目次
1 はじめに
2 自然科学についての考察
3 人文科学についての考察
4 社会科学についての考察
私は、本論文を書くにあたってまず、それぞれの学について言及していく上で、「無邪気」「無邪気でない」という基準を設けたい。そして、それから人文科学と自然科学とについて、それぞれの学がもっていると想定できる性格について言及した後に、社会科学についても同様に、社会学がどのような性格をもちうるかを言及していきたい。
私は人文科学という「学」が、たとえば自然科学と比較して、より「無邪気ではない学」であると想定する。
まず、ここでいう「無邪気」な状態と「無邪気でない」状態を説明する。無邪気な状態というのは、主体が問題や事物などにたいして何らかのアクションを行うさいに、自分が見えていないもの、たとえばアクションの結果起こるさまざまな影響などを、あらかじめ請け負うべきリスクであるとか、あるいはより単純にこういうことも想定されるというように、意識せずに、一所懸命、ひたすらにアクションを行ってしまう状態をいう。
逆に「無邪気でない状態」とは、事前そして最中も、アクションを行うことという行動にたいして、様々な方向からこのアクションを行うということはどういうことかを考えておいて、アクションを行うからには請け負わねばならないリスクや、そのアクションが、アクションを行うとしている主体、対象さらには一見関係なさそう見える他のものたちへの影響を意識している状態をさす。
無邪気な状態においては、行動を起こしている本人には全く悪気はないが、それゆえに行きすぎた行為を起こしてしまうといった弊害が起こる可能性がある。これは、子供の無邪気さにつうじるところがある。たとえば、まだ買い物という社会の仕組みを知らない2才の子供が、たまたま一般に万引きと呼ばれる行為を行ったとする。ここで、子供は両親なり店員なりに怒られて、とりあえず勝手にものを持っていってはいけないということを教えられたりする。つまり、子供は知らなかったことをたまたまやってしまったわけである。ところが、万引きを行ったのが買い物というシステムを知っている大人であれば、子供のようにはいかないであろう。
逆に、無邪気ではない状態では、事前にいろいろな事を意識にのぼらせてしまう。そうなると、たとえば無邪気なアクションと、無邪気でないアクションが、同じような問題にたいして、外目から見れば同じようにアクションをとり、その結果、現代の社会では同じように社会的に不利益になる結果を招いてしまった場合に、同じアクションをとり、同じ結果を得たにもかかわらず、異なった方向からの責任追及がなされるであろう。
まず一方で、無邪気な方はもっと広い視野をもって行動すべきであったであるとか、もっと事前に事後の影響を考えるべきであったという形で、責任追及がなされるであろう。また一方では、無邪気ではなかった方には、なぜ事前に不利益がでるのがわかっていたにもかかわらず、そのアクションを起こしてしまったのかという責任追及がなされると考えられる。
ここで問題として取り上げたいのは、一方で、無邪気な方は思慮が十分でなかったことに追求の矛先が向いていて、「もっと」思慮を重ねるようになればいいというかたちで、無邪気でないアクションをとってしまった主体の倫理的な部分にかんしては、追求がなされておらず、容認されてしまっていると見なすことができる。しかし、もう一方では、無邪気でなかった方は、とったアクションのやり方が非難されるのはもとより、悪い結果がでてくるのが分かっていたにもかかわらず、なぜ実行してしまったのだというように、採ったプラン、やり方にとどまらず、主体の人間性や倫理まで問われることになるという点である。
2 自然科学についての考察
ここまで説明を進めたところで、私が、なにゆえに自然科学が人文科学と比較してより無邪気な学であり、人文科学が自然科学と比較してより無邪気でない学であると想定するかを説明する。
まず、自然科学は、パラダイム論に従って考えると、ひとたびパラダイムが決定してしまうと一定期間、つまりそれまでのパラダイムが崩れ、トマス・クーンいはくの異常科学の状態に突入するときまでは持続し、その間、自然科学者たちはその時のパラダイムに従って研究を進めるという性格をもつ。また、新しいパラダイムは、以前のパラダイムと比較して、より矛盾のないかたちで合理的に自然科学の研究を進めることができるという点において自然科学においては価値があるといえる。さらに、新しいパラダイムは当然のように完全を求められるが、同時に不完全であるかもしれないという疑問も持ってしまうという性格もある。
そして、ある特定のパラダイムが採用されているときに、そのパラダイムに則った方法で、何らかの問題に対処したために、本来従来のパラダイムから予想される結果を得ることができず、予想外の社会的に大きな不利益が生じたというような、パラダイムシフトを引き起こしうるような、パラダイムの壁にぶつかったとき、不利益が生じた原因は以前の不完全なパラダイムのせいとされ、以前のパラダイムのもとでせっせと研究に励んでいた研究者のせいにはならない。そして、より完全なパラダイムが求められるようになる。
