『カントの自律に見られる共生の自由観』
―現代自由に対するアンチテーゼ―
関西学院大学総合政策学部2001年卒 堀川敏寛
―目次―
序論 共生の自由観
第一節 自由と共同性
第二節 カントの共生の自由観
第一篇 近現代の自由観
第一章 問題となる近現代の自由
第一節 操作万能の自由
第二節 不自由な操作万能と共生の自由
第二章 自律と近現代の自由
第一節 バルッチの自律
第二節 カントの自律
第二篇 カントの共生の自由観
第一章 カント自由観の根本的立場
第一節 ア・プリオリな演繹
第二節 経験論の排斥
第三節 超越的の排斥
第四節 他律の排斥
第五節 超越論的演繹
第二章 実践理性(意志)の働き
第一節 理性的存在者と意志
第二節 感性界と悟性界
第三節 カントの自由:自律
第三章 道徳法則の形成と共同性
第一節 目的の国による共同性
第二節 定言的命法(道徳法則→意志)
第三節 自己を律す格律(意志→道徳法則)
第四節 定言的命法は可能であるか
第四章 道徳法則と隣人愛
第一節 肉(傾向性)と霊(普遍道徳法則)
第二節 善悪の捉え方の相違
第三節 カントのキリスト教理解
第四節 道徳法則としての隣人愛
第三篇 現代大衆消費社会と共同性
第一節 大衆消費社会構造:大衆と支配者
第二節 仮言的命法に生きる現代の人間
第三節 カント共生観の現代的意義
序論 共生の自由観
第一節 自由と共同性
本論文の主要テーマは「現代社会における共同性」であり、このテーマを探求するために「共生の自由観」を取り扱う。それは共同性を論ずるに当たって、「自由」を切り口として話を進めることである。
「現代社会における共同性」というテーマを取り上げる理由は、「近代以降確立されて行った人間の自由意志が、共生に向けられるというよりは、共同性の破壊に通じたのではないか」といった問題意識からである。そして現代社会の共同性の問題を捉えなおすことで、それが共同性の破壊を克服できることが望まれるべきあり方である。
鎌田は、「近代市民の特徴は、既成の価値基準を乗り越え、様々な困難に打ち勝って、自分たちの正しいと信ずる道を進む強い意志であった。 」と述べ、近現代人の特徴をその「意志」を使うところにみる。我々現代人はこのような意志を備えている。だからこそ、我々が意志をどのように扱うかという「自由」が問題なのである。自由を共同性の崩壊へ駆使するのか、それとも自由を共同性に生きるために駆使するのか、それが我々の問題とすべき「共生の自由観」である。
本論文は三篇構造になっている。第一篇では問題とされる近現代の自由が共同性の崩壊の方向へいたることを論ずる。それは「操作万能の自由」の作用によるものである。第二篇では、共同性に生き共同性を確立することを目的とした、近現代の自由観を論ずる。それはカントの実践理性によって述べられた「自律(Automomie)」による自由観である。つまりカントの自由観に共同性の可能性をみるのである。第三篇では、このカントの述べる共生の自由観が現代の社会構造にどのように適応されるかを論ずる。
第二節 カントの共生の自由観
本論文の主要な位置をしめる「カントの共生の自由観」は、自由を二つの目的に従って行使することにある。一つは、人間が自己の欲望に流されるままに生きる「傾向性(Neigung) 」を制限することである。もう一つは、個々人が共同性を配慮した上で、自分の行為を律して生きるよう意志を働かせることである。
カントの共生の自由は、これら二つの目的のために我々が生きることで達成される。我々が共生の自由に生きるよう、カントが求めたものが、万人に共通する普遍的な法則である。それを「道徳法則(道徳律)(Sittengesetz)」という。そしてこの普遍的な道徳法則が一体どのようにして形成され、また人間自由がどのようにしてこの普遍法則から導出されるかを考察した 。カントは人間の自由を探求する学を道徳学と名づけ、自由観を、普遍道徳法則と人間意志との関係性にもとづいて探求するのである。
第一篇 近現代の自由観
第一章 問題となる近現代の自由
第一節 操作万能の自由
我々人間にとって現代の自由観がなぜ問題であるのか。バルッチは学術論文『操作万能の自由』において現代の自由を「操作万能の自由(Die Freiheit der Machbarkeit)」と名づけている。その操作万能の自由とは、自分にとって不可能なものを征服し、自分で可能性を切り開いて行くことである 。操作万能は人間が何かを施行することができる自由にとどまらない。それは更に、操作の「可能性」までをも人間が作り出していく姿勢を表している 。この操作万能が現代社会に蔓延している自由観であり、人間はこの可能性をも操作できる文化を培おうとしていると、彼は主張する。
この操作万能性が生じた理由を、彼は次のように述べる。それは我々が近代以降、自由を自律であると規定して来たからであると 。それゆえに、我々は自由を全て自身で決めることができるものであると解釈し続けた 。そして自由の他の意味を除外して来たのである 。それに対し彼は、自由とは一定の意味付けでは定義できぬ多様な意味を含むものであると反論する 。
