[22] デュルケム自身もこれに似た考え方を持っていたことは間違いない。なぜなら、彼は「社会はもののように扱われなければならない」という一方で、対象に対して主観が入ってしまうことを認めているからである。それらの事実について以下を参照すればよい。 「科学は、客観的でありうるためには、感覚を経ないでつくられた概念からではなく、感覚によってつくられた概念から出発しなければならない。科学は、その出発点における定義を構成する諸要素を、可感的な与件から直接にかりなければならないのである」(『社会的方法の基準』P114) しかし、彼は「社会学の研究領域は客観的な社会である」点を曲げることはなかった。つまり、客観自体に主観が入り込むことを了解しておきながらも、可能な限り完全な客観性に近づこうとしたのである。このような苦しい議論は、 「とはいえ、感覚も主観的なものになりやすい。だから、自然科学においては、観察者にとってあまりに個人的なものとなるおそれのある感覚的所与は斥け、じゅうぶんな程度の客観性を示している感覚的所与のみを取り上げることを原則としている」(『社会的方法の基準』P115) という点にもよく現れている。感覚にも客観性を有している感覚と、個人的になりがちな感覚があると、デュルケムは言う。社会学の考察対象は当然、客観性を有している感覚となる。そこで、彼は以下のように結論する。 「社会的諸事実は、これを表現する個人的諸事実からより完全に区別されて取り出されれば取り出されるほど、それだけ客観的に表象されうるということ、これは原則とされてよい」(『社会的方法の基準』P115) 一連のデュルケムの議論とピアジェとの違いは、ピアジェが純粋に機能関係を取り出そうとしたのに対して、デュルケムは客観的な社会から個人に対する一方向の機能関係に着目した点といえるであろう。