学術的自己紹介
「死生観」と人と人との共生について


  私は幼いときから、「死」についてよく考えてきた。生まれてから今までに、2回お葬式を経験してきたこともその原因かもしれない。ついこないだまで、私のそばに座って、一緒におしゃべりをして、楽しい時を共有してきた祖父と祖母と、なぜ急に離れ離れにならなければならないのか、なぜ話すことすらできなくなってしまうのか、なぜ人はいつかは死ななければならないのか。こんなことばかり考えていると、夜眠っている間に、もしかするとこのまま一生目が覚めないまま自分は死んでしまうんではないだろうかと、眠れない夜もあった。そのくらい、私は「死」が怖かった。最近、私はこんな夢を見た。夢の中で、私達人間は、何物かが今までの荒れ果てた世界を一掃するために、3日後にいったん全員死ななければならず、その後、体のみ再生するというものだった。しかし、この夢の中で私が一番衝撃的だったのは、今までと変わらない体はあるのに、記憶だけが全て失われてしまうということだ。20年間生きてきた「むかいだにあいこ」という記憶が一切消えてしまい、自分自身もはやその存在に気づくことはなく、また、この世界に「むかいだにあいこ」という人間が存在していたことを証明してくれる人間が一人もいないことが、私はとても悲しく、虚しかった。そう考えると、人はいつかはみんな死んでしまうけれど、その人の存在や思い出は、いつまでも周りの人の心の中で生き続けることが出来る。では、人は死後、どうなってしまうのだろうか。小さい頃は、人は死ぬとみんな天国へ行って、地上に残っている家族をいつも空から見守りながら、いつかはみんなそろって天国で楽しく暮らしていくのだろうと考えていた。しかし、ゼミで「般若心経」を読んでから、私の「死生観」が少し変わったような気がする。般若心経の中で出てくる「色即是空。空即是色」註1という言葉。この言葉に、私はなぜか強く引かれた。「およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。」註2を意味する「色即是空」。「およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」註2を意味する「空即是色」。始めの「色即是空」には、全てのものははかなく、永遠に存在することはなく、いつかは死んでしまうという「死」のイメージが、そして後の「空即是色」には、実体のないところから、全てのものが生み出されるという「生」のイメージが感じられるのである。この言葉は、万物のとどまることのない生と死のサイクルを表しているのではないだろうか。例えば、生ゴミについてもこのことは置きかえることができるだろう。人間によって出された、汚くて臭い生ゴミを、土に埋める。そうすることによって、いつかは生ゴミが土の中で分解され、土が豊かになるために必要な養分となって、土壌を支えるための大切な養分となる。そして、そのことで、最終的には人間をも支えているのである。このようにして、全てのものは循環しているのである。そしてそこには、一切「無駄」な循環は存在しない。全てが意味を持つ。そうであるならば、現代の大衆消費社会は循環できないモノであふれかえっているように思う。全てが一方通行で、最終的には元に戻ってくるといったモノは、一体いくつ存在しているのだろうか。話をサイクルに戻すが、このように考えると、私という存在も、この万物の大きなサイクルの一つであるのだから、いつかは死んでいく定めであることも、そして「死」についても、なんとなく自然に受け入れられそうな気がしてくる。そして、自分の死が、誰かになんらかの影響を与え、誰かの心にいつまでも生きつづけることができるように、自分の死が「無駄な」死にならないように祈る。ブッダは、人間の体ははかなく脆いものであり、世界そのものも永遠ならざるものであると説く。それは、全てのものが因(直接的原因)と縁(間接的原因)によって成り立つ、縁起の存在であるからであり、そのため、生まれたものは必ず死ぬのである。しかし、このことは、私達にとって最大の「苦」にほかならない。いつかは死んでしまうという現実、つまり「無常」が、私達にとって最大の「苦」なのである。そう、やはり私は「死」が怖い。悟りをひらいていない私にとって、「死」が恐怖であるのは実に当たり前のことだ。ほとんどの人間もそうだろう。アメリカでは、エイズやガンの末期患者に対して、チベットの死者の書を読み聞かせるということを行っている病院がある。