第二節 不自由な操作万能と共同性の崩壊
近代以降、自由を自律と一義的に捉えたことがなぜ問題であるのか。それを彼は現在の我々は、かつてないほどに不自由になったためであると述べる 。それは現在の人間は操作万能の自由観によって自由であるかのように錯覚しているが、実は不自由になっているという意味である。
その理由は、一つには我々が自由に生きていると思っていることが、メディアが提供してくれている枠組みの中での話に過ぎないことである。我々が自由に消費活動が行ったり、意見を述べたりしているのは、与えられた枠組みの中での話である 。
二つ目は、我々が自分の都合で行為できることを自由と捉え、自己の利益ために自由を行使する生き方を求めていることである。このように生きることは自分にとって自由であるように思える。ところが、これは個々人が望むことを、好き勝手に行使できることが自由と思っており、それは自由が暴走しているに過ぎない。よって、このように個々人が自分の利益を求めて生きることは、社会全体としての共同性を配慮せずに、自由を行使することである。それは他者との関わりや社会全体としての利益には目もくれずに、自己に固執することである。このように生きることはまさに共同性の崩壊を意味する。
彼の主張する不自由とはこの共同性の崩壊のことを表しているに違いない。操作万能の自由は個人に焦点が当てられた半面、共同体における共生をおろそかにした。つまり操作万能性は共同性と対立する形での自由なのである。そして我々はこの自由を行使したがゆえに、現代社会の共生、共同性の問題が浮き彫りになってきた。彼はこの共同性の崩壊を意識したため、操作万能性を「自由の最後」や「自由の没落」と呼んだのである 。以上のような理由により、近現代の自由は共同性を崩壊に至らしめるものであり、問題なのである。
第二章 自律と近現代の自由
第一節 バルッチの自律
彼は、この操作万能の自由の原型となった近代的な自由が「自律(Automonie)」を根源とすると述べた。彼は自律の自由を以下のように理解する。
「近代的自由は自己規定という意味になります。つまり、人間は自分自身のありかたを自ら決めるものであり、その場合、自由とは何か、ということまで人間自身が決めるのです。もう少し正確に言い換えるなら、近代的自由とは、人間が自由を操作することによって得られるものなのです。自由を自律であるとするのは、自由を操作万能なものと考えることではないでしょうか。 」
彼は直接名指しをしていないが、「自律」という表現は明らかに近代初頭の哲学者カントを意識しているに違いない。それは彼が、カントの自由観が発端として近現代の操作万能性が起こったということを意味しているのである。それは人間が自分の意志によって自身の行動を決定するという、その個々人による意思決定に焦点が置かれたためである。
第二節 カントの自律
けれどもそれは後の時代から見て、結果的にカントの自律が現代の操作万能性につながったという捉え方ではないだろうか。なぜならカントは近代の初頭に、個々人が共生を無視して生きることを否定する自由観を打ち出したからである。
「操作万能の自由」を駆使する人間の性質は、カントにいわせれば自分の欲求に自身が傾いてしまう利己的な「傾向性」によるものである。そしてカントは傾向性を押さえることを、道徳法則の構築によって克服する自由観を探求したのである。だからこそ彼の自律とは、まさに共生の自由として考えだされたものであり、決して操作万能性を助長した訳ではない。
以上のように、私はこの論文において、バルッチとは違った見方として、カントの説いた自由観と共同性を探求して行きたい。近現代的操作万能の自由に対して、カントの自由観によって共同性の問題を克服することが、以下第二篇の本旨である。
第二篇 カントの共生の自由観
第一章 カント自由観の根本的立場
第一節 ア・プリオリな演繹
カントは『純粋理性批判』において、人間にア・プリオリに備わっている理性能力の範囲と限界とを批判し、人間に共通する普遍的な認識能力を考察した。ア・プリオリとは、一切の経験的条件との関わりを廃したものであり、人間のみが生まれながらにして持っている属性のことである 。
カント哲学は、この人間にとってア・プリオリな認識を基盤にしながらも、経験の対象に対してア・プリオリに関係する「超越論的演繹(transzendentale Deduktion)」と呼ばれる学の方法論をとる 。また、このア・プリオリな普遍性(カテゴリーや道徳法則)を可能にする条件を、人間の心的な諸能力(理性、悟性、感性)の活動の内に探求することによって、この普遍性を根拠づける手法は「形而上学的演繹(Metaphysicae Deduktion)」という 。
このようにカントは、まず一切の経験的な前提条件を廃した上で、感性・悟性・理性といった人間のア・プリオリな認識能力を普遍的な最高原則によって説明し、又その最高原則も感性・悟性・理性によって説明される、という相互連関的手法を学の基盤とするのである 。
第二節 経験論の排斥
