学術的自己紹介
「共生への異文化理解とそのための教育」

 私は、小学生の頃から「ラボ教育センター」と呼ばれる英会話のようなものに通っている。なぜ、私が「英会話のようなもの」と表現したかというと、ただ単に英語を学習する場とは少し違うと思うからだ。ここでは、小学1年生から大学生までが共に活動する。そしてそこでは、英語を中心とした多言語の歌や詩、物語などに触れる機会が与えられる。私達は、そこで歌や詩、物語りを聞きながら、それを体を使って表現するということをする。これは、なかなか難しい。まだ、「ラボ教育センター」に入会したての頃は、ただ単に新しい歌や物語に触れることが楽しくてしょうがなかった。ところが、次第に成長していくにつれ、そこから感じ取るものを人に伝えるということを少しずつ体験し、さらに成長すると、自分の意見を言葉で表現し、他人の意見とぶつけ合い、その中でより良いものを生み出していくということを体験するようになった。これは、一見とても簡単なことのように聞こえるかもしれない。しかし、「ラボ教育センター」の環境というのは、決して同じレベルで物事ができ、同じレベルで物事が考えられる子が集まった場ではない。なぜなら、最初に述べたように、「ラボ教育センター」では常に小学生から大学生が共になって活動しているからだ。だから、この環境の中では、いかに自分と共に活動している他者の視点を理解し、それを尊重できるかということが重要になってくる。違いが大きければ大きいほど、それをしっかりカバーしていかないと共に活動ができなくなってしまうのだ。 このような「ラボ」という環境の中で成長したり、海外へのホームステイや一年の留学を経験した影響で、私は共生へ向けての異文化理解というものに大変興味がある。

   ・ どのようにしたら差別がなくなるのであろうか
   ・ どのようにしたら自分と異なる性質を持つ他者と共生できるようになるのか
   ・ どのようにしたら、うまく他者の気持ちを理解できるようになるのか

 私達は一人では決して存在できない。対象者の存在があってこそ、はじめてその対象者を通じて自分というものを理解できる。しかし、そのようなことも現在では忘れがちになってきている。現代はいつしかから大衆消費社会となりかわった。そして、その中では大量に物が生産され、また消費されるようになったのである。このような大量の生産と消費のシステムの中で私達の物への価値のつけ方というものも変化してきた。従来は、物に対してそれを生産するのに必要とされた労働量を基準に価値が決められていた。しかし、現在では物の流通価値を元に価値が決められるようになった。そして、物の真の価値というものが分からなくなってきてしまった。このような中、私たちは人為的に作られたものではない人間や自然物に対しても、自分たちを中心にして価値を見出すようになってしまった。そして、私達は、自分以外の物を見る時に、二種類のモノに分類するようになった。一つは、他の何ものにも変えられなく、自分がそれを理解しようと自分から歩みよろうとする存在。もう一つは、代換がきき、しかもそれを自分が支配できるような感覚を持っているような存在である。現代では、人間は多くのモノを本当は前者のような存在であるにも関わらず、後者のような存在だと思いこんでいる。たとえば、わたしたちを取り囲む自然環境に対して、昔は尊い存在であったにも関わらず、今では人間の力で自由に操れ、また保護したり再生させたりできるようなものと思っていたり、同じ人間にも関わらず、文化や習慣が異なることからその中に差異を見出し、少しでも力のある方がもう一方を劣っているかのように見たりする。実際にはこのようなものの判断の仕方は正しくないのである。しかし、正しくないのにも関わらず、そのような考え方を人間が持ちつづけているということが問題だと思う。ここに人間の傲慢さや勘違いが見られる。そして、多くの環境問題や人権問題が取り上げられている今、もう一度このことに気づき、人間は自分の物の考え方を変えていかなくてはならない。現在のままでいくと、人間同志の結びつきを弱まる一方だ。私達は、同じ地球に住む者として、現状をみつめ、どうにかして共同体としての絆を取り戻さなければならない。そして、すべての存在の重要性を問い直し、それを理解しようとすることをすべきだ。そうすることによって、自分以外の人や物を大切に思えるようになるはずだ。そして、はじめてそれを尊重することができるようになる。私達はもはや自己中心的な視点のみでは生きていけない。

 しかし、そうは言ってもこのようなことはなかなか簡単にできるようなことではない。なぜなら、人間一人の力というものは限られてしまうからだ。例えば、机の上に一つのグラスがあったとして私がそれをみつめているとする。それは、私が動かない限り、私側から見える形しか私には認識できない。私が、そのグラスの実体を知るには、あらゆる角度から眺めるということをしなければならない。それと同じように、何でも本質を捉えるためには、様々な角度から眺めなくてはならない。一つの物事に対しても、それに対して多くの人から意見を求めれば多くの異なった答えが返ってくるだろう。そのことを知り、しかもそれはどれも間違えではないということを私達はこころえておかなければならないのだ。そして、そのような柔軟な視野や物事の理解の仕方などを育てるために鎌田ゼミはあるのだと私は思う。

 ところで、私がもう一つ言いたいことは子ども時代の教育がいかにその人の人生にとって大切なことかということと、家庭の子どもに与える影響の強さである。「われわれが大人としておこなっていることの多くは、子ども時代の模倣によって吸収したことにもとづいている」註1 し、子ども時代の行動や体験は「個人のその後の生涯にわたって大きな影響を持つ」註2 。そして、今後の未来を背負っていくのは子どもである。私は、子ども時代に自分以外のものを受け入れるということの大切さを教えることがとても重要だと思う。しかし、このような機会が現代の子どもにはあまり与えられていないのではないか。また、人間は頭で理解できても実際は自分の身を持って体験しなければ分からないことだらけであると思う。だからこそ、より多くの経験を子ども時代にすることがその個人の将来にとって大切だと思う。そして子ども時代、子どもは多くの時間を家庭で費やす。だからこそ、この重要な時期の子どもに対する家庭の役割とは大変大きいのである。

 私は今まで、知識が増えるということが楽しくて、それを生かそうというようなことをあまり考えたことがなかった。言わば、自己をの知識欲を満足させるため動いていた。しかし、最近はその知識をいかに将来的に生かすかということを考え出すようになった。そして、その先に少しずつ見えてきたものが子どもの教育というものだ。本当にまだ漠然と考えているだけで前に進んでもいないし、どこから手をつけていいのかもよく分からない。だが、私が今学んでいる様々なことをより多くの子どもたちに伝えたいと思う。そのためにも私は何かを始めなければならないのだが、何なのだろう。今後は、それを考えていきたいと思う。そして、より多くのことを私自身学ばなければならない。

≪註≫
註1 デスモンド・モリス著 日高敏隆訳「裸のサル」角川文庫 1979年初版 p.144 参照[本文]
註2  デスモンド・モリス著 日高敏隆訳「裸のサル」角川文庫 1979年初版 p.160 参照[本文]

≪参考文献≫
・マルティン・ブーバー著 植田重雄訳「我と汝・対話」岩波文庫 1979年初版 
・デスモンド・モリス著 日高敏隆訳「裸のサル」角川文庫 1979年初版
・アダム・スミス著 大河内一男訳「国富論T・U・V」中公文庫 1978年初版