総合政策学の可能性
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目次>序論
本論
1 大学の起源 中世ヨーロッパからベルリン大学まで
1−1−1 大学の起源
1−1−2 中世の大学
1−1−3 近世の大学
1−2 日本の大学の起源と由来
1−3 第1世代・第2世代・第3世代へ
2 近代という時代
2−1−1 個人がうまれる
2−1−2 マックスウェーバーの思想と資本主義
2−2 日本という社会での「公共性の概念」と個の欠落
2−3 学への疑問 アイデンティティ
3 現代という時代
3−1 オルテガ思想と現代
3−2 大学には何が起こっていたのか「大衆化」
3−3 大学紛争期「権力と闘争する知」
4 知の在り方
4−1−1 学問とは何か「何の答えもくれない」
4−1−2 知は進みつづける「知は力なり」
4−2 教養とは何か「生きるためのもの」
5 大学の在りかた
5−1 社会の客観化
5−2 現代社会学への批判
5−3 総合政策学への期待
結論
総合政策学への期待・共生社会への知の期待
The Gouman Report A Rating of Undergraduate Program in American&International Univarsities註1 という世界でもっとも有名な大学ランキングがある。アメリカのプリンストン大学、フランスのパリ大学など先進諸国の有名大学が、名を連ねる中で、日本の大学を100位以内に見つけることはできない。100位内に入っているのはアメリカで59校、フランスで16校、ドイツで12校となっている。101位になって初めて「Univarsity of Tokyo」の名を見つけることができる。日本では有名な教育機関である東京大学でも世界ランキングでは101位とあまり評価される対象にはなっていないのである。
一方で
2001年12月4日に出された経済開発機構(OECD)の調査では、主要32カ国の学力調査で日本は数学で1位、科学で2位、国語で8位と、世界でもトップクラスの学力水準を持っているという結果が出された。15歳程度から18歳にかけての日本人の学力は評価される対象となっているのである。7×{
(5‐2)×3÷0.5}−5×(6‐4÷2)=この問題に関する調査では
90%の東京大学の生徒が不正解、また他の私立大学生にいたっては、60%以下の正答率になるという。註21987年、大学改革を目指して大学のカリキュラムは自由化され、一般教育、専門教育に分けられ単位も政府に指定されていたが、現在は各大学の判断に任されている。教育改革を行い、「ゆとり教育」のもとに、学生はどのように変化してきているのか。日本における「大学」は社会においてどのような役割を持っているのだろうか。また、教育改革の中であたらしく生まれた学問である「総合政策学」はどのような可能性を持っているのだろうか。本論文では高等教育機関、研究機関としての大学がどのように成立し、社会と関わってきたのか。その上で、現在における大学が抱える問題点に言及し、本来「大学での知」とはどういうものなのかを述べる。
本論
1 大学の起源
そもそも大学は何を目的として、誰の手によって作られたものなのか。日本ではどのように浸透していった教育システムであるのか、歴史的事実と対照しながら述べる。
1−1−1 大学の起源
西洋における大学はギルドやツンフトの一種であった。アメリカでは今も大学の教員の正装として手工業者が祭りの時に着るガウンが着用されている。初期の大学は町の職人組合と同じ扱いであり、大学の教授達もガウンを着て参加していたのである。大学は学生集団、あるいは教師の集団として手工業組合と同じ形で生まれたので「ウヌベルシタス」と呼ばれていた。直訳すると「組合」で、パン屋や肉屋などの組合とほとんど同じ組織形態であったと呼ばれる。教授・助教授・講師・助手は親方・職人・徒弟に対応していた。当時の大学には「ウヌベルシタス」と呼ばれる生活擁護を目的とした学生の相互扶助組合と、教会付属の教師中心のギルド「カレッジ」の
2種類あり、これは今のUnivarsityとCollageの言葉の由来となる。しかし、このどちらにも自治は許されていたが、学問・研究の自由は許されていなかった。註31−1−2 中世の大学
12世紀・13世紀になると、各地域で「個」が台頭しはじめ、教会一派の大学の中にはアベラール註4のような真理の追求を主張する学者も現れる。真理の追究はカトリックの教義を守ることと矛盾することがあったために、ローマ教会学派の学者とそうでない学者の対立が始まる。13世紀半ばにはシュタウフェン朝のフリードリヒ二世が行政官僚のための大学を設置する。聖職者が行政に関わっていたが、彼らがローマに忠実だったために、君主の思うようにならなかった。そのために叙任権闘争を経て領域君主は自分の行政官僚を育成するための大学を作ったのである。
1−1−3 近世の大学
17世紀の啓蒙思想期には理性で伝統を打破しようという動きがでてきた。鉱山開発や、商業振興のために単科大学ができる。鉱山学や航海学などの世俗的な大学が多く作られる。これらの大学では実践を教える場として経済発展に大きな影響を与えたのである。しかし一方で、このような大学の在り方に疑問を抱いたフンボルトはドイツ観念論哲学を勉強させて、宇宙や世界に思いをはせるような教養人を育成するために大学生を俗世から離そうとした。哲学や宇宙や世界について考えて、孤独の旅を経験した人こそ、行政官や政治家になって一国を支えるべきであるし、ベルリン大学を1810年に創立したのである。註5このベルリン大学では、初めて「学問」と「研究」が一体化された。それまでは、教会の付属として教育を専門とする大学と、研究を主体とするパリ王立科学アカデミーやロンドンのロイヤルソサエティなどの研究機関は役割分担がなされていた。ベルリン大学では、国民国家としてのドイツを創るための人材育成として、哲学的思考のトレーニングを行ったのである。
