進級論文
―芸術から共同性へ―



≪目次≫

序文
第1章 現代社会における芸術
  第1節 芸術の多様化
  第2節 精神文化の推進
  第3節 本来の芸術と“アート”
第2章 共同性をうみだすものとしての芸術
  第1節 芸術とその空間
  第2節 芸術・芸術空間との対話
  第3節 個々の芸術体験から共同性へ
  第4節なぜ共同体が必要なのか
結び



序文


 今日、芸術には多種多様なジャンルや形式が存在し、多様化がすすんでいる。それとともに芸術のアイデンティティがあいまいなものとなり、芸術とは何かという問いに明快に答えることができなくなっている。そのうえ、芸術と呼ばれるようなものもたくさんでてきており、本来の芸術との区別をつけることもできない状況である。身のまわりにはたくさんの芸術(そして芸術と呼ばれるもの)があふれ、「物質的豊かさ」を達成した現代人は「精神的豊かさ」をそれらに求めるようになっている。しかしながら、人々は本当に芸術に親しんでいるのだろうか。また人々が指向する芸術とは、いったい本来の芸術なのだろうか…など疑問は多い。ここで芸術を、自己目的的かどうか、共同性へつながりうるか否かという2点から、本来の芸術と芸術と呼ばれるもの=“アート”とに区別することとする。そして本来の芸術を共同性へ向かいうるものとして、芸術家と鑑賞者、鑑賞者と鑑賞者との関係から考察していく。その過程で、芸術の空間、そこにおける芸術の体験についてふれることとする。ここでは、芸術作品やそれらがつくりだす空間を通して、私たちは対話すること、コミュニケーションすることができ、そしてそれによって芸術家だけでなく他の人々との相互作用が可能となり、それが共同性へとつながっていくものであると考える。つまり、芸術は共同性を見なおすためのきっかけとなるものなのだ。このようなことを以下で考えていくことにする。

※この論文において芸術というと、美術品や造形のことであり、音楽、演劇、文学等は含まないものとする。そしてこの芸術は本来の芸術、“アート”とは別の物と考える。


第1章 現代社会における芸術


第1節 芸術の多様化


 今日、芸術は色々な意味で進化している。20世紀前半のモダニズムに始まって、キュビズム、シュールレアリズム、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートなどの多種多様なジャンルが存在する。そして20世紀の芸術に最も影響を与えたのが、マス・コミュニケーション、マス・メディアの発達であろう。その影響を最も反映している例として、ポップ・アートがあげられる。これはマス・カルチャーを通じて表現されたものであるが、「はたして芸術であるのかどうか?」という議論を巻き起こした(註1)。またこのような傾向とは別に、作品が風景の一部となるような、自然との関わりを通して実現されるランド・アート(アート・ワーク)が生まれたりと、様々な側面から芸術の概念は大きく広げられることとなった。1980年代は、パブリック・アートの必要が言われはじめ、彫刻や絵画などが美術館を飛び出して、都市の公共的な建物やオフィスビルなどのスペースに設置されるようになり、また1990年代には環境芸術という言葉が定着し、その必要性が社会的に認知されるようになったりと、芸術は私たちにより身近なものになってきている。それに加え、ビデオ・アート、写真、コンピュータ・グラフィックスやインスタレーション(註2)、メディア・アートなどに見られるように、芸術の表現媒体や作品の形式がきわめて多様になっている。今ほど、芸術が多様な形態をとって存在している時代はかつてないのではないだろうか。芸術的表現は一様ではないし、ジャンル間の区別も、実際あってないようなものである。そしてこのように芸術の概念やその範囲が無限に広がった一方で、その定義があいまいになっているのである。つまり、そもそも「芸術とは何か?」という問いに対して、明確な答えを見つけることができないのである。もちろん、「芸術とは何か?」という問いは、芸術専門家であっても答えることは難しい。しかしながら、今日の場合、芸術そのものを定義するというよりはむしろ、芸術と呼ばれるものがあまりにも多く存在しすぎて、一体どれが本来の芸術と呼ばれうるものなのか決めることができないのだ。「あれも芸術、これも芸術……えっこれも芸術なの!?」という具合なのである。
 ここで、本来の芸術と、芸術と呼ばれるようなもの・本来の芸術とは定義しにくいものとの区別をつけるために、芸術と呼ばれるようなものを“アート”という言葉で表現することにする。私見ではあるが、私たち日本人は「アート」という言葉に本来の芸術だけでなく、「よく分からないが芸術と呼ばれてよさそうなもの」という意味合いを付け加えているように思う。そしてこのことによって、今まであいまいな立場にいた芸術と呼ばれるようなものに社会的な地位を与え、また同時に芸術が多様なジャンルを持つことを可能にしたのである。確かに最近では、芸術という言葉よりも、「アート」という言葉のほうが頻繁に用いられているように思う。おカタイ芸術よりも、柔軟で幅広い“アート”の方が好まれるということだろうか。しかしながら以上のことは推測であり、「アート」を批判する意図は全くない。ただ芸術と呼ばれるようなものの代替名称として“アート”を用いるだけである。そしてここで本来の芸術と“アート”の区別をするならば、本来の芸術は「美術館や博物館に所蔵されていたり、専門家や評論家たちから評価をうけている美術品や造形」であり、“アート”は美術館や博物館に所蔵されている美術品・造形に加えて、「身近にあってなにかしらデザインがほどこされており、内容が分かりやすく、人の目をひき、なおかつ人々に受け入れられるもの」ということになるだろうか。きわめて簡単であるが、これが本来の芸術と“アート”の区別としておく。本来の芸術よりもより広い意味をもつものが“アート”であるという認識が得ることができればここでは十分である。のちにまたこれらの違いについてふれる。

