組織経営〜企業と国家〜



目次

  1. 意志決定についての所見

  2. 主旨

  3. 組織

  4. 個人

  5. 協働

  6. 現在の日本社会

  7. 雪印食品の意志決定

  8. むすび



意志決定についての所見

 最近、新聞やニュースで毎日のように取り上げられる、公的機関・準公的機関の不祥事を目にするたびに、耳にするたびに思うことがある。それは、これらの組織に属する人の意識の問題についてである。具体的な組織をあげるならばそれは、行政組織−最近、狂牛病で取りざたされている農水省のずさんな管理であり、また、国からの財政支援のもとで繰り返される銀行の経営である。その他、役人の天下りや、一部企業・公的機関同士の癒着問題などあげればきりがない。民間企業における経営の問題も多々あるが、これは後に触れることにする。
 これらの問題はなぜ起きるのか。そして、その解決策は何なのかを考えずにはいられない。解決策を模索するにはまず問題の根元を明確にする必要がある。そこで私は、この問題の根元は、第一に、組織の存在動因及び存在目的の忘却にあり、第二に、これら組織の経営すなわち意志決定のプロセスにあると考える。
 前者はすなわち、組織の存在自体意味がない状態であると言える。具体例として考えられるのは、1983年に起きた薬害エイズ事件に関する厚生省の意志決定である。この事件に関して厚生省の存在動因は、非加熱製剤の安全性を国民に保証することであり、また、非加熱製剤の検査及び危険性に対する処置に不備があれば、即座に不備を認め、被害にあった国民に対処することである。しかし、当時の厚生省はその不備を隠蔽するよう行動した。それは、不備を認めることから発生する責任追求から逃れようとする私的な意思決定である。この時点で、厚生省はこの件に関してはその組織としての存在意義を失うことになるといえる。
 後者は、第一の問題を引き起こすものである。すなわち、意志決定に携わる個人が、組織の目的ではなく、保身をはかること、または自己利益を優先させることによって生じる組織の私有化である。通常、組織の意志決定に携わる者は、その組織の存在動因・目的を理解しており、それに従って最終的な決定をすべきものであると私は考える。つまり、意志決定に至る個々の意識が問題となるのである。
 第一の問題は組織そのものを一個の人格として現れる問題であり、後者は組織に属する個々の意識からくる問題である。これはつまり、ひとたび「個」が「全体」を考えずに、自己の利益のみを考えた場合におこる問題であると言えるのではないだろうか。
 ホッブズは、国家を称して「リヴァイアサン」と呼び、一人格としてとらえた。「『私はみずからを統治する権利を、この人間または人間の合議体に完全に譲渡することを、つぎの条件のもとに認める。その条件とは、きみもきみに権利を譲渡し、彼のすべての活動を承認することだ』」註1 「これが達成され、多数の人々が一個の人格に結合統一されたとき、それは《コモンウェルス》−ラテン語では《キウィタス》と呼ばれる。かくてかの偉大なる《大怪物》(リヴァイアサン)が誕生する」 註2今や、このリヴァイアサンは国家内におけるさまざまな組織をも指しており、同時に国家を超える組織をも指しているといえる。
 個及び、組織にして個であるところの存在が意志決定を為すにあたって、しかし同時にそれら個は組織に属していることに留意することが可能ならば、現在起きている様々な問題解決の糸口になりえるのではないだろうか。それはつまり、社会に属するすべての人が大小様々な組織に属している限り、各々の意志決定の道標となる理論が必要となるということを意味している。そして、そのためには組織とその意志決定プロセスを理論として用い、上記のことを論証することが必要だと考えられる。