カントは万人に妥当する普遍性の下で自由観を探求するのだが、その際彼は人間の経験や、人間の認識能力を超え出た神概念を最高根拠とすることを排斥した。彼はこれらを偶然的であると考え、それから学を進めることは普遍的なものではないとする。以下にその説明を述べる。
「なるほど経験は、何かあるもの事実としてしかじかであるということを教えはする、しかしそのものが『それ以外ではあり得ない』ということ〔必然性〕を教えるものではない。 」
ここから見て分かるように、カントは経験から導き出すことを批判した。それは個々の人間が生まれ育つ環境がそれぞれ異なり、それぞれが何をどのように捕らえるかは人様々だからである 。つまり経験とはその都度の事情や条件によって定まるわけであり、人間の認識はその人間の習慣や偶然性に左右されてしまう。
経験認識とは、そのつど感覚的に得られる対象によって左右されてしまうため、偶然的なのである。よって対象に制約されるような経験的な認識から、普遍を作り出すことは無理である。それは「経験的普遍性なるものは、大多数の場合に妥当する普遍性を、あらゆる場合に妥当する普遍性に勝手に高めたものに他ならない。 」からであり、万人に必然的に妥当するものとはいいがたいのである。
第三節 超越的(transzendence)の排斥
次にカントは、神を最高根拠として道徳や自由を説明することは独断論的であると述べる。この独断論とは、人間理性の認識の枠組みや限界というものを全く考察せずに、神がそれ自身で存在するといった議論のことを指す 。つまり神という存在が、人間の認識の枠組みから超越したものであるのならば、当然人間がそれを認識できるかどうかも全く未知数であると、カントは捉えたのだ 。人間理性能力の範囲と限界を批判せずして神を語ることは、まさしく根拠の無い前提条件から議論が進められているに過ぎない 。全く人間の範疇を超え出た概念を最高根拠とすることは、その前提条件の中でのみ必然であるにすぎず、ア・プリオリに普遍性な道徳法則を導くことは不可能である 。
超越する神がア・プリオリには知りえないものならば、それは経験によってのみ初めて知ることのできるものとしか言い表すことができない 。なぜなら宗教が絶対なる神の命令をその普遍的法則とするのならば、道徳法則のみを根拠とする実践理性の範疇を超え出てしまうからである 。そういった意味での宗教は、道徳学の範囲の外に存在する議論である 。そうすると人間が理解可能なのは人間と人間の道徳関係のみであり、神と人間との間にどのような道徳関係が存するかということは道徳学の限界を全く超え出ている 。これがカントの道徳哲学の基本的立場である。
第四節 他律の排斥
上記の理由により経験論と超越的は、ともに偶然性に左右される。また何らしかの対象といった前提条件を介さねば説明不可能なものは、主観的であって、万人に普遍な客観は導けないのである。なぜなら対象とは、我々人間がア・プリオリな認識能力のツールを使うことによってようやく可能となるものだからである。つまり、これら偶然性に左右される認識の説明は、人間にとって何がア・プリオリなのかを全く根拠としておらず、その対象を根拠としているために、普遍性には至らないのである 。それをカントは以下のように説明する。
「意志を規定する規則を意志に課するために、意志の対象を根拠とせねばならぬような場合には、その規則は常に他律にほかならない。またその場合の命法は条件付きであって、次のようなものになる、―『もし私達がこの対象を欲するならば、或いは―私達がこの対象を欲するが故に、私達はしかじかの行為をなすべきである。』それだからこの命法は、決して道徳的即ち定言的に命令することは出来ない。 」(「意志」については第二章一節"理性的存在者と意志"において、「定言的に命令する」は第三章二節"定言的命法"にて説明あり)
以上の引用からも、経験論と超越論は、人間意志を規定する道徳法則が「対象」である神や経験を根拠としているのである。この対象によって規定されるもの一切をカントは「他律(Heteronomie)」と呼び否定した 。つまり人間自由の普遍を求めているのにもかかわらず、その人間の対象であるものが人間を規定するようでは、全く必然性を含んでいないからである 。
第五節 超越論的演繹
カントのいう必然性や普遍性とは、人間理性がいかなる条件や偶然性によっても制約されない、それ自身で普遍性を持つ純粋悟性のカテゴリーのことである。又、対象からの規定を一切もたない人間のア・プリオリな認識能力は、現象世界一般を受容する純粋直観と、受容された素材を包摂する自発的な純粋悟性である。これはカントが『純粋理性批判』において、人間理性を徹底批判し、人間認識の限界と範囲を明確に導き出したものである 。
「超越論的演繹」とは、普遍なるカテゴリーや道徳法則を最高の根拠とし、そこへ人間の感性や悟性といった認識能力を包摂することであった 。『純粋理性批判』における超越論的演繹は、判断力の働きにより、ア・プリオリに探求された最高根拠のカテゴリーの下に、全ての経験的個別事象を当てはめる(包摂する)ことである 。そしてカントの自由観も、ア・プリオリな普遍道徳を基盤にし、人間の道徳的行為を語るこの超越論的演繹の手法による。『実践理性批判』では、普遍道徳法則の命令が降されることで、個々人は自己の格律を道徳的であるように行為することで人間「自由」が探求されるからである 。
