを念頭に置いており、その思考によれば、「無」は有の論理の裏返しに過ぎない。フロイトの無意識は、二元的世界
[31] が一元論を用いて表れたのであり、有の論理を押し進めていったところ、表されたものが別の事柄を表すことになる。
理論と実践の関係は、魂の運動に比喩される。世界は、直線的な運動をするプラクシス(実践)と天上へと昇り円環運動の中で自己の姿に言及するテオリア(理論)により構成されている
[32] 。後者テオリア的な運動は、魂が下界を脱し、超越することで実現されるが、人間は、直線的な対象化の運動をテオリアに持ち込んでしまう。つまり、実践が操作的対象化を理論に持ち込まざるを得ないので、システムに内在する自己を観照しようとしても対象化の力を拭いきれない。それゆえに実践の問題を考える場合、対象化の力に思考を委ねるならば、やはり対象化を免れ得ない意志の肯定へと転じてしまう。人間の側には、人間の対象化が操作性を相対化し得ない限りは、みずからの像を反照しようとといきり立とうと、まさに同じくびきにつながれたままに終わる。
フロイトの無は、対象化の力、あるいは完全性を帯びた意志の肯定を追求することで、不完全なものが自ずと現象してくるのである。これは構造的洞察に譲られることになるが、意志の肯定と否定の関係の上で、無に自然、神が表れ、その自然や神との連関の中で人間を位置づけようとしたと解釈できる。
構造的洞察とは、人間が知りうる世界は意識の土俵においてしか語られてこなかったことに対する批判であり、構造的洞察の試みは、自然も神も人間の操作対象に貶められていることの告白であり、更には告白を越えた新たな世界の描写である。表象をもたらす意志の否定は、否定による意志肯定との分離がなされた上ではじめて、表象をもたらす意志の力そのものを洞察する地点が、無の内にもたらされるのである。その限りでは、表象としての構造 structure は、対象化の力である意志の肯定 (見る作用であるform) そのものに付着しているのであり、フロイトの論は、以降、対象化の力そのものを操作不可能性と付き合わせる形で展開される。
人間にとって全く操作の不可能なもの、計算不可能なもの、所有できないもののうち、最も切実なものは、自己保存が死によってうち砕かれることである。それ故に、意志の否定は、死の恐れの内に表現される。この最も普遍的に誰かれと選ぶことなく訪れる死の足音に誰もが恐怖を抱きながらも、意志の否定になおも否定を加えようとするのは、生きんとする意志の肯定に他ならない。その死の恐怖を無に没入することなく、裏返しとしてのあくなき生への欲求へと転じる形式を持ち、行為する限りにおいては、生の意志形式をあまねく穿つことなくして、意志の否定としての無が、生を制限するものにはなり得ない。というのも、生の意志形式とは、欲求が対象を同一化し、対象を自己の内で保存しようとするアイデンティティーをかけた闘争であり、既に生の意志形式に死を構造化しようとする死への準備が付着しているからである。ここから敷衍すれば、構造は、結果として知覚が切り取る形として、一面的な意志の肯定を支えざるを得ないのに対し、他面では、意志の否定をも絶えず表出しつつ、絶えざる無の構成からうち寄せる波に存在を委ねるのである。
否定は肯定の側から見れば、対向する彼岸ではなく、既に此岸のうちに否定がなされているのであり、同時に否定の側から肯定を語ることはできない。
社会的罪に対する最高位の罰は、死を与えることであり、死罪は、罪の最高の贖いとされる。罪の贖いにより絶えず要求され、目標とされるのは、共同性における良心あるいは道徳性の回復にある。それゆえ、罰の執行は、同時に、共同性の喪失を表現し、罪は共同性の意志否定となる。つまり、アイデンティティーをかけた闘争は、個人の自己保存の水準にとどまらず、集合意志である共同性にも押し寄せている。
集合意志である共同性は、共同性も意識的である、ということを意味するのではない。というのも、表象としての共同性と表象としての個人、といった構成関係の相互要素として個と共同性を議論する場合に、抜け落ちてしまうのは、もはや個人とも共同性とも名づけることのできない意志の力(抑圧の力)であり、そのような議論は論者自らの意識への拘束度を告白するものにとどまるのである。仮おきに名づけられた自我は対象同一化と対象保存を追求する途上、実現できない意志の力の内に、無意識をかかえ込むのである。対象同化の意志力が抑圧の力を潜在的に秘める限りにおいては、集合意志を意識の手綱につなぎ止めることはできず、なおかつ手綱をかける杭を実体としての社会に築き上げることもできない。
