「死生観」と「共生」
目次
1. はじめに
2. 「色即是空。空即是色」―生と死のサイクル―
3. 終末医療「ホスピス」を通して―いかにして死を受容するべきか―
4. 「尊厳死」について―死の自己決定を問う―
5. ドイツの新医療について―補完療法がめざすものとは―
6. 「我と汝」を通して―人と人とのつながり―
7. 孔子の「仁」が現代社会にうったえるもの
8. 最後に
1.はじめに
私は幼いときから、「死」についてよく考えてきた。生まれてから今までに、2回お葬式を経験してきたこともその原因かもしれない。ついこないだまで、私のそばに座って、一緒におしゃべりをして、楽しい時を共有してきた祖父と祖母と、なぜ急に離れ離れにならなければならないのか、なぜ話すことすらできなくなってしまうのか、なぜ人はいつかは死ななければならないのか。こんなことばかり考えていると、夜眠っている間に、もしかするとこのまま一生目が覚めないまま自分は死んでしまうのではないだろうかと、眠れない夜もあった。そのくらい、私は「死」が怖かった。最近、私はこんな夢を見た。夢の中で、私達人間は、何物かが今までの荒れ果てた世界を一掃するために、3日後にいったん全員死ななければならず、その後、体のみ再生するというものだった。しかし、この夢の中で私が一番衝撃的だったのは、今までと変わらない体はあるのに、記憶だけが全て失われてしまうということだ。21年間生きてきた「むかいだにあいこ」という記憶が一切消えてしまい、自分自身もはやその存在に気づくことはなく、また、この世界に「むかいだにあいこ」という人間が存在していたことを証明してくれる人間が一人もいないことが、私はとても悲しく、虚しかった。そう考えると、人はいつかはみんな死んでしまうけれど、その人の存在や思い出は、いつまでも周りの人の心の中で生き続けることが出来る。では、人はなぜ、死を恐れるのだろうか。
2.「色即是空。空即是色」―生と死のサイクル―
私は、小さい頃は、人は死ぬとみんな天国へ行って、地上に残っている家族をいつも空から見守りながら、いつかはみんなそろって天国で楽しく暮らしていくのだろうと考えていた。しかし、「般若心経」を読んでから、私の「死生観」が少し変わったような気がする。般若心経の中に出てくる「色即是空。空即是色」註1 という言葉。この言葉に、私はなぜか強く引かれた。「およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。」 註2を意味する「色即是空」。「およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」註2を意味する「空即是色」。始めの「色即是空」には、全てのものははかなく、永遠に存在することはなく、いつかは死んでしまうという「死」のイメージが、そして後の「空即是色」には、実体のないところから、全てのものが生み出されるという「生」のイメージが感じられるのである。この言葉は、万物のとどまることのない生と死のサイクルを表しているのではないだろうか。例えば、生ゴミについてもこのことは置きかえることができるだろう。人間によって出された、汚くて臭い生ゴミを、土に埋める。そうすることによって、いつかは生ゴミが土の中で分解され、土が豊かになるために必要な養分となって、土壌を支えるための大切な養分となる。そして、そのことで、最終的には人間をも支えているのである。このようにして、全てのものは循環しているのである。そしてそこには、一切「無駄」な循環は存在しない。全てが意味を持つ。そうであるならば、現代の大衆消費社会は循環できないモノであふれかえっているように思う。全てが一方通行で、最終的には元に戻ってくるといったモノは、一体いくつ存在しているのだろうか。話をサイクルに戻すが、このように考えると、私という存在も、この万物の大きなサイクルの一つであるのだから、いつかは死んでいく定めであることも、そして「死」についても、なんとなく自然に受け入れられそうな気がしてくる。そして、自分の死が、誰かになんらかの影響を与え、誰かの心にいつまでも生きつづけることができるように、自分の死が「無駄な」死にならないように祈る。ブッダは、人間の体ははかなく脆いものであり、世界そのものも永遠ならざるものであると説く。それは、全てのものが因(直接的原因)と縁(間接的原因)によって成り立つ、縁起の存在であるからであり、そのため、生まれたものは必ず死ぬのである。しかし、このことは、私達にとって最大の「苦」にほかならない。いつかは死んでしまうという現実、つまり「無常」が、私達にとって最大の「苦」なのである。そう、私はやはり死が恐い。悟りをひらいていない私にとって、「死」が恐怖であるのは実に当たり前のことだ。ほとんどの人間もそうだろう。アメリカでは、エイズやガンの末期患者に対して、チベットの死者の書を読み聞かせるということを行っている病院がある。チベットの死者の書を読み聞かせることで、死後の世界がどのようなものなのか、死ぬと肉体はどうなってしまうのか、そして輪廻転生についてを伝え、患者に考えてもらうことで、もうすぐ訪れる「死」に対する恐怖を、少しでも和らげてあげることが目的であるという。次に、「ホスピス」を例にあげて、死を間近にした末期患者が、死をどう受容し、死を迎えていくのかについて述べたいと思う。
