ブーバー講義録
根源語‐単独語ではなく対応語。その一つが「我―汝」であり、「我―それ」である。おのおのにおける、「我」は違う意味をもつ。根源語を語ることでそのものは存在することができる。いいかえれば存在して初めてわれを語ることができる。「我―それ」の関係の中では「それ」は「我」の目的語になる。しかし、「汝」を語るときには目的語にはなりえない。目的語となりうるのは「経験された」ものである。「経験する」とは、スキャンする、表面化すると言い換えられる。物事を客観的に見ることで世界を明らかにしようとする行為である。このことは、社会学研究を行うときの社会調査アンケートと分析の例で説明できる。実体のつかめない社会に対して、固定された数値によって形を明らかにしようとする働きかけは「世界を経験する」ということである。この場合、研究者と社会は「我―それ」の関係にたつ。「我―汝」の社会は経験される対象の世界ではなく、「自然と交わる生活」「人間同士の交わりの生活」「精神的存在と交わる生活」の三つの領域で語られる関係の世界で語られる。「汝」は永遠に経験されることのないもので、「汝」から遠ざかることは経験することになる。「汝」はそれ自身で語ることができる。「汝」が「我」に働きかけ、関係を求めることで、「我」がそれに答え、創造する、ここで「我」と「汝」は「出会う」ことをする。この芸術という相互関係こそ、「我―汝」の関係である。「我―汝」には欲望や目的はなく、ただ汝の働きかけと我の働きかけが存在するのみである。また、そのようなときでしか「全存在をもってする出会い」はおこらない。また対象として捉えたときそれは「過去」のものとなり、永遠性をもつ「汝」にはならない。真の存在性は現在の中に行かされ対象性は過去に生きるという根本的な二重性をここに見出せる。
「我―汝」の関係の具体例として、日本のお盆の風習が挙げられる。ご先祖様はお盆の時のみそこに存在するのではない。ご先祖様はあの世のルールで認められた時に現世に帰る。私達は、儀式としてご先祖様を迎える。ご先祖様の働きかけがあり、私達は儀式というかたちでそれを迎える。この場合の儀式は一種の芸術的行為とも考えられる。またお盆は人間の一種の反省行為ともなり、ご先祖様に「出会い」を果たすことで、自分が背負っている歴史の重みを感じる。「ご先祖様」のループは永遠でありここに「汝」が持つ永遠性と「ご先祖様との出会い」の現在は常にそこにあるものであるということを意識することができる。この意味でご先祖様との出会いの場としての「お盆」は「我―汝」の関係性が今でも生きている場所といえる。
人間の中で世界を完結しうる、世界(人間の周りにあるもの)は人間の方に働きかけ、それを人間が形にするという考え方は、エンマニニュル・カントの思想ともつながる。そこから、人間が世界に働きかける、人間からものを取りに行くという思想も生まれてくる。ここがブーバーと関連している。「我と汝」の考え方は、後から生まれてきたものである。
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