2002進級論文


《感じるこころ》を育てる
−繋がりに生きる−



= 目次 =
1はじめに
2、自然的存在者

@考えること
A感じること
3、人と環境
@<見える世界><見えない世界>
A内なる世界
4、現代社会の流れ
5、理性的存在者
@自由意志を持つ存在者
A自由の変遷
6、現代社会における日本人
@《こころ》の麻痺状態
A《感じるこころ》を育てる
7、日本の精神文化に見る《こころ》
8、《こころ》の自然状態 
9、最後に





1、はじめに

私は先日、「語るということ」という文化面の記事*1 に出会った。人は何かを語る時、感想や主観が交じる。そこからその人のものの見方を知るのも楽しいが、何より魅せられるのているのは人が熱心に語る様子そのものである、という内容であった。スピードと分かりやすさが重視される現代社会で、このような楽しみを感じる心の余裕を持つ人どれくらいいるだろう。言葉にならない'想い'を感じ取るには、ゆっくり人と向き合い、じっくり耳を傾けることが必要となる。言葉の奥に潜む、理論では説明できない'想い'を理解するには時間が掛かるし、分かりにくい。必然的に、忙しい現代社会に生きる人々は、'想い'を感じ取ることで楽しみ、喜ぶこころの余裕を持つことが難しくなっている。現代人が精神的に満たされないというのは、こころの余裕を持てないからではないだろうか。個人の心のありようは、社会現象として表れる。現代の環境問題・社会問題の要因には、効率性、利便性重視の志向が根底で結びついている。
 自然との関わり、人間との関わりにおける現代人の姿勢は、根本的に同じである。現象として表れるまで深刻さを認めないで進めてきた自然開発が、世界規模の環境問題として表れたように、言葉として表れない、理論では片付けられないことに目を向けず、感じ取ろうとしない態度は、社会問題を深刻にしているように思われる。自然の営みのゆったりとしたペースを破ったことが、自然世界と、人間世界に問題を起こしているのではないだろうか。
 ここで気付かされるのは、私たち現代人の多くが自己の存在を自然と切り離し、その一部である(自然的存在者* 2 )ことを忘れてしまっている、ということである。自然は、それぞれの歩みを持ちながら全体として纏ったサイクルに生き、人間も自然の中で、何かを感じ取りながら自然のサイクルと共に生きてきた。しかし現代は、人間が作り出したペースで多くのことがコントロールされている。便利さ・清潔さ・快適さを求め発展していく社会で、私達は、自然人として環境から感じ取る能力を衰えさせ、様々なことに自ら気付き、考える機会を失っている。その原因は、道具に頼り過ぎることにある。あらゆる事にハウツウが用意され、頼っていれば、自分で物事ができる過程の中で、様々なことに触れ、気付き、考える機会を減らしてしまう。決まりきった法則に従うのは、効率がいいし、分かりやすいが、一人一人が歩む過程から生まれる多様なアイデアが生まれる可能性を狭める。人々の感覚は在る一定に定められ、一様化の方向に向かいがちになる。
 環境問題、社会問題、世界のグローバル化が引起こす問題…。過去の上にある現代社会の構造が持っている問題の理解を深めるためには、過去から現代の流れを通じて人々が「生きる」ことに何を求めてきたのか、精神史を探る必要がある。そして、現代社会で人々が見落としているのは何か気付く為に、歴史が持つ記憶を辿ることが重要である。そのために、様々なことにじっくり耳を傾け、ゆっくり見つめる対話の姿勢が求められる。それは、自然と人間の環境世界を見つめ直すことに、「生きるとはどういうことなのか」という普遍的な問いの思索に繋がる。
 現在、多くの人普遍的な問いの入り口である姿勢を欠いていているため、現状の問題だけを拾い、応急処置だけをするため、また新たな問題が発生に苦しんでいる。私は、このような対話の姿勢をより多くの人が持てるよう、人間が持つ心的過程の働きの重要性とその活性化を考えていきたいと思う。