3.終末医療「ホスピス」を通して―いかにして死を受容するべきか―
人間が死ぬ場所には二種類あって、ひとつは、病院をはじめとする医療施設であり、だいたい全体の約90%を占めている。残りは、医療施設以外であるが、その大部分が自宅や老人ホームなどで、ほんの数パーセントが事故死や自殺のため屋外などで死亡する。死亡場所とは別に、死にゆく人が、自分の死ぬ場所を選ぶことが出来る場合と、できない場合がある。自殺の多くの場合は、自分で死に場所を選ぶことができるのであろうが、病死の場合には、必ずしも全部の患者が自分で死に場所を選ぶことはできない。その中でも、心筋梗塞などとは違って、末期ガンやエイズのように、自分が死に至るまでに、心の整理をしたり、自分なりに死を受け入れるための準備期間が残されている患者にとって、自分の死を静かに待つことのできる場所、自分の死と静かに向き合える場所は、とても大きな意味を持つ。そして、そのような患者自身が選択して入院するそういった場所の一種が、ホスピスなのである。
ホスピスは、本来は中世西欧の各地の都市にある教会、修道院などが、疲れた巡礼者や旅人、病人らに休息を与える場所として、広く発達した施設であった。現代のホスピスの原型は、1967年、英国の女性医師シシリー・ソンダーズ博士がロンドン郊外に「セント・クリストファーズ・ホスピス」を設立し、主に末期ガン患者を対象として、医師、看護婦、宗教家、心理士などのスタッフらによって麻薬の使用により疼痛を抑え、死を間近にした孤独や精神の不安をいやす場としたのが始まりであるとされている。註3 現在、日本にある厚生省認可のホスピスは約60施設、入院ベッド数は千床余りで、平均入院期間はホスピスにより異なるが、おおむね約2ヶ月であるから、実際ホスピスで死ぬことのできる患者数は全国で年間6000〜7000人ということになる。一方、ガンを死因として死亡する人は年間25万人以上であるから、希望してもホスピスに入ることができない人はまだまだ多いのが現状である。註4 ホスピスの入院を許可される条件は、ガンの末期であって、余命が6ヶ月以内と診断された患者に限られている。また、ホスピスが求めているこのほかの条件として、抗がん剤をはじめとする各種の延命的治療を行わないこと、人工呼吸などの蘇生術を行わないこと、本人に末期ガンであることを告知してあることなどがあげられている。ホスピスは、病気を治す場ではなく、少しでも患者を苦痛から解放してあげ、患者が自らの人生をもう一度振り返り、死を受け入れやすくする場なのである。
ホスピスに入院している患者全員が、同じ死生観を持っているわけではない。もちろん、健康な時から死について考え、自分なりの死生観を確立している人もいれば、ガンであると告知されて初めて死について考える人もいる。また、自分の病気が末期であると告知されて初めて考え始める人もいる。少なくともホスピスに入院してはじめのころは、死生観を確立している人もいれば、まだ悩みのただ中にいる人もいて、全部のホスピス患者が崇高な死生観を持っていると考えるのは間違いである。しかし、ホスピスで数週間あるいは数ヶ月過ごすうちに、患者一人一人が、それぞれの死生観を持つようになる。なぜだろうか。それは、ホスピスが「死」に一番近い場所だからではないだろうか。人間が、死を本当は避けることの出来ないことであるとわかっていても避けようとするのは、死がすべての終わりであるとする、死を否定した生き方しかできないからであると私は考える。それに比べて、ホスピス患者は、死を肯定した生き方をしているように思える。生きることにしても、死ぬことにしても、どちらにしても人間にとって自然なことであり、死に対して逃げることも隠れることもできないのだから、生物の当然の営みとして死を受け入れよう、といったような、淡々とした心境のように思える。
