ホッブス・ロック・ヒューム

『原典による心理学入門』南博著・講談社学術文庫  

担当:江西・上野山


『リヴァイアサン』−ホッブス

 1.  ホッブスは自然と人間の関係をどのように表わしていますか?
       (KW:神、生命、人工的動物、技術、国家)

【自然と人間との関係/序説から】

◎自然が動物を作ると同様、人間は人工的動物を、技術で以て作る。そうして人間は技術によって、自然を(その造物主としての有り様を)模倣している。逆にいうと、自然界の生命がすべて神の意図によるものであり、神の持つ機械、技術として、「自然」は位置付けらている。(以下参照)

p.262 序説 「自然(神が世界を作り給い、統治し給う技)は、人間の技術によって、他の多くの場合と同じように、人工的動物を作りうるという点においても模倣される。生命とは四肢の運動にほかならず、その運動はある内部の中心部分から始まるという事を考えると、すべての自動機械は、人工的生命を持つと言ってならない道理があろうか。」

(部品に例えられる身体器官は)「神が意図し給うた運動を全身に与えるもの」

「技術は更に進んで、自然のうちで理性的で最も優れた作品、すなわち人間を模倣するに至る。というのは、技術は、コモン-ウェルス或いは国家(キウィタス)と呼ばれるかの偉大なリヴァイアサンを創造するが、それは人工的人間に他ならないからである。」                

◎自然の模倣のうち、国家(リヴァイアサン)は人間が技術を駆使して創りあげた人工的人間である。ホッブスは人間を「理性的で最もすぐれた作品」としたことで、人間の創造する人工的「人間」すなわち国家の諸機能を肯定し、また自然から生命を創る神のみわざを誉めたたえている。人間社会を「万人の万人に対する闘い」と性悪説風に初期設定したホッブスにとって、人間が神による自然の大いなる力に敬意を払い、忠実にその力を人間社会に再現すれば、もとは闘争したがる人間たちも社会機能の一員として行動でき、国家という秩序を造ることが可能になるのである。
 

 2.  感覚と思考の関係について説明してください。

対象→感覚→思考
思考の根源=感覚(外的対象による運動から生じた「圧力」を受けとる)

P265.12 「思考とは、それぞれわれわれの外部の物体の、ある質あるいはその他の偶有性の表象ないしは現象である。このような物体は普通、対象と呼ばれる。そして、この対象は、目・耳その他の人体の諸器官に作用し、そのさまざまな作用によってさまざまな現象を生み出すのである。あらゆる思考の始源は、われわれが感覚と呼ぶものである(というのは、人間の心に浮かぶ概念はすべて、最初は、全部あるいは一部ずつ、感覚の諸器官に生じたものだからである)。爾余の概念は、この感覚に起源を有するのである」

p266.2 「感覚の原因は、外的物体すなわち対象で、それは、それぞれの感覚にみあった器官、たとえば、味覚触覚における場合には直接に、視覚聴覚臭覚における場合には間接に、圧力を加えて感じを起こさせるのである」

p266.10 「感覚しうると呼ばれるすべての性質は、それを生じさせる対象の中にあるのだが、物質のそれだけの数のさまざまな運動にほかならず、対象は、それらの運動によって、われわれの諸器官をさまざまに圧迫するのである。圧力を加えられた我々の内部においても、それらはやはりさまざまな運動にほかならない(運動は運動以外のなにものも生まないからである)」
 

3.  情念とはどんなものでしょうか?またその中の「熟慮」と「憂鬱」について説明してください。

【情念とは】

p.267「もう一つの運動は動物的運動であり、別名、意志による運動とも呼ばれ、我々があらかじめ心に想像した通りに、行き、話をし、四肢のどれかを動かすようなことである。」