2、自然的存在者

@「考えること」

  人間は「考える」存在である。外界から受け取ったものを内面化し、行動に移す。動物との違い、知覚で受け取ったものを本能に従って行為に移すのでなく、内面化する心的過程がある。内的過程の発達が、人間の特性である「考えること」「想像すること」を可能にし、また内面化したものを表現することで伝え合うことができる。そして伝え合うことで、人は繋がりを持ち、人との間に「生きる」* 3のである。 このように、環境の中で何かを感じ(知覚し)、考え(思索し)、形にする(表現する)ことを繰り返しながら人間は生きている。人と人との間に生きるからこそ、三つの過程が成り立つのであり、関係性のないところにはこれらの過程は意味をなさない。一人で何かを感じ、考えても、伝える相手がいなければ人は、人間として「生きる」ことができない。生き生きとしている人は、人と共に喜びを分かち合い、繋がりの中で存在することを感じているからではないだろうか。世界で人が一人いたとしても、自分を人間と確認することもできず、「生きている」喜びを感じることはできないだろう。

A「感じること」
 
  「考える」という特性は、何かを「感じる」ことの刺激から始まる。そこには、動物にはない人間的感情'想い'が交じる。この'想い'を生み出すのが《こころ》である。《こころ》が豊かであれば、それだけ多くの外部に漂う目に見えない電波を受け取ることができ、「考える」ことで内部に広がりができ、他者に伝える作業が活発になる。
 人間にしかない'想い'を受け取り、「考える」扉を開き、表現する力を与える《こころ》の充実が、繋がりの中で「生きる」ために重要となるだろう。《こころ》が敏感で豊かであるほど、人として豊かに「生きる」ことができる。個々人の心の充実は、真に豊かな社会をつくるカギである。様々なことを受け取り、人に伝えることで喜びを分かちあい、繋がりの中で「生きる」ことを実感することができるからである。そのために《こころ》は、外界に驚く目を開き、内界に耳を傾けことが人間として生きる自然な態度である。《感じるこころ》は、人間の内界と外界を感じ取り、相互に伝える働きをする。
 この働きは、マルティン・ブーバーが言う「内への集中と外への活動」* 4であり、<われ−なんじ>の世界に導く転換 に作用する「愛」* 5 や「精神」と似ている。



