[29] 現在、環境という言葉はあまりに広く使われている。もう少し意味を限定するために、私は「対象としての環境」と「差異としての環境」を分割する。「対象としての環境」はAを包み込む集合Bという形で、また、「差異としての環境」はAの補集合としてのBという形で想定される。  例えば環境経済学の中で用いられる環境は「対象としての環境」といえる。環境経済学は外部不経済を内部化することによって、人間が操作不可能であった環境を操作できる環境とする。したがって、人間と環境の差異を、人間の環境に対する主体的な営みによって消滅させることを目標とする。一方、「差異としての環境」では、そもそも人間の操作不可能なものを環境と定義する。この考え方によって注目されるのは、環境に対する人間の同化作用ではなく、人間と環境の差異である。  唯名論的に「環境と名づけると同時に環境は存在し、環境に対する主体(=人間)の操作性を排除することはできない」という批判はもっともである。私は人間の操作性の消滅を想定しているのではない。また、「人間中心主義を改めよ」というメッセージだけで精神的な環境問題が解決するとも考えていない。私が想定しているのは、主体が直接「対象としての環境」を見つめるのか、それとも境界線を明確にする「差異としての環境」を見つめるのかの違いなのである。  これら発想はルーマンの社会システム理論の負うところが大きい。ルーマンによると、世界はシステムと環境に分割される。システムにとって環境は筆数の存在である。なぜなら、システムと環境の境界線がなければ、システムは維持されるべきものではないからである。また、境界線とは「踏み越えることの可能な境界」ではなく、「開かれた地平」と考えられていることにも注意したい。従来の発想では、意識の中にないものは存在しないことと同じことであった。しかし、意識を一つのシステムと捉えるなら、意識に対する環境が存在することになる。ならば、意識の中にないものも存在することに同意しなければならない(なぜなら環境が存在するから)。だから、システムと環境の境界線を「開かれた地平」と考える必要があるのである。  また、システムよりも環境の方が複雑性が高いと考えるのも誤りである。なぜなら、その複雑性は当初から決定されているものではなくて、システムと環境の相互浸透において複雑性が決定するからである。よって、どちらも複雑だとはいえるば、一方の方が複雑であるとは言えない。