第2節 精神文化の推進


 日本においても先述したような芸術の多様化がすすんでおり、芸術は私たちのまわりにたくさん存在する。つまり芸術は現代の私たちの生活空間により身近なものとなってきているのである。しかもこれは高度成長から低成長へという経済社会の変化によって、人々の心の意識が「物質的豊かさ」から「精神的豊かさ」に変わってきたことに関係があるだろう。(註3)(註4)人々が「精神的豊かさ」を求め、生活や独自のスタイルに以前より関心をもったことで、暮らし方に変化があらわれ、生活の中に文化や芸術を取り入れようとしはじめたのだ。これまで芸術といえば、なんとなく近寄りがたいもの、理解しがたいものとして扱われてきた。そのうえ芸術鑑賞には何か作法のようなものがあって、それにならって鑑賞しなければならないというような一種の誤解すらあった。そのように考えていた人々が、今では生活に精神的豊かさを求め、芸術に目を向けている。様々な展覧会や日本各地における美術館の建設などがそれをあらわしていると言ってよいだろう。またサントリーや東急電鉄などの企業が文化施設をつくったことも、人々が精神的豊かさを求める傾向を裏付けるものとなるであろう。
 しかしながら、ここでひとつの疑問が浮かんでくる。果たして人々は本当に芸術に親しんでいるのだろうか?実は時代の流れがそうさせているだけなのではないだろうか?つまり、人々は芸術を「精神的豊かさ」のために追い求めているだけなのではないだろうか?たしかに、人は芸術を通して心を豊かにすることができる。しかしこれは芸術にふれ、それを感じ楽しむことによって、結果的に心が豊かになったり癒されるということで、決して豊かさや癒しが得られるから芸術にふれるわけではない。芸術はメッセージ性を含んでいるという以外に目的をもつものではないのである。(註5)芸術を精神的豊かさのために追い求めるということは、目的を達成するための手段・道具として芸術を見ていることになるのではないだろうか。
 そのうえ、先述したように現代では芸術と呼ばれるようなもの=“アート”がたくさん世の中にあふれている。例えば、本来は商品を売るために宣伝をするという目的のためにつくられる広告でさえ“アート”と呼ばれたりするのである。このように“アート”の範囲はとてつもなく広い。そして上に記した疑問からまた次の疑問がでてくるのである。はたして人々が「精神的豊かさ」のために生活にとりいれようとしている芸術は、いったい本来の芸術と“アート”のどちらなのであろうか?答えは、“アート”である。精神的豊かさを得るために、人々は分かりやすく手軽な“アート”を求めているのである。確かに“アート”を指向することによって、今まで敬遠されてきた本来の芸術が受け入れやすくなるかもしれない。しかし“アート”の中でも、本来の芸術よりも「身近にあってなにかしらデザインがほどこされており、内容が分かりやすく、人の目をひき、なおかつ人々に受け入れられるもの」を人々は指向する傾向にあるように思う。(註6)そしてそれらは、個々人の生活において彼らの文化尺度を手軽に示すことのできる一種の象徴となっているのだ。人々は社会の一個人として自己および他者を意識し、その他者との差異を求めるためにそれぞれ個性的であろうと努める。この「差異化への欲求」(註7)から、人々は芸術にふれることによって「精神的豊かさ」を得ることができるというイメージでもって“アート”を追いかけるのである。他人と比べて自分はどれだけ豊かであるのかということをはかるひとつの目安として、“アート”を求めるにすぎない。つまり人々は“アート”を消費しているのである。“アート”は「作品として、すなわち意味をもつ実体、開かれた意味作用として、他の製品に対立することはなく、それら自体が製品となって、平均的市民の社会的文化的標準を規定する付属品のパノプリ〔セット〕」(註8)として扱われるのである。