主旨

 現在の私達の生活環境は、多くの問題を抱えている。環境汚染、経済問題、教育問題、犯罪そして政治問題などである。また、国際的なものとしては、民族間、国家間における紛争や、貿易に関する問題なども含まれる。これらの問題は、私達の日常生活には表面上、顕著な影響を及ぼすことが少ないため、深刻に受け止める人は少ない。このことが、問題解決への大きな障害のひとつであることは、確かなことであろう。
 これらの問題を引き起こし、かつその影響を受ける人間は、社会生活をする上で、意識的に、または気づかずに、実に様々な組織に従属している。身近な組織の例としては、部活、学校、自治体、企業、そして国家である。その国家も国際的には、国連などの国際的組織の一員をなしているといえるのである。
 上記のことを踏まえた上で、次のことに関心を抱かずにはいられない。国家と企業とは、その性質、つまりそこに従属する者に要求する労力及び還元する利益の性質は違うが、同じ組織としての性格を持っているのである。しかし、この二つの組織経営には大きな隔たりがあるのだ。それはつまり、その組織に属する者の意識の差であると私は考えずにはいられない。
 企業に属する者は、自らの意志でそこに属することを望み、そうすることによって生じる責任・義務・規則を了承しているのである。また、そこでの働きが直に利益として本人に還元される。それは、その働きに応じた賃金であり、そこでの働きが彼の生活に影響するところを身近に感じることができるのである。一方、国家に属する者、すなわち国民は、生まれた瞬間からそこに属しており、その瞬間から国民の責任・義務・規則を負っているのだ。また、国家から得られる利益、つまりそれは保険制度であり交通機関であり教育であるが、それらは当然のように与えられる。それは私たちの生存に必要不可欠な「空気」のように、当たり前に与えられるのであるが、私たちは果たして「空気」の存在を身近に感じることがあるであろうか。
 組織は、その存在動因・存在目的を離れて活動をし始めたときに、その経営を見直されるべきだると私は考える。では、どのような経営理論が必要とされているのであろうか。組織の経営理論を論ずるに当たって、私は次のことに注意したい。それはつまり、偶然の積み重ねである経験をもとに理論によるのではなく、論理的に説明されうる経営理論でなければならないということである。「およそ学問の本性から言えば、いつの場合でも経験的部門を合理的部門から注意深く分離する必要がある」註3 ということに留意しなければ、その理論は特定の事象にしか当てはまらないものとなってしまいかねないのである。


組織

 なぜ、私たちは組織を必要とするのかを考えてみる。私たち人類が地球上に誕生してから、まず最初に誕生したコミュニティ、つまり社会は小規模な村であった。」ある地域に暮らす者が集まり社会を形成したのは、社会に属することによる利益がその動因になっていると考えられる。それはつまり、共同生活による個々の労役の負担が軽減されることであり、個ではできないことを集団でなし得るという利益である。こうして社会が形成される。こうして社会というひとつの枠組みができてしまうと、それまで人々が生活に必要なすべての作業を個別に行ってきていた(最小の単位であるオスとメスの子育て等の必然に子孫繁栄に関する生物的要因は含まない)ものが、社会組織の熟成とともに分業が進むのである。この分業により、1:個々の職人すべての技能の増進、2:ある種の仕事から他の仕事へと移る場合にふつう失われる時間の節約、3:労働を促進し、短縮し、しかも一人で多くの人の仕事がやれるようなさまざまな機械の発明註4 を得られるのだ。こうして、個々の人間では実現不可能なことを実現するために協働がおこり、それが社会組織へと発展する。さらに社会内において分業がすすみ、新たな組織が生まれるのである。つまり、社会組織とは個々の人間が協働することによって互いに利益を得られる場合において、その組織を構成する人々が共有するある特定の目的を有して存在するものであるといえる。今日の日本でいう国家や、会社内における人間関係、サークルや部活動がこれにあたる。
 そして社会組織が機能し、分業が進むうちに社会組織の運営を担当する組織が誕生する。その存在目的はその社会の成員全体にとって利益のある諸事を決定し、実行することにある。この組織を構成するのは当然社会組織にを構成する人であり、ここでいう組織とは、社会組織全体の利益を目的として存在するのである。例をあげると、行政組織がこれにあたる。
 同時に、社会には私的な組織が存在する。これらの組織が存在する目的は、必ずしも社会には関連しておらず、そこに属する者が協働によって得られる利益だけを動機として構成される組織である。また、この組織を構成する人間は、この組織が属する組織にも属している。例えば、国家社会という組織内における企業組織がこれにあたる。企業組織の至上目的は、そこに属する者同士の協働によって得られる利益を共有することにはあっても、国家社会全体の利益を目的として存在するわけではないのである。(企業組織を構成する人がそのことを利益として考え尽力していることもあるだろうが、それはあくまでも個別の私的組織がその成員によって持ちうるのであって、私的組織全体にはあてはまらない)また、別の例として企業内における構成員のサークル活動があげられる。サークルに属する人間は同時に企業に属する人間ではあるが、そのサークルはその企業全体の利益を目的としているとは限らないのである。
 これまでに述べてきた組織は、その性質に若干の違いはあれども「意識的で、計画的で、目的をもつような人々相互間の協働である」註5 という点において「公式組織」と呼ぶことにする。