この構造は、人間が想定していない事柄、つまり人間が何の規定も行っていないものに遭遇するがゆえに、人間の同志では誰も非難することができないというからくりになっているという点と、自然科学を行っている人間に意識にまだのぼっていないところがあるという点で無邪気な状態と合致する。
この無邪気な状態では、批判できる点と批判できない点とが、明確に分かれると見なすことができる。
3 人文科学についての考察
次に、人文科学である。人文科学は自然科学がパラダイムを定めるように、対象を捉えるさいに人間の間の基準をあらかじめ決定しおいてからみていくのではなく、言語や記述などの限界があるとしても、より広い視野で対象を捉えていこうという性格があると思われる。そして、人文科学はそうした広い視野によって物事のからくりを捉えていくがゆえに、世界のあらゆる事を主体の意識にのぼらせてしまう。
ここでいう、意識にのぼらせてしまうというのは、知識として記憶に残っているという意味ではなくて、自然科学の知識などで捉えられるものはそれなりに捉え、また自然科学に限らず論理的に捉えられないものにたいしても「捉えられないもの」として、捉え存在を意識するということである。
そして、何故これが無邪気でないと想定されるかというと、自然科学によってあるいは思弁によっても論理的に説明が不可能という意味で捉えられないという事物にたいしても、捉えられないものという形をあたえて捉えてしまっているために、意識にのぼっていない部分は論理上なくなってしまう。こうなると、知らないところがあるというように無邪気に振る舞うことはできなくなってしまうのである。
こうなると、人文科学者たちは何をやっても、何かしらの批判を必ず受けなくてはならないという結果になる。
アルノ・バルッチの「操作万能の自由」における操作の概念を用いて説明すると、いまだ操作できないないものにたいして、よし操作できていないものとして捉えることによって、操作してしまうということである。
ただ、トマス・クーンがパラダイム論に「科学革命の構造」で言及し、自然科学のからくりを一つ捉えてしまった時点で、自然科学は従来と比較して、より無邪気ではなくなったといえるが、それでもカール・ポパーがいうようにパラダイムを暫定的な真理として研究活動を進め、パラダイムシフトの繰り返しというからくりをもっている自然科学は、依然として人文科学よりも無邪気であるといえる。
4 社会科学についての考察
最後に社会学についてである。
社会学が独立した学として見なすことができるのが、初めてsociologieという語を使ったコント以降で、人文科学と自然科学とは古代ギリシア以来の学問であるとすれば、社会学は前者2つの学問と比較してより歴史の浅い学問であるといえる。
そして、社会学が採用する学のやり方については「社会科学の論理」においても議論されているとおり、少なくともドイツにおいて実証主義論争が行われていた頃にはまだ、個々の学者あるいは学派間において一致してなかったらしい。また「社会学と経験的研究」においても、冒頭においてアドルノ自身が
(1) 「アカデミックな学科としての社会学という呼び名のもとに一括されている処理方法は、もっとも抽象的な意味でのみ、相互に結びついている。つまり、これらの処理方法は、すべての何らかの仕方で社会的なものを取扱うことによって、相互に結びついているのである」と述べ、アドルノが採る社会科学の方法も、あまたある方法の一つに過ぎないとしている。以上の事情から社会学が生まれて50年くらいのころ「社会的分化論」を著したジンメルと、社会科学の論理において異なる社会学の方法を提唱するアドルノとポパーとに、個々に言及していくことで、社会学の性格を考えてきたい。
次に、アドルノであるが、アドルノはジンメルと非常に共通点が多いと考えられる。なぜなら、まず社会学の理論の捉え方であるが、ジンメルは社会的文化論の中で理論と実践の関係について
(2) 「われわれがもし理論的認識ににおいて、純観念的な内容自体に留意せずに、その内容の実現過程、したがってその認識の心理的動機、方法的経路の体系的目的などに留意する場合には、認識そのものもまた人間の実践の一領域となり、それ自身が理論的認識の対象となる」と述べている。主体が学を行う人間とすると、主体が意識する問題の種類によって、理論として捉えられてしまう範囲と実践として捉えられてしまう範囲が異なったものになってしまうということを示しているととることができる。これを、本論文で私が言及してきたことに照らし合わせると、社会学、自然科学、人文科学という3つの学問が、それぞれに異なる問題領域と認識の領域を持つということになるであろう。こういった場合、問題と認識とのうちどちらが主体の内で先にでてくるのかという問題も想定されるが、それについて語ることは自然科学的に説明が付くとも、また人文科学においても説明をつけることができない(というより私がいかなる学においても説明できたという例を知らないという理由からであるが)というまさに卵が先か鶏が先かという話になってしまい、どうしても結論づけることができないので、本論文ではこれ以上はふれないことにする。