第二章 実践理性(意志)の働き:感性界と悟性界
第一節 理性的存在者と意志
カントは超越論的演繹、つまり人間がア・プリオリに備える普遍的な純粋悟性のカテゴリーや道徳法則に、個別的経験を当てはめていく形で、哲学や道徳学を探求して行くことが分かった。この章ではア・プリオリな認識能力である感性と悟性が、人間の行為にどのような影響を与えるか、その実践的な面を探求する。それは人間が意志を働かせ、どのように行為して生きていくかを探求することである。
「意志(Wille)」とは、自分の行為を自由に選択し得る、実践理性の働きのことである 。それは理性能力によるもので、経験的な条件に一切かかわりがなく、ア・プリオリな法則だけによって規定されている 。そして道徳法則や普遍原理に自身の意志を従わせて行為する人間のことを「理性的存在者(ein vernunftiges Wesen) 」と呼ぶ 。この意志を道徳法則に従わせる作用が、実践理性の能力である 。よって人間が、一切の経験を廃した普遍的な道徳法則の下で意志を働かせて生きるか、それとも自身の欲求に流される主観的条件に従わせる傾向性によって生きるか、それが共同性にとって大きな問題なのである 。カントはこの客観的道徳と主観的傾向を全く無関係であると捉え、両者は対極にあるものだと論じている 。
我々が理性的存在者として意志を客観的な道徳法則の下で駆使するのか、それとも主観的な偶然性である傾向に向かうのか、我々人間は両方の可能性を持っている 。それをカントは、我々が悟性界に属すか、感性界に属すかという表現をする。前者は経験を超え出た普遍法則であり形式的(formal)なものである。後者は個々の傾向に従った意志で、経験的な対象に左右されるという意味で実質的(material)である 。
第二節 感性界と悟性界
我々は感性の世界と悟性の世界の双方にし、どちらの世界にも触発される(affizieren)。よって人間がどちらに影響を受けるかによって、その行為が方向づけられるのである。
このように人間実践理性はア・プリオリに二つの全くかけ離れた性質を持っている 。その一つが感性の世界(Sinnenwelt)である。そこでは、意志は様々な現象を受容するため、その現象世界に左右されてしまう恐れがある。それは人間が「欲望や傾向によって規定せられたものとして感覚界に属する 」感覚的欲求を持つことである。感性の対象を受容する能力、純粋直観は、もちろんア・プリオリである。だが感性は対象に触発されることで、人間の欲望を喚起させられる。その欲望に左右されてしまうことが偶然性につながるのである 。
そしてもう一つが、悟性の世界(VerstandesWelt)である。悟性は、直観によって受容された現象を、カテゴリーの規則に包摂していく役目を果たす。純粋悟性概念(カテゴリー)はア・プリオリに整備されている規則であるため、直観によって得られた現象が多種多様でも、常に一定の判断を下すことができる能力である。そういった意味で悟性の世界は経験に左右されず全てを規定する能力を持つ 。それは人間理性にのみ根拠を持つ認識能力であり、一切の行為を意志の自律の原理に完全に従わせている働きをなす 。
このように我々は二つの立場(感性界と悟性界)を持ち、それぞれの立場から自分自身を観察することが可能であり、また自分の一切の行為を認識するのである 。
第三節 カントの自由:自律
ここからカントの自由観が本格的に述べられてくる。人間が道徳法則に従って生きることは、実践理性が悟性界に属す意志によって行為することである。それをカントは「私達が自分自身を自由であると考える時には、私達は悟性界の成員としてこの世界に身をおき、意志の自律とそれから結果したところの道徳の原理を認識するということ、 」といっている。
それは、カントの自由が、自身を感性界と切り離し、悟性界に属すよう意志を働かせることである。それは「感覚界の規定原因に全く関わりのないことが(理性はかかる自主性が常に自分自身に存すると考えねばならない)、即ち自由ということだからである。 」から明らかである。
このようにカントは悟性界に属し、感覚的欲求を制御する意志を持つ人間こそ、真の理性的存在者であると見た。これが「意志の自律」である。つまりカントにとっての自由は「傾向を脱却することこそ、全ての理性的存在者の念願でなければならない 」と表記されているように、どれだけ傾向性から解放されるかが重要なのである。つまり人間が本来的に持っている感覚的な欲望を捨て去り、感覚的欲求に束縛されることから解放することこそ、彼の説く自由なのである。それはまさしく個別的な主体性(序章で延べた操作万能の自由)を否定し、捨て去るところに自由の根幹を置くものである。
以上、感性界から自己を切り離すことの必要性をこの章で論じた。以下の章では、カントが主張する悟性界に生きるよう自身を律するには、具体的にどのように自由を行使すればよいのかを述べていきたい。それはカントの自由観の根本にある「自律」の探求でもあるのだ。