1−2−1 日本の大学の起源と由来
日本の大学は、ドイツの大学を真似て作られている。当時発展途上国であった日本は、近代化、特に西欧諸国の文明に追いつくために知的な専門化を急いだ。註6
1810年にベルリン大学が創立されたが、日本では遅れること67年、ベルリン大学をモデルとして1877年に東京大学、1897年に京都大学を創立するに至る。二つの大戦を経て、
1940年から1945年に書けては、高等教育の学生数が飛躍的に増えた。戦時体制での理工系・医療系の専門学校が拡充した結果である。。註7当時先進諸国と比較すると、19世紀には1000人につき大学生が1〜2人いたのはアメリカのみで、西欧諸国でも10000人に1人という極少数の人間に与えられた高等教育機会であったが、20世紀に入り、日本における大学進学率は飛躍的に増えた。1968年にはフランスで5月革命註8が起こり、日本でも1969年に大学紛争が頻発した。学問研究・思想表現の自由という概念が戦後復活し、教授・助教授達は戦中・戦後と温めてきた思想と対峙するきっかけとなった。註9戦後から入った学生は、戦争の洗礼を受けていないため、学問研究の自由がどのような変遷をたどったかを知らない。学生が持っている大学に対する理念と大学が持っている理念との間にギャップがあり、このような動きが起こったと考えられる。
1−2−2 大学が持つ問題点
大学紛争時に学生が抱いた理念とのギャップとは何だったのだろうか。
1950年から1970年にかけて日本は、驚くべき復興を遂げてきた。1950年の段階では、進学率はたった4%で、経済的にも学力的にも恵まれた学生しか高等教育の機会は与えられなかったが、前述のように大学進学率は飛躍的に上昇したのである。大学進学率が伸びた要因としては、勤労者に求められる技能要件が高度化したことと、経済成長により各家庭の家計収入の増大、家計の選好の変化により、上級学校への進学需要が増加したことが挙げられる。 註10人口も伸び、大学自体が数と規模の両方の面で巨大化した。特に私立大学の新設が増え、全大学生の75%を収容するまでになった。註11ここで、大学が巨大化(マス化)することによって、大学の教育内容の細分化が求められるようになった。従来なら単一の学部でカバーできたものも、分割されることとなった。講義形態の授業も増え、学生と教授の距離も離れるばかりであった。大学運営に関しても、合理化が進み官僚的支配が大学の中で行われるようになったのである。一連の大学のマス化は、
1980年代の好景気によって益益増長した。行政改革と、財政再建が政府の基調となり、私立大学が増えるきっかけとなってしまったことで、教育にかける家計負担はより増えることになった。高等教育は、一部のエリートだけのものではなくなった。高等教育は、同一年齢層の15%を超える時点でエリート教育からマス教育に写り、50%を超える時点からユニバーサル教育になるとマーティントロウは言った。現在の大学状況はこのユニバーサル教育といえる。しかし、その一方で大多数が大学に行けるようになったことで大学のレジャーランド化註12を進ませることなった。このようなマス教育の段階に入った後、高度経済成長は終わった。1−3 大学の三つの流れ
年代 |
研究演習Tで扱った文献・大学史 |
世界史 |
2000 〜1900 |
1995 年 関西学院大学総合政策学部創立
1969 年 大学紛争1967 年 エドモンドモリス「裸のサル」
1959 ハイデガー「放下」
1923 ブーバー「我と汝」
1904 ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 |
1991 年 湾岸戦争1970 年 日本万国博覧会1969 年 アポロ11号月面着陸1968 年 フランス学生蜂起1965 年 2月 北ベトナム爆撃開始1960 年 1月 日米新安全保障条約調印5月反対デモ
1945 第2次世界大戦終戦
1930 年代 アメリカからの世界恐慌
1920 年代 第1次世界大戦1905 年〜ロシア革命 |
1900 〜1800 |
1897 京都大学創立
1879 東京大学創立
1810 年 ベルリン大学創立フィヒテ(初代学長)「ドイツ国民に告ぐ」 愛国心に訴える。 |
1890 年 日本・ロシア産業革命1880 年代 植民地・帝国主義全盛
1851 年 イギリス産業革命完結(世界万国博覧会開催)1850 年代 イギリス自由主義革命(ビクトリア時代)1850 年 ドイツ産業革命1848 年 共産党宣言ブルジョワジーとプロレタリアートの労使対立・国民主義や民族主義の進展・資本主義的世界システムの完成 1830 年代 仏・米 産業革命 |
1800 〜1700 |
1781 年 カント「純粋理性批判」1776 年 アダムスミス「国富論」
|
1789 年 フランス革命1775 年 アメリカ独立革命
1760 年ごろイギリス産業革命始まる |
1700 〜1600 |
1651 ホッブズ「リバイアサン」 |
1600 年代ロシア絶対王政
1642 年 太陽王ルイ14世絶対王政絶頂期 |
1600 〜1400 |
1561 フランシスベーコン「知は力なり」
1516 トマス モア「ユートピア」 |
1556 年 エリザベス女王イギリス絶対王政 1517 年 宗教改革ルター 95か条の論題
大航海時代 |
1400〜1100 |
1388 年 ケルン大学創立1365 年 ウイ−ン大学創立