つづいてアドルノであるが、アドルノは先ほど紹介した「社会科学の論理」の冒頭にあったように、とりあえず社会学の方法は一つではないと同時に、ある方法を採用した時点で、その方法は処理方法の一つになってしまうという。これはどういうことかというと、先ほどのジンメルの場合は、学によって問題の範囲と認識の範囲とが異なったが、アドルノの場合は、問題と認識の範囲の相違が、社会科学の中でも採用する手法の相違によってあらわれてくるというわけである。
そしてアドルノは社会学の中での手法を、とりあえず
(3) 「社会的相対性とその運動法則向けられ」たものと「個々の社会現象に向けられ、この現象を社会という概念に関係させることは思弁的であるとして排除される」ものの2つに大別し、それぞれに批判を加えていく。アドルノ自身は、前者の
(4) 「哲学から発生した」人文科学的な手法を採用しているようである。
そうすると、ジンメル、アドルノの両者ともに「認識の心理的動機、方法的経路の体系的目的などに留意する場合には、認識そのものもまた人間の実践の一領域となり、それ自身が理論的認識の対象とな」ってしまっているということになる。こうなると、人間の心理的動機に端を発する認識という、自然科学的方法によっても、また人文科学的方法によっても全容を解明されえないような領域を意識してしまっていることになる。そして両者は、全容が自然科学的に把握できたはいえないが、概念的には把握したということにして、社会という彼らの問題領域や、人間個人が常に「わからない」領域を有していると想定して、そのわからない領域を「総体性」と呼んだようである。これは、まさに無邪気ではない学としての人文科学の手法を用いたがゆえに、一緒に引き受けてしまった性格であろう。
次に、このジンメル・アドルノが採った手法とは異なる手法の例として、カール・ポパーが想定した社会学の手法について言及したい。
ポパーの手法は一般に批判的合理主義と呼ばれる。これは批判というものを、動機はわからないけれども真理追究を行ってしまう主体としての学者が、より真理に近づき、暫定的な偽の真理に陥ってしまうことのないようにするための、有効な手段として想定するものといえる。そして、ポパーの場合実際におこなわれる研究活動の手法は自然科学的な手法を想定している。
私は自然科学は、人文科学と比較すると無邪気な学であるとみなした。しかし、ポパーは基本的に自然科学的な手法によって社会科学の研究活動を行っているにもかかわらず、認識についても
(5) 「およそ学問とか認識とかをどこかで始まるといえるとすれば、次のようにいえよう。すなわち、認識は知覚や経験、あるいは資料(データ)や事実の収集とともに始まるのではなく、問題ともにはじまる」と言及しており、人間の認識の発端については、わからない部分として保留してあるところがあり、真理に到達するためにはこの方法しか考えられないという無邪気な発想によるものではなく、人文科学的な手法のもつ性格や意味も考慮に入れた結果、批判的合理主義と呼ばれる方法を採用したという無邪気でない部分が多分にあるといえる。これは、自分のよって立つ位置を相対化しているといえるが、この無邪気でない部分が、ハバーマスが「実証主義的に二分割された合理主義への反論」において
(6) 「おそらくポパーの仕事は、彼がなおも伝統との賢明な関係を保っているから、まさに偉大な哲学的処理論の系列に属している」といわれるゆえんであろう。
自然科学的な手法に批判という手法を想定し組み合わせ、さらに仮の真理が真理の役割を果たしている間にも、種種の研究者の集団で、仮の真理を覆しかねないような研究は進むという、時間の流れという概念を取り入れている点に、ポパーの手法の特徴があるといえる。
これまで、人文科学、自然科学、社会科学という3つの学について、それぞれが有してしまうであろう特徴を述べてきた。無邪気、無邪気でないという言葉を使うことによって、少し紛らわしいところはあったかもしれないが、いちおう、一通り3つの学について各々の性格をを相対的に述べられたと思う。それによって、それぞれの学を採用するということの意味についての考察が行えたと思う。
参考文献一覧
・「社会科学の論理 ドイツ社会学における実証主義論争」
テオドール・W・アドルノ、カール・ポパー 他著 河出書房出版
・世界の名著58 ヂュルケーム、ジンメル 中央公論社
・操作万能の自由 アルノ・バルッチ