3、世界の繋がり 

@ <見える世界>・<見えない世界>

 ブーバーは、世界は人間のとる態度によって<われ‐それ><われ‐なんじ>の二つとなるという。<われ‐それ>は、経験の対象として能動的に関わる関係で、<われ−なんじ>の世界は「対話」の姿勢で成り立ち受動でも能動でもない関係である。対象の世界から相互の世界への転換は、「本質行為」* 6と呼ばれ 、本質行為を通して<われ‐なんじ>の世界がひらける。その世界に気付くことが真理や本質に近づくことであり、神からの救いを意味するという。ここで、「神」と呼ばれるものを「世界」や「自然」と置きかえると、後で紹介する西田幾多郎と繋がる文面がある。
「本質を同じくする神と人間は、常に一体であり、根源関係の二つの担い手である。この関係から神が人間へ向かうとき、使命や命令となり、人間から神へ向かう時、直観や傾聴となり、両者の間にあっては、認識と愛と呼ばれる。* 7
 西田畿多朗は、人間の本質を意識ではなく「行為的直観」という言葉で表わす。「行為」が「直観」を生み、「直観」が「行為」を生むという。前者の意味は、世界を外側から対照的に観照するのではなく、世界の中に入りこんで理解しようとする立場である。後者は、世界の本質を理解することが、私達を「行為」へと駆りたてるということである。「知的」に世界を映し出すのではなく、あくまでも「作る」という働きを通して自己は「世界を自己の中に映」しだし、世界全体を集約的に表現する。このように自己と世界とは「作る」という行為を通して無限に循環していると自己と世界の関係を述べている。
 ブーバーの「転換」は内面活動で、西田の「行為」が外的活動と、世界へのアプローチが異なるように見える。ブーバーは、<われ‐それ><われ‐なんじ>の二つの世界を精神や内的なものによって転換という本質行為を図るが、西田は自己と世界を「行為=作る」で繋ぐ。しかし、「表現」という言葉を使っており、そこには心的な想いが反映されている。従って、自己と世界の関わり方と、<われ‐それ><われ‐なんじ>の世界が相互に関わり合い、循環を以って一つであるという点で似ていると思われる。
  次に、意識・無意識・前意識に注目した心的な面での内・外の関わり方を見てみたい。人間の心的装置を分析したフロイトは『自我とエス』においての内部と外部の関係は、「自我はなによりも身体的であるが、…身体の表面の心的な投影とみなすことができる。…これは心的装置の外面を代表するものである」とある。
 このことは、ブーバーが言う<われ−それ>と<われ−なんじ>の世界が転換を境に表裏一体であるというように、西田の言う「行為」が自己と世界とが相互に関わり、繋がっていると同じように、個人の性格をつくる内的存在の(人間の多様性を生む)自我も、身体という表面と心的な内面が両方関わり合い一つの形、人をつくりだしているということである。「外部の知覚と自我の関係は非常に明白なものであるが、内部の知覚と自我の関係にはまだ特別な研究が必要とされる」というフロイトが言うように、更に心的なものに拘り理解を進めていこうとすると、外部の近くは意識されえるが、内部の知覚は無意識と意識上に現れるチャンスを持たない前意識に関わっている* 8 ことから、《こころ》の存在について全てを語ることはできないのを知るのである。


A 内なる世界

 人間に具わる《こころ》には、個々人の特徴(性格)や、文化の多様性を生みだす自我と諸所の欲求を訴えるエスが存在する。心的装置全体である《こころ》を個々時々で見ると、多様で、気まぐれで、当てにならない。それは、外界の事象に触発され、起こす衝動と傾向があるからである。しかし、発想の転換とも言える《こころ》のきまぐれがなければ、独創的なものは生まれない。全体的な大きな流れで見ると、《こころ》が創り上げる全体像が浮かび上がる。多様に存在する精神的風土は、土地に生きる個々の人間の《こころ》が作用し、できあがった全体的な雰囲気であると思われる。捉えようのなく、規定できない人間の不思議を生んでいるのは、《こころ》なのである。人間だからゆえに可能なことは、よい面も悪い面もある。《こころ》が多様な文化を生み、独創性を生むときもあれば、その感受性の強さから人を傷付け、自分をも死に至らす力をもつ。しかし、そんな人間らしい醜さをもつために、永遠の不思議を負い、悩ましさが生まれ、「思考」から「表現」する行為を生じさせ、自分以外の存在と共に生きようとする。不思議のない、完全で絶対なる存在にならないことで私達は、人間として繋がりの中で生きているのである。
 この人間らしさは、《こころ》にあり、それが生み出す'想い'を《感じるこころ》の姿勢が、あらゆるものを繋げる重要な役割がある。感じるこころは、自然界に生きる人間が、内界と外界の様々な目に見えない電波を感じ取るアンテナであるのようなものである。目に見えるカタチは、受信後広がる世界のものである* 9