1225 年 トマスアクイナス「神学大全」信仰と理性の統一
1209 年 ケンブリッジ大学、オクスフォード大学より分離 ニュートンらが講義する1167 年 オクスフォード大学創立(神学中心)1142 年ごろ アベラール理性が信仰に優先するとした。 1150 パリ大学(神学中心)・ボローニャ大学(法学中心)創立 |
1300 年代 イタリアルネッサンス1347 年ペスト流行1309 年 アナーニ事件 ボニファティウス8世、フランス王と対立しとらえられる。1200 年代 中央集権国家最盛期1215 年 ラテラノ公会議註13各地でツンフト闘争が起こる。このことから市政に参加し始める。 1209 年 インノケンティウス3世教皇権絶頂
各地で都市同盟・手工業同盟ができ始める。都市共同体として自治自衛を行う。 |
大学の起源である中世は、共同体の中で生きることが大切にされており、自分の共同体における役割をまっとうするために学ぶ、姿勢が見られる。近代に入ると、国家間での戦争がおこり、その中で自分の国家を守るという考えが起こってくる。ベルリン大学の矛盾は、絶対主義を中傷し、実践主義に反していたにもかかわらず、国を作る人間を作ることに主眼を置いていたことにある。註14
神に仕える人材育成から国に使える人材育成と流れが変わった。共同体の捉え方が、より小さく専門的になったとも言える。神という大きな概念から、個人の概念が生まれたことによって国に移行した。大学の在り方の変遷は、社会の捉えられかたと大きく関わっている。中世から近代への移行期に経済発展を促すような実践的な学校が多く作られたこと、
19世紀後半、大きな戦争を二つ控えた時期に、国民国家としての力をより強大化する形の大学が生まれたことで、このことはより顕著に理解することができる。それでは、現代という時代はどのような時代なのか。共同体をどのように捉えているのだろうか。西欧と違った風土や文化を持つ日本は、どのような近代への道をたどってきたのか。
2 近代という時代
上の年表を見て分かるように、大学の起源と社会システムの変化は相互関係があるように見える。特に中世期に、自分自身の内に向けての疑問が生じたことが、学問の起こりと深い関係があるように考えられる。教皇権が高まるのと同時並行で、多くの大学が設立され、また宗教改革へ向かって、「個人」としての人間の姿が見られ始める。近代という時代が、人間にとって「個」「自分自身」を深く認識し始める時代といえる。
2−1−1 個人がうまれる
1215年のラテラノ公会議によって、全ての成人男女が告白の義務を定められた。このことで全ての成人男女が、自分の中の様々な内面に思いをはせるようになった。自分が欲望にさいなまれたときに、ラテン語を用いて自分の身を立てなおそうとしたのである。ローマ末期にボエティウスによって書かれた「哲学の慰め」では、無実の罪でつかまったときになぜ自分は死刑になるのか、死を前にして自分の人生を納得しようとする姿が見られる。このように、自分の内面と向き合うことで、個人の概念が生まれはじめた註15。また上記の表にもあるように、都市ができて、自分で職業を選択する可能性が与えられ始めたことも個人の概念を育てる一要因となった。人と人との結合が、都市国家やギルドとして形に見えるものになったことで、その共同体の中で自分はどのような役割を果たしたら良いのか、考えるきっかけを与えられたとも言いかえられる。個人が社会の中に生まれコミューンを作ったり、ルネッサンスを経て自分達の主張をしていく時代になる。これが市民的公共性と呼ばれるものに収斂していくのである。
こうして、自己と向き合い自分に頼るべき時代では、過去の偏見と手をきり、なおかつ進歩信仰に頼ることなく、そうすることが必要とされるのである。註16
この中で生まれたのがマックスウェーバーの「魔術からの解放」という概念である。2−1−2 マックスウェーバーの思想と資本主義
1905
年に出版されたマックスウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、宗教革命を受け入れる素地がプロテスタントにはすでにあったことが述べられている。近代資本主義の会社に見られる社会規範(エートス)を持って、職業は自分の使命であると認識し、神に喜ばれるようにこの世俗内義務を果たしていくことが救いとなると述べられる。聖礼典による救いの廃棄から、内面の孤独と向き合い、世俗内義務を遂行することで救いを求めるようになる。これは「魔術からの解放」であり、このことによって、資本主義社会で「働く」ということが浸透し始めたのである註17。魔術からの解放によって、私達は感性よりも理性を重んじる主知化し、合理化した。欲しさえすればいつでも学び取ることができる。技術と推測が魔術の変わりになる。註18
ウェーバーの主張のように、学問の形は、魔術からの解放を経て変わり始めていた。上記の表のように社会も産業革命を一通り終え、資本主義社会が浸透しはじめる一方、その弊害とも言える大戦争へと突入していくことになる。人間の欲望は、増幅する一方であり、本来そこにあった職業の意味や、節約し他に与えるという思想の影が薄くなり始めた。2−2 日本という社会での「公共性の概念」と個の欠落
マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が書かれたころ、ちょうど日本では産業革命を終えたころであった。日本はどのように近代化への道をたどったのだろうか。
日本の生活において1人1人の行動を規制しているのは形を持たない世間としてのこの枠組みである。世間という言葉は、形を持つものと形を持たないものとにわかれており、形をもたないものは年賀状を送り送られる関係の中に息づいている。形を持つものはゼミやクラブに息づいている。註19