まさに集合意志との関連で、構造的洞察の一つの核心をなすのは、道徳の問題である。それというのも、近代は自らの近代性により神を喪失した時代であり、個の意志否定にとっても、共同性の意志否定にとっても救済が与えられないからである。近代においては救済を求めることすらも、意志の否定を取り繕った意志の肯定に変容したのである。免罪符はいと高き天を目指し蓄積されれば、それだけ罪の許しにとってかわることができたのである。
このような理解に立つフロイトの著作のなかに、我々は救済を見出しがたい。フロイトによるこのような突き離しは、西洋近代史において、どのような位置づけがなされるのだろうか。
【4】 三項関係-人_神_自然-
【4.1】フロイトによるカント的表現-定言的命法-
フロイトにおける道徳の問題は、超自我と自我の関係において述べられている。ただし超自我_自我_エスの三項が同時に叙述されるために、本来はこの三項関係を分断することはできない。しかしながら論を進めるため、さしあたり超自我の働きを自我との関係において考えてみたい。それというのも、フロイト自ら超自我の性格をカントの定言的命法を用いて表現しているからである
[33] 。従って、18世紀後半と20世紀前半における定言的命法をめぐる道徳観を相対的に描くことがひとまず最初の目標であり、そこからフロイトの自然理解及び共同性理解への道を拓く。
フロイトの意識(Bewusstsein)が、知と存在の一致を批判するものであることは上述したとおりであるが、この批判はカントの直観の形式
[34] を受け継いでいる。
カントによれば、認識はセレクティヴィティを帯び対象と関わる主観に備わった認識形式のことである。それゆえ認識は対象の側の問題にあるのではなく、主観の側の問題であり、現象の背後にある物自体の与える影響に応じて、対象を受動的に受け取る
[35] 。これがカントの感性論の大まかな枠取りであり、この枠取りにおける物自体の位置づけが道徳論において、自由な意志の自律を保証するかなめになる。というのも道徳的行為が他者の視線から自らの行為を反省し、共同性のために自らの行為を遂行するためには、自ら立てた法則が、他の原因に根拠を見出してはならないからであり、そのためには意志が自律的に、他の外的因果性に支配されることなく自由に振る舞わなくてはならない。つまり、自由な意志が道徳の存在根拠であり、かつ、道徳律は、自由の認識根拠となる円環が物自体において、或いは理性により保証されなくてはならない
[36] 。この保証により、「意志はその全ての行為において自己自身に対する法則」
[37] 、すなわち、定言的命法が道徳の原理となり、あやふやな意志をもつ個人の共同性への関与が、道徳という普遍性をかちえるのである。
カントとフロイトの定言的命法の用いられ方は、定言的命法による行為への絶対命令
[38] という点においては、共通点をもつ。或いはまた、真の存在は人間の知により知り得ないという点も共通している。しかしながらそれぞれの感性論においては両者はかなりの異相を表している。
カントにとっては、物自体をおくことで悟性の構成的な意志の働きを堰き止めることができ、同時に見出す理性が、感性界と知性界を分離し、意志の自律を保証し得た。それゆえ別の角度からみれば、分け隔てられた人間の知と自然を調和した状態に戻そうとする意図をカントの構想に見出すことができてもおかしくはない。というのも総じてカントに描写される自然とは、第一に、感性界、或いは感性の全ての素材であり、人間とは異なる必然性に従う独立した存在であり、第二に、人間の意志の自律に矛盾する他律的な存在であり、そして、第三に、普遍的自然法則としてある人間の内なる自然である。つまり、人間も不完全な感性界の一員であり、経験の世界を否定できない限りにおいては、人間と自然の分離の裏側に、人間と自然の調和を目指していたともいえる。
フロイトもカント同様、人間と自然の分離を、知覚による現実原則とエスを無制限に支配している快感原則
[39] に分けることを見出しているとも言えよう。そのことで、知り得る世界と知り得ない世界を分けている。カントに倣っていえば、フロイトにおいて他律は、エスを無制限に支配している快感原則であり、意志の自律は、自我の知覚作用に妥当するかもしれない。しかしながら決定的に異なるのは、知と存在という思考の枠組みから知と意志という思考の枠組みへと変換を果たしていることである。知が自らの自律、すなわち自然的存在であるのにも関わらず、対象化の力により、自然との分離を意識の土俵上で引き起こすことであり、意志肯定そのものである対象化の極限が、死という意志の否定にあることを示そうとしたことに、カントとの決定的な相違を見る。
「何がどのようにして前意識になるのか」
