『社会科学の論理−ドイツ社会学における実証主義論争』 アドルノ・ポパー他 著・河出書房新社
担当:上野山・江西・鈴木
●1 批判主義的な立場はどのような立場か。知と無知との緊張関係が
どのように描かれているか、ということを参考にして考えてください。
(第1テーゼ〜第7テーゼ)
まずポイントは、批判に耐えた解決案が「暫定的」なものに過ぎない、というところにあります。知と無知との緊張関係のもとで発見された問題、言い換えれば、自分が持っていた既存の知識体系では解決できない事実に気づいたときに生じた問題、に対する解決案が、第6テーゼに述べられている虚偽性の立証の手続きの過程で、現在のところ、考え得るあらゆる批判に対して耐えうるものである場合に、暫定的な、あるいは試行的な解決案として受け入れられる、ということです。
したがってポパーがこの論文において、まず「知と無知の対立関係」についてから語りはじめるにあたっての問題意識としては、そのように常に「暫定的」な解決案にすぎない理論に対して、もはや「暫定的」という条件を省みることなく、すべての事実に対して客観的に適用できるんだ、という神話が一人歩きしているということがあると思います。それはアドルノの一文目にも集約されていました。
「アカデミックな学科としての社会学という名の下に一括されている諸々の処理方法は、最も抽象的な意味でのみ、相互に結びついている」
この文章は肯定的にではなく、否定的に書かれたものです。つまり方法も対象もバラバラな社会学は、最も抽象的な意味「でしか」相互に結びついて「いない」、ということです。
さらにそれに続いてアドルノは、社会学において行われている主な2つの処理方法について述べていましたが、その一方の傾向として、「[社会の]活発な営為を背後でひそかにしめくくっているものに、名を与えようとする」理論を挙げていました。
つまり理論は、(社会の背後に)単に存在するに過ぎないものの無意味さに耐えられないがために、それに対して「名を与えよう」とする。なぜなら「名を与える」ということは同時に対象に対して意味を付与することであるから。そしてそのような衝動が「世俗化」され一人歩きすることになると、もはや誰が名を与えたかということは問われなくなる。つまりそのような行為によって形成された理論は一種のイデオロギーとして永遠化されてしまう。そしてそれを支えるのが、権威主義的な、あるいは閉鎖的なアカデミックな学科であると。
ポパーもそのような集団に対する批判として直接は言明していませんが、後のところで出てくる「科学者の相互批判的な作業」のところで、明らかに批判精神を失った科学者集団に対する異議申立てが行われていると解釈できます。そしてその根底に知(知識)の絶対化に対する批判があるのだと考えれば、「知と無知との緊張関係」を持ち出すことの必然性が理解できます。
@「知」:既存の知識体系に基づいた観察の中で、多様な事実をその中に取り込んでいくことによりさまざまな現象を説明することができるようになること:「世界に関する深い理論的洞察と驚くべき理解」
A「無知」:既存の知識体系では解決できない事実に気づくことによって問題を発見するということ。したがって「無知」というのはただ単に「知らない」ということではなく、「何を知らないかを知っていく」作業になる。なぜならポパーによると、すべての問題は「知らない」ことを知ることによって生じるからである。
BCそしてそれは同時に認識の始まりでもある。なぜなら認識は白紙の状態から始まるのではなく、知と無知との緊張関係から生じた問題意識をもとに資料や事実の収集が行われるからである。
DEFしたがってそのような問題に対する解決案やそれに対する批判(反証例)は、クーンのときに確認したように、どうしても既存の言語体系にとどまったものであるため、つねに「われわれの無知が明らかになる可能性を原理的にはらん」だものとなります。したがってそれを絶対的な解決方法として祭り上げるのではなく、「単に暫定的なもの」にすぎないんだと。これがポパーの批判主義的な立場の根本にある考えである。
●2 科学の客観性に対してはどのように考えているのか。
(第7テーゼ〜第13テーゼ)
まず、誤った(誤解に基づいた)自然主義にもとづいた自然科学の方法に対する神話に対してポパーは異議を唱えます。なぜなら1番目の問いにもあったように、認識の出発点としてはまず問題があるのであって、知覚や観察がまずあるのではないからです。したがって
「まず観察と測定からはじめよ。例えば統計調査からはじめよ。その後で帰納的に一般化をすすめ、理論構成に至れ」(P.113)
という要求は、まったくの神話にしか過ぎない。しかし自然科学やこのあとに出てくる人類学は、このような神話に基づいた「自称」客観的な方法に従属することによって、圧倒的な勝利を得ることになります。そのとき自らの枠組みを省みることはありません。なぜなら