第3節 本来の芸術と“アート”


 ここでもう一度、本来の芸術と“アート”との区別をより詳しくみていくことにする。そのためにコリングウッドの説を採用することにしたい。本来の芸術とはその外に目的があるのではなく、それ自身のうちに目的がある。そしてまたメッセージを含むものである。(註9)そして本来の芸術は人間にとって自分が何を見ているか、自分がいかに行動しつつあるかを含めて、自分が何を感じているかを確認する仕事である。つまり人間の自己確認の営みであり、いいかえれば自己とこの世界との関係を確認する仕事なのである。したがって芸術家は自分の感情を表現してしまうまで、それがどんな感情かを知らないのであり、表現することによってその感情がどのようなものであるかを知る。よって、ある一定の感情を引き起こすために描かれた絵画は芸術ではなく技術である。なぜならこのためには、その感情を芸術家が最初から知っていなければならないし、ある決まった感情を引き起こすということは、芸術作品自身の内ではなく外にある目的だからである。(註10)芸術家の経験を鑑賞者が追体験することによって、芸術家の感情やメッセージを感じることができるもののみが本来の芸術なのである。しかしながら“アート”は、自己目的的ではない。自らの生活の豊かさを増進する手段として、豊かさをはかる目的で“アート”は追い求められるからだ。広告でいえば、その商品を購入して潤いのある生活をおくる近い未来の自分の像・イメージを人々に与えることによって、最終的にその商品を売るという目的のために、華々しくデザインされたにすぎない。これはある一定の感情、つまり「この商品が欲しい!」という感情を人々に引き起こすことを目的としているので、技術なのである。
 そして芸術と“アート”の決定的な違いは、共同性へつながるものであるかどうかだと考える。“アート”は人々にとって受け入れやすく、共通の理解が得られるものであるが、共同性を生みだすものではない。なぜなら、“アート”は消費されるものであるからだ。消費という行為は、個々人の行為であり、差異化のために“アート”を追い求めて得られる結果は、共同性ではなく、他の人々との同質化なのである。なぜなら、彼らも差異化を求めて同じように“アート”を消費するからである。(註11)それとは違い、本来の芸術は共同性を生みだしうるものであると考える。ではどのようにして芸術は共同性へとつながるのか。それを以下で考えていくこととする。