4、世界の流れ

 現代社会は、長い歴史が育てて守ってきた習慣・しきたりを習うよりも、それらを否定し、常に可能性を追い求め、新しい発想と価値を生み出す時代である。近代市民社会以降、「自由」「平等」の概念がヨーロッパ世界に波及は、時代をおってそれらの概念を人間として生きるための権利と認め「人権」が成立し、世界に広まった。当時の「自由」の概念は、自らを規定する「自由」=「自律」であり、あらゆる人間の可能性を突き進めることになった* 10 。因習に囚われないことで、可能性の追求欲求拡大し、新しい発想とそれに伴う技術の発達はより便利な社会を生み出した。
 技術の発達は18世紀に産業革命を、20世紀にIT革命がもたらされた。その間、近代資本主義経済は世界を横行する存在と成っていく。その発展の重要な推進力が、ウェーバーが言うように「神の栄光を増すための「道具」として、世俗的職業のために進んで刻苦精励するというプロテスタンティズム精神」によって支えられていた* 11 とすると、その他で広まった資本主義経済は、異なる面を持つはずである。それは、のちに日本を例に見てみる。
 いよいよ21世紀、IT革命によるインフラ整備で世界中が繋がる大きな可能性を用意した。多様な世界を皆が同じスピードで歩むるよう急き立てている。ついて来られないものは、放って置かれ、立場の弱い存在のようになる。情報技術によって、世界は開かれ、繋がっていくように見え、それに伴って急速に単一の世界観に覆われつつある。グローバル化である。政治・経済を中心とする単一の世界観が、世界を競争の渦に巻き込んでいる。利害と競争とスピードの世界である政治・経済が中心にグローバル化が進めば、資本主義経済を担ってきた欧米型の中心の社会現象が波及することになる。現在、日本のビジネス界も完全に巻きこまれている。
 世界で'経済的'に発展した国として生き残るには、「スピード」「論理的思考」「コミュニケーション能力」と言ったスタンダードに従うしかないのだろうか。しかし、世界は経済と政治でなりたっているのではない。世界には、多様な精神文化が存在するのである。それぞれの価値観があり、歩み方がある。「グローバル化は、多様性を受け容れない。そうした単一性への反発として、今多くの国々が、表面的にはグローバル化へ向かいながら、深層においては、民族主義やナショナリズムに回帰しようとしている。日本にもそうした〈ねじれ〉現象が見えるはずだ」とうような* 12 グローバル化の危険性を問う声も多くきかれる。ITで世界は広がり、繋がっているように見えるが、次第に人々の心は凝り固まっていっているのではないだろうか。現在起っている社会の問題は、過去との繋がりにおいて起った結果である。その繋がりをおっていくことが、問題の本質を認める手がかりを与えてくれる。現代社会が示す問題の原点を見つめなおすこと、隠れている事実にじっくり耳を傾けることが、必要とされる。
 従って、現在にまで世界に影響を及ぼした近代市民社会での「自由」概念を探っていく。その概念をはっきりと示しているカントの倫理学でみていきたい。そして、どうして'想い'(カントが描いた理想)の部分が時代に浸透せず、自由の概念だけが人々の中に残り、今の形に変化したのかを探ぐっていこうと思う。
カントが自由意志を規定しようとした背後にある'想い'は、何であったのだろうか。