◎情念の動き。運動に表れる前の「努力」が、欲求や意欲として動物を運動させる方に向かっていく。欲求は、ときに食物に対する意欲を表す。また人が原因や方法を知ろうとする意欲は「好奇心」である。それは、人間独特の情念で、理性と同じく、他の動物から「人間」を異質なものとする。そして、自己の欲求や意欲の対象になるものを人は「善」とみなすが、一方「努力」が否定的な方向に向かうときを「嫌悪」といい、その対象は「悪」とされる。(以下参照)

p.268「ある人の欲求や意欲の対象が何であれ、それは彼としては善と考えるものであり、また彼の憎悪や嫌悪の対象は悪、その軽視の対象は『つまらぬ、問題にならぬもの』と考えるものなのである。つまりこれらの善悪及び軽視すべきという語は、常にそれを使用する人間との関連において用いられるのであって、純然たるかつ絶対的にそうであるようなものはなく、また対象自体の性質から引き出される善悪の一般的基準というようなものもない。」

◎以上善悪についての記述では、人間が個人の主観を通して事物をみることを指摘し、価値観の相対性を確認する。各人の持つフィルターを認識すると、反対に他人のフィルターを操作するのも(やがて共同体自体のも)可能になるだろう。ホッブスは序説においても人間の共通点(情念の類似性)を個人の中にみいだして、人が他人の行動を知ることができるようになると言っている。(以下参照)

p.263「この人工的人間の性質を叙述するにあたり、私は次の事を考察する。第一に、その素材と創造者(それは共に人間なのだが)について・・・第一の点について近来盛んに引き合いに出される説に、賢明さとは書物を読む事によってではなく、人間を読む事によって獲得されるものであるというのがある。」

p.264(また格言『汝自身を知れ』の意味は)「一人の人間の思考や情念は他人のそれらと類似しているから、人がもし自分自身を見つめて、自分が思考、判断、推理、希望、恐怖等々するときに、どういう事をするか、また何に基づいてそうするかを考察すれば、それによって人は同じ場合に於ける他の全ての人達の思考や情念がどのようなものであるかを研究できて知りうるであろう、ということなのである・・・ここで私は情念の類似性、すなわちすべての人間において同一な意欲、恐怖、希望等々について言っているのであって、情念の対象すなわち意欲、恐怖、希望等々のことがらの類似性について言っているのではない。というのはかかる情念の対象は、個人的資質や各自の受けた教育によって極めて多様であり、またそれらは我々が真に事物を理解するようにはなかなかさせないものだから、
偽りの、嘘の、ごまかしの、或いは誤った教説によって現在見られるような穢れ、混乱させられた人の心の性格は、心を探究する者にだけ容易に読み取れる事だからである、また我々は人々の諸行為から、ときにはその意図を探り当てる事もあるが、それらを我々自身の行為と比較せず、事情を変化せしめうるすべての条件を区別せずにそうしようとするのは、暗号を知らずに暗号文を解読しようとするようなものである。」

p.265「しかし人が他人をその行為によって非常に完全に知るとしても、それはごく少数の彼の知人についてしか、彼の役に立たないのである。全国民を統治しようという程の人は、彼自身の中に、あれやこれやの個々の人間をではなく、全人類を読み取らなければならない。」

【ふたたび情念の考察】

p.268「感覚において我々の中に実際にあるのは、外的対象の作用によってひき起こされる運動だけであって、ただ現象が・・・あらわれるのと同じように、・・・器官から心へ継続される場合にも、その結果として実際に生じるものは、運動すなわち努力にすぎないのであって、それはその運動しつつある対象への欲求又は嫌悪である。」