「いわゆる学科なるものは、問題と解決の試みについて区分され構成された一団にすぎない。現実に存在するのは、諸問題と科学的伝統なのである」(P.114)
というところから分かるように(クーンでさんざんやりましたが)そのような狭い集団の中においては、まわりのことは何も気にせずにひたすら自分たちのパラダイムに基づいた通常研究を行うのみだからです。
ポパーはそのようなものは客観的ではないと言います。
「自然科学者はすべての人間と同様に党派的である」(P.118)
「通常きわめて一面的かつ党派的な態度で自己の理念に固執している」(P.118)
つまり
「科学の客観性が科学者の客観性に依存しているというのはまったく誤った仮定である」(P.118)
としています。だから、社会的立場に非客観性があり、科学者個人の行動に客観性があるということはありません。
ではポパーの考える客観性とはどういうものかというと
「ひとが科学の客観性と呼びうるのは、唯一もっぱら批判的伝統、すなわちあらゆる抵抗にさからって支配的なドグマを批判することを可能にして来た伝統のうちに存在する」(P.118)
ということになります。つまり、解決案はあくまで暫定的なものにすぎないから、一時的に受け入れられた解決案を絶対視して、批判精神を失った独断論に陥いってはならない。また、科学者個人だけでなく、科学者集団の間においてお互いに批判を重ねていく、という作業を続けてきたということとこれからも常に批判にさらしていくこと。さらに、それを可能にしてきた社会的・政治的な関係が重要である。これを、科学の客観性としています。そして、この客観性が説明できる条件を、「社会的カテゴリー」と言っています。
さて、クーンもポパーも科学の客観性について言及していますが、
それぞれどのように違うのでしょうか。まず、クーンは
「個人的、歴史的偶然にいろどられた恣意的要素が、常に一時期における一つの科
学者集団の所信の形成要素となっている」(『科学革命の構造』p.5)
といっており、通常科学において、科学者は自然を一つの箱の中に押し込むことができるという絶対的な確信をもって研究を行う、という科学者の姿を描くことによって、パラダイム内における科学の(洗練化という意味における)進歩を認めてはいるが、そこから得られた理論を唯一の絶対的なものとすることに対しては異議を唱えている。なぜなら
「証明よりも説得を問題とするなら、科学的論議の本質についての問に対しては、単一にして一様な答えが存在しない、ということになる」(同上 P.172)
からである。
しかし、クーンの言うパラダイムというものは、ポパーに言わせてみれば、
その存在すら批判されるべきものとします。常に相互批判作業をすることに
よって、「真理」へ「接近」していくことが科学の客観性と考えるからです。
クーンは客観性がどうあるべきというところまでは言及していませんが、
2人とも、自己を省みず、研究をおしすすめる科学に対する批判をしている
という点では共通していると思われます。
●3 「価値自由」に対するポパーの解釈はどのようなものでしょうか。(第14テーゼ)
まず、「価値自由」と言ったからといって、完全に価値を持たない(没価値的な)状態を意味ているのではありません。なぜなら
「われわれは科学者から、彼の人間性を奪うことなしに、彼の党派性を奪うことはできません。全く同様に、われわれは人間として、また科学者としての彼を抹殺することなしに、彼に価値判断を禁じ、彼から価値判断をとりあげることはできない」(P.120)
からです。では価値自由とはどのようなものかというと
「科学にとって可能かつ重要であり、科学に独自の性格を与えるのは、真理探究に属さない関心を純科学的な真理への関心から排除することではなくて区別することである」(P.119)
つまり純科学的な価値から科学外的な価値を排除することは不可能ではあるが、すくなくとも区別しなければならない、ということになります。なぜならそれを区別することなく、またそのための努力をすることなく無批判に受け入れるならば、その背後にある「イデオロギーや社会通念」を強化する方向にしか進まないからです。だからこそ批判にさらすことによって、それを区別することが重要となるのです。しかしそれが簡単にできるものとはポパーも考えていません。
「科学的な仕事を科学外的な応用や価値判断から解き放つことは不可能だとしても、価値領域の混同を防ぎ、とりわけ真理問題から科学外的価値判断を除去することは、科学的批判と科学的討論の課題である。もちろん、こうしたことは訓令によって一度に実現するものではない。むしろそれは、科学的な相互批判にとって永続的な課題である。純粋科学の純粋性とは、おそらく到達しえないであろう一つの理想にほかならない。しかし批判は、この理想を目指して絶えず闘い続けるし、続けなければならない」(P.119)