第2章 共同性をうみだすものとしての芸術


※この章では、芸術家と鑑賞者、鑑賞者と鑑賞者の関係をみていくことによって、芸術から共同性へと向かうことを考察する。


第1節 芸術とその空間


 展覧会に行ったり美術館に入ると、なにか独特の雰囲気を感じるだろう。美術作品が並べて置かれており、人々はとても静かにそれらを眺めている。「あの空気に耐えられない!」と言う人もなかにはいるのではないだろうか。しかしあの独特の雰囲気は、作品がきちんと並んでいるという行儀の良さや人々の静かさだけからくるものではない。それぞれの作品がそれ自身の世界を有していることにより、あの雰囲気がつくられるのである。あらゆる美術作品は絵画や彫刻といった作品の「枠」内だけでなく、「枠」の外にも世界をもっている。これが芸術作品の空間であり、これはとても重要なものであると思われる。
 オギュスタン・ベルクは「主体と客体の関係の種類と同じ数だけの種類の空間が存在する。そこから、主体が客体に対して自らを定義する方法によって、空間の質が決定されることにもなる。」(註12)と述べ、空間(芸術作品の空間にとどまらず、空間一般を指す)を主体と客体の関係性として見た。そしてこの空間は「間」の概念からなるのである。「間」とは、「主体と他者の間の十全なコミュニケーション――ある一定の様態に限定されていない――の場」(註13)である。つまり、ある場所が主体と客体とのコミュニケーションによって、なんらかの意味をもつ空間となるのである。そしてそのコミュニケーションの形態は、話すということ以外にも、見る、感じる、触れるなどの全ての形態をとり得るのであって、このような意味において「「間」は想像力を動員する」(註14)のである。そして芸術作品の空間について、ハイデガーは「芸術の空間はそのつど「空間を開くこと」に存」し、それは「人間の見たり聞いたりする営みの中でのみおのれを「形作っていく」。芸術の空間はトポスであり、場処なのである。」(註15)と表現した。ここでも、人間の様々な行為を通して、空間が形成されると考えられている。つまり芸術にとっての空間とは、まさに芸術の表現媒体の要素であり、鑑賞者とのコミュニケーションがはかられる「間」であり、またそれによって芸術作品それ自身を成立させるための重要な場なのである。芸術は鑑賞者と芸術作品との関係によって、つまり「芸術がそれ自身の場においてそれ自身の構造の中で経験されてはじめて存在する」(註16)のである。

第2節 芸術・芸術空間との対話


 前節で述べられた芸術を経験することを、これから「体験」と表現することにする。(体験が実際に何か物事を行っている状態で、経験は体験した物事を意識化した結果というように、時間軸でみると、体験が現在進行形をとり、経験は過去形をとると考えられる。そして、芸術作品にたいする私たちの行動は現在進行で行われるものであると考えるため、体験と表現する。)芸術作品は単に眺められるだけのものではなく、その空間において、体験されるものなのである。体験するとは、「間」あるいは場において、人が芸術作品と様々な仕方でコミュニケーションをとることである。芸術作品を前にして、人はそれを見る。そして見ることは、コリングウッドによると「全体的想像体験」(註17)である。画家が自分の絵の中へ「記録」しているのは、彼がその絵を描きつつ行っていた経験であり、鑑賞者は自分の精神の中で、芸術家の経験を追体験しようとする、つまりそれをできるだけ精確に再構成しようとする。そして芸術作品を理解することは、眺めるだけでなく、あらゆるコミュニケーションを伴った全身的で複合的な仕事なのである。(註18)またこの体験のためには、鑑賞者は芸術作品に対して全存在をかけて向かっていかなければならない。自分を思いきりひらいて、芸術作品を受け入れ、対話するのである。そしてこの場合における人と芸術作品との関係は、マルティン・ブーバーのいう〈われ―なんじ〉(註19)という状態なのだ。 鑑賞者と芸術作品との関係が〈われ―なんじ〉であり、そして鑑賞者が精神の中で全身を用いて芸術家の経験を体験するとき、芸術の空間が開かれ、芸術作品があらわれることとなるのである。

