学術的自己紹介




1 幸せを求める

人は、多かれ少なかれ幸せを求めて生きていると思う。それは、無意識的・生物的な本能の欲求だといえる。しかし、幸せを求める道は人それぞれであり、文化によって異なる。地理軸から見ても異なっているし、時間軸からみても変化しているように見える。

2 見えるもの、見えないもの

 近代以降、産業革命に始まる化学技術の発展は我々に多くのモノを与え、豊かな生活を送ることを可能にした。その「豊かなモノ」は人々の欲求を刺激し続け、人々の価値観に大きな変化を与えた。人々は、幸せの基準をどれだけ多くの価値有るモノを持っているか、どれだけの財産を持っているかに置き、目に見えるモノに固執しているように見える。確かにモノは増え、私達の生活を助けてくれている。しかし、私達はどれだけ幸せに近づいているのだろうか。古代中国を生きた老子は次のように言っている。「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(隠された本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼』(その結果)だけしか見ることができない。」註1 世界的に有名な絵本「星の王子様」の中の一節にも似たような箇所がある。「本当に大切なものは目には見えないんだよ。」それに反して、今の社会システムは目に見えるモノを前面に押し出すことによって、目に見えぬものの存在をより気づきにくいものにしている。

3 資本主義経済における「不満足」

 資本主義経済の大量消費社会の中では、「不満足」が最大の美徳だとされ、現状に満足することなく働き、そしてより多くのモノを消費し続ける事が求められている。「不満足」から起こるパワーこそが社会を大きく発展させてきたといえるだろう。経済成長率という言葉が表すように、経済という目に見えるモノの指標が常に成長していかなければならないということが、今の社会の大前提としてある。「幸せ」という単語は元来「仕合せ」という漢字であり、「めぐりあわせ・天運」という意味を持っていた。そこから読み取れる「しあわせ」とは天のめぐりあわせであり、人間の手では変えることができなく、自分に与えられためぐりあわせに満足することであるように思える。しかし、現代私達が考える「幸せ」とは現状に満足せず、他人を蹴落としてでも自ら勝ち取る、というような、極めて自己中心的なものである。

4 関係性の破壊

 人間の絶え無き欲求は、今とどまることなく膨らみ続け、人と人の関係、人と環境の関係を破壊するまでになった。現在私たちが抱える、コミュニティの崩壊、凶悪犯罪の増加、環境破壊などの問題は、そのような原因がもとに起こっていると考える。目に見えるモノだけがこの世の全てであるかのような錯覚をおこした人々は、目に見えぬものへの敬意を忘れ、謙虚さを失い、あたかも自分一人で生きているかのような傲慢な態度で社会に接する。人に対しても、モノに対しても、対象として見ることにより、その関係性よりも、利用価値をもとに判断する。時間軸からみた関係性の欠如は環境問題という形で顕著に現れている。今の生活をより良いものにするために、私達は森林伐採をし、空気を汚し、海を汚す。このような環境破壊は、今を生きる人にとってはよいとしても、次の世代を生きる人の生活を大きく圧迫していると言えるだろう。極端な言い方だが、大きな視点からみれば私達は遺伝子の入れ物に過ぎず、長い人類の歴史にそって生き続けてきた遺伝子の鎖のほんのひとねじりといえるのではないだろうか。しかし、その鎖から外れ、今の自分の欲求だけを満たせばよいというような自己中心的な考えを基に生活する人が増えている。