ヨーロッパとは違って、個人の概念がはっきりとした形で生まれる前に、近代市民社会・中央集権型社会が輸入された。そのために、より国家権力は強大な力を持つように肥大化した。官僚社会は今も根強く残っており、現在の外務省問題などにも顕著に見られるのである。日本においては世間の概念は広く知られるところではあるが「公共性」の概念についてはまったく教育がされていない。公共性という言葉はヨーロッパの訳語である。俳句は世の無常を歌っており、改革や革命の話しではなく時代が変わってしまうことへの無常を嘆いた歌がほとんどである。日本では社会の中で自分の位置がどこにあるのかを考える姿勢がほとんどなかった。個々人の自律や責任という概念を成立させる過程が抜け落ちたままで、現代を迎えることになったのである註20
。2−3 大学への疑問と自己への疑問
高度経済成長の真っ只中、
1970年代の大学紛争を迎える。当時日本大学芸術学部の一年生だった沢登誠の注目すべき言葉がある。「僕は今まで生きていることを感じたことはなかった。なぜ、生きているのか分からないからだ。ヘルメットをかぶりゲバ棒を持つことによって死に直面する。このことで漠然とした生の認識を得る。」自分は一体誰なのか註21。どうして生きているのか。現代人は自分1人のプライベートな空間にいることが多い。具体的には1人1人の部屋が幼いころから与えられ、そこに閉じこもったりすることを指す。誰からも傷つけられることのないその空間では、1人でも生きていけるのではないか、という奇妙な錯覚を引起こしてしまう註22
。1970年代20代だった若者は、そのような物理的孤独の空間を与えられ始めた世代だったといえる。生活の欧米化は進み個の空間は与えられた一方、精神的な面で「個」と向き合う機会、告白する機会を与えられることなく、歴史的にその過程を与えられることはなかった日本人にとってその変化は急激すぎたと考えられる。個の役割や、自分というものを認識する時にはむしろ個の空間ではなく、他者とのコミュニケ−ションが必要となる。たくさんの人に囲まれたとき、人は孤独を感じる。他者との違いを感じ、他と違っていることを不安に感じることで自己を内省的に見つめ、自分という存在を認識するのである。このような精神的孤独の機会を与えられることなくして自己の存在を見つめることは難しい註23
。大学が巨大化し、その組織の中には多くの人がいる。自分を知らない他者が多くいる。何をするために大学に来たのか、自分はどうして生きているのか。この学生は、個の空間で育ったことによって、そのような疑問に直視せずに大衆を目の前にしたとき、ゲバ棒がそこにあったということかもしれない。
近代から現代への変遷の中で、「個」と向き合い、魔術から解放された人間が、物理的な「個」に固執することで、社会的な混乱をも引起こしてしまった経過を見た。資本主義の発展とともに大学の形も変遷した。何が、大きな原因となったのか。その鍵は「大衆の力の肥大化」にあると思われる。
3 現代という時代
1945年に、人類最大の悲劇といわれる世界大戦が終わった。日本は戦後50年が立たないうちに敗戦国から先進国へ移り変わっていった。2002年を迎えて「今日本は平和か」と問われたら、平和だと答えるだろう。しかし「今幸せですか」と聞かれたらなんと答えるのだろうか。民主主義が台頭し、個々人の力は大きくなった、かのように見える。しかし、本当にそうなのだろうか。
3−1 オルテガ思想と現代
ホセ・オルテガ・イ・ガセーは
1883年スペインでジャーナリストの母と評論家の父の間に生まれた。1930年に興味深い文献を二つ残している。一つは1929年に進められた反独裁の学生運動が起こったときに学生連盟の求めに応じて書き残した『大学の使命』で、もう一つは『大衆の反逆』である。前著でオルテガは「大学が皇太子のための囲い地であってはならず、生の緊迫と情熱の只中で、熱狂に対しては冷静を、軽薄と不遜な愚劣に対しては、精神の真剣の鋭さをもって」自己変革をすることを説いている。「大衆に影響を及ぼしうるためには、単なる多数以上でなければならない」註24。この中で説かれているのが『大衆の反逆』でとかれている「精神の貴族性」であり、ここででてくる「大衆」、オルテガがいうところの「慢心した坊ちゃん」が当時の人間の姿であった。オルテガは「大衆的人間は、生は容易であり、有り余るほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに生まれたときから感じておりしたがって各平均人は、自分の中に支配と勝利の実感を感じている」「そのことから、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質は優れており、完全であると考えるようになる。この自己満足から外部の権威に対して自己を閉鎖してしまい、耳を貸さず、自分の意見に疑いを持たず、他人を考慮に入れないようになる」「したがって、慎重も熟慮も手続きも保留もなく、いわば直接行動の制度によって全てのことに介入し自分の凡庸な意見を押し付けようとするだろう」と述べている註25
。つまり、自分の生が当たり前のように存在し、当たり前のように自分の生を取り扱う人間のことを「慢心した坊ちゃん」とオルテガは表現する。「あらゆる生は自分自身であるための戦いであり努力である」註26