第三章 道徳法則の形成と共同性
第一節 目的の国による共同性
自己を律する意志をもつことが、カントの述べる自律としての自由であることを見てきた。その自由とは理性的存在者として感覚的傾向性から解放されることでもある。この我々が共生に生きるには、二つの取り組みが必要である。
その一つ目は、前章で述べたように、感覚的に触発される傾向性(感覚的欲求)から解放されることである。
二つ目が、この章で述べる悟性界で生きるよう自己を規定することである。それは自分の行為が道徳法則に見合うような原理に従って、自己を律することである。それは自分の行為が他者への配慮を伴う共同性につながる様な原理を打ち立て、それに生きることである。
この両方の取り組みを目的とすることが、悟性界に生きる人間の共生の自由である。
そしてその自由は、理念 として、理性的存在者にはア・プリオリに存する。理念とは理性の本性として必然的に自身に課す概念のことである。だからこそ、あとはこの生き方に従うことを認めるのみなのである 。彼はそれを以下の言葉でまとめている。
「およそ理性的存在者は自由の概念に従ってより他には行為できない、それゆえにこそ彼は実践的な意味で真に自由であると。 」
カントは、この道徳的に共同性を求めて生きる世界を、目的の国(Reich der Zwecke)という。我々は目的の国に入り、そこでの法則を皆が守ることによって共同性が確立すると考えたのである 。よってこの章では、この目的の国に入り、共生の自由を求めるために、実際我々がどう生きればよいのかを見ていきたい。それは道徳法則からア・プリオリに自由を導く超越論的演繹と共に、普遍的な道徳法則がいかにして可能になるかという形而上学的演繹を考察することでもある 。
第二節 定言的命法(道徳法則→意志)
人間が道徳的に生きるためには、定言的命法(kategorischer Imperativ)と呼ばれる「命令(Gebot)」が必要である。これは我々人間の行為を必然ならしめるよう支持する理性の命令のことである 。定言的命法は意志に対し命令を降し、意志が必然的(apodiktisch)にある行為に導かせるよう指示するのである。その命令は、行為がそれ自体として善である、つまりそれ自体が悟性界に従うよう意志を促すのであるならば、定言的である 。
このように定言的命法は、我々を悟性界の一員にすることを目的とする命令のことである 。我々はこの命令に従うことで、道徳的に生きることが可能となる。
人間の意志に降される命令は、この定言的命法ともう一つ「仮言的命法」がある。仮言的命法とは、我々が何かあるものを得るための手段として行為するよう命ずるものである。 つまりここでの行為は自分自身にとっての幸福を求めるための手段である。これが仮言的命法であり、それに従う行為は怜悧(Klugheit) にすぎない。第一篇で見た、自分の目的のために他者に影響を与える操作万能の自由は、まさに仮言的命法に生きることである。
第三節 自己を律す格律(意志→道徳法則)
定言的命法がどういったものであるかを前節で説明した。では一体その普遍的命令はどのように形成されるのだろうか。これは今まで道徳法則の下で超越論的演繹により自由を論じてきたが、その普遍道徳法則の「起源」を探究する形而上学的演繹を意味する。その道徳法則は、理性的存在者が行為を道徳的であるよう自己を律して生きることにより生ずる。この行為の原理を「格律(Maxime)」と呼ぶ。格律についてカントは次のように述べる。
「行為者が主観的根拠にもとづいて自らの原理とする規則は、彼の格律と呼ばれる。したがって、法則は同じであっても、行為者の格律は極めて多様でありうる。 」
つまり道徳法則はア・プリオリで普遍的性格を持つものであり、格律は個々人の主観的な原理のことである。だが主観的原理といっても、格律は感性的な傾向とは一切関わりがない。逆に道徳的客観法則に規定される意志の働きによる、主観的な原理を意味する 。これは理性的存在者が、自己自身に与えるところの道徳法則以外のものには服従しないことである 。そして定言的命法が『君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。 』という命令を降すことにより、格律は道徳法則でありうるのである。これは、自己の格律による行為が普遍道徳に見合うように自律を律することである。このように普遍道徳法則は理性的存在者の自律によって導かれるのである(形而上学的演繹) 。この格律こそがカントのいう自律の自由である。
このように、格律と定言的命法は相互に関わりあうものである。だから両者の働きは同時的に循環し、どちらから始まるのかは定まっていない。意志による格律が先ではなく、また道徳法則による定言的命法が先なわけでもない。なぜなら両者は全て人間の認識のア・プリオリな部分で行われていることであり、意志が主体で道徳が客体という構造ではないからであるからである。
第四節 定言的命法は可能であるか。
