進級論文


ー目次ー

序章  グローバル化における東洋思想の役割の重要性

第一章 近代化が与えた影響
  第一節 社会システムの変化―共同社会から利益社会へ―
     第二節 人々の意識の変化―共生から自己利益の追求へ― 

第二章 近代化による東洋思想の移り変わり
  第一節 東洋とは
  第二節日本近代化における「脱亜入欧」

第三章 東洋思想からみる現代社会
  第一節 見えるもの、見えないもの 
              第二節 資本主義経済における不満足 
             第3節 煩悩からの解放  
  
結論 東洋的価値の再考


序章

 現在、経済・金融を中心にグローバル化が進み、より多くの地域に、近代の資本主義が浸透し、それと共に大量生産・大量消費の社会システムが適応されようとしている。いや、むしろ多くの発展途上国はこのような世界で生き残っていくためにはそうせざるを得ない状況に追いこまれている。グローバル化によって国境を超えた近代技術や便利な道具は、多くの民族的伝統を死滅に追いやり、西洋的価値が世界を覆う形になってきている。しかし、はたして現在の形でのグローバル化は多くの人々に幸せをもたらすのであろうか。反対に貨幣の価値だけが一人歩きし、経済的成長だけを追い求める世界は、多くの学者が警告を発しているように崩壊を迎えるであろう。世界はその複雑さゆえに安定を保っている。積み木を一列に上へ積み上げていけば、より高い位置まで到達するが、上へあがればあがるほど不安定である。一つ一つの積み木がバランス良く重量を体に受け、お互い支えあいながら立つ積み木の城のほうがより安定しているといえる。欧米の文化が必ずしも高い文化であるということはできない。文化の道は一本でなく樹の根っこのようにいくつにも分かれているものであるからである。それらはお互いに、相互に影響しあい、異文化を見ることで自分の文化を振り返ることができる。
 日本は東洋の文化に根を下ろしながら、いち早く西洋の近代技術を取りこみ、経済成長を続けてきた。確かに物質的には私達は豊かになったといえるだろう。しかし、私達が幸せになったかどうかは別である。経済的な豊かさと引き換えに私達は目に見えない大事なものを失ったのかもしれない。人々は人生の大部分の時間を使ってあくせくと忙しく働き、より便利なものを作るために時間を費やしている。自分の利益だけを追い求めるあまりに、環境や他人への思いやりの心が欠けてしまい、その結果、環境問題やモラル低下による問題など、様々な問題も起こっている。自らの私益を増やすための合理化によって、私達は人間関係や自然との関係まで省いてしまったのだ。
 このように西洋的思想が行き詰まってきた今、私達の足元に眠る東洋的思想を振り返ることは重要である。伝統的文化というのは長い年月をかけて、その土地の環境や様々な歴史的条件により形成されたものである。そこには人間がうまく生きるための豊かな知恵がたっぷりつまっている。私達はそのような古き知恵をたずねることにより、現代が抱える問題を解決する新しい糸口を見つける事ができるのではないだろうか。
 第一章では、近代化を経て日本における東洋思想がどのように変化していったかを探っていく。第二章では、資本主義の社会システムが与えた人々の意識の変化に着目し、その中でどのように人間関係・人と自然との関係が変化したかを考え、そして第三章で、その回復に東洋思想がどのような役割を担えるか、その可能性について考えていきたい。


第一章 近代化にともなう東洋思想の移り変わり
第一節 東洋とは

 東洋というのは地理的概念であり、西洋に対して言ったものである。世界の地理的分布から見たら、東洋は全アジアとアフリカ中部、北部地区を入れたものだとされる。 近代の西洋各国による植民地政策によって、西洋と区別をするために、中国、朝鮮、韓国、日本、インド、およびアフリカを含む全アラブ国家を「東洋」と総称した。そして、植民地主義によって受けた、歴史的な略奪や、文化的破壊のために、「東洋」という概念には、政治的・文化的意味が賦与されている。
 現在、学術界で認められている哲学体系は、中国、インド、アラブ、ギリシャ哲学であり、その内3つは東洋に属する。東洋は多くの世界文明の発祥地であり、世界最古の文化を生み育て、人類最初の哲学思想を生んだ。東洋哲学は、東洋文化の思想的基礎であり、現在の東洋の社会においても、人々の世界観、社会倫理、思考様式に大きな影響を与えているといえる。