現代は「生」が「死」んでしまっている状態であることに対してオルテガは警鐘を鳴らしているのである。「生きるとは、何か特定のことをしなければならないこと、―ある任務を果たすこと−であり、我々の生存を何かにかけることを避ける度合いに応じて、我々は生を空虚なものにしてしまうのである。」現代の人間が「生」を感じられない、日本大学芸術学部一年生の青年が発した言葉はまさにこのことを示しているのである。註27大衆的人間は国家がただちにある問題を解決することを望んでおり、社会の自発性を吸収してしまう。自分の「生」すらも官僚主義化してしまい、大衆は支配しているかのように見えて、実は「支配されやすい」人間に向かっているのである。3−2 大学には何が起こっていたのか「大学の大衆化」
この大衆化が「大学」の現場にどう現れていたのかを述べたいと思う。
まず、中世の大学は教会と強い結びつきを持っていたことは述べたが、中世の教会は絶対的真理を持っていた。大学の真理追究のシンボルとして今も時計台を作るところが多い。関西学院大学にも上が原キャンパスには、赤レンガの時計台がある。東京大学、早稲田大学にも見られる。しかし新設大学は機能面を重視して都市と一体化し、大学そのものが目立たない存在になっている。註28
かつて象牙の塔、最高学府と称され、どこか特別な場所であった大学が、大衆化したことを示す一事例である。また、大学の大衆化は学生数の増加にも顕著に表れている。進学率の増加については、1−2−1で述べたが、学生数そのものも増加している。人口に占める大学生の割合は明治期には
100人に1人だったものが、高度経済成長を経た現在では3人に1人となっている。学生数が増え註29、マンモス大学が増えると、大学内での個人的交流、人間的接触が困難になり、師弟同行の雰囲気が希薄になる。特別な場所での大学文化はなくなり大衆文化が流入する。註30これも大学の大衆化を促進させる事例である。大学の大衆化が進むにつれて、大学進学は将来のための投資よりも現在のための消費という考え方が強まる。大衆化を伴って、大都市に立地するソフトな学問をするのが好まれるようになる。公共部門が分担してきた医師、船員、教員、理工系人材などは計画的な人材養成部門が縮小される。国の負担が減り、国立大学であっても個人の負担が増える註31
。1970年代の大学紛争は「大学の大衆化・巨大化」が大きく関係しているといえる。2−3で述べたように、学生は何と闘争していたのか。自分とも闘争していた、とも言えるが、実際に武器を向けられたのは「権力」であった。彼らが、向かっていった権力とは何のことだったのか。
3−3 大学紛争期「権力と闘争する知」
もう一度、当時の学生の言葉を引用したいと思う。「大学は教育研究機関という美名に隠れてカリキュラムを通じて帝国主義擁護のイデオロギーを定着させようとしている」当時日本大学の経済学部闘争委員長をしていた鳥越敏明の言葉である。また、「近代合理主義や、民主主義は最大の善とされていた。大学の支配そのものが合理的に行われるようになると、対抗の関係はない。だから権力が合理的に支配を貫徹している次元では権力と対立せず、むしろ権力のイデオロギーを補完する」、これは
1969年段階での東京大学に在学していた山本義隆の言葉である註32。上記の年表にもあるように、当時ベトナム戦争が行われていた。戦後まだ
20年しか経っていない日本では反戦運動が多く行われた。にも関わらず、当時の政府は戦争当事国であるアメリカとの新日米安保条約に調印した。政府に対する不信は募ったと考えられる。その中で大学の大衆化は進み、オルテガのいうように大学界における行政的権力は増大したと考えられる。前述のようにヨーロッパでも時を同じくして1968年5月に市民蜂起が起こっており、日本での学生蜂起の気運がより高まったと考えられる。社会や政府に対する疑問から、大学で学んだことが社会にどう反映されるのか、また大学そのもの研究そのものが社会とどう関係しているのかという疑問が行動という形で表れたものとも考えられる。
学生は大衆の中で、自分を見失ってしまったのではないだろうか。当時の学生は、たまたまそこに運動があった。
30年後の今も変わっていない構造をそこに見出すことができる。父親の世代が、なぜ、「戦い」を起こしたのか。社会に対する不信と自己の不安定さだったとしたら、私達の世代にも充分起こりうることである。ただ、今ここに「ゲバ棒」というものがあったとしても、私達の世代は果たして握ることになるのだろうか。答えはノーだと私は考える。日本が一番豊かだった時代に育った私達は、与えられることに慣れすぎてしまったのだろうか。社会に対する不信と、自己の不安定さを決して表現することはない。「引きこもり」の若者が多いことから分かるように、私達の世代で、同じ状況に向かい合ったとき、もはや自分でそれを直接に向かい合い表現することはしない。私達は自分の殻の中に閉じこもってしまうのである。そこにたとえ「ゲバ棒」というものがあったとしても誰かが握らせて、立ちあがらせてくれることを待っているだけなのではないだろうか。例え大学の授業が面白くなかったとしても、それを自ら変えようとはしない。それを表すことしらしない。
私達は誰かが「面白くしてくれる」ことを待っているのである。お金を出して学歴を買い、働き、そして死ぬ。オルテガが言うところの「生」はそこにあるのだろうか。「生」への執着がなくなってしまったとき、そこにあるのは「民主主義」というお面をかぶった「官僚主義の行きすぎ」、つまり「完全に支配された社会」なのではないだろうか。現在の状況の危険性を私はそこに見る。大学紛争に向かった当時の学生と現代の無気力な学生と、異なるように見えて、実は同じところに端を発しているように思える。それは資本主義社会、経済偏重社会の弊害とも言える。民主主義と言いつつも、構造は絶対王政、帝国主義と同じ支配体系になってしまっているのではないだろうか。本当の自由は今の民主主義にあるのだろうか。