このように人間の意志が、格律によって常に普遍的法則を行う意志であるならば、それは定言的命法が十分に機能している状態であろう 。だがここで問題なのは、幾人かの理性的存在者が格律を守ったとしても、他の者が自己を律して道徳法則に忠実に従うことは保証できないことである 。
いままで見てきた定言的命法は、他律という形で人間に義務を課すわけではない。それというのも個々人の欲求や傾向を強要し、否応なしに悟性界に導かせるのは、あくまでも自由の理念であり、つまり個々人による道徳法則への尊敬なのである 。故に定言的命法は、個々人が一切の行為において、自分自身に対して普遍法則につながるような意志を持つことにある 。同時に、自分自身が普遍的法則に成り得るものに従う行為が望まれる格律である 。
そうした上で「意志の格律が必然的に自律の法則と合致すれば、そのような意志は絶対に善であるところの聖なる意志である。 」のである。つまり主観原理としての格律が客観である定言的命法と合致した時、我々は絶対に善なる意志を持ったのであり、それは道徳法則が成立したことでもある。法則が意志を規定することが、格律の最高条件、善である 。
その際、我々の格律が普遍的道徳法則に見合うものでないならば、それは普遍法則から得られる他律的な義務によって実質的に強制するほかない 。定言的に生きることができないのならば、そういった人間に対しては法律などによる義務の規定が必要となる 。もちろんその法律は他律的立法なのだが、それは格律に従わせて生きる理性的存在者によって作成されるものでなければならないであろうが。
以上、目的の国に生きるための条件は、定言的命法と格律の作用による事が分かった。目的の国における共同性には、理性的存在者のこのような形での自律が必要なのである。次章では、カントが論ずる道徳法則とは具体的にどういった法則であるのか、また我々が自己を律して生きる自由にはどのような行為が求められるのかを見て行きたい。カントは『人倫の形而上学』において、キリスト教的隣人愛精神を取り上げ、彼の普遍道徳を具体的に叙述している。よってまず聖書の自由観を述べ、そうした上でカントの自由が捉えたキリスト教を叙述する。
第四章 道徳法則と隣人愛
第一節 肉(傾向性)と霊(普遍道徳法則)
聖書に見られるテーマに「肉」と「霊」の対立がある。肉と霊とは二つの信仰の源であり、これらの緊張関係がキリスト者の信仰生活を左右すると述べられている 。この肉と霊の考え方を、感覚的欲求と普遍道徳の考え方を踏まえた上で詳述してみたい。
「肉」とは、全く個人化してしまった人生や思考、欲望のことを指す 。それは人間が聖霊にではなく、自分自身の基準に合わせて生きることである 。人間は生まれながらにして(本性として)肉的であり、本能的に自身の価値観で生きるということである 。そしてイエス・キリストの道を歩むものが、この肉的なもの、悪から解放されるのである 。カントで言えばこれは感覚的対象に触発され、傾向性に生きることである。
次に「霊」は神から与えられる恵みのことである 。聖霊を受け入れることとは、イエス・キリストの共同体の下で生きることを意味する 。聖霊は、我々が共同体の一因となるための証印である 。よって我々は聖霊の証印によって共同性へと導かれるのである 。カントで言えば普遍道徳法則を受け入れ、目的の国に生きる考えと類似する。
コリント人の手紙Uの3章17節は、自由について述べられた箇所である。「そして、主は聖霊であり、主の聖霊がいる場所に、自由がある。」我々は生得的に肉的である(罪を持っている)からこそ、新しく霊的に生まれ変わり、神の国へ入ることが聖書の自由である 。それは霊を受け入れる事で、初めて肉(罪と死の法則)から解放され、自由になるといっても良い 。
この聖書における自由観や共生観はカントの説いたそれと非常に類似する。よってキリスト教の隣人愛と、カントの道徳法則にどういった相違点と共通点があるかを見ていきたい。そうすることによってカントの説く普遍道徳が、具体的にどういったものかが浮かび上がってくるに違いない。
第二節 善悪の捉え方の相違
聖書における霊と肉の解釈は、カントの道徳法則と傾向性の解釈と類似する点を見た。だがカントは「第一章 超越的transzendenceの排斥」で述べたとおり、神や聖霊なる超越したものは、偶然性に左右されるものと捉えている。
それは聖書が、「悪」を肉的に生きる原罪という形で、「善」を霊の受け入れによるイエスに倣うという形で、善悪のはじまりをそれぞれ前提条件によって規定しているからであり、これをカントは不可解なものとして批判している 。
それに対し、カントの道徳的善悪の判断は、人間が自分自身でどう生きるかによるのである 。カントの「善」「悪」に対する考察は以下のようなものである。
「善も悪も自由な選択意志の結果でなければならないのであって、さもなければ、どちらも人間の責任に帰することはできまいし、したがって人間は道徳的には善でも悪でもありえないことになろうからである。 」