5、理性的存在者

@自由意志を持つ存在者

カントが生きた時代(1724〜1804)は、自然科学の繁栄をみていた。人間の知の可能性が哲学的問いにも影響する。カントは考えられる範囲を全て規定の縄で縛り、意志を自由=自律の概念と規定し倫理学を論じる。同時にそれは、知の限界をしめすことになる。
 人間がもともと道徳法則を具えていると考えるカントは、道徳性が「ア・プリオリな原則」に基いたものでなくてはならず、「いっさいの経験的なものを排除した純粋な理性認識としての道徳形而上学」* 13 で成り立つ'理念'が存在しなければならいという、『観念論』の立場をとる 。それは、具体的事実の完成的経験こそが認識の前提てあるとするイギリス『経験論』・『合理論』の批判的立場から生まれたものであった* 14。理性という人間知を掲げ、理性的存在者は「それ自体が立法者であり、法則であるという自律した自由な意志」に従い、実践することを望んだ。向かうところは善(普遍的原理)であった。常識などの道徳法則と畢竟に同一であった。
 カントのアプローチは、他律でなく自律した意志(自由意志)で、普遍的法則である道徳律の理念を作ろうとした。意志が自律することで、必然的に法則に従うという義務を生じ、人間が自己の欲求にだけに操られることのないようにする。言換えると、道徳が、普遍的法則を考えない傾向や関心を生み出す自然的法則に従う感性界の影響をうけることを避けようとしたのだった。 
 しかし、「我々のように、理性とは別の種類の動機であるところの感性によって触発されるような存在にあっては、理性がそれ自身だけで行為を規定することは、必ずしも実現されないのである* 15」 カントは'我々'という言葉で、多くの人が理性で行為を規定することができないことを考慮している。従って、'我々'のために少しでも理性が示す'べき'の世界に従うように、「理性的存在者は、感性界に属する限りでは自然法則に従っているし、可想界に属するものとしては、自然に関わりのないー経験にもとづくのではなくて理性に根拠を基くような方俗に服従しているのである* 16」 といい、可想界おける法則を持ちながら、それを導き出すのに経験的データである'直観'の力を要することがあると述べている。
結局、形而上の道徳法則実践に、感性界に属する'直観'の能力と理性が掲げる理念に寄せる'尊敬'の念に頼りを寄せる。観念上の法則は実践には、経験によるところの法則(自然法則)を否定しながらも感性界の影響を受けずにはおれず、人間はどちらかに従うと規定することできないのである。

 
A 「自由」の変遷

 カントは、理性的存在者が必然的に善に辿りつくことを前提に、自由意志を規定することを試みた。そして、自ら律する自由の概念が、近代市民社会以降の意識が広まっていく。当初その概念は、自律の概念に法った責任・義務が伴う制限のあるものであった。また、その特徴として「人間において純粋に能動的と思われるもの(直接に意識に達するもの)に関したは可想界に属するものがあることを認めざるを得ない、だが人間は、可想界についてはそれ以上のことは知らないのである。(P、153)」、とあるように、自由意志を自ら律することを可想界にある理性の働きと規定はしているものの、それ以上は分からないと述べ、分からない範囲を、更に規定できるようにする「操作できないものを操作可能にする* 17」 可能性の操作までには至っていない。後の自由概念に対する理解とは、異なるものである。「近世的自由とは自己規定という意味* 18」 であった。
 人々は '自由'を手にしたはずであったが、自由を定義(自己規定)することで、逆に自由の概念に縛られ不自由になってくる。そして、時代を経るにつれ、意志を律する自由の概念だけが広まり、義務・制限が伴うことを忘れ、傲慢になる。
 理性が善意志(普遍的法則)に向かうために規定された自由意志の概念が、フロイトが言う無意識下で動く「未知の統御できない力」に、その概念だけを上手く利用されてしまったのだろうか。
「情熱を含むエスとは対照的に、自我は、理性や分別とでも呼べるものを代表し」「自我はエスに対して、自分を上回る大きな力をもつ奔馬を御す旗手のように振舞う。旗手は自分の力で奔馬を統御しようとするが、自我は借りてきた力を使うという違いがある。…すなわち、自我は、あたかもそれが自分の意思であるかのようにエスの意志を行動に移すしかないのである」* 19 とフロイトがカントの言う感性界と悟性界を含むところを心的装置として分析し、意識と無意識で作用するものを述べている。このフロイトの分析を参考にすれば、人工的知のサイボーグである理性的存在者が持つ自由意志で人間の行為を統御しようというカントの試みは、傾向や衝動を生む自然法則に従うものを統御するばかりか、それに従わずに実践に結びつけるのは難しかったと言う事ができるのではないだろうか。自然的力は、人間知ではコントロールしきれなかったのだ。
 1993年にアルノ・バルッチが『操作万能の自由』と題した講演で触れた内容には、「自由の将来」があった。自由の将来は悪と繋がってくる。悪とは、善に向かうことをしないことを選ぶ自由な意志、全ては自由の為と思いことから、無関心の自由へ移っていく。「このような自由概念、このような自由理解は、近世に始まり、カントによって完成されたもの、つまり自律としての自由とはまったく違うもの」* 20とシェリングが指摘 するように人々の中で自由の概念の変化が起る。冒頭に示した現代社会が思い出される。無気力、自分でよく考えることもなく、規制の概念やハウツウに判断を委ね、消費のサイクルに飲まれる社会。その頃の将来といわれている状況は、今現在として表れているのではないだろうか。
 知による統御も、内なる力の暴れも共倒れとしているのだろうか。自由概念が現代において「無関心の自由」の傾向してが表れたのはなぜなのか、Bで考えてみる。