【熟慮とは】

p.269「人の精神の中に、同一の物事に関する欲求と嫌悪、希望と恐怖が交互に生じて、また与えられた物事をなし、あるいは回避するについての様々な善意のなりゆきが、継続して我々の思考に入ってきて、その結果、我々があるときにはそれに対して欲求をもち、あるときにはそれに対して嫌悪を抱き、あるときにはそれを成し遂げるように努力する事に絶望あるいは恐怖するという場合には、その物事が行われるか又は不可能と考えられるまで継続する意欲、嫌悪、希望及び恐怖の総計は、我々が『熟慮』と呼ぶものである。」

p.270「この欲求、嫌悪、希望及び恐怖の交互的な継起は、人間と同様に他の生物にもある。だから、獣もまた熟慮するのである。」

◎熟慮は、複雑な性質の情念である。人は、生まれてから死ぬまで繰り返し『熟慮』しながら、何かを為したり為さなかったりして、結果として形に残るものや(性質として顕れたり)表面的には顕れないもの(内面)にその後を残しながら生きていくのであろう。ホッブスは、熟慮についてさらに考察して、熟慮は過去のことや不可能だと思われることには存在しないという。前者は日本のことわざ、『後悔先に立たず』と比較できると思う。後者について彼は、不可能なことでもそれを可能と考えている場合は熟慮と認める。

p.269-270「こういった事が熟慮と呼ばれるのは、我々が自己の欲求又は嫌悪に応じて行いあるいは回避する『我々の自由』を捨てる事になるからである。」

「あらゆる熟慮は、彼らがそれについて熟慮する物事が遂行されたり、不可能と考えられたりした時に『終わる』と言われる。なぜなら我々はその時まで自分の欲求や嫌悪に応じて、行ったり回避したりする自由を保有しているからである。」

◎熟慮と意志の関係。熟慮の後、最終的行為もしくは不行為に繋がる最後の欲求又は嫌悪が『意志』と呼ばれるものである。

【憂鬱とは】

「失意は人をいわれのない恐怖に陥らせる。それは普通に『憂鬱』と呼ばれる狂乱であって、これまた様々な仕方で現れる。・・・要するに奇妙で尋常でない態度を生じさせる情念は全て、狂乱という一般的名称で呼ばれる。・・・過度の情念が狂乱であるならば、情念が悪に傾く場合にも、情念自体としては同じ種類のものであることは間違いない。」

◎狂乱について。集団の狂乱は破壊的で、その集団に属する個人も、その情念が明らかにその狂乱を担っているのである。では狂乱はどこから来るのか。霊感を受けたという場合、広く抱かれているある人々の誤りを見つけるところからはじまる。また狂乱と酒の効果を比べれば、それが過度の情念であると裏付けできる。ホッブスらは、集団の狂気は何か別のもの(悪鬼)が原因ではなく、彼らに内在する情念から起こったのだと考えた。しかし集団の中にいるものはそのことに気付かない。そうして彼は社会集団において人々を支配する思想の存在を明らかにし、それは、キリスト教の救済を民衆支配や侵略の道具とする国に攻撃的な意見だった。ところで、狂乱の原因である情念をおさめる為には、同等のしかし異なる情念や考えを刺激するのが一つの方法であるようだ。(以下参照)

p.271「かれらの多数が共謀して事を起こすときには、そうした多数の狂暴は、十分顕著なものとなる。我々の最良の友人たちに対して騒ぎたて、殴ったり投石したりする事より大きな狂乱の証拠が他にあるだろうか。しかもこのような群衆にとってはこの程度の事はほんの序の口である。というのは、彼らはこれまでの生涯を通じて自分たちを保護し侵害から守ってくれた人々に向かってさえ、騒ぎたて、戦い、それらの人々を滅ぼすからである。そしてもしこれが群衆における狂乱であるならば、それは各個人にとっても狂乱である。」

p.272「酒の効果というものは、ただ人の心の偽装を取り除き、自分の情念の醜悪さを見えなくする事にすぎない。最も謹厳な人々でさえ、気を配らず心を使わずに一人歩きしているような時に、彼の心中に浮かぶくだらない突飛な考えを人前に公表される事は好まないであろう。そのことは導きのない情念が、大抵は狂乱にすぎない事を告白するものなのである。」

p.273「ギリシャの町で狂乱の発作が流行し、それは若い処女のみをとらえ、彼女等の多くはその為に首を吊った。・・・ある人がこのように娘達が生命を軽んじているのは情念によるものではないかと疑い、娘達がその名誉をも同様に軽視するものではなかろうと考えて、そのように首を吊って自殺したものの衣服をはぎとり、裸体でさらすことを為政者に進言した。伝えられるところによると、それによってその狂乱は収まったという事である。」