第3節 個々の芸術体験から共同性へ


 私たちは〈われ―なんじ〉の関係で芸術作品と対話するときに、芸術家が芸術活動を行っていた経験を追体験し、そうすることによって、芸術家が作品にこめたメッセージを受け取る。しかしながら、私たちの芸術体験や芸術作品から得るメッセージが、芸術家のそれと同一だということを私たちは知ることができない。まして、同じ芸術作品を見ていても、鑑賞者の心には様々な感情がわきおこるのであり、全ての鑑賞者がまったく同じ感情を抱いたり、同一の体験をするということはありえない。芸術体験とは、個々人それぞれの体験であるので、共通の見解が存在しない。このような消極的な結論に達してしまうかもしれない。はたして、個々の芸術体験が共同性へ向かうことは不可能なのだろうか。
 芸術家と鑑賞者との体験の違い、つまり作品の鑑賞と解釈の問題について、コリングウッドはこれを芸術家の課題としてとらえ、芸術家の表現はつねに鑑賞者の理解を考慮に入れてなされなければならないと主張する。そして芸術家の自己表現が鑑賞者に分け持たれ、結局はそれが共同体そのものの自己表現となる可能性を肯定する。「芸術家というものは、…あるひとつの共同体の全体と共働的な関係に立っている。」(註20)そして芸術家は「共同体のスポークスマン」(註21)として、共同体の人々の心を表現しなければならないのである。つまり芸術家の作品は社会の共通の感情を掘り起こすものであるため、すでに人々と同一の感情を有しているのである。
 次に鑑賞者同士の体験の違いについての問題であるが、たしかに芸術家がすべての鑑賞者との間に共通の理解を成立させようと努力するならば、鑑賞者同士の体験が同一となるかもしれない。A(芸術家の体験)=B(鑑賞者の追体験)かつA=C(別の鑑賞者の追体験)ならばB=Cという(数学的)公式は成り立つだろう。しかしながら、芸術が共同性へと向かうには、このような芸術家の努力だけでは不十分なのではないだろうか。いくら芸術家が共通の理解を得ようと鑑賞者のために努力しても、鑑賞者である人々が相互に働きかけることがなければ、共同性は達成され得ないのである。したがって、鑑賞者は芸術家と他の鑑賞者の両方に向かって自らを開いていかなければならないのである。そしてここにおいて、個々人の〈われ―なんじ〉という姿勢が重要となると考える。なぜならば、人は個々の〈なんじ〉を通してのみ、永遠の〈なんじ〉をかいま見ることができるからである。(註22)つまり、芸術作品を体験することを通して、その先にある芸術に込められた共同体の心を見る。この永遠の〈なんじ〉こそが、共同体の心であり、それはまた芸術が表現しているものなのである。したがって、芸術作品を体験し、共同体の心を理解するということは、芸術家と鑑賞者相互の共同作業なのである。そして、「人間同士の相互関係は、生きた中心と関係を結ぶことから成り立つ」(註23)のである。 つまり生きた中心=共同性(芸術が表現しているもの)に対して、相互関係をもつことによって、鑑賞者である人は他の人々とも相互関係を結ぶことができる。このことよって共同体が成立するのである。(註24)

第4節 なぜ共同体が必要なのか


 第2章第2節で述べたように、人々は今「精神的豊かさ」を求めている。そしてその「精神的豊かさ」は、人との関わりのなか、つまり共同体のなかに存在するのである。しかしながら現代社会において、しばしば共同体の崩壊が叫ばれている。近所付き合いなどに見られる地域社会との関わりが非常に薄くなっており、家族が最後に残った共同体とさえ言われているのが現状だ。大塚久雄は共同体の基礎は「土地」であるとし、資本主義の発達により人々がその「土地」から離れることによって、共同体が崩壊したとする。(註25)日本においてもその具体例を見出すことができる。職を求めて農村から都市へと人口が移動し、豊かさへの絶えざる欲求から人々は一生懸命働き、それと同時に資本主義がすすんで、結果として共同体が崩壊してしまうこととなった。そして「物質的豊かさ」が十分に達成された今、人々は「精神的豊かさ」を求めている。「精神的豊かさ」は、共同体のなかにあるものであるのに、現代に生きる私たちはそれに気づかずに、「精神的豊かさ」を社会のシステムに求めてしまっているのである。本当の精神的豊かさを求めているつもりでも、人はいつの間にか社会のシステムにのみこまれていて、その範囲内でそれを必死で追い求めているのである。人々は本当の「精神的豊かさ」を求めて、消費社会と呼ばれる社会システムにほうり入れられたまま、眼前の目に見えるたくさんのモノに心を奪われて途中で迷ってしまい、家に帰ってくるどころかそれからぬけだすことができないでいる。しかも共同体にこそ「精神的豊かさ」が存在していたのに、それはすでに崩壊してしまった。しかしここで共同体の他に「精神的豊かさ」を求めるのではなく、もう一度共同体に目を向けるべきである。ボードリヤールは真に豊かな社会とは、物質的には豊かではないが、人々の間に豊かな信頼関係が成り立っている社会であると言った。(註26)今人々が求めているのは、他でもない共同体なのである。そして共同体への志向という段階で、芸術が果たすことのできる役割はささやかではあってもあるはずだと確信する。それは「芸術は公衆へのよびかけである」(註27)というサルトルの言葉に凝縮されているのである。