第二節 日本の近代化における「脱亜入欧」

 日本は1868年の明治維新運動をきっかけに、近代化を推し進めた。その近代化は西洋の文化を見本とし「脱亜入欧」を目指した。明治近代化の思想的リーダーとなった福沢諭吉は、その著書『文明論之概略』(1875年)の中で日本が文明開化を実行するためには、「断じて西洋文明をとるべきなり」と述べている。福沢諭吉を代表とするこのような文明論は、明らかに西欧文明こそが文明発展の最高水準だという認識を前提にしたもので、日本やその他のアジア諸国が到達しなければならない最終目標だと主張する。そのため、日本が近代化を達成するには、儒学を代表する封建的イデオロギーを徹底的に取り除かなければならないという。このような急進的な考えが、日本の近代化を推し進めた一定の役割は事実である。ただし、福沢は儒学を代表とする伝統思想が、日本の伝統文化の発展に果たした積極的な役割を十分に認めておらず、考え方に偏りがあるといえる。
 このような西洋化一辺倒の中で、何人かの保守的思想家は、逆に日本の伝統的文化を見なおそうという運動を起こした。彼らは、文明開化によって人々が知識と技芸を重視し、知識を世界に広く求め、先進的な西洋文明を吸収することができたが、一方でそれにともなう道徳の喪失や風俗の乱れももたらされたと考えたのである。
 そうした保守的思想家の一人である元田長孚はこうした道徳の頽廃、風俗の乱れをもたらした原因は、文明開化によって旧来の「忠孝」「仁義」思想が忘れられたことだとした。しかし、彼らが目指した儒教への完全な回帰は、時代の流れに逆らっており、開明派官僚の強い反対を受けた。
 そんな中、西洋と東洋の文化を融合させようとする考え方が起こり、その代表として、西田哲学と和辻倫理学が成立した。このうち和辻の倫理学は人間的倫理学と呼ばれ、その特徴は、人間は間柄の中にあり、個人は集団から脱することなく、また集団も個人の集合したものとするところにある。和辻は集団における人間関係が、個人より集団を優先するものと位置付け、個人は所属する集団に服属し、献身することが当然のこととされる。これは、人と物の関係を重視し、個人主義を中心とする西洋の倫理とはまったく異なるもので、日本の伝統思想の特色を鮮やかに表している。
 一方、西田幾多郎の哲学は東西融合を達成した典型だといえる。西田いわく、西洋思想は「有」を根本とし、東洋思想は「無」を特徴すると考えた。ここでいう「無」は「有」に相対するものではなく、「無」そのものさえも否定する「絶対無」である。西田哲学において、ここでいう「絶対無」とは原始の直観的意識であるという。こうした意識がなお、「物我相忘」「主客未分」の状態にあるとき、我々そのものが「有」でもなく「無」ともいえなくなる。それは理性的思惟以前に存在する無差別の精神的境地であるといえる。西田はこの「絶対無」をもって近代哲学における「自我」という概念を改造し、「我」と「非我」を包括する「一般者」「弁証法的一般者」などの東洋的な特徴を持つ「自己」という概念を確立した。
 このように近代の日本精神は、福沢諭吉がいうような完全なる「脱亜入欧」ではなく、東西文化の融合によって生まれたものであるといえる。福沢は「文明論之概略」(1875年)の中で「文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云うなり、衣食を豊かにして人品を貴くするを云うなり」註1 といっている。すなわち文明は、人類の一切の物質的富と精神的な富の両側面を包括すると考えたのである。しかし、いわゆる西洋文明は私達に物質的豊かさをもたらしたものの、果たしてどれほど精神的豊かさをもたらしたのであろうか。
 現代の日本社会を見まわしてみると西洋的価値がまかり通り、東洋的価値は端へ追いやられているように思える。近代日本がうまく西洋文化をとりいれて、新しく東西融合の文化を生み出したとしても、現実には完全な西洋的資本主義は西洋的価値を人々に浸透させたと考える。