●4 演繹論理が合理的批判の理論になるのはなぜか。
(第15テーゼ〜第20テーゼ)
演繹論理において、前提は理論と初期条件からなり、結論は被説明項(前提から導き出され因果的に説明されるもの)という形をとる。このことからその場限りの説明しか為し得ないものと、十分に耐え得る説明を為し得るものを区別することができる。(「歴史的・個性記述的科学と理論的・法則定立的科学」P.123)
演繹論理が批判の道具として用いられるのは、その手続きが、「前提から結論に真理を移行させる」ということにあるからである。つまり前提が真であれば結論もまた真でなければならないし、もし結論が偽であれば(反証例に耐えられなければ)、前提はすべて真である、ということはできない。したがって「真である」というためには言明と事実が完全に一致、あるいは対応していなければならない。
「なぜなら、合理的批判はすべて、批判さるべき主張から承認しがたい結論が導かれることを明らかにする試み、という形態をとるからである。もしわれわれが、ある主張から認めることのできぬ結論を論理的に導くことに成功したならば、その主張は反駁されたといえる」(P.121)
そしてこのとき反証に耐えたものが暫定的に受け入れられるのであるが、その理由は、それが別の理論よりも「より多く」真であり、かつ「より少なく」偽であると証明されるからであって、決してすべての真理を含んでわけではない。したがってポパーにとって科学の進歩とは、「より多くの」真なる部分を導き出せるような理論によって引き起こされるものとして考えられている。
●5 状況論理とはどのような方法でしょうか。
(第21テーゼ〜第27テーゼ)
状況論理の方法は、完全には客観的でありえないすべての科学を、唯一客観的にみなしうる方法である。そこで行われる状況分析は、「合理的理論的な再構成」となり、より「真理」に近いもの(*注1)であるし、批判・改善可能である。(P.126と以下参考)
参考;真理に関して
「真理概念はここに展開した批判主義にとって欠くことのできないものである。われわれの批判の対象は真理を要求している。ある理論の批判者としてわれわれが明らかにしようとするのは、いうまでもなく、理論の真理要求が正当でないこと、理論が虚偽であることである」
「われわれは、ある言明が事実に一致ないし対応しているとき、あるいは言明が叙述している事物がまさにそうあるとき、その言明を『真である』という。これは、われわれすべてがつねに用いている、いわゆる絶対的・客観的な真理概念である」
「このような説明は、真理概念の基礎がゆらいできたという事実を前提にしています」(以上P.122)
参考;科学の客観性に関して
「およそ純観察的科学などというものは存在しない。多少とも意識的かつ批判的に理論化している科学だけが存在する。このことは社会科学においても当てはまる」(P.124)
「社会科学においては客観的理解の方法ないし状況論理と呼びうるような純客観的方法が存在する」(P.125)
ここで、主に第25テーゼから、状況の論理という手法と、行動主義に類似点が見られるように思われたので、考えてみた。
状況論理と行動主義心理学の似通っている点は、ともに、フロイトに代表されるような内観を重視する心理学的手法を認めないで、「客観的な状況の要因」(P126)を重視するところである。内観心理学が、個人の心の動きをあくまでも個々の事例として分析するのに対し、行動主義心理学は、人間心理がある種の行動パターンに準拠する、または一定の分析状況に還元できるとする。
ただ、状況論理の方法では、暫定的に真理に近いものであって、いつでも批判されうるので、決まった手法というものは存在しない、という点で、行動主義とは異なる。また、内観心理学におけるフロイトの精神分析学では、個人の心をその人の置かれた状況(家族、職業など)を通して分析するところから、案外、状況論理の前提条件と共通するものがあるといえよう。
また、内観心理学において重要視される個々人の心がどのように動くかの条件には、社会関係の影響が欠かせない(*2)以上、内観心理学すら、状況論理に基づいて分析をなしうる。
「われわれが原理上、心理学的に説明できないもの、むしろ心理学的説明において常に前提にせざるをえないもの、それは人間の社会的環境であります」(P.125)