『人間知性論』−ロック

 1.  ロックの経験論を説明してください。次の2点を踏まえて考えてください。
    /  神の観念はなぜ生得でないのでしょうか。
    /  観念の原泉(起原)は何であるといっているでしょう。

○ロックの経験論は「心に生得の原理はない」という第二章のタイトルに端的にあらわされている。そこでは、神の概念もまた生得のものではなく、それを教える者の思念にかなりの程度依存するのであって、人間はすべての観念を経験から得るのだとされる。
                  ↓
P281.3 「いっさいの観念は感覚もしくは内省から来る
心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。・・・これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底をもち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。外的可感的事物について行われる観察にせよ、私たちがみずから知覚し内省する心の内的作用について行われる観察にせよ、私たちの観察こそ、私たちの知性へ思考の全材料を供給するのである。この二つが認識の原泉で、私たちのもつ観念あるいは[本性上]自然にもつことのできる観念はすべてこの原泉から生ずるのである」

○感覚と内省
p281.14 「第一、私たちの感官は個々の可感的対象にかかわって、それらの対象が感官を感発するさまざまな仕方に応じて事物のいろいろ別個な知覚を心へ伝える。こうして[たとえば]私たちは黄や白や熱いや冷たいや柔らかいや硬いや苦いや甘いや、すべての可感的性質と呼ばれるものについて私たちのもつ観念をえる。これら観念を感官が心へ伝えると私が言うとき、その意味は、そうした知覚を心に生むものを感官が外的対象から心に伝えるということである」

p282.4 「第二に、経験が知性に観念を備える他の原泉は、知性がすでにえてある観念について働くとき私たちの内の私たち自身の心のいろいろな作用についての知覚である。この作用は、霊魂が内省し考察するようになると、外の事物からえることのできなかった他の一組の観念を知性に備える。それらは知覚や考えることや疑うことや信ずることや推理することや知ることや意志することであり、、私たち自身の心のいっさいのさまざまな働きである。これらを私たちは自分自身の内に意識し観察するので、感官を感発する物体から受け取ると同じ判明な観念を私たちはこれらから知性へ受け取るのである」
 

 2.  複雑観念はどのようにしてつくられるのでしょうか。

【複雑観念の出自/その機能】284     

「心はそのすべての単純観念を受けとるにあたって全く受動的であるが、また心自身の働きをいろいろ発動させて、単純観念以外の観念をその材料であり根底である単純観念から形成する。」

「心がその単純観念の上に力能を発動させる働きは、主として3つである。 
           (混ぜる、整列、焦点)
一、いくつかの単純観念を一つの複合観念に集成すること。こうして一切の複雑観念が作られる。
二、単純観念であれ複雑観念であれ、二つの観念を一緒にし、互いに側へ置いて、一つの観念に合一せずに一度に眺めることであり、このやり方で関係の全ての観念が得られる。
三、観念を、その実在するときは同伴する他の全ての観念から分離する事であり、これは抽象と呼ばれ、こうしてすべての一般観念が作られる。

【能力/特徴】284−285 

p.284-285「観念を反復し、結び合わせるこの機能の場合、心は感覚あるいは内省の提供するものを無限に超えて思惟の対象を模様替えし、ふやす大きな力能を持つが、これもやはり全て単純観念に、すなわちそれら二つの原泉から受け取って心のあらゆる構成の究極の材料である単純観念に局限される。・・・心は自分自身の力能によってその持つ観念を寄せ集めて、そのように合一しては一度も受け取った事のない新しい複雑観念を作れるのである。」
 