ホスピス患者がホスピスの中で求めているのは、痛みを和らげる治療はもちろんであるが、最も必要としているのは、人とのつながりではないだろうか。死が近いことを知り、かつ死を受容した患者は、この世に生きてきた「証」を残そうとする。それは、論文や、自分のお墓といった物であったり、思想や、勤務する職場での責任を果たすといったような、目に見えない形である場合もある。人それぞれ形は違うが、生きてきた証を残したい理由はひとつである。それは、自分が今まで生きてきた人生が、死によって全て終わってしまうことに耐えられないということである。つまり、死んでから後までも、姿形は変わっても、自分にとって大切な人達の心の中に、いつまでも残り続けたい、生き続けたいという願望である。また、この時大切なのは、それを受けとめる人がいるということである。患者は、話し相手を必要としている。自分が、これまで行ってきたこと、思い出を、誰かに語りたがっている。そして、そういったことを誰かに語ることで、患者は、自分がこの世界に存在していたということを、死を間近にして再確認することができるのである。ホスピス患者にとって、人とつながっていることは、自己の存在を再確認するうえで、大変大きな意味を持つのである。そして、ホスピス患者は、死を迎える準備として行ってきた、自分が生きてきた証を残す作業を終えて、多くの人との心と心のつながりを感じながら、大切な人達に見守られて、息をひきとっていくのである。末期ガンという絶望的な現実が突きつけられても、ホスピスでこのような死を迎えることができるのならば、それまでどんなにつらい生であったとしても、人間にとって最も幸せな死なのではないだろうか。
4.「尊厳死」について―死の自己決定を問う―
現在、延命治療によって、いわゆる「スパゲッティ症候群」註5 として肉体的には生きていても、精神的にはもう死んでいる状態で生命をつながれている状態の患者が数多くいる。しかし、このことは、患者にとって本当に幸せなのだろうか。人間は、いつも他人とのつながりを求めている。確かに、残された側からすれば、その大切な人はまだ目の前に存在しているのであるし、たとえ意識はなくても、呼吸しているのだから、すこしでも長い間そばにいて、この一瞬一瞬を共有したいと願う。しかし、精神的にはもう死んでしまった患者からは、つながりを求めることも、感じることもできないのである。彼らには、もはや、死を自己決定する能力が残されていないのである。そして、彼らはある種孤独な死を迎えるのである。その人が生きるか死ぬかは、当人の自己決定が一番重要な価値基準である。そのために、最近では、「リビング・ウィル=生前の遺書」註6 という方法が打ち出され、この生前の遺書に、延命治療を放棄することを意思表示して選択する、消極的安楽死、つまり、「尊厳死」と呼ばれる新しい死の形態も生まれた。尊厳死は、「生命の質」 註7 という概念を重要視し、もはや生きるに値しない状態になったときに選ぶ死である。日本では、「尊厳死」に関する事前の意思表明として、尊厳死協会などの団体を中心に広まってきた。実際、「リビング・ウィルを提示した患者の担当医の96%は、その意思を受け入れる」註8 という調査結果も報告されている。
5.ドイツの新医療について―補完療法がめざすものとは―
ここで、ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州にあるバート・メルゲントハイムで行われている新医療について少し述べたいと思う。この町にはたくさんの病院や診療所があり、昔から「癒しの町」と呼ばれてきた場所である。この町には、ガン患者に対して、「補完療法」という、現代治療後の一種のアフターケアのような治療法を行っている病院や診療所がある。この治療法がめざすのは、現代治療のような、手術や、抗がん剤の投与による激しい苦痛を和らげ、良い環境の元で、ガン患者の命をできるだけ延ばし、生き生きとした生活を送ってもらうことであり、そのためにも、意味のある治療が必要であるとされている。現代医学の治療では、もし治療法がその患者にちゃんと合っていなければ、その患者の病気の質を悪くすることもある。補完療法では、医師は患者とのコミュニケーションがとても大切であると考えており、週に1度患者とよく話し、痛みはないか、不安はないか聞き、それをもとに、患者に合った治療プログラムを作るようにしている。補完療法には、具体的には、オゾン療法、温熱療法、心理療法、ハーブ療法、はり治療、ホメオパシー、また、瞑想、気功なども含まれている。どれも、患者一人一人の体の奥底に眠っている自然の力を引き出す手助けを行うような治療法である。これらの治療法の中でも、心理療法という治療法は、ギリシャのモノコードという楽器を使い、患者の気持ちを静め、体をリラックスさせることで、心の緊張もときほぐしてあげることを目的として行っている治療法である。心の不安をとりのぞき、おだやかな状態を保つことは、体にとってとても重要なことであると考えられている。補完療法を行っている医師によると、精神と体はいつも一つであり、病気は精神が体から離れた時に起こるものであって、精神と体を一体化させることが、この治療にとって一番大切なことであるとしている。
