学術的自己紹介

――“場”としての空間――



1.はじめに

2.『空間』の流行

3.『空間』とは――空間の概念

4.“場”としての空間

5.おわりに



1.はじめに


  「私の興味範囲は『空間』である。」と、春学期の研究演習が始まる時に私は述べた。この時私が想定していた空間とは、絵画や造形などの美術作品や建築物が作り出すある一定の非常に限られた空間のことを指していた。また、全く根拠がないにも関わらず、空間とは入れ子構造のようなものであると考えていた。例えば自分ひとりの空間が存在し、家族や友達といる空間が次にあり、そして教室や部屋がつくり出すより広い空間があり…というように、人が集まってきたり、“入れ物”としての大きさが大きくなるにつれて、空間も広がっていくように思っていた。つまり、空間はいくつもの階層に分かれ、なおかつそれが入れ子構造になっていると考えていたのである。しかしながら、研究演習を通して様々なことを勉強していくにつれ、自分の『空間』というものに対する認識がとても曖昧なものであり、根拠のないものであることに気づいたのである。また老子を扱った際、老子のいう「道」(註1)に時間的・空間的ひろがりを感じ、『空間』をより広い範囲で考えるようになった。そして今回、この認識を深めようと思い、『空間』について考察してみることにした。


2.『空間』の流行


  ここ最近、「空間」という言葉をしばしば耳にするようになったとは感じないだろうか?街(例えば大阪の堀江など)にはオシャレなカフェやショップ(=オシャレな空間)がたちならび、人々はこぞってそのような場所に出かけて行く。これは一種の流行であり、『空間』の概念でいえば新しいものになるのであろうが、『空間』に対する需要が増えたことを意味していると言える。また、職業名として空間設計者と呼ばれる人たちがあらわれたことがこのことを裏付けしているのではないだろうか。
  しかしながら、これら多くの空間は“消費対象としての空間”になってしまっていると言えるのではないだろうか。カフェを例にとると、たとえカフェを設計する人が、純粋にみんながくつろげる、リラックスできる空間をつくろうとしていようとも、カフェに来る人の大半が、それを消費対象と見ているのである。つまり、自分はオシャレなカフェに行ってコーヒーを飲み、読書をし、くつろぎ、それらの行為により何かしら癒されるということによって、自分は他人とは違う、他人よりも有意義な時間と空間を過ごしているという感情を持つようになる。これはつまり、他人との差異化であると言えるのではないだろうか。しかし、カフェというものを流行という観点から見ると、誰もがそれを追い求めカフェに足を運ぶため、結局この行為は他人との差異化ではなく、みんなと同じ行為をしていることになってしまい、個性化などではなく同質化であるといえる。つまり人々は流行というシステムに組み込まれてしまっているのである。また、ともすれば有名で人気のある空間設計者を招き、そのために人気のでるであろうカフェを設計してもらうということが行われる可能性があるが、これははなからカフェという空間を商業的なもの、または消費対象として見ているのである。そしてこれらのことは、『消費社会の神話と構造』でボードリヤールが指摘していたことと同じではないだろうか(註2)。(しかしながら、システムに組みこまれている行為だと分かっていても、カフェは非常に魅力的に思えるし、私を含め人々はそこに足を運ぶのをやめることはないのである。)
  ここにおいて、私の友人が「これからは癒しもカネで買う時代だと思う。」と言ったことを思いだす。聞いたその時はあまり実感がわかず、それが本当であるとすれば、非常に寂しいことに思われたのだが、今では現実になってしまっている。そしてまた、上記のことからしてみると、友人の言葉にあった‘癒し’を‘空間’に置きかえることができるのではないだろうか。つまり、「これからは空間もカネで買う時代だ。」と。しかしながら、‘癒し’であれ‘空間’であれ、カネだけでは買うことのできない、本来もっと価値のあるものであるはずだと思うのは私だけであろうか。これに対して、何かしら糸口を見つけることができはしないかと、根本的なところにかえって、『空間』の概念を見てみることにしたい。