結び


 現在、人々は文化、芸術を生活の一部として取り入れ親しむことで、生きる喜びを感じ、ゆとりのある生活を過ごしたいと願っている。そう考えることはとても自然であろう。しかし人々の関心が文化、芸術に向けられているにもかかわらず、それは本来の芸術にではなく、巷にあふれる手軽な“アート”へと向かっているのだ。ここで、もう一度社会における自分の位置を確認する必要があるのではないだろうか。自分は今どこに立っていて、そしてどこへ向かってゆくのか。目の前の消費欲や“アート”に目をくらまされるのではなく、本当の「精神的豊かさ」や本来の芸術の所在を探しあてるためにも、この作業は必要である。
 それにしても、未だに芸術(本来の芸術)に対しては「カタイ」「よく分からない」など、抵抗があるように見うけられる。(この意味で、日本の文化政策を見直す必要があると考える。)しかし、そのような思いをまず捨てることが大切なのではないのだろうか。よけいな先入観を取り払って、〈われ―なんじ〉の関係で向き合ってみると、今まで窮屈でしかたがなかった芸術に何かを見つけることができるかもしれない。芸術にふれるうえで大切なのは、鑑賞の仕方(見方)ではなくて、味わい方なのである。つまり芸術作品をお行儀よく静かに、表面的に眺めることではなくて、それを体験し、楽しむことが重要なのである。芸術との対話によって忙しい日々からしばし解放され、いつもとは違う時間の流れの中で、自らを考え、他者との関係を考え、そして共同体のことを考えなおすことができるのではないだろうか。そしてそうすることによって、ほんの少しではあるが精神的な豊かさへと近づくことができるのではないだろうか。色々と堅いことを述べてきたが、多くの人に芸術に親しんでもらいたいということが私の願いである。