補完療法では、ガンを完全に治すことは不可能である。そのため、患者は、ガンは、自分にとって人生の課題であると認めなければならない。しかし、この治療法を受けた患者の大半が、ガンは完全に治らなくても、精神面には変化が見られるようである。実際にこの治療法を受けた患者の一人は、ガンは良くならずに退院したが、退院後は、自分なりのガンとの付き合い方を実践しているという。それは、ガン細胞も、自分を作り上げている細胞のひとつなのだから、一生のパートナーとして、上手に付き合っていこうと、ガンと対話することであるという。彼は、実際退院して何ヶ月かのち、奇跡的にガンが小さくなった。それを彼は、自分にあった治療法のおかげであると考えている。人間は一人一人顔も違うし、性格も違うし、一人一人がそれぞれ個性を持っている。人間はみな同じではない。治療法もまたそうである。人間はそれぞれが個性を持っているのだから、一つの治療法が、全ての人間に当てはまるはずがないのである。だから、100人が100通りの自分にあった治療法を見つけることが望ましいのである。
人間の体は、精神的な部分に支配されている。補完療法では、人間の精神的な部分に注目し、精神的に元気になれば、体もよくなると考えられている。そのため、補完療法を行う医師達は、患者がガンで精神的に弱った時、彼らとじっくり話をして、どうすればその状態から抜け出せるかを考えることがとても重要であると考えている。そのことによって、患者が人生の喜びを再び得られるようにするのが、補完療法を行う医師達の仕事なのである。ガン患者の場合、手術でガンを取り除いた後の患者の機能を、いかにして高めるか、というところから治療が始まる。そこで大切なのは、人間が本来持っている自然治癒力をいかに高めるか、ということである。現代医学を担う医師達は、補完療法に対し、科学的研究がすすめられていないものなので、まだまだ疑問の余地が残るし、あまり現実的ではなく、医学的根拠もないとしている。しかし、補完療法に助けを求める患者達は、そういった医学的根拠があるからであるとか、ないからであるとかという問題ではなく、肉体的にも、精神的にも弱った自分の体を、癒してほしいから求めるのである。先にも述べたように、補完療法ではガンを完全に治すことは不可能である。つまり、患者は自分の死が近いことを理解している。彼らは、死を間近に迎え、苦しみよりも癒しを選んだのである。実際、手術や抗がん剤の投与は、激しい痛みや嘔吐などを伴うため、残り少ない人生に余裕を持つことができず、毎日が苦痛と戦う日々である。それに比べて、補完療法では、医師は患者の苦痛を和らげることを第一に考え、精神的な部分も治療してくれる。そして、患者が、自分達の生活の場で、人生を少しでも長く、有意義に過ごせるようにしてくれる。そのことによって、患者は残りわずかな人生に余裕を持つことができ、残りの人生を設計することができるのである。こうやって見ていくと、先に述べたホスピスに共通する部分が多い。現代医学を担う医師達は、いかに病気を治すかについて日々研究を続けている。しかし、補完療法やホスピスといった、手術後のアフターケアや、末期患者が自分の人生を振り返り、死を静かに待つことのできる場所が必要とされている、ということにも、もっと考慮すべきである。
6.「我と汝」を通して―人と人とのつながり―
私が興味を持っているもう一つのテーマが、「人と人との共生」である。マルティン・ブーバーの「我と汝」との出会いで、ますます興味が深まった。ものには、相対するものが存在していて、我と汝もまたそうである。宇多田ヒカルの歌詞に、「君の存在で自分の孤独確認する」という部分がある。自分に相対する存在がいるからこそ、人間は孤独を感じることができるし、誰かをいとおしいと感じることができるのである。もし人間がもとから一人しかいなかったら、こういった感情はきっと生まれてこなかっただろう。孤独を感じたり、誰かをいとおしいと感じたり、そのことで悲しかったり、苦しかったりするけれど、そういった感情が生じ、痛みを感じることでまた、自分が今この瞬間生きているのだと証明し、実感することができる。愛は一人では答える(語る)ことができないのである。「あなたと現存の間には与え合う相互性がある。あなたはこの現存の世界に<なんじ>と語って、自己を与え、現存の世界はあなたに<なんじ>と語りかけて、あなたに自己を与える。」「この現存の世界は、他の存在者との出会いをあなたに教え、その出会いを支えてくれる。」註9 とある。ここの部分を読んで、出会いの大切さを考えさせられ、人間はやはり一人では生きていけないのだと思った。また、ホスピスについても思い出した。それは、先にも述べたのだが、死を間近にした患者が、誰かと話しをすることによって、自分の存在を再確認することができる、ということだ。まさに、「あなたはこの現存の世界に<なんじ>と語って、自己を与え、現存の世界はあなたに<なんじ>と語りかけて、あなたに自己を与える。」註10 という部分に通じるように思った。
