マルティン・ブーバー 『我と汝』 講義録
今回扱った範囲では、組織と感情のふたつの言葉が重要であった。両者は本文中の言葉では、組織は「〈外にあるもの〉」、または「雑踏する広場」、感情は「〈内にあるもの〉」、または「女性の私室」と言いかえることができる。そして組織は何ひとつ公的生活を生み出さず、また感情も何ひとつ個人生活を生み出さないというところから、ブーバーは組織と感情のどちらに対してもネガティブなイメージを持っているといえる。
また、組織と感情(雑踏する広場と女性の私室)から、パブリックとプライヴェートという言葉のペアが連想されてくる。それらの言葉は、古代ギリシア時代から用いられていた。当時のギリシアにはポリスが存在し、アリストテレスによれば、政治などに関わる人間、いわゆる自分自身を管理し、なおかつ他人の世話ができる人がパブリックとして有能とされていた。(本来パブリックとは、ギリシア語のポリスにあたる言葉であり、“人間の生きる共同体に関わること”という意味であった。)これに対して、プライヴェートとは、自分のことしか考えない人間のことを意味し、一人前ではないとされた。(パブリックの本来の意味は“フルの権利をもつ”ことで、プライヴェートの本来の意味は、“奪われた”、“権利を剥奪された・限定された”というものであった。)しかしながら、近代(19世紀末)において、これらの言葉の意味の転換が起こり、プライヴェートという言葉の意味がポジティブなものになった。社会生活の変化に伴って、人々はプレッシャーやストレスの多いパブリックな場所からプライヴェートへ逃避し、本来の生活はプライヴェートにあるとされるようになったのである。昔は同一であった仕事場と家族の居場所をパブリックとプライヴェートに分けることにより、人々はパブリックよりもプライヴェートに過剰な期待をもつようになると同時に、同心円的な世論の形成が近代化によってできなくなった。こうして、人々はそれぞれ自分のことを考えるようになり、このことが自らの欲求、すなわち感情(これは個別的なものである)にしたがって行動するという消費社会へと結びついていったのである。共同体から孤独になる寂しさというのは、人間にとってマイナスになるが、消費社会にとってはプラスとなるのである。ブーバーが『我と汝』を著した時代は、ちょうど消費社会に移行する直前であり、ブーバーはこのことをすでに感じとっていたのではないだろうか。以上見てきたように、パブリックが嫌なものとなって、人々はプライヴェートに期待するのであるが、それではプライヴェートに絶望したときはどうなるのであろうか?しかし人々は、やはりパブリックに戻ることはできず、いったんは絶望してしまったプライヴェートに異なった形で様々なものを見つけだそうとするのである。
最後に、現代において感情至上主義がかなりいきわたっている。これは現在の経済構造が深く関わっているのであるが、感情は反駁できないものであり、感情に訴えかけることは消費社会をいっそうすすめてしまう。単発的な感情に動かされることはよくないことであり、ブーバーは近代人が役に立つ、役に立たないというネットワークの中で、ものごとを判断するのはよくないというメッセージ性をもこめていたものと思われる。
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