5 社会の分化の影響

 社会の分化はますますこの傾向に拍車をかけている。分化しすぎた社会では自分の仕事さえ無事にやりさえすればお金がもらえ、イコール「よい」と考えがちであり、それによって他の仕事への配慮が薄くなり、他への関係性も薄くなっていく。現代の社会では仕事の持つ社会性よりも、自己利益の最大化こそが仕事の目的となっている。特に、第一次産業から第二次・第三次産業への移行は、社会に大きな変化をもたらした。昔は人々の主な仕事は農業などの第一次産業であった。そうでなくとも、近くのおじさん、おばさんが作った食糧を食べていた。そのため現在のように、大量な食糧を捨てていく習慣はなかった。親は子供がご飯を残すようなことがあれば、「農家のおじさんが悲しむよ。」と諭し、子供もすぐそのイメージがわいたであろう。しかし、現在の社会では、食べ物に敬意を払うことなく、自己中心的に、食べたくなかったら残す、というような冷ややかな関係性がそこにある。動物の肉にしても適当にカットされビニールで包まれているため、まるで機械が作ったようなイメージを抱かせる。そこには命に対して敬意を払うことが省かれ、浪費を増やす作用がある。消費と浪費は違う性質のものであり、目先の利益だけ追い求める社会は長い目で見て破滅的であるといえる。

6 複雑化した社会の中であえぐ私たち

 人間は、他の動物と違い、長い年月を費やして文化をつくり、そしてそれを次代へと伝えていく。しかし、ジンメルいわく、生み出された文化はひとたび客観化されると、それは逆に人間の「生」を拘束し、人間は文化に奉仕しなくてはならなくなる。特に、法などの拘束的社会制度において顕著にみられる。このことをジンメルは「文化の悲劇」註2と呼んだ。現代の人々は、無意識的に巨大な力を持った社会にのみ込まれ、既存のものにしがみついているようにみえる。そして社会に流され、自分の意志をもたない人間が増えている。しかし、このような社会の中、人々はアイデンティティについて悩み、苦しんでいるのではないだろうか。自己の「生」を抑圧し、社会から求められる自分を作って生きていても、いつも不安がつきまとい、本当の幸せを得ることはできないと私は考える。既存の社会に縛られることなく、常に新しい価値提案をしていくことが、社会の健全性を保つためには必要なのではないだろうか。

7 これからの世界の行方

 現在、経済・金融を中心にグローバル化が進み、より多くの地域に、近代の資本主義が浸透し、それと共に大量生産・大量消費の社会システムが適応されようとしている。いや、むしろ多くの発展途上国はこのような世界で生き残っていくためにはそうせざるを得ない状況に追いこまれている。しかし、貨幣の価値だけがはびこる価値の一元化の傾向は危険であるといえる。世界はその複雑さゆえに安定を保っている。積み木を一列に上へ積み上げていけば、より高い位置まで到達するが、上へあがればあがるほど不安定である。一つ一つの積み木がバランス良く重量を体に受け、お互い支えあいながら立つ積み木の城のほうがより安定しているといえる。
 欧米の文化が必ずしも高い文化であるということはできない。文化の道は一本でなく樹の根っこのようにいくつにも分かれているものであるからである。それらはお互いに、相互に影響しあい、異文化を見ることで自分の文化を振り返ることができる。今、むしろ西洋文明は行き詰まりをみせている。発展途上国は西洋のただ真似をするのではなく、自らの文化を生かして、新しい価値付けを先進国に示すべきである。それこそが多様性のメリットだと考える。

8 最後に

 人を動かすのは思想であると考える。しかし、現在の世界は作られた社会システムに縛られて、人々は自ら考えることが少なくなっている。多くの世界規模の問題を抱える21世紀に、多様性を維持しつつ、安定した世界を作っていくためには、「共生」の思想が必要である。その基となるのは人と人、人と環境の関係性の回復である。これから、歴史を振り返り、どのような思想が共生の役割を担っていたのか、どのように、何が原因となってその思想が薄くなっていったのか、そして、これからどのように「共生」の社会を作っていけばよいかを研究していきたい。そして、その思想を形作るのは、その社会構造である。それを踏まえた上で、思想と社会構造の関係をも探っていきたい。




脚注

註1 「老子」世界の名著 中央公論社 p69[本文]
註2  「デュルケーム・ジンメル」世界の名著 編:尾高邦雄 中央公論社 P26[本文]


もどる