第二章  近代化が与えた影響
 第一節 社会システムの変化―共同社会から利益社会へ―

 近代化は社会システムにどのような変化をもたらしたのであろうか。人と人の関係、人と自然との関係に焦点を当てながらその変化を探っていきたい。
 近代以前の社会を社会学では「共同社会(ゲマインシャフト)」と呼んでいる。その定義としては「その構成員が本質的に協力し、互いに愛し合い、行動や居住を共にする社会」とされている。そのような社会では農業などの第一次産業が中心であり、土地に立脚した生活であった。
 まず、その土地の自然の中で労働するため、常に自然との関係の中で生きており、自然が壊れてしまえば、その恵みを受けている人々にとっては、イコール自分たちの生活の崩壊でもあり、そのため、人々は自然とともにあり、いわば運命共同体であったといえる。人々が食べる「食」も、住んでいる土地近辺で採れたものであり、自然の恵みに感謝しながら食べていたと考えられる。少なくとも現代のように大量に食べ物をすてる習慣は存在しなかったであろう。
 そして、その土地を守っていくために、貯め池・川や山などの共有財産を保持・管理することはコミュニティの成員の義務であった。このような共同作業によって、自然とそのメンバー間に共同意識をもたらし、強い信頼関係ができていた。
 このように近代以前の「共同社会」では、人は一人では生きていけない状況にあったため、人は自然や他の共同体のメンバーに依存して生きていた。そのため、コミュニティ内の強固な関係性と自然との密接な関係ができていたといえる。
   その後近代に入り、産業技術の発達にともなって、社会は高度に分化し、「共同社会」は「利益社会」にとってかわられていく。利益社会(ゲゼルシャフト)とは、「人々が本質的に分離し、相互に緊張関係にあり、打算と等価交換の原則によってのみ行動する社会」と定義されている。その生活は都市での商業・工業を中心とした生活であり、社会は互いの利益を目的として集まった集団であるといえる。
 18世紀末から始まった産業革命によって、生産に用いられる労働手段が、従来の道具から機械へと代わり、生産のシステムとして工場制が成立した。このような生産様式の発達にともなって、農村に住む多くの若者は伝統的な共同体を離れ、都市へと移り住んでいった。農村や大家族などの元来の人のつながりから離脱した、孤独な個人を基礎として、都市には新しく人工的な組織が作られた。共同体の人と人のつながりが人格的で情緒的であるのに対し、現代的な組織のつながりは非人間的で合理的な規則に基づくものである。社会の合理化・分業化は効率性を上げ、私達に豊かな生活を与えたが、それと同時に、分業による単純作業は、人間の孤独化をももたらしたといえる。
 そしてその孤独化をより促進させたのが貨幣(貨幣価値)の普及である。それによって、私たちはお金さえあれば生きていけるようになった。食べ物は24時間近くのコンビニで買うことができ、子供の面倒をみてもらうのに、保育所に預け、勉強を教えるのに家庭教師を雇う。もともと家族やコミュニティで担っていた役割を私たちは貨幣を媒介として、外部に委託する。お金が従来の関係性に代わり、人とやものとの媒介となっているといえる。何でもお金で量るという、価値の一元化の傾向は、共生という価値を見逃してしまう原因となっており、人間関係の希薄化をもたらしている。そして「貨幣は、人間を前近代的集団から解放すると同時に新しい全体社会の中で孤立させるという意味で、一種の人間疎外的機能を演じる」のである。 註2


