フロイト「自我とエス」


4、「自我」と「エス」をそれぞれの働きと共に説明せよ。

解答:

 自我は、知覚‐意識に近いが無意識の下にある。自我は、心的装置の外面を代表するものである。自我の下で快感原則に従って力を出すエスと、外界の影響を捕える知覚‐意識の間に挟まり、両方の力を受けながら現実原則に従いバランスを取ろうとする前意識的な媒介者の役割を果たす。このように自我は力を操っているような位置にいるが、上手くバランスを取るために「制御できない力」(エス)に従わずにおれず、エスに対し受動的である。
 
引用:
「われわれはそれぞれの個人に、心的なプロセスの一貫性のある組織を思い描き、
これを自我と呼んできた。…外的に興奮を排出する経路を支配している。…抑圧もこの自我から生まれるものであり、…抑圧によって排除された営みが自我に対立するのであり、…。」p、210
「この自我は、知覚システムを中核とするが、記憶の残滓に依拠する前意識も含むも
のである。…自我は無意識なものでもある。」p、220
「当初は前意識的であるものを<自我>と名づけ、無意識的なものとしてふるまうも
のを<エス>と名づけることを提案する。」p、220
「自我は…知覚システムが自我の上にのっている範囲に限って、自我はエスを覆って
いるのである。自我とエスの間に明瞭な境界はなく、自我は下の方でエスと合流している。しかし、抑圧されたものもエスと合流するのであり、…抑圧されたものはエスを通じて自我と連絡することができる。」p、221
「自我と呼ぶものは、生においては基本的に受動的に振舞うものであり、道の統御できない力によって「生かされている」(グロッテックの表現)と繰り返し強調している。」p、同上
「エスは、知覚‐意識システムの媒介のもとに、外界の直接的な影響を受けて変化する。自我はこのエスの一部であり、ある程度は表面の差異化を引き継いだものである…自我はさらに、外界の影響をエスとその意図に反映させようと努めるのであり、エスを無制限に支配している快感原則の代わりに、現実原則を適用させようと努めるである。自我において知覚が果たしている役割は、エスにおいて欲道が果たしている役割に一致する。情熱を含むエスとは対照的に、自我は、理性や分別とでも呼べるものを代表している。」p、222
  
5、超自我が形成される過程を、エディプス・コンプレックスが果たす役割との関係を考えながら答えよ。

解答:

 幼い頃に、少年は母への性的な欲望が強まり父の存在が邪魔になる。しかし、母を獲得しようと少年は「父のようにあらなければならない」と父の理想としようとし、その像を自分の中に対象を想定するが、またそのとき「父のすること、すべてを行なってはならない」と対象を放棄する、禁止の力が働く。自我理想は、このエディプス・コンプレックスの「抑制」という急激な転換によって形成される。そして、自我の中にエディプス・コンプレックスが残したものが溜まる。これが、超自我の性格を特徴づける。

引用:  
「自我の中にもう一つの段階を想定し、自我の中において差別化が行なわれ、自我理想または超自我と呼ぶ部分を想定した…。」p、226
「自我理想の背後には、個人の最初の同一化が潜んでいる。これは個人の<原始自体>である幼児期における父との同一化である。」p、231
「父に対するアンビヴァレントな態度と、情愛のこもった対象として母を獲得しようとする努力が、少年の単純で積極的なエディプス・コンプレックスの内容となる。」p、232
「エディプス・コンプレックスが崩壊する際に、少年は母への対象備給を放棄しなければならない。」p、233
「エディプス・コンプレックスに支配されている性的な発展段階においては、もっとも一般的な帰結として自我の中に<沈殿>が起こると想定できる。この<沈殿>はなんらかの形で、二つの同一化が結びついて生み出されるものである。この自我の変化は特別な地位を保持するものであり、自我理想・超自我となる。これは自我の他の要素と対立するものである。」p、236
「自我理想のこの<二つの顔>は、自我理想がエディプス・コンプレックスの抑圧を行なうという事実から生まれるものである。自我理想は、そもそもこの急激な転換によって成立するのである。」p、237
「このように自我理想は、エディプス・コンプレックスの遺産であり、エスのきわめて強力な興奮と、もっとも重要なリビドー<運命>を表現するものである。」p、240

6、超自我は自我とエスの関係にどのように働きかけているか。

解答:

 エディプス・コンプレックスの過程を通して形成される超自我は、「生物学的な要素と人間と言う種の<運命>がエスのうちに作り出し、残したもの」を自我のうちに取り入れたものである。それは、「人間における高貴な本質に求められた全ての要求を満たす」。
 自我は、エスの欲動を満たそうとエスの求める対象の像を読み取り、自らその対象に成りすまそうとする。それと同時に、それを抑制しようとする反動力が働く。これが、良心の要求である超自我の働きである。従って内界を反映する超自我は、外界を代表する自我に対立する。

