ブーバー「我と汝」


≪Martin Buber(1878〜1965)≫
  ・ ユダヤ人
  ・ 神秘教
  ・ 「老子」など他国の思想にも大変興味を持っている

≪「我と汝」を読む前に≫
「我と汝」は1923年にMartin Buber(マルティン・ブーバー)によって書かれた。この時代は、ちょうど第一次世界大戦後にあたり、人々は進むべき道を失いつつある、無動力状態であったと言える。そして「我と汝」のドイツ語版の題名は「I and Thou(=You)」。この場合に使われているYouとは“伝統的に社会において一緒に住んでいるもの”というような概念がある。また、この時代にフロイトが「自我とエス」を書いており、二つの本で著者が述べていることは類似しており、共通の問題意識が見てとらえられるはずである。

≪「我と汝」p.7〜p.12≫
 世界は人間のとる二つの態度によって二つとなり、その人間のとる二つの態度とは人間が語る根源語の二重性にもとづいている。その根源語とは、一つは<われ―なんじ>の対応語であり、もう一つは<われ―それ>の対応語である。そして、<われ―それ>の<それ>は<彼><彼女>によって置き換えることもできる。ところで、<われ>は<われ>だけでは存在できない。例えば、私達が日本という国を他の国と比べることによって認識できるのと同じで、<われ>も<なんじ>や<それ>の存在があってこそ認識できるものなのである。

 そこで、<なんじ><それ>について見ていきたい。この<われ―なんじ>の<われ>にとって<なんじ>として見ているものは、他の何ものにも変えられない存在なのだ。<われ>は<なんじ>のことを考え、<なんじ>自身の声を聞き、それを理解しながら<なんじ>と対話する。そして、<われ>は<なんじ>のことについてすべて理解することは到底無理だということを知っており、常に未知の世界が残る存在、つまり<われ>にとって<なんじ>とは絶対的に支配することが不可能な存在なのだ。現時代では人間にとって<なんじ>に相当するものは人間なのではないだろうか?そして、<われ>にとってそのような<なんじ>と対照的な存在が<それ>であると言える。<われ>にとって<それ>と見ているものは、それ自身にとって代わるようなものが存在でき、<われ>は<それ>のことを考えてはいないし、<われ>は<それ>と見ているものとは対話はしない。その上に<それ>に対し、<それ>のことは全て知ることができるといったような支配的感覚を持っている。現時代で<それ>に相当するものは自然、そして時には人間も含まれるだろう。

 ここで、初めの「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」というところに戻るが、この<われ―なんじ>と<われ―それ>の対応語を理解していくと、世界は「経験」と「関係」の二つの世界に分かれると言える。なぜなら、人間の生は<われ―それ>の世界に属している<それ>を目的に持つ経験の世界と<われ―なんじ>の世界に属している<なんじ>を語る関係から成り立っている。そしてこの時に注意しておかなければならないのは、人間は世界を経験するというが、それは私達が世界というものを一方的に理解しているにすぎない。私達が経験するのは世界の中にある<あるもの>つまりSomethingにすぎないのである。そして、人間にとっての関係の世界の領域は三つあり、第一は、関係は暗がりの中で羽ばたき、言語が通じない、自然と関わる生活。第二に関係は明白で、言語の体系をとる人間と人間の交わる生活。第三に関係は雲におおわれて見えないが、閃光のごとく自己を啓示している精神的存在と交わる生活だ。