第二節 人々の意識の変化

 このような社会構造の変化は同時に人々の意識の変化をもたらした。他の人々や自然との共生を前提とした関係性の重視から、自分の利益の追求という自己中心的な意識へと移っていったといえる。そして、こうして起こった現代社会における「人や自然」との関係性の希薄化こそが、現在私たちが抱える、コミュニティの崩壊、凶悪犯罪の増加、環境破壊などの問題の原因となっていると考える。
 関係性を失い、目に見えるモノだけがこの世の全てであるかのような錯覚をおこした人々は、目に見えぬものへの敬意を忘れ、謙虚さを失い、あたかも自分一人で生きているかのような傲慢な態度で社会に接する。人に対しても、モノに対しても、対象として見ることにより、その関係性よりも、利用価値をもとに判断する。
 こうした関係性の欠如は環境問題という形で顕著に現れている。今の生活をより良いものにするために、私達は森林伐採をし、空気を汚し、海を汚す。自然はこのような環境破壊は、今を生きる人にとってはよいとしても、次の世代を生きる人の生活を大きく圧迫していると言えるだろう。そして環境問題は国境を超え地球全てに関わることである。しかし、そのような広い視野でみることをせず、今の自分の欲求だけを満たせばよいというような自己中心的な考えを基に生活する人が増えている。
 毎日私達が接する「食べ物」との関係も同じような変化をした。昔は人々の主な仕事は農業などの第一次産業であった。そうでなくとも、近くのおじさん、おばさんが作った食糧を食べていた。そのため現在のように、大量な食糧を捨てていく習慣はなかった。親は子供がご飯を残すようなことがあれば、「農家のおじさんが悲しむよ。」と諭し、子供もすぐそのイメージがわいたであろう。しかし、現在の社会では、食べ物に敬意を払うことなく、自己中心的に、食べたくなかったら残す、というような冷ややかな関係性がそこにある。動物の肉にしても適当にカットされビニールで包まれているため、まるで機械が作ったようなイメージを抱かせる。そこには命に対して敬意を払うことが省かれ、浪費を増やす作用がある。消費と浪費は違う性質のものであり、目先の利益だけ追い求める社会は長い目で見て破滅的であるといえる。


第三章 東洋思想から見る現代社会
第一節  見えるもの、見えないもの

 近代以降、産業革命に始まる化学技術の発展は我々に多くのモノを与え、豊かな生活を送ることを可能にした。その「豊かなモノ」は人々の欲求を刺激し続け、人々の価値観に大きな変化を与えた。人々は、幸せの基準をどれだけ多くの価値有るモノを持っているか、どれだけの財産を持っているかに置き、目に見えるモノに固執しているように見える。確かにモノは増え、私達の生活を助けてくれている。しかし、私達はどれだけ幸せに近づいているのだろうか。古代中国を生きた老子は次のように言っている。「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(隠された本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼』(その結果)だけしか見ることができない。」註3 世界的に有名な絵本「星の王子様」の中の一節にも似たような箇所がある。「本当に大切なものは目には見えないんだよ。」それに反して、今の社会システムは目に見えるモノを前面に押し出すことによって、目に見えぬものの存在をより気づきにくいものにしている。


自然から離れてしまった「個」

 第二章で書いたように、近代化にともなって人間と自然との関係性は薄れつつある。日本に生まれた民族宗教である「神道」は山や川や動植物などあらゆるものに神を見、八百万もの神々の存在を認める。人間は自然の一部であり、自然を母として考えているところに西洋的自然観と異なる面がある。自然から生物が誕生し、その祖先から私達個人が誕生した理由であるから、自然や祖先を敬うのは当然とする。しかし、現在の傾向として、自然や親などを敬うことをせず、自分があたかも一人で生まれてきたようにふるまっている。極端な言い方だが、大きな視点からみれば私達は遺伝子の入れ物に過ぎず、長い人類の歴史にそって生き続けてきた遺伝子の鎖のほんのひとねじりといえるのではないだろうか。しかし、その鎖から外れ、今の自分の欲求だけを満たせばよいというような自己中心的な考えを基に生活する人が増えている。 このような行き過ぎた「個」の尊重は、現在の環境破壊の根元といえる。