これを、今まで述べてきたカントの道徳の考え方に添って考えてみると、悪も善も、理性的存在者が自身の格律をどのように打ち立てて生きるかによって定まるものである 。人間が格律により道徳法則に生きるならば、その人間は善になるであろう 。また傾向性に生きればそれが悪なのである。人間は根本から悪(原罪を持つ)ではなく、悪に走る傾向性をもっているといえる。そしてそれは人間の生き方、意志の働きようで改善されるものである 。
第三節 カントのキリスト教理解
このように、カントは前提条件としてのキリスト教は批判した。だがカントは違った形としてキリスト教や神なるものを捉えている。それは道徳法則の完全なる形としての宗教である 。カントの考える宗教とは、他者の意志によって任意に作り上げられたものではない。宗教とは、理性的存在者の意志によって与えられる道徳法則として、我々がそれを要請する時に始めて成立するものである 。キリスト教で言われる神の国とは、人間が作り出した道徳法則の世界のことを別の表現で表現したものである 。そのように考えるのならば、キリスト教の道徳論である聖書の言葉などは、他律ではなく意志の自律によって人間が要請した普遍理念のことである 。
カントは、人間の求める最高善と神との問題を「キリスト教における最高善の概念だけが、実践理性の最も厳格な要求を満足させるのである。 」「神の実存を、最高善(最高善は、我々の意志の対象として、純粋理性の道徳的立法と必然的に結びついている)を可能ならしめる必然的条件として要請されねばならない。 」と表現し、これについては彼の『たんなる理性の限界内の宗教』において、後に述べられていくのである。
第四節 道徳法則としての隣人愛
その道徳法則としての宗教は、「隣人愛」の解釈において、具体的に述べられる。
隣人愛とは、他人の目的を自己の目的とする義務であり、隣人の仕合せを求める生き方は、私的な目的を求めて生きることの放棄を意味する 。この点は、カントの強調する感覚的に生きる傾向性の放棄の考えと同じである。隣人愛が普遍道徳となるのは、他人の仕合せを自分の行為の目的とする格律により生きる時である 。隣人を愛せよ、という命令を尊敬し、他者への愛に生きることは、感覚的欲求を捨て去ることでもあり、我々が理性的に生きる典型的な道徳法則である 。よってそれは人間が共同性を確立するための「他者への配慮」を適確に表現する法則である 。
ただ、聖書の隣人愛と異なるのは次の点である。それは人間が隣人愛精神を義務として理解するには、神の命令を道徳的完全性の理想と解し、命令に自己を委ねて生きことではない 。そのような生き方は特定人物の模倣であり、いわば人間が対象を構築してその対象に従っているのである。イエスという前提条件を伴うことで自己を律することは、カントの根本的立場であるア・プリオリな道徳的法則に従うことではない 。つまり神やイエスを持ち出してしまっては、第二章で述べた他律的義務に陥ってしまう。それはイエスや神を対象として構築する者にしか通用しない、偶然的道徳法則であるためである。
このようにカントは、宗教によって前提とされた隣人愛ではなく、人間理性によって要請された隣人愛を考える。だからこそ、各人が「神の愛を受け入れ、隣人愛精神によって他者と関わっていく」構造ではなく、「普遍的道徳法則を受け入れ、道徳に従い自己を律することで他者と関わる」意味での隣人愛である。この隣人愛の思想は、自律による自由の具体的な取り組み方である。我々が隣人愛の法則に生きることは道徳法則に見合うよう生きることであり、このようにしてカントの理想とする道徳的自由の共同性が要請されるのである。
第三篇 現代大衆消費社会と共同性
第一節 大衆消費社会構造:大衆と支配者
カントの自由観を見た上で、もう一度話を現代社会に移してみよう。
現代社会における自由観が操作万能であることを第一篇で述べた。だが社会を構造的に見ると、なにも社会を構成する全ての人間が自分の理性を駆使し、操作万能の自由に生きているわけではない。操作万能に生きている人間はほんの一部であり、彼らは社会に関わることができる自由を有する人間である。そしてそれは一部の支配者のことである。そしてこの操作万能の自由を有しない大量の人間が大衆である。大衆とは、情報やモノの消費へつながる自己中心的・受動的な欲求姿勢を持つ者のことである。
そのような大衆と、彼らに消費物を与える支配者で構成される社会構造を「大衆消費社会」と呼ぶ。その大衆消費社会は、カントが危惧していた感覚的に生きる大衆が多いにもかかわらず、支配者側はそれをうまく機能させており、社会構造は極めてしっかりしているのである。
支配者は、自由をつかむことが出来ぬ多くの大衆に満足を与えるために、操作万能の自由によってあるものを作り出すのである。それが感覚的娯楽や刺激を促す 擬似環境である。擬似環境とは、大衆が安易に消費できるようマスメディアによってダイジェスト化され、簡素化されたバーチャルな世界のことである 。それはマスメディアなど、情報を作り出す側の人間によって、一定のバイアスのかかった環境世界を大衆側に提供する社会構造のことを表しているのである。そして「大衆は「わかりやすい」ステレオタイプ化された情報や刺激を求め、それらの消費を繰り返すことで自己の自由を行使していると思いこむように条件付けられていく。 」のである。
