自由とマスタリー・フォア・サービス



目次

1. 伝統的自由とマスタリー・フォア・サービス
2. 中世における近代的自由とマスタリー・フォア・サービス
3. チューリンゲンのエリザベートとマスタリー・フォア・サービス


1 伝統的自由とマスタリー・フォア・サービス

自由という言葉は時代そして文化の違いによって、実に様々な意味合いをもっている。そこで、各時代ごとの自由とマスタリー・フォア・サービスについて考察することにする。
まず、かつてのヨーロッパのキリスト教における、いわゆる伝統的な自由だが、これは現在でいう「解放」を意味するのだ。聖書においてかつて人は、エデンの園、つまり人と自然、人と人とが共生する世界に暮らしていた。しかし、人は禁断の果実という絶対の掟をおかしてしまったのだ。こうしたおのれの欲望のために共生を踏みにじることは罪であり、人はこの罪の奴隷として位置付けられているのだ。しかし、この「罪の奴隷」としての立場から自己を救済し、解放しようとすることは自己中心主義を生み出し共生を阻む危険性をはらんでいると考えられるのだ。つまり、ここでいう自由とは共生に不可欠な「掟」を破壊する安易なものとして位置付けられているのだ。これらのことから、マスタリー・フォア・サービスには、自己を克服し共生の道を実現するという意味を包含すると考えたとき、この時代においてこのマスタリー・フォア・サービスとは自己中心主義を深まらせる危険を帯びたものとして考えることができるのではないだろうか。なぜなら、自己を克服するということは、自由を得るということだからである。


2 中世における近代的自由とマスタリー・フォア・サービス

第二に、中世における自由であるが、そこには大別して、ふたつの自由がある。ひとつは、カントやニーチェがいった、意思としての自由、つまり、自分の生き方は自分で決めるということであり、そこにはその自己決定の結果に対する自己責任が発生するというものだ。ふたつめは、カントやニーチェがいった近代的自由と伝統的自由の間を生きたルターの言う自由である。彼のいう自由は、心をあれゆる罪と律法と戒めから解き放つものなのである(注1)。前者のいう自由は奉仕という言葉とは程遠く、それはまさに自己中心主義の実践にほかならないのではないであろうか。というのは、カントやニーチェの主張によると、人は自己の克服のためには孤独に生きるということになるからだ。これは、共生という概念からは遠くかけ離れている。つまり、かれらの言う自由は自己のための自由であり、行為の責任は自律により、自分自身に降りかかるが同時に自己を高めることに、すなわち、超人になることに専念しすぎて、自己中心主義を深まらせることになるのだ。ここでも、マスタリー・フォア・サービスは危険なものとして認識することができるのではないだろうか。しかし、ルターの言う自由を考えた場合実にマスタリー・フォア・サービスという概念に一致する面を強くゆうしている。というのは、マスタリー・フォア・サービスとは先にも述べたが、自己を克服し共生の道を実現すると考えたとき、ルターの言う「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、誰にも従属している。」(注2)という概念にじつに合致するからだ。しかし、ルターのいう自由とは神を信じて初めて得られるものであり、それはいわゆる、制限された自由であるということを忘れてはならない。

3 チューリンゲンのエリザベートとマスタリー・フォア・サービス

エリザベートは宮廷よりも貧しい人々の救済に時を費やした。そこには彼女の「現状拒否の人生」が読み取れる。彼女はいう。「自分が正しいと思えない人は、どのように奉仕するのか」(注3)と。ここに、まさに自律と自由、そして、自己の克服がなされているといえる。さらに、彼女の目指す自己の克服の先には、自己中心主義の実践ではなく、奉仕があるのだ。しかし、真に奉仕を考えたときにそれが一人よがりなものとならないとも限らないというところに、自分の行為が正しいと思うことが、そして思うことのできる自信と知識そして、経験が必要になってくるのだ。その行為の結果はすべて自己責任となるのだから。

脚注
  1. 哲学講義プリント「キリスト者の自由」p77参照
  2. 哲学講義プリント「キリスト者の自由」p52引用
  3. 哲学授業内容6月22日参照
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