[14] デュルケムを引用しながら個人と社会を考えるとき、社会を行動の主体として考えるか否かは考察を要する点である。この点については以下の引用を分析したい。 「とはいっても、私はもちろん、個人がなくても社会が存在しうるなどというつもりはない。そんなことは、とやかく議論する必要もないほど明らかに不条理なことである私のいう意味は次のようなことなのだ。  一 個々人が結合してつくりあげた集団は、ひとりひとりの個人とは異なった別種の存在である。  二 集合的状態は、個人たるかぎりでの個人に影響を与えるにさきだって、また個人のなかに新たなかたちで純粋に内的な存在として形成されるのにさきだって、まずそれを生んだ集団の中に存在している」(『自殺論』P291) この引用が意味するのは「集合的状態は個人とは別種の存在で、集団の中に存在する」ことだけである。つまり集合的状態が個人に対して主体的に働きかけるとは一言も書いてはいなし、個人としての人間を軽視したわけでもない。この引用に限らず、デュルケムの議論は、社会が存在することだけを証明している。よって、デュルケムは、社会を実在する行動の主体とは考えてはいないのだ。むしろ、行動の主体としての人間が絶えず考慮に入れなければならない要因こそが社会なのである。