有井の部屋<br>



ー有井の部屋ー

共生への道

「隣人愛と喜捨と慈悲」
ー三大宗教の比較からー

 ―アウトライン
1. 序論
2. キリスト教における隣人愛
3. イスラム教における喜捨
4. 仏教における慈悲
5. 類似点と相違点


<1.序論> 
 世界の三大宗教、キリスト教・イスラム教・仏教における「隣人愛」・「喜捨」・「慈悲」はそれぞれの教義において同様の意味を含んでいると考えられる。それは大きく言えば「共生」である。その目的は自分でなく他者へ向けたものであり、その社会における共生の役割を担っている。その起源と役割を比較しつつ、近代化学技術にともなう個人主義による崩壊がめざましい現代社会にどう反映していくか考えていきたい。


<2.キリスト教における隣人愛> 
 キリスト教は民族固有の宗教であるユダヤ教を母胎として生まれた。絶対神ヤハウェから十戒を授けられたイスラエル民族は、自分たちが神に選ばれた「選民」であることの証と受け取り、十戒を始めとするさまざまな掟(律法)を守る限り繁栄が約束されたもの(契約)と信じた。
 しかし、彼らの生活はバビロン捕囚に代表されるように苦難の連続であった。そしてその中で、厳しい律法主義にたてこもり、律法を守ることを宗教のすべてとするパリサイ派が、勢力を増していった。パリサイ派は律法を文字通り解釈し、安息日の労働を禁じたり、断食を厳しく守ったが、形式主義に流れ,心の宗教という点では欠けるところが多かった。形式的な律法が大手を振ってまかり通るような社会の中で、人々は心の内面の豊かさを求めるようになった。
 このような中で新しい宗教として生まれたのがキリスト教である。イエスは手段である律法ばかりにしがみついて、本当の目的を忘れた律法学者たちを批判し、形式的な律法でなく、内面化した律法の必要性を説いた。
 「隣人愛」はユダヤ教とキリスト教との大きな違いとなる部分であると考えられる。「サマリア人のたとえ」(ルカの福音書)はそれを表す有名な一節である。ある傷ついた旅人を、律法学者の仲間である祭司やレビ人が見てみぬ振りをして冷淡に通りすぎ、彼らが差別しさげすんでいたサマリア人が親切にした、という話である。サマリア人はユダヤ人と異国人との混血であり、その宗教がユダヤ教の変形とも言うべきものだったので、ユダヤ人から差別と蔑視を受けていた。選民思想であるユダヤ教とは違ってイエスが伝えたのは、神の愛は無限であるという新しい福音であった。神はあれこれと選別して、愛したり憎んだりするのではない。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」(マタイによる福音書)わけへだてない愛が神の本質なのである。そうした神の愛を信じ、その愛にこたえて、神を愛すると共に人間同士互いに愛しあうこと(隣人愛)が神によって要求されている大切なことであると説いたのだ。

<3.イスラム教における喜捨>
 イスラム教は7世紀の始め、預言者ムハンマドを開祖として、アラビア半島に生まれた。商人として活動していたムハンマドは、40歳のころ洞窟で瞑想しているうちに神の啓示を受け、唯一神アッラーの使者として新しい教えを説き始めた。彼は神の前ではすべては平等であると説き、偶像崇拝や貴族の悪徳を攻撃した。このころメッカは国際的な仲介貿易の都市として繁栄していた。しかし人々はただ富と権力のみを求めるあまり、個人主義・利己主義に走り、助け合いの精神を忘れ、共同体としての社会の役割が薄くなっていた。それを受けて、ムハンマドはその富を独占していたクライシュ部族の堕落を鋭くついたのである。
 聖典の中心をなす「コーラン」は、信仰上のきまりばかりでなく、政治や戦争処理の規則、民事・裁判の法律までも含んでいる。イスラム教の特徴は宗教的な勤め(六信・五行など)が強調されているとともに、宗教と俗事が区分されず、宗教が日常生活のすみずみに及ぶ規範となっていることにある。唯一絶対・全知全能の神アッラーに帰依し、何事も神の御心のままと考えて、己を空しくして生きるのがイスラムの生活である。そうした正しい生活を送るものは、おのずから同胞との折り合いもよく、その結果最後の審判にも救われるが、そうでないものは厳しい地獄の罰を受けねばならないとされている。もうひとつ特徴として、社会の弱者を擁護する福祉の精神がコーランのいたるところで見られる。その中で五行のひとつである「喜捨」はその精神を色濃く見せているといえる。喜捨とは生活に困っているものに惜しみなく富の中から施し、その富をわかちあうことである。自分の財産といっても、すべて神の恩恵によって得られたものであるからというのがその理由である。そのほかにも女性や孤児などの生活の保障をすることが説かれている箇所もある。このようにイスラム教は社会全体の幸福を求めたものであり、コーランが生活の大部分を含むものだったということもあって、イスラム教徒の間の結束は固く、そのためイスラム教が短期間に多大な勢力をもって広がっていったのだと考えられる。