B '想い'と理論

  ここで、カントはなぜ自由意志という概念を規定したのか、そこにどのような'想い'が詰まっているのか、という問い思い起こさねばならない。17世紀の科学技術の発展が繁栄する世で、「我々は行為において自分自身を自由であると観じはするものの、しかしそれにも拘わらずやはり或る法則に服従していると見なすべきである」* 21 とカントは感じていた。そして、人間にア・プリオリに存在する道徳法則を信じ、義務を伴う自由の概念を唱え、人間の行動に義務から来る規制を与えようとした。彼は「我が上なる星空と我が内なる道徳律」* 22 に限りなき想いを寄せる。カントの人間に対する強い '想い'が世界の名著として、現在も残り読み継がれている著書を残すことになった。'想い'が人を動かし、時代を、人を、全てを繋いでいる。
 強い'想い'は人々に感じ取られなかった。カントの'想い'よりも自由の概念が一人歩きして時代の波で変化させられてしまった。それはなぜか。'想い'を受け取ることをすれば、自然と本当に大切にしなければならないことについて、「考え」始めることができるのである。しかし、人々が物事を、'想い'を重ね合わせ理解するのでなく、ただ理論を発見すること・知ることを突き詰めてしまったため、概念が時代の風潮に飲まれてしまったのではないだろうか。



6、現代社会における日本人

@ 《こころ》の麻痺状態

 21世紀、日本に生きる私達は技術面と権利という外的保証で、「生きる」ためのインフラが整った「便利」な世の中に生きている。しかし、生きることに不自由しない社会で、なぜか私達は生きた気がしない不安定の中にいる。経済中心の社会が抱える'物質的豊かさ'の影にある'心の貧しさ'と言われるこころの問題である。引きこもり、青少年の凶悪犯罪、フリーター現象、援助交際など。精神的なモラル'倫理観・道徳'の乱れも関係している。勉強に対し、働くことに対し、動機がなく、意欲がみられないのは、世の中に希望を持ったり、理想を描くことができないからである。「平和ぼけ」という表現までされる日本人。生命維持に懸命にならなければならない状況では、このような事は起り得ない。生きる'保証'はされたものの、どうしていいかわからず、生きがいや自分の存在価値を見出せず、確認できず、或いは確認せず、現代人のこころはさまよっている。それを不安に思うばかりか、不安を考えないことで紛らわし、皆で'普通'の状態を作り出している。そして、皆と同じであることに満足し、消費のシステムに身を委ねている。オルデガが言う「大衆人とは、生の計画がなく、波間に漂う人間」* 23 ににていはしないか。西欧で過去に起った現象が、日本で現在表れている。何か社会状況に共通点があるのかもしれない。最低限生きるためのインフラが整うまでは、「生きること」に懸命になるが、一旦ある程度整ってしまえば、生きる気力が萎んでしまうのである。或いは、有り余った「生きる力」が、力を注ぐべき場所なく漂う。そして、行き先に現代が用意していたのは消費社会だったのだろうか。それは、経済価値中心でまわる社会である。
 私達は、このような経済中心の社会で、消費のシステムに乗っかって生きている。「生きる」ために必要なこと全てが、お金で済ませるようになったがために「お金を稼ぐことさえすればどうにか生きていける」という感覚が付いている。お金の存在は「生きること」と切り離せない地位を獲得している。このことは、以前自分で生きるために工夫・努力してきた動力をお金で済ませるようになったことで、その動力の過程で自然に学ぶことができる「生きる知恵」を得る機会を失ってしまった。つまり、生活をしながら「生きること」について自ら「感じ」「考える」という機会失ってしまったのであり、現代社会が抱える全ての問題の原因がここにあるように思われる。
 更に、現代社会はあらゆる物に可能性を見つけ、開発し過去以上の新しいことを考えていかなければならない。それには、相当複雑な思考作業が必要となる。そして必然的に、その複雑さを倦厭する人々が増える。多くの人が、既成の事柄に従い、「世界に驚き」「疑問に思い」「考える」ことを止めてしまった(或いは止めさせられている)。社会は、お金を目的とした集団にいる者が開発側にまわり、「考える」作業を担う。発展した社会でその複雑さを考えることを止めた「従う」人々と、無意識に考えることをさせられないよう「操られる」人々が増えている。生きる力が弱った人々が集まる社会はこれからどうなっていくのだろう。


