[3] <参考:尾高邦雄「世界の名著 ウェーバー」東京、中央公論社、1979、経済と社会集団、p.585>
『(近代発展期には)個人にとっては安全保障はもはや家や氏族によっては与えられず、政治権力のアンシュタルト的な団体によって与えられているという事実を度外視したとしても、「家」と「職業」は場所的にも分離されているので、家計はもはや共同の生産の場ではなく、共同の消費の場にのみなっている。さらに、個人は、生活のための全教育、否、人間的教育でさえ、ますます家の外でうけるようになり、しかもその教育手段は、家が与えるものではなく、あらゆる種類の「経営」―――学校、書籍業、劇場、コンサートホール、結社、集会など―――がさし出すものである。個人は、家共同体を、自らが献身すべき客観的文化財の担い手であるとはもはや認めることはできない。このことは、社会心理的「段階」として立ち現われる「主観主義」の増大などでなく、家共同体の縮小化を促進する客観的諸条件であり、これがその増大傾向を条件づけているのである。』