しかし、行動主義と状況論理は類似するようにみえる一方、そういったものも含めて、ポパーがいうように状況論理に基づく客観的な社会科学は「いかなる主観的ないし心理学的諸観念にも依存することなく展開される」(P.125)(これが、ポパーのよく用いる「客観的」であろう)とはっきり区別している。そこで、どのような違いがあるのかを、それらの方法論上から考えると、
「彼ら(行動主義者)は、感覚、知覚、心像、欲望、目標、思考、および情動のようなあらゆる術語を、主観的に定義されているという理由で、彼らの学問上のことばから振るい落としてしまった」(『原点による心理学入門』P.519)
行動主義は、主観的な要素を排除(無視)して、すべての行動を条件に対する反応として説明しようとする。一方、状況論理の方では、
「(客観的な社会科学は)人間の行動を・・・状況から説明しうるように、人間の状況を充分に分析するところに成立する」
「初めのうちは心理学的な要素にみえたもの、たとえば願望、動機、記憶、連想といったものを、状況の要因に変換するに至るまで状況を分析するのである」(P.125)
つまり排除するのでなく、心理学的に見られる要素を、外から与えられた理論や情報をもつ、または目標を追求するなどの、そのときの置かれた状況にまで還元するのである。
*注1:ウェーバーの設定した「理想型」が類推されうる
*注2:ポパーがこのような方法を取るのは、その対象が個人のみにとどまらないからです。人間が生まれたときにはすでに社会的環境が存在します。したがって、彼の行動を分析するには、彼と、彼を包み込む社会環境との間のインタラクション(それを「状況」という言葉で表しています)を(合理的批判によって)分析する必要が生じます。
≪考えてね、の問題≫
●ポパーの信念とはどのような問題意識から生じたものでしょうか。
(現代の宗教的哲学的不安とは?)
◆批判の「真理」
第2、7、11、12、20テーゼ などから
無知、問題、認識論、真理、批判主義、科学の客観性、神、自然、発展
ポパーは、クーンを批判していることに象徴されるように、科学の平常状態を、問題を認識するところに設定している。ポパーの認識論によると、問題を認識することが重なって「知識」がつくられるのだから、すなわち無知であることをいつも認識する。それが批判主義の前提であるのだろう。
「われわれのどこまでも不断に増大していく知識と、われわれは本来何も知らないのだという次第に深まっていく洞察とのあいだの関係を明らかにしなければいけない」(P.110)
ところで、ヨーロッパ世界においては、古代から中世まで、人は自然(自分の環境世界)を自分達の手に負えない存在であるため畏れていた。その片鱗は「神の絶対性」を説く神学の原理、または伝統的なカトリック教会の儀礼にもあきらかであろう。近代においては自然は利用価値を評価されるようになっていった。科学技術、産業の発展のおおもとは自然観の変化から発祥した。人間は、未知であった自然を利用する、という新しいことに関心をもち、利用価値を知り、知識が増え、発展していくこと、便利になっていくことに喜びをみいだした。「発展」が美徳となっていった。だが、その一方で、知識が増え、発展していくことが、いかに問題認識を無限に増やし、無知が強調されてきたことだろうか。
「無知の知」は古代の哲学者ソクラテスの言葉である。ソクラテスの知とは無知であることを知ることであり、ポパーはそのことを第2テーゼと最後の感想で、即ち「無知の知」からこの論文を書きはじめ、同じように、強調して終えている。ここに、ポパーの信念が込められていると思う。
「私はわれわれは何も知らない、すなわちわれわれの理論は決して合理的に正当化しえないのだということを発見した」(P.127)
彼は「合理的批判主義」と呼ばれる実証主義の立場を打ちたてたとされるが、しかし、ポパーの批判主義は、決して新しい理論でなく、先人に対する批判を可能にしてきた哲学の伝統に従っている。彼は人類の歴史的な流れを読み取り、その流れに従おうと、その伝統の最も大切である点を明確にあらわすべきだと決意したのではないだろうか。
「科学の客観性」のところで、彼はどんな科学も通約可能(クーンのパラダイム論を通約不可能性と称したのに対し)となり、従って批判可能になるとする。または、批判可能でなければ客観性をもつ「科学」といえないという。社会的な諸関係を同じくする諸科学者達が「科学の客観性」に準ずる「状況の論理」に従うなら、相互に批判可能であり、だからこそ特定のドグマにとどまらないでいられたのである。