個人

 個人とは、「一方では、姓名、住所、履歴、名声をもつ個々の、特定の、独特な、ただ一人の個別的人間」註6 であり、「他方では、組織全体、あるいは組織の末端部分、調整によって可能となる努力の統合、集団を構成する人間」 註7を意味している。これは、まったく異なる二つの性格を有した存在である。それはつまり、前者は個人がその意志決定をする際において自分の判断を優先するのに対して、後者は組織の意志決定に自分の意志決定をゆだねることを求められるという点において、異なる性格を有していると言える。
 個人は物的要因として肉体を有する。そして、生物的要因として内外の変化に適応し内的均衡を維持する継続性を有しており、また、過去の経験によって適応の性格を変える能力を持っている。最後に社会的要因として、他の個人と相互に作用する。註8  これら諸要因は無数に存在しており、それらによって個人というものが形成されている。よって個人とは「過去および現在の物的、生物的、社会的要因である無数の力や物を具体化する、単一の、独特な、独立の、孤立した全体」註9 を意味すると定義する。
 個人は一定の特性をもつ「人格的存在」として次の4つの特性をもつ。(a)活動ないし行動、(b)心理的要因(c)一定の選択力(d)目的である。 註10
 「(a)個人の重要な特徴は活動である。その大まかな、容易に観察される側面が行動と呼ばれる。行動なくして個々の人間はありえない。
 (b)いわゆる個人の行動は心理的要因の結果である。「心理的要因」という言葉は、個人の経歴を決定し、さらに現在の環境との関連から個人の現状を毛低している物的、生物的、社会的要因の結合物、合成物、残基を意味する。
 (c)実際的な問題においても、また多くの科学的目的のためにも、われわれは人間には選択力、決定能力、ならびに自由意志があるものと認める。ほとんどの人が、選択力を正常かつ健全な行動に不可欠なものと信じていることは、われわれの通常の行動からして明らかである。したがって自由意志の観念は、個人的責任、道徳的責任、法的責任の学説のなかでも説かれている。これは自律的人格という感覚を保持するためにも必要であろう。その感覚がないということは、とくに社会生活に対する適応力がないことを意味することは経験からも明らかである。自我意識をもたず、自尊心に欠け、自分のなすことを考えることが重要でないと信じ、なにごとにも相違をもたない人間は、問題であり、病的で、精神異常で、社会的でなく、協働に適しない人である。
 しかしこの選択力には限界がある。すでに述べたことが正しいかぎり、すなわち個人が、物的、生物的、社会的要因の結合した一つの活動領域であるかぎり、これは当然のことである。均等な機会が多い場合には、人間の選択力が麻痺するという理由からも自由意志は限られる。これは経験によって明らかなところである。たとえばボートで睡眠中に漂い出し、大洋のキリのまっただ中で目をさまし、どちらへ行こうと勝手だとしても、ただちに方向を決めかねるであろう。選択には可能性の限定が必要である。してはいけない理由を見いだすことが、なすべきことを決定する一つの共通な方法である。後にわかるように、意志決定の過程は主として選択をせばめる技術である。
 (d)意志力を行使しうるように選択条件を限定しようとすることを、「目的」の設定または「目的」への到達という。それは通常、「努める」「試みる」という言葉の中に意味されている。この書物では主として組織かされた活動に関連ある目的を問題とする。」註11
 ここで注意しなければならないのは、(c)で言及されている自由意志についてである。「個人が選択力をもつ−私のみるところ、ありもしないのに−という仮定にもとづいて、行為がなされることがよくある。したがって、その場合には、個人が服従しないのを、実は服従できないのにかかわらず、意識的に反抗しているためと誤解される。もし自由意志の考え方を既述のごとき内容により近いものと理解する場合には、個人の行動を規定しようとする努力の一部は、訓練、説得、刺激の設定によって個人を規制するなど、行動の諸条件を変更する形をとるであろう。」註12 つまり、個人は選択力・自由意志は持つが、選択の可能性はその人の過去及び現在の物的・生物的・社会的要因によりある一定の範囲に限られるのである。


協働



現在の日本社会



雪印食品の意志決定



むすび






脚注

註1ホッブズ(永井道雄 編)『リヴァイアサン』、中央公論新社、1979年9月、p196 [本文]
註2ホッブズ『リヴァイアサン』、p196 [本文]
註3カント(篠田英雄 訳)『道徳形而上学原論』、岩波文庫、1960年6月、p11 [本文]
註4アダム・スミス(大河内一男 監訳)『国富論』、中公文庫p16〜18参照 [本文]
註5C.I.バーナード(飯野春樹・田杉競・山本安二郎 訳)『経営者の役割』、ダイヤモンド社、1956年、p5 [本文]
註6C.I.バーナード『経営者の役割』、p9 [本文]
註7C.I.バーナード『経営者の役割』、p9 [本文]
註8C.I.バーナード『経営者の役割』p12 [本文]
註9C.I.バーナード『経営者の役割』p13 [本文]
註10C.I.バーナード『経営者の役割』p13参照[本文]
註11C.I.バーナード『経営者の役割』p14 [本文]
註12C.I.バーナード『経営者の役割』p15 [本文]
 [本文]
 [本文]
 [本文]
 [本文]


もどる