学術的自己紹介

 学術的自己紹介


 幼い頃抱いていた疑問がある。幼稚園に行くか行かないかくらいの頃だと おもう。土曜日の夕方は決まって家族で買い物に出かけた。買い物がえり、 父の運転する車の中、赤信号でとまるといつもこんなもどかしさと疑問がわ いた。私や、私の家族は赤信号で止まるように決まっているらしい。では、 青信号で止まる人、黄信号で止まる人はどんな人なんだろう。なぜ、私や、 私の家族は赤信号で止められるに決められて、青信号や黄信号で止まるようには決められなかったのだろ う。きっと家族の誰かにこの疑問をぶつけていただろう。しかし、相手にされなかったのか、それとも答 えがうまく理解できなかったのか、疑問が解けてすっきりしたという記憶はない。赤信号はみんなが止ま る規則になっているということがわかるまでにはしばらくかかった。こんな疑問も抱いた。自分が見てい るものは、はたして自分以外の他の人にも同じように見えているのだろうか。ひょっとしたら私と私以外 の人では、同じものでもまったく違う見えかたをしているのかもしれない。私が丸くみえたものが、他の 人には実は四角にみえているかもしれない。私の目の構造と他の人の目の構造はまったく違っていて、び っくりするほど違ったものを見ているのかもしれない。私が別の人に成り代わって、その人の見ているも のが自分と同じような見え方か否か確かめることなどできない。その逆に、自分が見えているものを、他 の人に同じ見え方をしているか否か確かめてもらうこともできない。
 もちろん、私はこのような幼い頃の疑問をずっと抱きつづけていまに至っているわけではない。ごくた まに、そういえばこんな疑問抱いていたなあ、と思い出す程度で今だに、真剣に悩んでいるわけではない 。いわんや、この疑問を解くべく大学にきて学問を修めようとしているわけでもないし、この疑問が自分の学問を修めようと志した原点であるなどとは思わない。
 しかし、それでもこの場でこれらの疑問取り上げたのは、それが、今の私の学びたい思っていることと うまく結びつくと思ったからである。これから、私の学びたいと思うことを、幼い頃の疑問へ考察を加えることで説明したい。
 最初の赤信号についての疑問についてはすぐに答えを見つけ出し私が誤解していると認めることができ る。道路交通法という法体系によって、人為的にその答えが定められているからである。われわれが日本 の道路を歩いている限りは、日本の道路の規則に縛られるのは当然のことであり、そこでのよしあしを決 定する要素として、道路規則があげられる。つまり、赤信号でみんなが止まらなければならないというの は、少なくとも、日本の道路交通法で確めることが可能なのである。
 しかし、第2の疑問、自分のものの見方と他人のものの見方では、それを確めることは不可能であるし 、それゆえどちらの見方が正しいかを判断することも困難である。仮に、ある対象への私の認識を「A」と し、私とは別の誰かの認識を「B」とすると、はたして、「A」=「B」であるかそうでないかなど誰にもわ からない。また、「A」と「B」はどちらが対象を正確に捉えられているかを確めることもできない。幼い 頃の私は単に「他の人と見え方が違ったらどうしよう。」という程度の不安だったのだが、それをあえて今 の私が説明すると上記のようになる。そして、幼い頃の疑問を見返してみると、さらに、もう一つ疑問にお もうことがある。
 幼い頃の私は「対象」の存在をそんな言葉すら知らないにもかかわらず知らず知らずに肯定していること になる。私の認識「A」や別の誰かの認識「B」が正しいか否かを対象なしでは判断することができないから だ。つまり、私は「対象」には真実、絶対に正しい形の存在、イデアとしてのあるべき対象が存在して、そ れに対して、自分の認識、私の目は別の人が正確に見ているように正確にそれを捉えることができていたの か、見ることができていたのかを不安がっていたことになる。では、そのような自明の前提としていままで 扱っていた真実としての、絶対的に正しい、イデア的「対象」というものは、はたして、本当に存在するの か。