7.孔子の「仁」が現代社会にうったえるもの
私の尊敬する孔子の思想で、「仁」という考えがある。孔子は、最高の道徳は仁によって作られるものとし、その主な意味を、いわゆる“人を愛すること”であるとした。また、孔子は、「仁」を実践するのは自然な気持ちからであって、他人に強制されて行うものではないとも説いている。相手のためにある愛であって、決してエゴの愛ではないのである。「仁」という文字は、人偏に二と書く。中国人が解釈すると、これは、人と人の愛であるそうだ。つまり、人と人との出会いを大切にし、人間を愛する心を持つことである。二人の人間がお互いに相手の立場に立って、ものを考えようと思えば、自然とそこに仁は成立するのである。論語の中で、孔子は、「仁を行う者は、己の欲ではなく人の欲を見きわめ、己の欲を満たすのではなく人の欲を満たせ」註11 、また、「己の欲しないことを人に施してはならない」註12 と言っている。また、あるところでは、「人が自分を認めてくれないことばかりを嘆いてはいけない。逆に、自分が人を認めているかに心を配るべきだ」註13 とも言っている。どの言葉も、相手を思いやってこそ実行できることばかりである。そして、この人を愛したり、人を思いやることは、決して人に言われてできることではなく、自分がそうしたいと思うことで初めてできることである。孔子の言葉に、「殺身成仁」(身を殺して仁と成す)という言葉がある。この言葉で思い出すのは、駅の転落事故で、自分の身を犠牲にして転落した人を助けようとした2人の男性のことである。彼らは、人に言われてではなく、自ら見ず知らずの人を思いやり、そして命をかけて仁を実行したのである。そしてこのことは、自ら自己の利益を追い求めばかりしている歪んだ現代社会に、大きな衝撃を与えた。現代社会の人間で、一体何人の人間が、自己を犠牲にしてまで他人を助けることができるであろうか。現代の社会には、損か得かという一本のものさししかない。だから人間は、何か行動を起こす前に、まず、その行動が自分の利益につながるかどうかを最初に考えて行動する。だから、人を思いやれなくなってしまったのである。孔子は言う。「仁は遠いものではない。自分が仁でありたいと望めば、そこに仁はやってくるのである」と。孔子の生きた春秋時代は、ものすごい乱世であった。その中で、どうやって世の中を正すか、人はどのようにして生きていくべきかを考え抜いた末に出た結論が、仁、つまり、人を愛し、思いやることであった。現代の管理社会、コンピュータ社会において、人間関係はますます希薄になりつつある。親と子供、先生と生徒、どの人間関係を見ても、思いやりが欠けているように思う。物が溢れすぎているせいか、いつしか人間は、相手のことを思いやるよりも、自分にとってそれが損か得かということを最優先に考えるようになってしまった。現代の私たちにとって、失われてしまった「仁」の復活こそが、今一番大切なのではないだろうか。仁を実践することは決して難しいことではない。なぜなら、人を愛する心がすなわち仁だからである。そして人間は誰も、人を愛する心を持っているからである。
8.最後に
人間は、死を恐れ、あってはならないものとし、避けようとする。死を忌み嫌うあまり、現代では、死は隠され、できるだけ一目につかないようにされている。そのため、私達が死を直接見たり、直接感じる機会はますます減ってきている。現代では、医療技術の発達によって、延命治療が施され、多くの患者が病院で、最後には管だらけになって、肉体だけが生かされている状態で、人とのつながりを感じることができないまま、ある種孤独な死を迎えている。昔は、延命治療などなかったし、医療もまだ発達していなかったので、病人のほとんどが、自分の家で、家族に見守られながら息を引き取っていた。そのことで、人々も死というものを目で見、心で感じることができた。そうすることで、漠然とではあるが、死について考え、自分なりに死というものを捉えることができたのではないだろうか。しかし、現代の病院などの隔離された空間によって、ますます人は死にふれる機会が少なくなってしまった。この、私達からあまりにも遠ざけられ、隔離されてしまった「死」という概念が、私達の死に対する恐怖感をますます大きくしているのかもしれない。