引用:
「自我は、対象備給についての知識を獲得し、これに黙従するか、抑圧プロセスによってこれから防衛しようとする。」p、228
「…性愛的な対象選択を自我の変化に転換することは、自我がエスを支配し、エスとの関係を深める一つの方法であると考えることができる。…自我は、対照の特徴を装うことによって、エスに対して愛の対象としての関係を結ぶことを迫るのである。」p、229
「超自我は父の性格を得ることになり、…のちになって超自我は良心として、あるいは無意識的な罪悪感として、強力に自我を支配することになる。」p、237
「自我理想を形成することによって、自我はエディプス・コンプレックスを制御すると同時にみずからエスに服するようになった。自我は、基本的に、現実である外界を代表するものであるが、超自我は内界、すなわちエスを代弁するものとして、自我に対立する。自我と理想の葛藤は、…最終的には現実的なものと心的なもの、外界と内界の対立を反映するものである。」p、240
「エスはが外界を代表する自我なしには、外部の<運命>を経験することも、体験することもできない…。」p、243
「遺伝によってつたえられることのできるエスは、多数の自我‐存在の残滓をぞうしているのであり、自我がエスから超自我を形成する際には、以前の自我の像を出現させ、復活させているに過ぎないかもしれないのである。」p、243
「超自我は、エスの最初の対象選択の残滓にすぎないものではなく、これに対する強力な反動形成と言う意味を持つ。…自我には多くのことが禁止されたままなのである。」

7.何故「二種類の欲動」の区別は十分確実なものとは考えられていないのか。(p248)

引用:

「人間関係において憎しみが愛に先立つことが多いだけではなく、憎しみが愛に、そして愛が憎しみに変わることも多いのである。この転換が、時間的な継起、つまり交代に過ぎないものではないとすると、愛と憎しみの間には、エロスと死の欲動の間にみらてるような根本的な差異は存在しないのであり、エロスと死の欲動においては、生理学的なプロセスがまったく反対の方向に向かっていると想定することができるのである。(p248 L11-14)」
「最初からアンビヴァレントな姿勢が存在していて、エロス的な興奮からエネルギーが取り去られ、敵対的な興奮に賦与されるという反動的な備給の移動によって、転換が発生するのである。(p248 L14-16)」

解答:
愛と憎しみはアンビヴァレンスであるから。愛と憎しみは相反するものであるが、「憎しみは愛につねに伴うもの(p248)」であり、愛(エロス)と憎しみ(死の欲動)という二つの欲動の区別は明確ではないといえる。

参考:
<二種類の欲動とは>
1.性欲動(エロス)
「分散されて分子の状態になっている生命物質を広範に結合して、生命を複雑なものと死、当然ながらそれによって生命を維持すること」(p245)を目標とする。つまり、「形成」の働きを持つ。
2.死の欲動(サディズム)
「有機的な生物を生命のない状態に戻すこと」(p245)を目標とする。つまり、「分解」の働きを持つ。
<アンビヴァレントとは>
表裏一体のこと。

8.自我とエスの関係におけるリビドーの働きを説明せよ。

引用:

「自我が最初の対象備給(当然ながらその後の対象備給も含まれる)に対処するために、そのリビドーを自我の中に導き、同一化によって生み出された自我の変化に、これを結合するのである。自我リビドーのこの転換に、性目標の放棄、すなわち脱性化が結びついているのは当然である。・・・(中略)・・・自我はこのような方法で対象備旧のリビドーを支配し、自らを唯一の愛の対象とし、エスのリビドーを脱性化または昇華している。(p252 L16〜p253 L5)」
「原初においては、全てのリビドーはエスの中に蓄積されていて、自我は形成途上であるか、また弱々しかったと考えられる。エスがこのリビドーの一部を、エロス的な対象備給のために送り出すと、いまや強くなった自我はこの対象リビドーを支配しようとし、自己を愛の対象としてエスに押し付けようとする。このように自我のナルシシズムは二次的なもので、対象から奪ったものである。(p253 L10-15)」

解答:
エスの中で生じた対象備給を対処するために自我はその対象に似たものを自我の中に作り上げ、エスの中で生じている対象リビドーを自我に向けさせる(ナルシシズム的なリビドーへの転換、脱性化、昇華)。このとき、自我はそのリビドーの対象となるという意味でエスに対してより大きな影響力をもち、エスとより深い関係となる。

9.二つの疾患、強迫神経症とメランコリーにおける自我理想の振る舞いの類似点と相違点を述べよ。(第5章p255-272)

解答:

*類似点ー
罪責感が過度なまでに強く意識化され、自我理想は特に厳格であり、過酷なまでに自我を責めたてる。
*相違点ー
・強迫神経症において、罪責感は明白であるが自我によって是認されることが無い。それ故に自身の罪を認めず、罪責感を拒否しようとする。この場合、超自我は自我よりもエスのことをよく知っている。また、自己防衛が予めなされていない場合には超自我が実際に自我を死に追いやることもある。
・メランコリーにおいて、自我は自らの罪を知っており、罰に従う。この場合、超自我が怒りを向ける対象は同一化によって自我の中に取り込まれているため、強迫神経症の場合よりも超自我が意識を独占しているという印象が更に強くなる。また、メランコリーとは違い、自殺に至ることは無い。なぜなら、自我が同一化を行っていないためエスのリビドーの対象になっていないので、自我に怒りが向けられる(自己嫌悪)ことがないからである。

10.自我の「3つの仕事」「3つの脅威」「3つの不安」を挙げよ。

解答:

自我は問題8で述べた同一化と昇華の仕事をする。(「3つの仕事」という記述は文章中にあるが、それは明確に示されていない。)3つの脅威とは「外界からの脅威」「エスのリビドーからの脅威」「過酷な超自我からの脅威」であり、不安は脅威からの退却である。不安はそれぞれの脅威に対する不安であり、3つの不安は上記の3つの脅威に対応する形で起こる。

 
 


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