 ニーチェの「何物も真実にあらず、一切は許されたり」 註1、という言葉からもわかるように、 真実の存在を否定して、自らがもつ力、あるいは認識力によって、この世界を解釈、意味付けしていくべ きだとする。ニーチェによると、この真実を求める価値観は本来人間が自然にもっている価値観から顛倒 したものであるという。本来ある価値評価法式である貴族的評価法式というものがあって、それは自らが 持つ特性力(強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康など)を肯定し、価値を置く利己 的な、自己肯定的なものであった。しかし、キリスト教がヨーロッパを支配するにいたって、別の価値観 、僧職的評価法式がヨーロッパの価値観となる。これは、自らを肯定することができないものたちが彼ら のルサンチマン、強者に対する嫉妬、憎悪をバネにして作り上げたものである。つまり、「あの猛禽(強 者)は悪い、従って、猛禽になるべく遠いもの、むしろその反対物が、すなわち仔羊が―善いということ ではないか」註2 という評価法式である。ここでは本来善い(グート)とされていた身体的特性が優れている ことまで悪いこととされて利他的なことのみに価値がおかれてしまう。ここに、本来人間が自然にもって いる価値観からの顛倒が起こっている。註3 この、僧職的評価法式において、さらに先祖、神への負債・原罪 意識からくる良心の疚しさがこの価値観で動く人間が持つルサンチマンを自らへと方向をかえさせ、それ が禁欲主義的理想をつくりだす。註4 禁欲主義的理想においては、自己、現世を否定し、自らからはかけ離れ た超越的な価値観をうみだすことになる。これが形而上学的価値である。そして、真実とは自己、現世か らかけ離れた、自己・現世否定という顛倒した価値観である形而上学的価値からうまれたものである。 註5
 スイス、ジュネーヴの言語学者フェルデナン・ド・ソシュールによると、われわれは言語なしでは何事 も認識することはできず、言語によって不定形な観念や物質に形を与える。 註6つまり、われわれは言語によ って不定形なこの世界を解釈、認識していることになる。われわれは、言語を習得することによってわれ われの意識と事物(世界)が相互に差異化さえていくのである。この考え方からすると、われわれの認識 対象は、もともとは不定形であり、それが私の場合は日本語で形を与えられることになる。異なる言語で 話すひとが私と同じ対象を認識しようとしたばあい、まったく異なったようにみえるといえる。つまり、 ある言語を話す集団においては、その集団独特の共通認識をうみだし、それが常識となるのだが、その 、常識が別の言語を話す集団から見ると、まったく異質なものと映る場合ある。われわれの認識というの は、言語によって作り上げられているといえる
 それでは、ニーチェが言うようにわれわれが何らか、「対象」として認識している物自体などという存 在は顛倒した価値観が生み出した幻想のようなものであって、われわれが見ているのはただ各々の解釈や 、意味付けのみで、それ以前から先天的に存在している実体などないのであろうか。
 あるいはソシュールのいうように、同じ対象でも、われわれが使う言語によって見え方がちがっている のだろうか。その言語を使っている人たちのみの共通認識のなかでいきているのだろうか。
 幼い頃の疑問をおもいだして、いまその答えがはっきいりしているかというと、いまだに、答えを明確 に答えることはできない。そういえば、私が何故そんな疑問を持ったかを思い返してみると、「自分だけ 、見ているものが他の人が見ているものとひどく違っているのではないか、もしそうだったら仲間はずれ ではないか」という不安からだった思う。それでも、いままで私がこうやって生きて来られたのは、道路 交通法ほど、厳格に決められたものでないにせよ、この世界に行きる人たちのあいだでの共通認識みたい なものがあるからであろう。それは真実が存在するかどうかが重要ではなくてある対象にその解釈、意味 の妥当性を決定するのはそれを行う文化であることを表していることになる。真実や、絶対的に正しい世 界という考え方も、キリスト教文化が下したこの世界への解釈ということができるし、言語の違いで対象 への認識がかわってくるというのも、いわば、ある言語の集団、つまり文化がちがえば対象への解釈・意 味の妥当性が異なってくるということをあらわしているということができる。


脚注
註1ニーチェ『道徳の系譜』P192、L13[本文にもどる]
註2ニーチェ『道徳の系譜』P46、L4/5[本文にもどる]
註3ニーチェ『道徳の系譜』第一論文十三節[本文にもどる]
註4ニーチェ『道徳の系譜』第二論文二一節[本文にもどる]
註5ニーチェ『道徳の系譜』第三論文二四節[本文にもどる]
註6丸山圭三郎『ソシュールを読む』P45L7〜13[本文にもどる]

参考文献
ニーチェ『道徳の系譜』(1940年 岩波文庫)
丸山圭三郎『ソシュールを読む』(1983年 岩波セミナーブックス)




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