私達はその危険性をどう回避したらよいのだろうか。それは、中世ヨーロッパにさかのぼり、個人が自己責任を持って生きる方向に向かいはじめたあの時代の「大学」や「知」を振りかえる必要があると思われる。
4 知の在り方
大衆化が進むことで、結果的に行政的権力の大学への進出が大きくなっていることで、大学界における行政的権力(学長や学部長のそれ)や、有力メンバーの持つ非公式な権力の獲得、ないしは実際には学問的権威資本の蓄積を妨げることになりつつある。大学は国家権力に大学を従属させたくないし学問研究の理念も追求したい、そんな二重性の中で悩んでいるといえる註33。
大学の形は変わったとしても、変わらないのはそこで扱われるのは「知」であり「教養」であるということである。4章では、この「知」や「教養」という言葉が持つ意味について考えたいと思う。4−1−1 学問とは何か「何の答えもくれない」
まず、マックスウェーバー『職業としての学問』より、「学問」そのものについて書かれた箇所を引用註34
したい。マックスウェーバーはトルストイの以下のような言葉を引用している。「学問とは何か。それは無意味な存在である。なぜならそれは我々にとって、一番大切な問題、すなわち私達は何を為すべきか、どうやって生きるべきかに何の答えも出さないからである。」マックスウェーバーはこの問いに対して、「学問的研究は学問それ自らのために知るに値する」と説いている。学問は、何かのためにされるものではない。これはどういうことを意味するのか。4−1−2 知は進みつづける「知は力なり」
学問がそれ自身のためにされるとしたら、もし学問が衣・食・住を改善するためと言う目的のためにされていたとしたら、達成した時点で学問が終わってしまうことになるからである。学問上の達成は、常に新しい問題提出を意味する。それは他によって打ち破られ、時代遅れとなることを自ら欲するのである。つまり永遠に進歩しつづけるのである註35
。「何のために学問はあるのか」「学問とは何か」という問いに対する答えは、「真理」とは何かという問いに似ている。これらの問いは理性が答えを求めたとしても、簡単に答えが出ない形而上学的問い「宇宙とは何か」「神とは何か」にも似ている。「真理」を知った時点でそれは「真理」ではない。「真理」を追究している段階しかそれは「真理」でありえないのではないだろうか。学問とは何か、の問いに対するトルストイの答えは、その「学問」をする人の姿勢を説いたものだったと考えられる。学問の始まりは、「これが本当にそういえるのか」という懐疑であり、懐疑によって、疑問に答えが出ることはない。そうだとすると、学問というものの本質は「反権力」といえるのではないだろうか註36。学問が「永遠性」「懐疑性」「反権力」という本質を持っているとしたら、それは行動への力となる。つまり与えられたものを受け入れる、大衆の「生」ではなく、自分の位置を知ることで生き生きとした「生」である。学問それ自体が、学問によって存在を疑われることによって、その存在が確認することができる。このことで、その学問をする人間そのものも認識することができる。つまり学問は生への力だといえる。ベーコンは「知は力なり」という言葉を残しているが、知識は新しい知識を生み出すものである註37
。また「生」への行為を生み出す力になる。知識とは行為能力であり、真の人間愛に基づく行為は、これによって何か永遠に失われることのないものを、ある超個人的な世界に寄稿することのゆえに知識と結びつくことができるのである註38。つまり人間愛に基づく行為は、カントいうところの義務に基づく行為であり、知識は自分と行為と社会を結びつけるための「理性」とも言いかえられる。4−2 教養とは何か「生きるためのもの」
教養という言葉は、大学の学部を示す際に良く使われるが、この言葉は日本では比較的新しい。
Buildungというドイツ語に由来する。教養とはいかに生きるかを考える姿勢から生まれるものである。ボエティウスの『哲学の慰め』が1人で一生の生活の方針を立てるようになった人間に大きな影響を与えたとされることはすでに述べた。教養を身につけるというのは他の人の行き方をも理解できるようにすることである。教養とは、社会の中で自分の位置を知ろうとする能力、あるいは知っている状態、また知ろうとする努力の総体をさし、社会の中で自分が何ができるのかということを知ろうとしたり知っている状態註39をさす。知は、自分と行為、また行為した結果と社会がどのようなつながりをもって、どういう連関結果を生み出すのか、そのようなネットワークを考える能力をさし、教養は、社会の中で自分がどのような位置にいるのかを知るものである。私はここでの「知」と「教養」を同じ意味として捉える。特に大学で使われる「教養学部」の教養とは、ここでいう知をさしていると思われる。ネットワークを考えることのできる人を育てる場、これが「教養学部」に期待された点だったのであろう。フンボルトは「1人1人の人間の自発的活動によってのみ、教養は獲得されるのであり、人間の知的な自己教育という形の中でのみ獲得される。そこで行われる学問は純粋な学問でなければならない。純粋な学問とは、特定の目的から離れて、そういう具体的な目標に縛られずに自由にそれ自身のために習得されなければならない学問、いわば哲学、これを大学でやらねばならない」と言った。大学の形が変遷しても変わらなかった「知」というものをもう一度見なおすことで、次なる大学の形が見えてくる。5 大学の在りかた
第
5章では、次なる大学の形を探る。時代が変わっても変わらない「知」を見た上で、それを扱う大学人の在り方を探る。現在は中世、近代の大学の在り方を変遷し、新しい大学の形が求められている。一つ前の世代を代表するフンボルトの大学観を代表するものに「大学の将来は孤独と自由である」という言葉があるが、これはどういう意味なのか。5−1 社会の客観化
