進級論文2000春
『共同体の遷移に伴なうキリスト教の役割』


―アウトライン
   第一章 原始共同体(Gemeinschaft)の特徴
      第一節 聖霊による共同体エクレシア (ecculesia)
      第二節 信仰とは
      第三節 エクレシアの拡大
   第二章 共同社会(Gesellschaft)の特徴
      第一節 近代国家の誕生
      第二節 信仰の変化
      第三節 社会分化の進行時における教会
主要文献:社会分化論、新約聖書



第一章 原始共同体 (Gemeinschaft)の特徴

第一節 聖霊による共同体エクレシア (ecculesia)

 原始キリスト教において、共同体とはイエス・キリストの体を意味していることが、新約聖書から導き出される。イエスの死後、聖パウロは民衆に次のように述べている。「あなたがたはキリストの体であり、又、一人一人はその部分です。 」これは、民衆の集まりがイエスの体を意味することを表している。それは以下の過程によってまとまりとなる。「つまり、一つの霊によって、私達はユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 」つまり原始共同体とは、人々が一人一人集まり、形成される総和ではない。それは死によって聖霊と化したイエスの下での、人々の集合体であることが分かる。言い換えれば、われわれが恣意的に集まったのではなく、聖霊の赴くままに自然発生的にわれわれ集まったものが共同体と言えるだろう。これはこの言葉の以前にイエスの言ったことからも分かる内容である。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。 」又、この共同体における我々人間の互いの関わり合いが、以下から見受けられる。「(イエスの体の)各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。 」即ち、この互いの切っても切れない人間の強固な結びつきこそがキリスト教が目指した理想の共同体、エクレシアであったのだ。
 さて、このエクレシアにおいて、どのように共同性が保たれるのだろうか。そのまとまりをみてみよう。エクレシアが聖霊によって生まれて来ることから、我々の周りには聖霊が存在し、常に我々の行動を看視していることが分かる。イエスは次のように言った。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 」又、「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。 」とあるように、イエスが我々一人一人を見守ってくれるがごとく、我々も互いに助け合うことが共同性を保つ条件であることが分かる。この神の掟を守らぬ者は、神の子として認められない、即ち共同体に居る資格が無いことを意味しているのである。

第二節 信仰とは
 原始キリスト教において、原典である聖書を個々人が解釈することは禁止されていた。故に民衆の言葉で書かれた聖書は存在せず、神との媒介者である聖職者の理解によって、人々は神の言葉を聴いていた。 ここには、個々人がそれぞれの神の像を心に浮かべ、個々人が勝手に神のあり方を決めつけてしまうことは共同体の崩壊へと繋がると感じたためである。

第三節 エクレシアの拡大
 原始エクレシアは、当初わずかな神の掟で各人を強く結び付けるような連関が生じていた。それは「最初は、個人は、彼が生まれたときにたまたま一緒だった人々と彼とを緊密に共存させる環境にとりかこまれており、彼をとりまくその環境は、彼の個性に対しむしろ無関心でありながら彼をその環境の運命に縛りつける。 」とあるように、原始共同体がいわば閉じた世界であり、「全体としては非常に個別的であるが、その内部の諸部分は互いに全く類似して 」いた状態であった。よって、「ゲマインシャフトにおいては、人々はあらゆる分離にもかかわらず本質的には結合して… 」いたわけである。それが、人口が増え、又その共同体の社会圏が拡大するとともに変化が生じて来た。エクレシアに属する人々は、次第にこの原初的な連合の外側にある、事実的な類似性によって関係しあう人々と結びつくようになって行ったのである。 そして、信仰を持つ人間の範囲が拡張し、それらをまとめるための教義の量をも増加していくに連れ、共同体に対する個人の連帯的所属は減少してきたのである。 個が属す集団は非常に多種多様になって行くため、個々人の個性は、彼らの属す社会圏の個別性が持つ特徴によって影響を受けるのである。それは共同体全体の個性が小さくなるに伴って、 逆に「個人をますます自立化させ、緊密な結合を持つ圏による多くの支持と利点とを彼から奪う 」ことを意味している。
 当初のエクレシアは、広がる社会圏に合わせて、統治システムを組織化する必要が生じた。そして、神の言葉と民衆とを仲介する役を担うために教権の階級組織体制が形成され、 民衆は多くの掟の下で共同体に所属することになったのである。それは、個人とエクレシアとの関係が変革せざるを得なくなって来た結果であると言えよう。



第二章 共同社会 (Gesellschaft)の特徴

第一節 近代国家の誕生

 近代に入り、人と共同体のあり方が変化して来た。ホッブズとルソーは次のように言った。人間はもともと自然状態にいるため、それらを野放しにすれば各々がぶつかって闘争が起こるであろう。それを避けるために、個々人が契約を交わし、互いの権利を一つの国家に委ねることが必要である。ここで、この自然状態という発想が出てきた時点で、すでに共同体の個に及ぼす影響は薄く、個と個の関係も疎遠になっていたことが見て取れる。つまり国家とは、個々が属する社会圏が多様交錯して来たために、人間によって作りだされたものである。それは多くの共同体の上に立つ一つの主体であり、この権力の下で各部分を従属させ、全体として効果が出るように作られたものである。 そのために国家は法による秩序を作り出すことで一つのまとまりを持った。そして国家において、多様な社会圏に属する各々の人格を皆公正に認めるためにでてきた概念が法の下の平等である。 だが「個と共同体の生き生きとした直接の統一が失われて、上からの全体的統一が図られる共同世界は、精神なき共同体であって、個々人が無意識のうちに共同体精神を体現するということはなく、個々人は、今や自立した個として、自分こそが実体なのだと考えている。 」とあるように、国家は個に焦点が当てられ、個によって作り出された共同社会であり、それは原始共同体没落の結果として出現したことを意味する。一方、個をベースに作られたこの国家も、全体秩序のために今度は「個々独立の秩序と法を打ち壊し、」自己保存の力として、個を否定する本格的な国家権力を行使するようになって行くのである。