3.『空間』とは――空間の概念


  それでは、空間とは一体何であろう?さきほど私が想定していたように、建築や教室などによって限定された、有限なものなのだろうか?それとも、よく分からないが無限なものなのだろうか?これはたいへん難しい問題であるが、少しでも認識を深めたく思い、非常に簡単ではあるが、空間概念の変容を追ってみた。
  古代ギリシアにおいては、空間についての二つの異なった見解がみられた。そのひとつとして、デモクリトス、エピクロスなどの原子論者は、原子と空虚の二本立てで世界を説明した。彼らは無限に広い空虚な空間が存在し、それはものの容器であり、物体の運動の舞台であると主張した。(これは、ニュートンの絶対空間にかなり近い概念である。)そしてもう一方は、アリストテレスの見解である。彼は真空は存在し得ないとし、空虚な空間という考えを否定した。空間はあくまで〈場所〉であり、それは物体が占めている物体自身の境界面であって、ある物体とそれをとりまく他の物体(媒質)との境界面であり、よって〈空間そのもの〉は存在し得ないとした。
  また中世においては、アリストテレス主義による空間解釈が主流であった。
  そして近代において、デカルトは物体の属性を〈延長〉と定義することで、自然には延長とその運動以外のものがなくなり、一様な数学的世界が成立すると説き、アリストテレス的な質的区別のある世界を打破した。彼は物体と区別された空間を認めず、無は延長を持ち得ないから、〈空虚〉つまりそのなかに何の実態もない空間は存在し得ないとした(註3)。また18世紀はじめ、ニュートンによれば空間は物質を入れる空虚な容器であり、3次元的で連続し、静止して無限であり、一様で等方的、等質なものである。そして通常の意味での宇宙空間を絶対静止空間と考え、この宇宙空間が絶対空間であると同時に、すべての相対運動の基準系となる絶対静止系であるとした。これに対してライプニッツは、空間とは互いに別々に存在する個々の物体の集合の配列の順序であって相対的なものであるとした。そして18世紀後半のカントにおいては、空間が主観的人間的な視野の性格をもち、われわれの直観の形式にほかならないと解釈したのである。カントはみずからの考えを次のように整理して示している。第一に、空間の観念は外的感覚からの抽象によって得られるのでなく、逆に外的感覚が空間の観念を前提するのである。空間観念は外的経験のア・プリオリ(ここでは、「理性にもとづき、経験から独立に」という意味)な前提である。第二に、空間の観念は一般概念でない(個別的事例を「下に」もつ一般者ではない)。それは個別(部分空間ないしそれを充たす物体)を部分として「内に」含むところの全体であり、この全体自身が個別者なのである。(このことはニュートンの絶対空間があらゆる部分空間を容れる容器のように考えられたことに対応する)。第三に、個別者の観念は、概念ではなく直観である。個別者は直観の対象である。そこで空間は、ア・プリオリな(いいかえれば純粋な)直観である。第四に、空間はライプニッツの考えたように実体間の二次的関係ではなく、またニュートンの考えたような、事物を容れる無限な容器というべきものでもなく、精神が外的に感覚されたものを同位秩序におく形式であり、主観的な観念的なものである(註4)


4.“場”としての空間


  ここで、私は空間を〈場所〉と考えるアリストテレスの空間概念に興味を持った。空間を“場”として考えると、家庭や学校、美術館も場であると言えるのではないだろうか。そしてこれに従うと、鎌田ゼミもひとつの場であり、空間なのである。これはなぜなら、教室と名前のつけられた場所で、文献を読んだり、発表をしたり、また色々なことを論じあいながら、同じ時間を共有している“場”であると考えられるからである。また、空間というと、抽象的で分かりにくいもののように感じがちであるが、“場”ととらえることによって、それがより具体的で身近なものに感じられるような気がする。今自分が立っている、存在しているところそのものが“場”なのである。そしてそこには他の人の存在がなにかしら想定されている場合が少なくないように思う。(「場が和む」、「場が白ける」、「場をとりつくろう」などの言葉にみられるように、「場」には他の存在が前提とされていることがしばしばあるのではないだろうか。)そしてここから私は、“場”という言葉に何か共同体の光になるようなものを感じてしまうのである。
  現代において、共同体が崩壊してきており、人々は孤独になっているとよく言われるが、これはあふれんばかりの、氾濫とでもいうべき大量の情報によって、人々が集団への帰属を確認できず、自分の立ち位置を見失ってしまっているからである。ここにおいて、“場”というものが、自らの存在を再認識する一助になりはしないだろうかと思うのである。コリングウッドは「芸術とは共同体の医薬である」と言ったが(註5)、“場”(空間)もそうなりうるのではないだろうか。もちろんこの場合、先に述べたような消費対象としての空間とは全くの別物であるのは言うまでもないだろう。とはいえ、それがどのようなものであるか、今の私では力不足ではっきりと述べることはできない。しかしながら、“共生としての場”とでも言うようなものが、もしかしたらうまれてきはしないかと、非常に浅はかではあるが感じているのである。


5.おわりに


  上で述べてきた、私の考える“場”としての空間は、アリストテレスの主張からはかなりはずれており、また飛躍したものになってしまっている。そのうえ、空間概念も未だ曖昧で、アリストテレスが言うように「〈空間そのもの〉は存在しない」かどうか、そして原子論者やニュートンの主張のように「空間とは無限である」かどうかはまだ見極めることができない。ただ、春学期の初めと比べると、『空間』をより広い概念でとらえようという傾向にあることは確かである。もちろん、絵画・彫刻・建築・工芸などの美術・芸術がつくりだす空間に対しての興味はつきないし、より深くほりさげていく意向である。しかしながらそれとともに、より広い意味での『空間』というものを定義、構築しつつ、空間概念の変遷や、偉大な哲学者たちの思想をかりて、私なりに“場”としての空間、ひいては共同体の光になるような“場”を考えていきたいと思っている。


(註1)『世界の名著 老子・荘子』小川環樹 責任編集(中央公論社)69、73、93、97、106、117、121ページ参照 〔本文へ戻る〕
(註2)ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)68ページ、112−114ページ、120−121ページ参照 〔本文へ戻る〕
(註3)『世界の名著 デカルト』野田又夫 責任編集(中央公論社)369−381ページ参照 〔本文へ戻る〕
(註4)『世界の名著 カント』野田又夫 責任編集(中央公論社)39、54ページ参照、41ページより抜粋 〔本文へ戻る〕
(註5)『世界の名著 近代の藝術論』山崎正和 責任編集(中央公論社)442ページ参照 〔本文へ戻る〕



≪参考文献・参考サイト≫

『世界の名著 老子・荘子』 小川環樹 責任編集 中央公論社
ジャン・ボードリヤール 『消費社会の神話と構造』 紀伊國屋書店
『世界の名著 デカルト』 野田又夫 責任編集 中央公論社
『世界の名著 カント』 野田又夫 責任編集 中央公論社
『世界の名著 近代の藝術論』 山崎正和 責任編集 中央公論社
http://ziggy.c.u-tokyo.ac.jp/lecsemi.html





戻る