第三節 「法治主義と徳治主義」

 現在の社会は綿密に作られた「法」によって治められている。信賞必罰という目に見える法はある程度人々を統制できるのは確かだ。しかし、外部の力によって、すなわち「他」の力によって抑えられるものには限度がある。法の目が細かくなれば、それに対応して人はそれを掻い潜ろうと試みるのが常である。人が作ったものには、必ず穴があるものだ。いたちごっこはいつまでたっても同じ所をぐるぐると回る。環境破壊を食い止めようとして、リサイクル法を作っても、ゴミの無断投棄が増えたりして別の所で問題が発生する。結局お金を払って解決するというのも、結果的に環境破壊はとまらないのではないだろうか。そうではなく、自分でその問題について考え、「自ら」抑制するということが重要になると思われる。孔子は徳によって治める「徳地主義」を唱えた。孔子曰く「法令によって指導し、刑罰によって規制すると、人民は刑罰にさえかからねば、何をしようと恥と思わない。道徳によって指導し、礼教によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないとして、自然に君主になつき服従する。」註4 このようにある程度は法に依存するにしても、最終的には自分のうちにある道徳によって自らを抑制することが安定した社会を作ることを促すのではないだろうか。
 
 
 第四節 資本主義経済における「不満足」

 資本主義経済の大量消費社会の中では、「不満足」が最大の美徳だとされ、現状に満足することなく働き、そしてより多くのモノを消費し続ける事が求められている。「不満足」から起こるパワーこそが社会を大きく発展させてきたといえるだろう。経済成長率という言葉が表すように、経済という目に見えるモノの指標が常に成長していかなければならないということが、今の社会の大前提としてある。「幸せ」という単語は元来「仕合せ」という漢字であり、「めぐりあわせ・天運」という意味を持っていた。そこから読み取れる「しあわせ」とは天のめぐりあわせであり、人間の手では変えることができなく、自分に与えられためぐりあわせに満足することであるように思える。しかし、現代私達が考える「幸せ」とは現状に満足せず、他人を蹴落としてでも自ら勝ち取る、というような、極めて自己中心的なものである。
 老子は次のように言っている。「欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、他人の持ち物をほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに足りたと思うことで満足できるものは、いつでも十分なのである。」 註5
 老子は無欲を人間の自然な状態とし、赤ん坊や農民を自然人のモデルとしてあげた。赤ん坊や農民は文化人に比べると、はるかに無知であり、無欲である。それは意識的に努力した結果ではなくて、自然にそうなっているのである。したがって西洋的な禁欲とは違う。その無欲は、現在自分が持っているものに満足するところから生まれるもので、つまり「足るを知るものは富む。」ということの結果である。私達は不満足であるが故に、悩み、苦しむ。精神的豊かさは、逆に「満足」することによって得られるのではないだろうか。老子が言うような自然人には戻れないかもしれないが、「不満足」で悩む自分の姿を省みることにより、生き方の方向性を変えることはできると考える。