第二節 信仰の変化
 では、人とキリスト教のあり方はどう変化して来たのであろうか。ルターは『キリスト者の自由』において、信仰について述べている。新約聖書に以下の文がある。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる 」又、「神はそのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された。」これらから言える事は、神の言葉の重要性である。キリスト教では,全ての出来事の背景には神の言葉が存在するといわれ、我々が生きていく上でもそれは切り離せないものである。そして神は言葉を持って我々を救うと言っており、我々はその言葉無くして生きていくことは出来ないことが分かる。そしてキリストは神の言をわれわれに伝えるという使命のために来臨したのである。 つまり、神の言葉を「心から信じることによって人は正しくあり、義たらしめるのである。 」これが彼の言う信仰であり、信仰はどんな善行を尽くすこと、又、数多くの戒めを守ることより大切である。 「故に言とキリストをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛練し且つ強からしめることが、当然すべてのキリスト者の努むべきただ一つの行いであり修行でなければならない。 」と言われるのだ。そして各々の信仰を地盤とした上で、あらゆる行いは隣人に益することを目的とすべきである。
 このルターの言葉は、時代の象徴する発想であることが読み取れる。それは、「キリスト者のあり方は信仰のみで良い、それは全てを圧縮して信仰のうちにおいたから 」から、多くのものを一つに修練する試みが見て取れるためである。その理由は、彼がキリスト者をすべての誡めと律法から解き放つ ための自由を求めたからである。それは「分化が進むにつれて、個々の意識の要素は自立化し、しだいに論理的に正当化された結合の中にだけ入っていき、原初的な観念における混沌とした不明瞭さと明確な境界の欠如から発する親縁関係から、自己を解き放すようになる。 」だからである。以上のように人間が自由を求め、主体的な行為に出始めたことは、人と共同体の連関が稀薄になった所以である。

第三節 社会分化の進行時における教会
 では、我々の所属する社会圏が拡大し、個人と緊密な結合を持つ圏が少なくなって来た際、キリスト教はどのような役割を果たすであろうか。「都市の生活がますます複雑多様となって、…生活の根底となる血縁関係や近隣関係が、その力を失うか、あるいは、その力の及ぶ範囲を狭められてくるにしたがって、このような宗教的要素がますます必要となってくるのである。 」ここで現在の教会を見てみよう。「個人が相互に分化する程度が高ければ高いほど、共同的な領域はますます小さくなり 」それは人と人の関係をより疎遠に至らしめる。よって、キリスト教は個性の形成にあたってより深くかかわる社会圏である教会を重要視していると言えよう。なぜなら、ここで、同じ目的に関心を持つ人間が一緒になるような協同体を作ることによって、個人が当初属していた共同体と疎遠になった際に生ずる孤立感を和らげることが可能だからである。
 教会でまず行われる讃美歌は、“歌う”という誰とでも共有できる、単純で最も低次な感情レベルでの同調が行なわれる。なぜ歌かと言うと「知的水準が低ければ低いほど、又、各々の観念内容を何らかの形で結び付けている境界が不明確であればあるほど、感情は動かされやすくなる。」ためである。また、大勢の人間が互いに同じ行為をすることは「群衆の気分や決断の心理的基礎は、その感情への訴えによってつくりだされる。 」のである。
 次に、説教を聴くことによって、教会に居る全員が一つの同じ言葉によって個々の生き方を見直す。これは、同じ空間で説教者の一つの言葉を共有する心的共同性が保たれるのである。
 礼拝が終わった後に行われる懇談では、個に焦点がおかれる。分化が進んだ状態で、各々が自分の関心に合わせて、恣意的に話し相手を選ぶことによって、普段接しない離れた社会圏に属する者との交錯を行う。しかも飲食という低次レベルでの共生を保ちながら、自分と相手のやり取りで高次レベルの話し合いをも楽しめるわけである。
 以上のように、定例に行われる讃美歌、説教、懇談は、社会の分化の度合いに応じて、見事に共同性を構築しているのである。
 現在キリスト教では、教会内における信者間の相互愛だけでなく、隣人愛によって人類全てのレベルで共同体を築こうと考えられている。 これはまさに共同体を考えるにあたって“個”が優先されるように変化したのであって、人類共同体の発想は人と共同体の断絶を表した典型的な個人の集合体でしかない。ここでは人間同士の複雑な関係や原始共同体と人との結びつきが無視され、他者を同じ人間という視点でしか接することが出来ないのである。

―参考文献―
・ジンメル「社会的分化論」『世界の名著』石川晃弘・鈴木春男訳 中公バックス
・『新約聖書』新共同訳 日本聖書協会
・デュルケーム「自殺論」『世界の名著』宮島訳 中公バックス
・テンニエス「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」 重松俊明訳「ドイツの社会思想」 『世界思想教養全集19』 河出書房新社
・マルティン・ルター『キリスト者の自由』石原謙訳 岩波文庫
・量義治『無信仰の信仰―神なき時代をどう生きるか』ネスコ




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