 3.  観念の連合について説明してください。

p288.14 「私たちの観念には、相互に自然の対応と結合のあるものがある。そうした観念をたどって、その独自な在り方を根底とする合一と対応のままに観念を一緒に保存すること、これが、私たちの理知の任務・長所である。[が、]このほかに、偶然あるいは習慣にまったく起因する別の観念結合がある。すなわち、それ自身にはすこしも同類でない観念が、ある人たちの心で固く合一して、分離することがひじょうにむずかしいほどになる」

p289.6 「観念のこうした強い集成は、自然に結ばれず、心が自分自身に有意的もしくは偶然に作る。そこで、人が違えば、それぞれの違った傾性や教育や感心などに従って、たいへん違ってくる。習慣は、意思決定や身体運動の習性ばかりでなく、知性の思考習性まで定めるのである」

p290.5 「私たちの心にみられる、それ自身には結ばれず、相互に独立な観念の、こうした正しくない結合は、大きな影響力をもち、私たちの自然的[物的身体的]活動ばかりでなく、道徳的[精神的]活動で、情緒・推理・思念自身で、私たちをゆがめる大きな力があるので、これ以上に見守るに値する事物は、おそらくなに一つないのである」

p290.18 「観念のこういう正しくない不自然な集成のあるものは、哲学・宗教のさまざまな流派の間の融和できない対立を確立すると、見出されよう。というのはそうした流派の追随者たちのだれもみな、故意に自分自身をだまし、平明な理知の呈示する真理を、真理と承知しながら拒否するとは、想像できないのである」


『人性論』−ヒューム

 1.  人間学に対する従来の見解に対するヒュームの立場は?

【人間学を重視するヒュームの見解/序論から】 296−300

「如何なる重要な問題もその解決は人間学のうちに包含されていて、人間学に通暁する前にわずかなりとも確たる解決を与えうる問題は何一つないのである。」

(我々は人性の諸原理を解明しようとするとき)「殆ど全く新しい根底の上に、しかも諸学が安固たりえる為には絶対に欠くべからざる唯一の根底の上に築かれた諸学の完全無欠な体系を目論んでいるのである。」

「人間学のこうした進歩が自然学の進歩に比して祖国の名誉でなかろうと考えてはならない。むしろかえって、更に栄誉であるべきと思うべきである。なぜなら人間学は自然学より重要であり、またかような改革を是非とも必要としたからである。というわけは、・・
心の本質は外物の本質と等しく我々に未知である。従って細心かつ正確な実験によらない限り、すなわち心の様々な事情及び状況から起こる個々の結果の観察に拠らない限り、心の種々な力脳及び性質に関する何等かの思念を造ることは、外物の場合と等しく不可能であるに相違ないからである。但しあくまで実験を行い、すべての結果を極めて単純かつ極めて小数の原因から解明し、よって以って全原理をあたう限り普遍的ならしめるようにつとめなければならないとはいえ、しかもなおかつ経験の範囲を越えることはいかにしても不可能である。従って人性の窮極・根原の性質を見出したと称する仮説は如何なるものも僭越・虚妄としてはじめから斥けるべきである。」(経験論的)

◎ヒュームによれば、経験を越えて精神の究極原理を追求しても、人性学を極めることはできない。究極原理を解明できないことは、ほかの一切の学問や技術、芸能にも共通するから特別短所としてあげつらうこともない。それらでさえ経験を越え得ず、経験をもとに研究すべきである。しかし、自然学にはないが、精神学では、心が不安定なだけに実験をするときに条件をそろえたり、正確な結果を導き出すのが難しい。
 

 2.  「人間の心にあらわれる一切の知覚」はどう区分されますか?