A 対話する《こころ》

 現代人の多くが、人間として生きるあらゆる感覚を消費に委ね、生きることでさえ消費だと思いこまされている事態を深刻に見つめ直す必要がある。人間が持つ能力である「感じ」、「考えること」を発揮せず、人間として「生きること」感覚を麻痺させている。主体的に考えなくなってしまった人、そうさせられてしまった人は、「考える」人間としてどこか無理があり、苦しんでいる。本来、気付き、考え、対処するべきことを'気付かない'でいることは、人にとって辛いことなのである。社会問題は、個々の無意識のつらさが全体のものとなって浮かび上がった現象であるように感じる。
 人間は、怪我をした時、肌に'痛い'と《感じる感覚》や目が訴える痛そうな《感じ取る感覚》を持つ気付かなければ、大事に至る前に処置ができない。対処せず、放っておくと人はどうなるだろう。自然治癒力で治るか、ひどければ傷口が酷くなり死に至ってしまう。病気も同様、どこか調子が悪いと気付かないとき悪化して、死に至ることがある。痛み、調子の悪さを感じることは、自己の生命維持の機能なのである。
 社会問題が浮きあがっている現代人が抱えている'辛さ'はこの機能と同じではないだろうか。人と人との関係に生きる人間が生命共存するために、何かを気付いてほしい、気付かなければならないと身体が訴え、「生きる」ことについて「省察する」という対処を望んでいるのである。しかし、人々は気付かない、考えない。消費活動の忙しさが、その警告を感じ取る感度を麻痺させている。こうして知らぬ間に傷を深めいるのが、現代社会に思われてならない。
  最低限の、いやそれ以上の生きるインフラが整った先に見えた新たな課題である。物質的に貧しい生活を送っていても、「生きる」ことに懸命である時、人間は生き生きしている。それはなぜだろう。それは、人は生活を楽しみ、生きることに喜びを感じられる心を持っているからではないだろうか。現代社会は、構造的に精神的な問題を抱えるようになっている。改めて、私達は「人間として生きるとはどういうことなのか」を見つ直すことから、しっかりと熟考していくことが必要とされているのではないだろうか。
 そのために、《こころ》にじっくり耳を傾け、自分と取り囲む環境を感じ取り、「対話」の姿勢を始める《感じるこころ》* 24 を育てなくてはならない。大切なことは、耳を済ます姿勢で世界と関わること、精神を自然へ戻すことで始まるのである。