第五節 煩悩にとらわれないこと

 私達は、常に自分というものに執着し、煩悩にとらわれがちである。「自分」とは何であるのであろうか?古代インドでは古くからこのようなことについて考えられており、その考えは「ヴェーダ」と呼ばれる多くの経典にまとめられている。それによると、個々人の自我の本体であるアートマン(我)とは、じつは宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)とおなじものにすぎない、とある。しかし多くの人間はそのことを知らず、幻影(マーヤ―)にすぎない自我に執着したりすることから、人間の様々な心の迷い・悩みは起こるのだ。
 このような深い思想的伝統を母胎として、仏教は形成された。ゴータマ・シッダッタは人間の生が苦しみに満ちたものであることを感じ、この生の苦しみから人々を解き放つ信仰を求めて厳しい修行の旅に出た。そして仏陀は開いた悟りを4つの真理(苦諦・集諦・滅諦・道諦)にまとめた。その教えにはこうある。私達の人生の根本にある「苦しみ」を直視し、この世界のものに執着しないことが必要である。なぜならばこの宇宙にあるいっさいのものは、互いに作用しあって生成消滅する無常のものであるからだ。そしていっさいの執着を完全に手放すことによって、無常の世界を超越することができるという。このような解脱にいたるには八正道を実践しなくてはならない。それは「正しい見解」「正しい思考」「正しいことば」「正しい行為」「正しい暮らし振り」「正しい努力」「正しい心配り」「正しい精神統一」 である。註6
  仏陀は、人間は生まれによって尊いのではなく、正しい行為によって尊いのであるといい、すべての人間は真理の前に平等であると述べた。すべての存在は互いに依存し合って、ひとつとして、それだけで切り離されて成立しているものはない、という。例えば私たち自身の存在も、地球があって社会があって家族があって、というような条件をもってして初めて成り立っているのであって、それを忘れて自分一人で生きていると考えるとすれば、それは縁起の理法にそむく一面的な迷いであると言っている。そのような考えに派生して、「慈悲」は考えることができる。「慈」とは同朋に喜びをもたらそうと願うこと、「悲」とは同朋から苦しみを取り除こうとすることである。この世のあらゆる生き物はみんな深い絆でつながっている、という点から他の苦しみを分かち合い共感することがひとつの世界で共生する者の定めということができる。そこには、やはり自己という枠にとらわれない視点がうかがえる。今の社会にはこのような視点が欠けているのではないだろうか。自己に執着することが当然のようにみなされ、逆に「他」に対して目を向けることが珍しくなってきている。
  

結論 東洋的価値観の再考

 現在、私達日本人は、東洋の古き思想についてあまりよく知らない。近代化の結果として作られた現行の価値観の中では、すぐに経済的付加価値にならないものとして、あまり重宝されていないのが原因かもしれない。しかし、東洋思想には生きていく上で、心の支えとなる人生の教えがたくさん含まれている。その教えは、様々な問題を抱える現代社会にとっても、道しるべとなってくれるにちがいない。
 グローバル化が進む世界で、私達は自分達が進むべき道を見つけられないでいる。本当のグローバル化とは何なのかということを私達はもう一度考えるべきではないだろうか。経済価値のみを追い求め、自由化を推し進めることが果たして本当のグローバル化なのか。私はそうではないと思う。目先の利益だけを追い求めた結果、私達は自分達の未来を破壊しつつある。現在の幸せさえも私達の手から離れつつあるのかもしれない。近代の発達によって、私達は人間の能力をおごりたかぶり、自己中心的な人間が増えた。しかし、近代的技術の力が大きければ大きいほど、私達は自分自身をも傷つける能力を得てしまったとも言える。いくら技術が発展しても、その技術を使う精神力がなければ、幸せにはなれないではないだろうか。自我に執着するのではなく、身近な社会、そして世界全体の利益が自分の幸せをも決める同一体であるという意識を持つ必要があると考える。
 人と人、人と環境の関係性を回復させ「共生」の世界を作っていくために、今一度東洋的価値観を見なおすことは重要である。




脚注

註1 「福沢諭吉選集」第四巻 岩波新書 P.50[本文]
註2  「デュルケーム・ジンメル」世界の名著 編:尾高邦雄 中央公論社 P26[本文]
註3「老子」世界の名著 中央公論社 P.69 [本文]
註4 「孔子」世界の名著 中央公論新社 P.74[本文]
註5 「老子」世界の名著 中央公論社P.120[本文]
註6 「バラモン教典・原始仏典」世界の名著 中央公論社P436[本文]


参考文献
「倫理」 一橋出版 見田宗介ほか
「東洋思想の現代的意義」 黄心川 農村漁村文化協会

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