そして彼は、「真理」には、到達することはできないけれども徐々に接近していけるという。その「真理」は、古代中世には、人々が当然にその存在を信じてきた絶対的な「神」観念に相当する、歴史を通して、人類が連続的に持ち続ける必要のある観念であろう。それをどのように合理的に認めて、分化を続ける現代社会で共通の思考土台を築くかを、彼は暗に考えていたのかもしれない。この論文で、彼は古代から発展してきた自然科学も、それと袂をわかってきた哲学も、近代に成立してきた社会科学ももとをたどれば「科学の客観性」の部分でつながることができると考えている。彼のあらわす立場から、私は、彼が、古代の精神を思い出してくれるよう唱えているように思えてならない。
◆真理概念と人間の変遷:古代〜中世〜近代〜現代
▲ 古代における真理概念、及び神の概念は、それ自体あるものとして考えられていた。たとえばアリストテレスにおいては、神の概念を背景として存在するものと考えた上で、人間が自然の中でどのような位置を占めるかということに目を向けることによって、霊魂が食物・動物・人間の各段階でどのように現れるかを分析する。したがって霊魂の定義はバラバラなものではなく一つだけだとされる。なぜならその背景には神の概念が存在するからである。
「ところで霊魂の定義と形の定義とは同じ仕方のが一つあるきりであろうということは明らかである。というのは後者の場合には形というものは三角形やそれに続くいろいろな形のほかにあるのではなく、また前者の場合には霊魂というものが以上に述べられた霊魂のほかにあるのではないからである。しかしいろいろな形の場合にもそれらに共通の定義がありうるだろう、そしてその定義はすべての形に当てはまるだろうが、しかしどの形にも独特なものではないだろう。以上のいろいろな霊魂の場合にも同様である」(『原典による心理学入門』P.51)
▲ ところが中世になると、それまでそれ自体として存在していた神の概念が、人間との、あるいは人間の心理との結びつき(関係性)の中で捉えられるようになる。そのとき、神の概念は絶対的なものと考えられるわけだが、人間との関係で捉えられる以上、それぞれの人間にとっての神概念が一致を見なくなるというのは避け難い。以下アウグスティヌス『告白』より。
「しかし、私の「記憶」の測り知れない受容力が保持しているものは、これらのものだけではありません。そこには、自由学科から学んで、まだ忘れ去られていないすべてのものがあります。それらのものは、(「心象」が保持されているところより)さらに内なる場所にあるように見えますが、実は場所にあるのではありません。また、私が保持しているものはそれらのものの、「心象」ではなく、それらのもの自体です」(『原典による心理学入門』P.124)
▲ さらに近代において、神は人間から切り離され、人間自体が考察の対象とされることとなった。その背景としては、一方で人間を(あるいは世界を)科学と芸術によって表現し、また一方では人間を社会的な存在として捉えたルネサンスの影響が考えられる。以下デカルトの『情念論』より。
「すなわち、われわれのうちには、もろもろの思考以外に、精神に帰すべき何ものも残っていない。そして、その思考には主として二種類のものがあり、その一は精神の能動であり、その二は精神の受動である。私が精神の能動と呼ぶのは意志のすべてである。なぜなら、意志が直接精神に由来していること、かつそれがただ精神にのみ依存しているらしいことは、経験によって知られているからである。これに反して、われわれのうちに見出されるあらゆる知覚あるいは認識は、これを一般に精神の受動と呼ぶことができる。なぜなら、それらを現に知覚あるいは認識たらしめているのは多くの場合精神ではなく、また精神はすべての場合にそれらを、それらの表象しているものから受け取るからである」(『原典による心理学入門』P.164)
▲ このようにして近代以降ますます人間を中心とした真理概念が追求されるようになったと考えるならば、現代において(ポパーが指摘するように)「真理概念の動揺」は避け難いものとなり、その結果「真理とは客観的に実在するものでなく、時代時代に応じてそれぞれの真理があるのだと考える歴史的相対主義」や「真理とか科学というものは一定の集団なり階級に相応したものとして、例えばプロレタリア科学とかブルジョア科学といった具合に存在するのだとする社会学的相対主義」(P.117)が生まれるのは必然的な結果といえる。
しかしポパーにとって完全なる真理とは、人間には知ることのできないものであり、それを「合理的に正当化」したり、「蓋然的に正しいもの」として証明することは単なる独断論にすぎず、人間にできることはといえば「より良いものをより悪いものと区別すること」に過ぎない。したがって真理を到達可能なものとするのではなく、常に批判を通じて「より良いもの」を見出していくしかないんだということになります。そしてそれはソクラテスよりも前に言われていたことなんだと。
「初めから神は死すべきものにすべてのことを打ち明けなかった。
だが時の経過と共に我らはより良きものを求め見出す」(P.128)