ニーチェ 「道徳の系譜」議事録(2001年5月31日)




 ニーチェは19世紀後半に活躍したドイツの哲学者である。西洋社会の荒廃の原因は、キリスト教精神にあるとし、人々に多大な驚きを与えた。この書は前年度に出された「善悪の彼岸」に対する批判に反論するために、補説し解説したものである。ニーチェは「見よ、この人なり」のうちで自ら「道徳の系譜」を、「僧職者の最初の心理学」と呼び、それを構成する三つの論文を「あらゆる価値の転倒のための一心理学者の三つの決定的な準備作業」と呼んでいる。

 第一論文では、「善と悪」・「よいとわるい」という善悪の判断の由来について書かれている。「よい」という概念をあらわす、さまざまな言語の語源を遡ってみると、身分上の意味での「貴族的な」とか「高貴な」というようなものが基本概念となっている。それと平行して、「卑俗な」「賤民的な」というような単語は「わるい」という言葉に発展していったと考えられる。
 このような善悪の騎士的・貴族的評価様式では、「力強い」・「若々しい」・「豊かな」というものが「よい」とされ、古代社会の価値体系にとって基本となっていた。それにたいして、「僧侶的民族」である「ユダヤ人」を象徴するキリスト教的価値体系である、僧職的評価様式では、「惨めなるもの」・「貧しきもの」・「力なきもの」が「善きもの」であるとした。この価値評価様式では、「ルサンチマン」的思考による価値の転倒が起こっている。つまり、自己以外のものを「悪」とし、そしてその反対者としての「自己」を「善」とするものである。「貴族的道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、自己でないものを頭から否定」してはじめて「自己」を見出すことができるのである。

 第二論文では、「負い目」・「良心の疚しさ」の起源について考察されている。そこでは、我々が「心の内」からでてくる自然的なものだとおもっていたものが、実はそうでないことがわかる。「負い目」という道徳上主要概念は、「負債」という極めて物質的な概念に由来している。損害と苦痛の等価という思想から、加害者に損害と等価の苦痛を与えるという手段によってその報復が可能であると考えた。「良心の疚しさ」は、社会の規則によって外へ放出されなくなった本能が、内へ(人間自身へ)向けられたため起こったものである。

 第三論文では、「禁欲主義的理想」すなわち「僧職的理想」がなぜこんなにも人々に受けいれられたかが書かれている。それは、「人間は欲しないよりも無を欲する」のであり、なんらかの人生の意味付けを求めているからである。しかし、それはよりよいものがないための「間に合わせ」にすぎないと、ニーチェは言っている。
 「この腐朽した自疑的な現代よりもいっそう力強い時代には、大なる愛と侮蔑とをもったあの救済するあの救済する人間が」あらわれ、「大なる吐き気から、無への意思からニヒリスムスから救済」し、「意思を再び自由にし、世界にはその目標を、人間にはその希望を返すだろう。」(P.115)と、ニーチェは言う。私たちは、「道徳」というものは、普遍的であり、変わることがないという錯覚を持って世界をみてしまう。しかし、自分の「生」は否定するような道徳観をもう一度見直し、新しい価値創造そすべきだと、ニーチェは私たちにメッセージを送っているのではないだろうか。




Index へ戻る