チベットの死者の書を読み聞かせることで、死後の世界がどのようなものなのか、死ぬと肉体はどうなってしまうのか、そして輪廻転生についてを伝え、患者に考えてもらうことで、もうすぐ訪れる「死」に対する恐怖を、少しでも和らげてあげることが目的であるという。そういえば、死期が近づいた人間は、どうして「死」を受け入れやすくなるのだろう。「死」について、まだまだわからないことが山のようにある。それはまた当然のことである。実際体験しなければわからないこともあるだろう。しかし、私は自分が生きているうちにすこしでも「死」について自分なりに理解しておきたい。ゼミで仏教について勉強して、少なからず自分の「死生観」が変わったような気がする。これからも、もっと仏教を勉強して、自分なりのしっかりとした「死生観」をつくりあげていきたい。 もう一つ、今回のゼミを通して興味をもったテーマがある。それは、人と人とのつながりである。「我と汝」を読んでそう感じた。ものには、相対するものが存在していて、我と汝もまたそうである。宇多田ヒカルの歌詞に、「君の存在で自分の孤独確認する」という部分がある。自分に相対する存在がいるからこそ、人間は孤独を感じることができるし、誰かをいとおしいと感じることができるのである。もし人間がもとから一人しかいなかったら、こういった感情はきっと生まれてこなかっただろう。孤独を感じたり、誰かをいとおしいと感じたり、そのことで悲しかったり、苦しかったりするけれど、そういった感情が生じ、痛みを感じることでまた、自分が今この瞬間生きているのだと証明し、実感することができる。愛は一人では答える(語る)ことができないのである。 「あなたと現存の間にはあたえ合う相互性がある。あなたはこの現存の世界に<なんじ>と語って、自己をあたえ、現存の世界はあなたに<なんじ>と語りかけて、あなたに自己をあたえる。」「この現存の世界は、他の存在者との出合いを、あなたに教え、その出合いを支えてくれる。」註3とある。ここの部分を読んで、出会いの大切さを考えさせられた。そして、人をもっと思いやる気持ちを持とうと思った。私の好きな孔子の思想で、「仁」という考えがある。「仁」とは、人を立て、人を出世させる、親兄弟をいつくしむ、自分の勝手な気持ちを抑えて、秩序を生み出すものである「礼」を実践していくことであると孔子は説く。また、孔子は、「仁」を実践するのは自然な気持ちからであって、他人に強制されて行うものではないとも説いている。相手のためにある愛であって、決してエゴの愛ではない。「仁」にとっての愛情とは、人間らしく人を愛し、思いやること。キリスト教にとっての愛情とは、隣人愛。仏教にとっての愛情とは、慈悲。こうやって見てみると、この3つの考え方は、最終的には相通ずるものがあるように思う。孔子の言葉に、「殺身成仁」(身を殺して仁と成す)という言葉がある。この言葉で思い出すのは、ゼミの中でも何回か取り上げられたのだが、駅の転落事故で、自分の身を犠牲にして転落した人を助けようとした2人の男性のことである。彼らは、自己の利益を追い求めばかりしている歪んだ現代社会に、大きな衝撃を与えた。現代社会の人間で、一体何人の人間が、自己を犠牲にしてまで他人を助けることができるであろうか。現代の社会には、損か得かという一本のものさししかない。だから人間は、何か行動を起こす前に、まず、その行動が自分の利益につながるかどうかを最初に考えて行動する。だから、人を思いやれなくなってしまった。現代の消費社会にどっぷりと浸かってしまっている人間の一人である私が、どこまでこの「仁」を実践できるかどうかはわからない。しかし、孔子は言う。「「仁」は遠いものではない。自分が「仁」でありたいと望めば、そこに「仁」はやってくるのである」、と。そう、まずは自分が「仁」でありたいと望んでみよう。そして、人間らしく人を愛し、思いやっていこうと思う。


注1 中村 元・紀野一義訳注「般若心経・金剛般若経」p.10 参照[本文]
注2  中村 元・紀野一義訳注「般若心経・金剛般若経」p.11 参照[本文]
注3  マルティン・ブーバー著(植田重雄訳)「我と汝・対話」p.45 参照[本文]


〜参考文献〜
中村 元・紀野一義訳注「般若心経・金剛般若経」岩波文庫1960年初版
マルティン・ブーバー著 植田重雄訳「我と汝・対話」岩波文庫1979年初版  

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