<4.仏教における慈悲>
 古代インドの社会は、バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)の4つの階層からなる厳しいカースト制度によって秩序付けられていた。そして権力者であるバラモンたちは形だけの祭りを行い、見栄や贅沢の中に堕落していった。そのため人々は長い間差別に苦しみ、自分たちの幸せと心の安らぎを与えてくれる新しい教えを求めていた。そこで生まれたのが仏教である。仏陀は、人間は生まれによって尊いのではなく、正しい行為によって尊いのであるといい、すべての人間は真理の前に平等であると述べた。彼はあくまで合理的思索をもとにして、世の中をありのままに見つめ、不合理な考え方や偏った一面的なものの見方を批判し、バラモン教が教えた迷信的な呪術を退けて、正しい理法の実践を求めた。仏陀は、すべての存在は互いに依存し合って、ひとつとして、それだけで切り離されて成立しているものはない、と説いた。例えば私たち自身の存在も、地球があって社会があって家族があって、というような条件をもってして初めて成り立っているのであって、それを忘れて自分一人で生きていると考えるとすれば、それは縁起の理法にそむく一面的な迷いであると言っている。そのような考えに派生して、「慈悲」は考えることができる。「慈悲」とは他に対して慈しみ哀れむ心である。この世のあらゆる生き物はみんな深い絆でつながっている、という点から他の苦しみを分かち合い共感することがひとつの世界で共生する者の定めということができる。

<5.類似点と相違点>
 これらの3つの宗教を比較してみると、いくつかの類似点を見ることができる。ひとつに、どの宗教も不平等で心の荒廃が広がる社会において生まれている。そしてその荒廃は人々がおのれの欲のみを追求したために起こったものだということができる。そのような社会の中で人間は心の安らぎを求め、それに呼応して新しい思想が生まれるのだ。どの宗教でも社会における「共生」と人々の幸福を求めている点では変わりはないと思われる。ただ違う点はその宗教が生まれた地域のもともとあった文化が異なるために存在する差である。
 キリスト教とイスラム教は、神とは同じ天地万物の創造主であるが、神と人間のかかわり方は異なっている。イスラム教では神の偶像化がふさわしくないとして禁じられており、キリスト教のような「神の子」は存在せず、ムハンマドもまた、モーセやイエスと並ぶ預言者の一人として、神の啓示を伝えるものにすぎないとされる。キリスト教では、イエスが救世主として、すべての人の罪をあがなうとする。この点は神への信仰があればすべての罪は許されるという、罪の責任転嫁ともいえる印象がうけられる。それに対してイスラム教では殺人を犯した場合、その被害者にもっとも近い親近者が報復する権利を認めている。これはイスラム以前のアラブ部族社会にあった、セム民族の伝統的な「目には目を、耳には耳を」という報復法を適用したものである。このようにイスラム教では一人一人が償いをしなければならない。
 イスラム教には社会主義とよく似た部分が多いように思える。弱者への社会保障は社会主義にも強く見られる。社会主義は、権力を否定する権力闘争、戦争をなくすための戦争を「正義」とみなす。これはイスラム教のジハードにとてもよく似ている。コーランには、イスラムの信仰のために敵と戦うべきことが命令されている。共同体への意識が個人としての意識より強いために、他の集団に対する差別的態度が生じやすく、攻撃へと発展していったと考えられる。
  次に続く・・。