大学人とは、知のシステムの頂点に位置するものである。真理を述べるべき人間、客観化、対象化を行う主体に他ならない。また、大学とは、客観性と普遍性を主張する客観化という作業を行う資格があると社会的に見とめられている制度・機構である。あらゆる種類の社会集団にとって、社会的世界を研究する社会学という学問にとって、このような世界を研究することは当然の課題である註40
。なぜ、このような「客観視」する立場が必要なのか。ピエール・プルデューの「ホモ・アカデミクス」の中に次のようなカントの引用がある。「上級学部からなる階級(いわば学問の国の議会の右派)は政府の定款を擁護する。しかし真理を扱う国の政体は自由なる政体でなければならない。自由なる政体には反対派の大衆も、なくてはならない。それが哲学部の議席である。この学部による厳しい検証と反論がなかったなら、政府は自分自身にとって有益なものや有害なものについて充分教えられることがないからである。註41
」また、こうもプルデュー本人もこう述べている。「社会学者が有する客観化の理論的・技術的能力を自分自身に対して向けて自分自身の位置を客観化できる能力。また、客観化しようとする意図そのものを客観化し、世界、特に自分が属している世界に対して主権者たる絶対的視点をとろうとする意図そのものを客観化し、科学という武器を用いて支配しようとする野心によって生み出されるかもしれない一切を科学的客観化から排除するように努める能力。この二つの能力のことを反省能力であるとする註42」。つまり、自らの行為や、思考の結果を「思い込み判断」することなく、常にあらゆる可能性がそこにあることを考えること、過去のものを全て捨て去ることなく、今そこに在るものは過去の結果の総体であり、過去の要素を分析することや、今在るものを疑うことは、今在るものの未来を思考することにつながるということだ。つまり、「社会」を客観化することは今ある「社会」の未来を見ようとする行為だといえる。大学はその行為をすることを社会的に許されている場であるといえる。
5−2 現代社会学への批判
5−1で、社会学が現代に果たす役割について述べた。しかし、「現代における社会科学は遅れをとっており、政治、経済、社会的には何ら重要性を持たない」という批判もある註43
。社会科学と政策がきれてばらばらであることは決して新しいものではない。一方で、社会科学が異常なほど成果をあげていることについての不満、支配的なインテリゲンツアが出現しつつあるという不安註44も同時に耳にする。重要性を持っていない、という批判と重要性を持ちすぎているという不安は、どのように捉えたら良いのか。実のところ、「重要性を持つ・持たない」や、「役に立つ・立たない」の問いこそ重要性を持たず、役に立たない。致命的な空洞は全人生の真に具体的、かつ不変的な根基に関する真剣で自由な等級、真にその名に値する思惟の努力の欠如であることに気がついていないのである。社会科学は物理などと違って、複雑であるために、一般人の知識が欠如しがちである註45
。また社会科学において普及しているデータ収集や、分析方法が多くの部分で社会的存在の複雑な性質を止めたり過小評価したりしている。註46パーソンズの引用にもあるように、「現代の大規模社会の複雑さと変化、及びその社会に見られる大衆現象を理解するためには、個々の現象を分析するだけでは不充分であることを明らかにした社会学というものは社会にとっての重要な知的源泉であるといえるのである註47」。社会学が持つこのような特質と、大学そのものが持つ特質は、大学の中で知が扱われる限り変わることはない。大学は国家に対して主体性を持たなければならない。その一方で大学は超俗的機関ではなく、世俗社会に愚弄されることなくわが国の在り方を見ていかなければならない註48」。大学の役割とは、つまり社会を客観視することであると考えられる。これは社会学、教養、知の持つ本質である。中世の大学は、聖職者を育成するためのものと、研究する機関が別々であり、現在の大学が持つ両義性の問題は起こらなかった。しかし社会が複雑化するにしたがって、知の専門化の方向に向かい、結局はそこから起こる問題に対応しきれなくなったといえる。また、フンボルトが創ろうとした近代的な大学は、この「客観」の部分がかけていたように思える。フンボルトは「孤独」と「自由」が大学の本質であると言ったが、結局ベルリン大学それ自体が、ナポレオンの支配に立ち向かうために、ドイツ人の愛国心註49
」を育て、一丸となって国家を形成しようとする動きの中から生まれたものであり、ドイツ国家、社会を客観視するに至らなかった。中世、近代を経て、現在の大学が望まれることは、つまり「社会的再生産」(経済的資本に基づく社会的序列、人材育成)と、「知の生産・再生産」(学問それ自体の育成)の両方を行う役割である。5−3 総合政策学への期待
今一度、
1970年代近代の大学に対する学生の不満が勃発した時の、学生の言葉をここに引用する。日本大学全学共闘会議の出した声明文である。「我々は細分化された学問の全体化を志向しなければならない。そのためにはまず我々は外的には支配者と徹底的に戦うことであり、内的には自己と徹底的に戦うことである註50」」ここでいわれている学問の全体化とは、人間性を回復した学問を作り上げることである。また、1971年の当時大学教授だった滝沢克巳は「専門化と部分化を部分的に克服して、各自一個の人間として真に全人的な、生と学問を身につけること、そのために不可欠な連帯を右のごとき現体制の圧力に抗して実現することが学生達の意思である」と述べている。同じように当時の東京大学助教授だった折原弘は「教員層が近代市民社会、合理主義の影響を受けて没意味的、専門経営に埋没し、現代における人間の実践の総体的構造をトータルに把握できなくなっている」と、当時の大学運営に対しても意見している。学生運動という形を通して発されたこのメッセージをただの大衆の反逆として捉えるのか、それとも新しい大学の形のヒントになるものがあると捉えるのか。確かに、このメッセージは当時の暴力的行為の中にあっては、「大衆の反逆」と捉える考え方もおこりうるだろう。しかし、私はここに新しい大学の形をみいだすことができると考える。