≪註≫

註1 フランスの思想家であるボードリヤールはこう指摘する。「モノへの偏愛とか「商標つきの」モノや食料品の際限のない形象化を通して――もちろん商業的成功を通じて――「署名入り」の「消費される」モノとしての芸術という独自の地位を追求した最初の芸術がポップなのである。」 ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳)『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店 165ページ[本文へ戻る]
註2 画廊や展覧会会場の一室、または屋外に設営された、平面や立体を含む空間表現全体のこと。1970年代以降、主要な表現方法となり、もともと一時的な設営だったものが、美術館で恒久的に展示されるようにもなってきている。 高階秀爾・三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』新書館 233ページより[本文へ戻る]
註3 少し古い資料だが、昭和62年度の総理府の「国民生活に関する世論調査」によると、
 物の豊かさを求める比率 35%
 心の豊かさを求める比率 50%
 どちらともいえない 15%
という数字が出ている。「物の豊かさ」と「心の豊かさ」を求める比率が昭和54年の調査に比べ逆転した。おそらく、現在では心の豊かさを求める比率はより高くなっていると思われる。 清水嘉弘『文化を事業する』丸善ライブラリー 15ページ[本文へ戻る]
註4 同じ昭和62年の調査で「生き方について」は、以下のような数字が示されている。
 身近な人との愛情を大切にしてゆきたい 40%
 経済的に豊かになりたい        24%
 仕事上で地位や高い評価を得たい    5%
『文化を事業する』 15ページ[本文へ戻る]
註5 「芸術は自己目的性を持ちながら、伝達性をも持つ。」 渡辺護『芸術学』東京大学出版会 31ページ[本文へ戻る]
註6 「よく知られているように、美術館もまたかつては聖域だったが、今や大衆が孤立した収集家や目の高い美術愛好家に取ってかわった。工場で生産される複製だけが大衆に好まれるわけではない。ひとつしかない芸術作品でありながら多くの人びとが入手できるオリジナル・コピーこそ大衆の求めるものだ。」『消費社会の神話と構造』 145ページ[本文へ戻る]
註7 『消費社会の神話と構造』 74ページ[本文へ戻る]
註8 『消費社会の神話と構造』 147ページ[本文へ戻る]
註9 『芸術学』 31ページ[本文へ戻る]
註10 コリングウッド『藝術の原理』(山崎正和責任編集『世界の名著 近代の藝術論』)中央公論社 382−403ページ[本文へ戻る]
註11 「差異の崇拝はもろもろの差異の喪失の上に成り立つのである。」『消費社会の神話と構造』 114ページ[本文へ戻る]
註12 オギュスタン・ベルク(宮原信訳)『空間の日本文化』筑摩書房 15ページ[本文へ戻る]
註13 『空間の日本文化』 75ページ[本文へ戻る]
註14 『空間の日本文化』 73ページ[本文へ戻る]
註15 ディーター・イェーニッヒ(嶺秀樹・孟真理・大津留直訳)『芸術の空間 造形芸術の言語への道』青弓社 51ページ[本文へ戻る]
註16 『芸術の空間 造形芸術の言語への道』 9ページ[本文へ戻る]
註17 「われわれが絵画を見ることから獲得するものは、単純にある視覚的対象を見る体験でもなく、それを部分的には見、部分的には想像する体験でもない。それは同時に…ある複雑な筋肉運動についての想像上の体験なのである。」『藝術の原理』 338ページ[本文へ戻る]
註18 『藝術の原理』 420−424ページ[本文へ戻る]
註19 「〈なんじ〉を語るひとは、関係の中に生きるのである。」マルティン・ブーバー『我と汝・対話』岩波書店 9ページ[本文へ戻る]
註20 『藝術の原理』 438ページ[本文へ戻る]
註21 『藝術の原理』 442ページ[本文へ戻る]
註22 「さまざまな関係を延長した線は、永遠の〈なんじ〉の中で交わる。それぞれの個々の〈なんじ〉は、永遠の〈なんじ〉へのかいま見の窓にすぎない。それぞれの個々の〈なんじ〉を通して根源語は、永遠の〈なんじ〉に呼びかける。すべての存在の関係が充たされるか充たされぬかはすべての存在に宿っているこの〈なんじ〉の媒介をとおして、〈われ―なんじ〉の関係の実現、非実現が起こる」 『我と汝・対話』 93ページ[本文へ戻る]
註23 『我と汝・対話』 58ページ[本文へ戻る]
註24 「真の共同体はすべて人々が生きた中心にたいし、生き生きとした相互関係をもつこと、さらに人々の間で相互に生きた関係をもつことである。」『我と汝・対話』 58ページ[本文へ戻る]
註25 「生産力の発達に伴い、分業が所個人の生産力を増加し、私的占取が、土地を前提にした生産から離れ、土地に代わる貨幣に見られる物々交換の生産が成り立つようになたとき、生産を「土地」を基礎において成り立つ「共同体」は崩壊する。」 大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波書店 55ページ[本文へ戻る]
註26 『消費社会の神話と構造』 78−79ページ[本文へ戻る]
註27 『芸術学』 30ページ[本文へ戻る]


≪参考文献≫

ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳) 『消費社会の神話と構造』 紀伊國屋書店
高階秀爾・三浦篤編 『西洋美術史ハンドブック』 新書館
清水嘉弘 『文化を事業する』 丸善ライブラリー
渡辺護 『芸術学』 東京大学出版会
コリングウッド 『藝術の原理』 (山崎正和責任編集『世界の名著 近代の藝術論』)中央公論社
オギュスタン・ベルク(宮原信訳) 『空間の日本文化』 筑摩書房
ディーター・イェーニッヒ(嶺秀樹・孟真理・大津留直訳) 『芸術の空間 造形芸術の言語への道』 青弓社
マルティン・ブーバー 『我と汝』 岩波書店
大塚久雄 『共同体の基礎理論』 岩波書店




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