[40] と問われる知覚の問題は、何がどのようにして意志を肯定しようとするのか、の問題であり、その限りでは言語ならざる言語表象が表象として可視的であり、操作可能な事物間の関係は人間の知により所有
[41] 可能になるといえる。
論を少し戻すと、フロイトにおける道徳の問題は、エスの欲動から生まれる対象化の力に超自我(神)を見出したことであり、超自我は少なくとも、人間の生活史に見舞われる最初の共同的環境の体現であり、意志の否定として対向してくる。すなわち、神までもが、意識の土俵の上で人間の操作対象となってしまったことへの強烈な批判といえよう。
エス(Es)は、フロイト自身もいうように、グロディックの発想を用いて表現されているのだが、当のグロディックもニーチェからの影響を受けている
[42] 。このエスをどう見るかだが、本稿はエスを共同性、または自然と把握したい。ニーチェにおいて例えば、
「人間における過ぎ去ったことを救済し、一切の「かつてそうであった」を造り変えて、ついに意志をして「しかし、かつてそうであったのは、わたしがそれを欲したのだ。またこれからもそうであることを、わたしは欲するだろう-」というにいたらしめることを、教えたのだ。」
[43]
は、意志の肯定が救済をも意志の対象化に晒してしまう近代性そのものを言い得ているのである。というのも近代が喪失してしまった自然_共同性_神の調和から反照してみれば、エスの叙述から汲み取ることができるのは、意識的な存在である人間が、いかに無を拒み、操作し得ない自然_共同性_神を無の彼方に追いやっているかということにつきる。言い換えればそれは、人間の意志の肯定が、逆説的なまでに、意志の否定を求めていることともいえよう。
現代において、「自然とは何か」という問いの多くが、一義的に決まる答えを求める方向で進んできた。本稿は、そのような問いの立て方自体に問題があると考える。というのも、少なくともそこには、人間が自然を対象とし操作構築を加え、我がものにしようとする人間中心的な意志の力を見いだすからだ。つまり、人間中心的な操作構築は、無限な存在すら人間の対象化の枠内に納め、有限な存在として掌中に納めてしまうことである。
フロイトの試みは、少なくとも「自然とは何か」という問いのもつ根本動機を、人間の意志の力を相対化することで近代の自然理解を問い直そうとしたことにある。それゆえ、無という問題もより大きな視野から考え直さなくてはならないのではないだろうか。
そのような立場に立てば、フロイトによる精神分析は、ヨーロッパの限定された時代における個人の心理のみを研究するといった専門的な個別的な学問ではなく、人類史を貫く人_神_自然の問題に取り組もうとした試みといえるだろう。
「自然とは何か」という問いを一例にとっても、そこに人間の全ての意味での共同精神が張り付いていることが認められる。裏返していえば、人間は自然を、人間自身を意のままにできると思いこむことで共同性を失っていくのであり、その意味では、人間の歴史は共同性を破壊し人間が孤独になっていくのと同時に、その孤独を恢復しようとする記録であろう。
新しい世紀を目の前にして、なお歴史の秘やかなる深層に静かに耳を傾けることが求められているのではないだろうか。
(参考文献) 1.『沈黙の春』 レイチェル・カーソン 新潮社 2.フランスの人権宣言、アメリカの人権宣言 3.『聖書』 日本聖書協会 1955年改訳版 4.『精神分析学入門』 フロイト著 懸田克躬訳 世界の名著シリーズ60 中央公論社 5.『大脳半球の働きについての講義』 パブロフ著 東大ソヴィエト医学研究会訳 「原典による心理学入門」所収 講談社学術文庫 6.『行動主義の心理学』 ワトソン著 安田一郎訳 「原典による心理学入門」所収講談社学術文庫 7.『自我とエス』 フロイト著 竹田青嗣編 中山元訳 「自我論集」所収 筑摩書房 8.TDas Ich und Das EsUSigmund Freud Fischer Taschenbuch Verlag GmbH 9.『霊魂論』 アリストテレス著 山本光雄訳 アリストテレス全集第六巻所収 岩波書店 10.『ソクラテス以前哲学者断片集』第一分冊 岩波書店 11.『社会学と経験的研究』 アドルノ、ポッパー著 『社会科学の論理』所収 河出書房新社 12.『形而上学 第十一巻』 アリストテレス著 川田殖・松永雄二訳 世界の名著シリーズ8 中央公論社 13.『純粋理性批判』 カント著 篠田英雄訳 岩波文庫 14.『人倫の形而上学の基礎付け』 カント著 野田又夫訳 世界の名著シリーズ32中央公論社 15.『ツァラトゥストラ』 ニーチェ著 手塚富雄訳 世界の名著シリーズ57 中央公論社