一つの学問分野に固執することで知的境界線を引くことになり、他のものを排除しはじめる。そのことで実践的な知識としての社会科学を作ることに障害となる註51
」。学問分野にとらわれることなく、自由に「知」の生産・再生産をすること、またその役割そのものに固執せず、知識の発生と応用の相互関係に目を向けること註52」を目的とする大学づくりが必要とされているのではないだろうか。ここで中世ヨーロッパの大学をもう一度思い返したい。ヨーロッパにおいて実践される学問の基礎であったのは「リベラルアーツ」自由学芸と呼ばれる、人文社会系教育である。これは七つの分野をもち、それぞれ文法、修辞、弁証法、数学、音楽、幾何、天文学である。これは一つを極めたからといって、全体が分かっていないとどうにもならないので、一つの中で専門家にならないように言っている。また、この全てを修めて最高の学者になったとき、ある男は町工場で修行をしはじめた。師匠に怒られながら修行をする。これが本当の学者の姿であるといえる註53
」。現在求められている大学の形はこのようなものであると考える。高等学校までの知識をベースとしての人文総合学の中で、自分の役割を見出す作業をする場である。社会適応ばかりを考えていてもよくない。社会批判ばかりしていてもいけない。適応も批判も社会を「見る目」がなければ信憑性がない。社会をネットワーク的に見る目は、ただ専門に特化することで養われることはない。還元し、知もネットワークすることで新たな可能性が生まれるのである。このことによって知は決して完結することはない。学んだこと、考えることの先には常に社会があり、社会の事象、システムの先には常に考えることがある。この視点の移動が変化する社会にとって不可欠である。大学は、この視点の移動が自由にできる場なのである。一方で、社会を客観視することで、大学そのものを客観視することになるため、孤独な場ともいえる。フンボルトの言った未来の大学の本質「自由と孤独」はその意味だったのではないだろうか。
結論
総合政策学への期待・共生社会への知の期待
学生が社会に出ると「専門的なスキル」「特化した何か」を求められることが多い。総合政策学は、専門がない。しかしそれは果たして弱みなのだろうか。中世の大学、フンボルトが創ろうとして創れなかった新しい大学の形がそこにあると私は考える。真の教養は決して何かの知識に秀でていることではない。知の可能性を知ることが真の教養であり、総合政策学では、その自由さにおいて、知の可能性を存分に生かすことのできる分野であると思う。しかし一方で、やはり「何か拠り所を持たない」という点で孤独であると思う。しかし、この「孤独」であるという一面をもたない総合政策に取り組むものは、専門におぼれる専門家以上にたちのわるい大衆だといえる。なぜなら、「なんでもやったから、分かった」という社会科学にとって最大の危険をおかしがちだからだ。「何でもやってもわからない」という孤独の中にこそ、総合政策の自由は生きてくる。
社会は複雑である。データや数字によって簡単に語られるものではない。洞穴の中の哲学者のように、しどろもどろにやっと説明しようとすることができるだけのことだ。しかしだからこそ、社会は変化する。新しい方向を模索し、動きつづけられるのだ。そして人類はそうしてきたのだから。
学問の領域で個性を持つのは、その個性にあらず。その仕事に使える人のみである。学問が自己を規定するのでなく、自己は「学問する」ことによって規定される。総合政策という新しい大学の形は、その自由と孤独を育てる場という意味で大きな社会的意義を持つ。
最後に、孔子の言葉を引用する。
学者とは教える人ではなく、教わる人である。批判するのではなく、自分に対して批判の目を持つことのできる人である。本を読むことだけが学びではなく、多くの人と関わり合い、その人それぞれとの関係を一つ一つ大切にすることができると考える人である。
学ぶ人は、知ることに喜びを感じられる人のことである。決して教える人のことをさすのではない。知から力が生まれる。共生社会への起動力も、総合的な知から生まれる。新しい大学の知としての総合政策学に、期待するところは大きい。
参考文献
阿部謹也『大学論』日本エディタースクール出版部
1999年5月オルテガ「大衆の反逆」『世界の名著
68』高橋徹編 中公バックスマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」『世界の名著
61』尾高邦雄編 中公バックス
マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳 岩波書店
市川昭午編『大学大衆化の構造』玉川大学出版部
1995年10月情況出版編集部編『全共闘を読む』情況出版株式会社
1997年9月ニコ・シュテール『実践・
<知>−情報化する社会のゆくえ』石塚章二訳 御茶ノ水書房 1995年12月ピエール・プルデュー『ホモ・アカデミクス』石崎晴巳訳 藤原書店
1997年3月『新詳世界史図説』 浜島書店
孔子『論語』「世界の名著
3」中公バックス