カント 『道徳形而上学原論』 第三章


《復習》 (訳者後記より)

絶対に善なるもの=私たちの善意志
 ⇒一切の善行為は、私たちの善意志から発生し、それ以外には起源をもたない
   ↓
善意志の概念を展開するためには、義務の概念が必要
義務:私たちをして善なる行為をなさしめる必然性、最高善の概念を含む
   人の心に服従を要求し、敬意を表せしめるような道徳的法則を樹立する
 ⇒善行為は、義務という道徳的概念にもとづいてのみ可能
   ↓義務の概念から道徳的法則へ
道徳的法則…理性的存在者としての私たちの理性から生まれたもの
 *私たちの意志が絶対に善であるためには、道徳的法則が、幸福やそのほかの一切の利 
  害関係を顧みることなく、直接に意志を規定しなければならない

行為の客観的法則=道徳的法則
行為の主観的原則=格律…善にも悪にもなり得る
 道徳的法則―――→必ずしも常に善をそのまま実現することのできない意志
       命令=命法:「べし」という語によって表現される
             私たちの意志に対しては強制となる
  命法 仮言的命法:ほかの目的のための行為を命令する
     定言的命法:或る行為を直接に命令する
      「君の格律が、すべての人に妥当する普遍的法則となることを欲するような 
       格律に従って行為せよ」
      ⇒この命令に従い遵守することが、道徳的行為を産出するための根本的条件


《グループワーク》

1. 意志の自律とは何か?

 【引用】
・ p141…「すると意志の自由は、自律―すなわち自分が自分自身に対して法則であるという、意志の特性をほかにして、いったいなんでありえるだろうか。」
・ p146…「もし我々が自分自身を、理性と行為に関する彼の原因性の意識すなわち意志とを賦与されているような存在者と思いなそうとするならば、我々はこれとまったく同じ理由から、理性と意志とを賦与せられている限りのいかなる存在者もまた自由の理念のもとで彼自身の行為を規定するという特性をもつことを認めねばならない、ということである。」
・ p149…「ところが我々はすでに我々自身に、意志の自由を与えているのである、それだからそのあとで我々自身を道徳的法則に服従していると考えることになる、意志の自由と意志がみずから自分自身に道徳的法則を与えることとは、いずれもそれが自律だからである。」

【回答】
  私たちの理性は、道徳的法則をみずから創造してこれを自分自身に課する、これを意志の自律という。そして、私たちはみずから創定した道徳的法則に服従しこれによって自分の意志を規定し、この世において絶対に善なる行為、或いは少なくともかかる善を志向するところの行為を発生せしめるよりも高貴な原理はあり得ない。だから意志の自律こそが、道徳の最高原理だと言える。

 そして、意志の自律が成立するためには、意志の自由という最高条件がなければならない。自由は、消極的には一切の経験的な、すなわち自然必然的な条件からの自由を意味するが、しかしこの消極的自由によって一切の不純物が一掃されると、そこにおのずから理性の純粋な働きであるところの無限の自由が発生する。これこそが積極的な意味での自由である。

2.私たちは同時に2つの世界に属する。その2つの世界である感性界と悟性界を説明しなさい。

感性界…経験の世界
悟性界(=可想界)…経験を超えた世界、道徳的世界

 理性的存在者としての人間は、感性界と悟性界という2つの世界に同時に生きる。悟性界は感性界の根底に存するものの、これらは互いに相干渉することなく共存しており、しかもこの2つの世界が、人間の存在の意識において一つに結合している。
時間および空間における現象としての人間は、自然の一部として感性界に属し、よって必然的に自然法則に従うこととなる(他律)(P.155参照)。また理性的存在者は、叡知者として悟性界に属する。ここで彼は、物自体として自然法則にかかわりなく、自由の法則(→意志の自律)に従う(P.155、P.158参照)。そして悟性界に属する全ての理性的存在者が、普遍的法則に一致するような格律を遵守するならば、目的の国が実現するのである(P.125参照)。
P.158〜P.159 「私が可想界だけに属する成員であるとしたら、私のいっさいの行為は、いつどんな時でも意志の自律に適合しているであろう。しかし私はそれと同時に、私自身を感性界の成員とみなすところから、私の行為は意志の自律に従うべきである」
P.160〜P.161 「道徳的な「べし」は、可想界の成員としての彼には、彼自身の必然的な「欲する」であるが、しかしまた彼が自分自身を同時に感性界の成員と見なす限りでは、この「欲する」は彼によって「べし」と考えられるのである」


《ディスカッション》

1. 意志の他律を自律に転換することは可能か?またそれはどのようにしたら転換できるのか?

道徳法則理性的存在者は、可想界と感性界の二つの立場をもち、それぞれに属するものとして彼の意思の原因性は自律し、他律する。可想界において、意思がそれ自身に対して法則性を持ち、あらゆる外的規定から独立した自由の理念にもとづく理性に従うとき、意思は自律している。一方、感性界において、経験に基く自然法則に従うとき、意思は他律している。
 それぞれに属する限りにおいて、理性的存在者の意識は自律・他律のどちらにも向かうと考えられる。カントは、普遍的法則を為す理性に従うことを善意思とし、実践することを望んでいた。しかし、「理性自身だけで行為を規定することは、必ずしも実現され(P、147)」ず、カント自身も純粋な理性の判断で行為をすることは、難しいと考えていたのではないか。

道徳的法則の実践は(善意思の実現)によって、意思の自律は証明できる。
理性的存在の意思の自由が、実践的見地において自由の理念が証明されるように、道徳的法則の実践(自由の理念の前提に理論理性で成り立つ道徳的法則に従う行為)によって、意思が自律していることは証明できる。

意思の原因性: 意思の主体となるもの。
意思の自律は、意思がそれ自身で法則をもちなりたっている自由に基いた状態。

 「自らある状態を始める能力である自由(P、140)」を前提に理性、意思など全ての存在を規定することによって、必然的に義務が生じるという仕組みは、近代市民社会以降での「自由」の概念が「自律」を意味し、個人で価値を創造することを可能とするが常にそれには自己責任が伴うという仕組みに似ている。しかし、カントは「人間において純粋に能動的と思われるもの(直接に意識に達するもの)に関したは可想界に属するものであることを認めざるを得ない、だが人間は、可想界についてはそれ以上のことは知らないのである。(P、153)」とあるように、分からない範囲を規定できるように操作するには至っていない。

2. この書物を通してカントが言いたかったこととは何か?

道徳哲学を建設すること
   経験的部門を合理的部門から注意深く分離する必要があるのではないか、そして自然の形而上学を本来の(経験的)物理学の前に据え、また道徳の形而上学を実践的人間学の前に置かねばならないのではないか(P.11)

* もっともこれらのア・プリオリな法則がどのような場合に適用されるのかを判別し、或いはまたかかる法則を人間の意志に導入して実行を促す力たらしめるには、やはり経験によって研ぎ澄まされた判断力を必要とすることは言うまでもない。(P.13)

道徳の形而上学が必要となる(P.14)
  ←人間の道徳を導く手引としてのかかる実践的原則と、また道徳を正しく判定するための最高の規範とを欠くと、やはり道徳そのものが種種さまざまな堕落に陥るおそれがあるからである。
  ←ア・プリオリに我々の理性に備わっている実践的原則を究明しようとする思弁的動因

道徳形而上学の旨とするところ
  ←およそ可能な純粋意志という理念とこの意志を規定する諸原理の究明にあり、人間の意欲一般にもとづく行為やかかる意欲一般の従う条件の研究にあるのではない(P.16)




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