また、現代の人々が死を恐れることについて、他者とのつながりが稀薄になってきたことも理由にあげられるのではないだろうか。私が例にあげた、ホスピスや補完療法には、現代医学にはない、「癒し」や「人と人とのつながり」がある。補完療法やホスピスには、現代には欠けてしまっている共生の理念のようなものが、しっかりと働いているように思う。それは、患者との日々のコミュニケーションであったり、自分という人間をもう1度振り返るために誰かと話をすることであったり、死を見守ってくれる家族や友人といった自分にとって大切な人との心と心のつながりであったりする。これらはみな、人と人との関係を築くうえで、本来あるべき形である。しかし、この当たり前のような関係が、現代社会には欠けてしまっている。人間は誰も死ぬのが恐い。自分という存在がこの世界から消えてしまうことが恐い。だからこそ、人とのつながりを求めるのである。誰かとつながっていることで、相手の存在を感じ、また、相手の存在を感じることで、自分がこの世界に存在していることを、あらためて感じることができるのである。そして、そうやって人とのつながりを大事にし、相手を思いやることによって、孔子の説く「仁」が、自然と実行されていくのである。
最後に、「論語」の中で、孔子が死にふれて述べた数少ない言葉の一つをあげたいと思う。「子、川の上に在まして曰わく、逝くものは欺くの如きか、昼夜を舎てず」。 これは、月日がたつのは実に早く、この川の流れのように、とどまることがない、という意味である。人生もそうである。人間は誰も、この川の流れのようにとどまることのない時間の流れの中に身を置き、そして去ってゆく。しかし、ただ漠然とその流れの中に身を置き、人生を終えるのではなく、意味のある人生にしなければならない。孔子も、ブッダも、キリストも、人を愛することの大切さを説き、そして、人間が幸福に生き、幸福に死ぬ方法は何かを説いた。また、川というものは、川上から川下へと流れていく。この川をもっと大きな生命の流れとして捉えたとき、今私たちがこうして存在し、流れの中に身を置いていられるのは、川上、つまり私たちの祖先から受け継いできたものがあるからである。そして、今現在の私たちの行いは、川下の私たちの子孫へと受け継がれていく。だから、もし私たちが誤った道へと進めば、私たちの子孫もまた誤った道へと進んでしまう。そう考えると、私たちの日々の行いは、とても責任あるものである。だからこそ、私たちは人を愛し、思いやることを決して忘れてはならない。そしてこの人間関係の根本をなす「仁」を日々実践していくことで、「仁」の大切さを、身をもって、私たちの子孫へと伝えていかなければならないのである。
註1 中村 元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波文庫、p.10 [本文]
註2 中村 元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』p.11 [本文]
註3 安藝基雄「科学的医療と終末医療」『死の科学と宗教』岩波書店、p.195参照[本文]
註4 村上國男「死を看とる ホスピス論」『死生学がわかる。』2000年6月、p.43参照 [本文]
註5 斎藤弘子「「生」と「死」を考えるキーワード」『死生学がわかる。』2000年6月、p.73 [本文]
註6 天笠啓祐「尊厳死」『死生学がわかる。』2000年6月、p.19参照 [本文]
註7 天笠啓祐「尊厳死」p.19参照 [本文]
註8 斎藤弘子「「生」と「死」を考えるキーワード」『死生学がわかる。』2000年6月、p.76[本文]
註9 マルティン・ブーバー著(植田重雄訳)『我と汝・対話』岩波文庫、p.45[本文]
註10 マルティン・ブーバー著『我と汝・対話』p.45[本文]
註11 孔子(貝塚茂樹訳)『論語』中央公論新社[本文]
註12 孔子『論語』p.243 [本文]
註13 孔子『論語』p.71 [本文]
―参考文献―
中村 元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』岩波文庫
安藝基雄「科学的医療と終末医療」『死の科学と宗教』岩波書店
村上國男「死を看とる ホスピス論」『死生学がわかる。』朝日新聞社
斎藤弘子「「生」と「死」を考えるキーワード」『死生学がわかる。』朝日新聞社
天笠啓祐「尊厳死」『死生学がわかる。』朝日新聞社
マルティン・ブーバー著(植田重雄訳)『我と汝』岩波文庫
孔子(貝塚茂樹訳)『論語』中央公論新社
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