つまり大衆は感覚的にのみ生き、一部の支配者が作った枠組みの中で、作られた擬似環境を受容して社会を謳歌している。大衆は自律的に生きるに十分な能力を持たぬのに、自分が自由であるという夢を捨てることもできぬのである 。それ目をつける支配者側は、大衆がはたかも自分達が自由でいるかのような錯覚を与えられるよう、巧妙に社会を作り出しているのである。
第二節 仮言的命法に生きる現代の人間
現代における支配者は、理性的に自由を働かせ、操作万能に従事すると述べた。だが現代大衆消費社会に生きる支配者は悟性界に属する人間ではないのだ。つまり、悟性界の定言的命法に従って生きる理性的存在者ではないわけである。鎌田はこの操作万能に生きる人間を以下のように分析する。
「近代市民性は、共同性のセンス(共通感覚)を失い、ただ自己の欲求充足と目標達成に沈潜し、またそのために他の人間を手段として利用し尽くす悪魔的な自己中心主義の頂点において、儲け至上主義を道徳的特性へと捏造した。 」
つまり現代社会の支配者は、自己の欲望を極大化するがために、手段として理性を駆使しているのである。彼らは自身の儲けの最大化という前提条件をもとに、自身の意志構築をしているに過ぎない。それは仮言的命法の命令による怜悧さによって生きているにすぎず、道徳法則に生きているのではない。つまり、仮言的な命題によってのみ動くのが現代大衆消費社会の支配者である。
現代社会はこのような構造のもとで機能している。だがそれは道徳性が全く崩壊している状況に他ならない。それはカントが危惧したように、我々が定言的命法に従わず、自己を律して生きぬ状態に陥ったからである。受動的、感覚的受容に生きない支配者までが、自己の欲求のために意志を働かせる仮言的な生き方をしていては、共生は難しい。
第三節 カント共生観の現代的意義
現代社会においてカントの自由を振り返る意義は、「人と人の共生」を考えるに当たって一つの大切な視点となるに違いないと私は考える。
我々が近現代社会の構造から脱した自由観を身に付けることは難しいであろう。それは我々が古代的な価値観や共生観に戻ることや、ユートピアを求めることなどは現実的ではないからである。そういった意味で、カントの自律を土台とした自由観は、我々現代人の近代的な自主性を生かした共生の探求であったといえる。それは行為の判断を人間の認識のメカニズムに定める出発点を持ち、そこから人間が自主的に共同性に生きることを自由とした点である。共同性へと向かう近代的自主性を、我々現代人が受け入れるのはそんなに難しいことではない。なぜなら我々は近代的な意志を受け継いでいる現代人だからである。このように、一人一人が自己中心的なものからの解放され、共同性に見合った行為をすることは、不可能ではない。それこそが我々の求めるべき生き方であるのだ 。
道徳性が崩壊した現代大衆消費社会において、我々が自律によって道徳法則からの定言的命法に従わせて生きるか、それとも自己の欲求を前提とした仮言的命法に従うかは、自分達次第である。理性的存在者である人間が定言的命法に生きるこのカントの論理は、確かに政策学には無縁である。なぜなら政策とは、人間が決まりごとを作り出しそれに対し人間を従わせるといった、人間が人間を支配する他律的なものであるからである。だがそれだからこそ、自律の発想は政策レベルではまかなえ切れぬ要素を補えるのではないだろうか。自律の発想は自身が格律に従って生きるという強い意志が必要である。又そう生きるよう促すのも、その人間自身の定言的命法であるが故に、一切の判断をその個人に委ねている。それだからこそ政策は、道徳をこのように個々人の判断に委ねてしまっては不確実であろう。それこそ、法律を定めてその規則を最高原理として個別的な物を律して行くことは確実である。
ただ様々なレベルでの対策が関わりあってこそ、社会における共生への道筋が見えてくるに違いない。人と人の共生とは、我々が感覚的欲求や操作万能性をいかにして捨て去り、共同性を意識して生きることである。だからこそ、一つの問題に対して、色々なレベルでの解決が必要なのではないか。よって他律としての政策と、自律としての道徳法則が共存することが現代社会には望まれる。
―参考文献―
カント・イマヌエル『実践理性批判』(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳)岩波文庫
カント・イマヌエル『純粋理性批判(上)(中)』(篠田英雄訳)岩波文庫
カント・イマヌエル「人倫の形而上学〈徳論〉」(森口美都男・佐藤全弘訳)『世界の名著 カント』中央公論社
カント・イマヌエル『道徳形而上学原論』(篠田秀雄訳)岩波文庫
カント・イマヌエル「たんなる理性の限界内における宗教」『カント全集10』(北岡武司訳)岩波書店
『新約聖書』新共同訳 日本聖書協会
バルッチ・アルノ「操作万能の自由」(鎌田康男訳)『人間存在論』第1号、1995年3月
鎌田康男「パルジファル―近代市民社会の中でのミットライト」『ショーペンハウアー研究』第五号、2000年11月
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