○印象と観念
p300 「およそ人間の心にあらわれる一切の知覚は、帰するところ、二つの別個な種類となる。私はその一つを『印象』と呼び、他を『観念』と呼ぼう。両者の相違は、両者が心を打って思想ないし意識へ入り込むとき両者に伴う勢と生気との程度にある。極めて勢よく烈しく入って来る知覚は、これを印象と名づけることができる。そして私は、初めて心に出現した感覚・情緒・情感の一切をこの印象という名称の下に包括する。また私は観念を以て、思考や推理に於けるこれら感覚・情緒・情感の淡い影像を意味する」

○単純と複雑
・印象と観念の両方に及ぶ
「単純」:区分または分離を些かも許さない
「複雑」:部分に区別できる

○記憶と想像:観念の顕れかた
「記憶」:新しく出現するに当って初めの活気を多分に保留して印象と観念との中間の趣を示す場合
「想像」:最初の活気を全く失って完全な観念である場合
 

 3.  「抽象観念が特殊的である」ということに対するヒュームの証明は?

【抽象観念とは】p.303   
一般観念をつくるとき、大部分のものは量および質の程度を全く捨象されていて、それを抽象観念という。抽象観念は少々特性に変化が見られようと、本質は変わらない。
                   
◎彼の証明したかったことは、当時の「抽象観念(一般観念)は心がそれを想うとき果たして一般的であるかあるいはまた特殊的であるかという疑問」において、ある哲学者が「全ての一般観念は一定の名辞と結び付けられた特殊観念にほかならなく、この名辞が自己と結び付いた観念に普通より広汎な表示範囲を与えて、機に応じて相似の個別観念を思い出させるのである、と主張した」ことにたいして、その説を証明しようとした。

「例えば、人間という抽象観念はあらゆる大きさおよびあらゆる性質の人間を表すが、そのためにはこの抽象観念が人間の有り得る大きさ及び有り得る性質を悉く一時に表すか、さもなければいかなる特殊な大きさも性質も全然表さないか、そのいずれかでなければならない、と推断される。・・・(これまでは二つのうち)前者は心の無限能力を含む故、これを擁護することは不合理であると見なされてきた。従って今日までの推論は普通には後者に傾いて、抽象観念は量あるいは質のいずれにおいても何等特定の程度を表さないと思われてきたのである。しかしながら、私は以下においてこの推論が誤っている所以を努めてあきらかにしよう。そのため第一にいかなる量も質もその程度に関する精密な思念を作らずにはまったく思い得ない点を証明し、第二に心の能力は無限でないとはいえ、しかも我々は内省や座談の目的には不完全ながら少なくとも常に役立ち得るように、量及び質のあらゆる可能な程度の思念を一時に作ることができる点を明示しよう。」
 

 4.  情緒とその相互関係について説明してください。

○直接と間接
「直接情緒」:善悪・快苦から直ちに起るようなもの
         欲望、嫌悪、悲哀、喜悦、希望、恐怖、絶望、安堵
「間接情緒」:他の性質と連接して始めて生ずるようなもの
         自負、自卑、野心、自誇、愛情、憎悪、嫉妬、憐憫、邪意、寛仁

○直接情緒と間接情緒は共に快苦を根底として生まれるものであり、相互にはたらきかける。
p316 「例えば、一揃いの美服はそれから快を産む。この快は直接情緒を、すなわち意欲および欲望の印象を、産む。が更に、衣服が我々自身に属すると考えられるとき、二重関係はわれわれに自負の心持ちを伝える。この心持ちは間接情緒である。そしてこの情緒に伴う快は直接情念へ戻って、欲望ないし意欲とか喜悦ないし希望とかに新しい勢を与えるのである」

○他の人物にもはたらきかける:直接ではなく:「共感」
p317.15 「いったい、他人のいかなる情緒も直接には[我々の]心に現出しない。我々はただ、他人の情緒の原因或は結果を感知するだけである。これら[原因あるいは結果]から我々は情緒を推論する。従って、これら[原因あるいは結果]が我々の共感を生起するのである」


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