『社会参入を積極的にする人と、社会と関わらずに生きようとする人の比較』
1998春 学部一回生



 第一に、社会に積極的に参入していく人物は、何故そうするのだろうか。彼らは社会という様々な種の人間が営んでいる集まりの中で、自分の存在を表したい、自分の良さ(アピールポイント)、価値観がどこまで通用するのかを試したい。もしそれで自分の未熟さが分かれば、自己を磨き直し、再び社会へと挑戦し、より器の大きな自分というもの形成を目指すだろう。つまり、せっかく今自分がこの世に存在するのだから積極的にこの世を満喫し充実した事をしたいという社会のリアクションを楽しむ事の現れなのである。そして何といっても、そうする事によって、自分自身というものに納得したい、自分自身を誉めてやりたいという思いがあり、何かを成し遂げたり、何かに対して打ち勝ったりする達成感、満足感を得たいのだろう。

 次に、社会の流れから逃避する人間は、いったい何のために生きているのだろう。社会に関わるという事はすなわち他との関わり合いを意味する。それは人間関係においてならば相手に気を使ったり、裏切られたりする厄介さが生ずるし、又ある集団に属したのなら、その中でのある制約に束縛される不自由さが伴なう。しかし彼らは社会に対して無欲かつ望みが無いわけでは決してない。自分の望みを社会で実現しようとすれば、環境に対し何らかの変化もたらし悪影響を及ぼしかねないし、又自分の価値観によって他者を強要してしまったり、他者の方向性に間違った影響を与えてしまうのではと考えるからだ。
 ではそれらを避け、自分が関わるべきだと思う人物や物事のみと接する事が出来れば彼らは満足なのだろうか。私が思うに、彼らは、自分を維持したい!自分の存在を何者かに消されたくない!と感じているのでないだろうかとおもう。だから社会で揉まれ、批判され、自分が社会で通用するようになってしまう事は、自分らしさの抹消だと捉えるのである。すなわち、これらの人々は自分にとって干渉されたくないゾーンを守り、その中で自分自身が満たされることが人生の目標なのだろう。
 自分には、全てに対し選択と回避することが可能であり、現代の社会との関係を打ち切り、ひたすら自己充足と身体の健康、心の平静が満たされることが旨であるのだろうか。(“エピクロス”岩波文庫、p103)彼らが自己充足を自分の本質とし、それを追求するならば、それに不必要な雑念や物事は排除していくため、社会と関わっているとは言えないだろう。


 以上見てきた様に、共通点として両者とも非常に強く自分らしさを求め、自己充足を人生の目標にしている事が分かる。では彼らにとっての人生における自己充足とはいったい何なのだろうか。
 人が生きていくに当たって、富や名声、性欲などはというのは限りがあり、それらがある程度満たされると今度はより多いそれが無ければ満たされることはできない。その増大も限度にまで達してしまえば自分はこれ以上何も満たされないという苦痛に変わってしまい、その中でいよいよ迫ってくる死の恐怖だけが残るようになる。(トルストイ“人生論”p158)
 そう、自己充足の終着点は、人間は自己満足、望みや欲の追求だけでは満たされることができないという事実に気づくという点である。それに気づいた人間は果たしてどうなるのだろうか。

 トルストイは次のように言っている。「個人的存在の虚しさや、個人的幸福など得られないという意識に気づきそれを放棄した結果、人は真の愛をを知り得ることが出来る。(人生論p149)」
 ここでいわんとしているのは人間がエゴをとことんまで追求していったら、結局最期に残るのは孤独な寂しさだけである。だから他者が満足し真に幸福になってもらうことを望む事が自分にとっての最高の喜びであり、真の満足となるということだろう。
 それと同時に彼らは共通してあるものに飢えるのである。それこそが魂の帰着点、自分にとっての真実である。自分が何をしても自分の存在価値を認めてくれ、自分がどんなに許されざる事をしても自分の居場所を用意し、常に支えれてくれる自分のとっての宗教の様なもの、つまり依存の対象である。これは“偏愛”とよばれるものかもしれない。

 今の日本には個々人が頼れるという国家が無い。個々人が頼ることが出来、信ずる事が出来る何か、自分の方向性を指し示してくれ、自分の居場所を提供してくれる何かが無いのだ。また物事に対して、どこまで突っ込んでいって良いかと、どこで引くべきかという自分にとっての活動範囲が明確化されていないため、私達は自己発見をし、自らでそれを追求していく必要にかられる。全ての人に何かをするチャンスが平等に与えられ、誰もが様々な情報を手に入れる事が可能である今の社会。言い換えれば誰も何も相手にしてくれず、自分で社会に積極的に参入していくか、自らその流れから取り残されることを選ぶか、どちらにしてもこれらの人物の内面は同じようなものである。

――参考文献
『エピクロスー教説と手紙―』岩波文庫 出隆・岩崎ちかつぐ訳
『人生論』岩波文庫 トルストイ著 中村融訳
『愛のめぐりあい』筑摩書房刊 ミケランジェロ・アントニオーニ著




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