7、日本の精神文化にみる《こころ》

 現代の日本社会は、日本的精神風土が薄れるがまだ残る、第二次世界大戦以後のアメリカナイズされた社会である* 25 。戦後、日本は多くの面で自由と平等を掲げる民主主義のアメリカ的精神に影響を受け、日本人は、ふいに信じる者が当てにならないものであったことに気付かされた状態で、アメリカナイズされていく。経済面では、世界でも認められる国となった。アメリカの資本主義の発達はプロテスタント的精神が支えた結果であったとすれば、その精神を持たない日本での資本主義は、日本人の持つ勤勉性と人間が持つ欲の作用で独自の発展があった。経済面でも社会面でも欧米の影響を強く受け、形式が取り入れている日本だが、独自の精神文化は、一人一人のこころのなかからは完全には消え去っていないようだ。日本の政治体質を見れば、明白だろう。情報公開を推進はしているものの、政治家の悪態ぶりが芽を出すものの闇に葬られる傾向がある。教育現場でも、「プレゼンテーション」や「ディスカッション」というような形式が取り入れられ、積極的に意見を言い合うようになりつつあるが、やはり皆、先生に当てられるまで答えない教室が多く存在する。
 「和」を尊ぶ精神や、日本は持ちつ持たれつの全体性を重んじる精神が軽視されるが、まだどこかで存在しているように感じられる。「日本には、西欧的な自由の概念が育たない」のは、自由に伴う自律が求める「自己責任」については抵抗を感じる人が多い事で分かる。形式的に、自由・平等を手に入れ、自律を主張はするが、どこか責任に対する「甘え」
* 26 が存在する。その「甘え」は、自分のことを他の人との関係性や繋がりの中で生きていると見る東洋的な感覚から生まれ出ているのではないだろうか。日本の哲学者である西田幾多郎は、西洋の形而上学的な哲学を批判し、独断的否原理も前提としないという意味で「無」の哲学を創成し* 27 、和辻哲郎は「人が人との「間柄」の中を生きていることを自明な事実とし」、「空」の運動を唱えている* 28 。日本は、無、空、縁起* 29 などの東洋の精神を多く預かっているといえよう。このような形式的には、欧米の影響を受ける日本だが、根底には精神文化が根付いている。
 繋がりの中で、存在を感じ取る思考をする東洋の精神には《こころ》の作用が強くみられる。以心伝心という言葉があるように、私達は無意識に《感じるこころ》が働いている。西洋では、論理的思考や分析能力が発達してきたが、日本では'わび・さび'や 'しみじみとした情緒を重んじ、'言葉では説明できない何かを感じ取ろうとする精神が存在していた。その日本の精神は、繊細な《感じるこころ》を育てている。私達は、この《感じるここころ》の繊細さを貴重に思わなければならない。形式から欧米志向の習慣が輸入されているが、日本人の独自の姿勢と敏感さを軽視せず、多様性の一つとして、これからも温めてゆく* 30 ことが必要である。日本の繊細な《こころ》のあり様は、現代の凝り固まった《こころ》を活性化し、対話を持つ《感じるこころ》を育てる助けになる性質を持っているからである。これは、日本の心を大切にした西田幾多郎の‘想い’と重なる。
「形相を有となり、形式を善となす泰西(西洋)文化の発展には学ぶべきもののあまたなるは言うまでもないが、幾千年来我等の祖先を育み来た東洋の文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといった様なものが潜んで居るのではなかろうか。我々の心はこの如きものを求めてやまない。私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのである。」(西田幾多郎『働くものから見るものへ』)



8、《こころ》の自然状態

 私は、前レポートで「判断」をテーマにした。しかし、歴史を追い、文献から知識を得れば得るほど、何が正しいのか、そうでないのかという絶対的な判断をするという気持ちが薄れ、何を守り、大事にすべきなのか、という考えが湧いてきた* 31 。そもそもどちらかが正しいか、そうでないかという判断をしてしまうのがおこがましいことなのである。二元的なものの考え方をする影には、何かを決めたいという意志がわくからではないだろうか。物事はっきりさせ、判断決断をするには、そういった二元的なものの見方が必要となる。それは、世界を覆おうとするグローバル化にも見られる傾向である。
 二元的なものの考えで浮かぶのは、ディベート * 32 である。ディベートを行なう際、反対側と肯定側に分かれて言い合うのは、まさにひとつの答えを導き出そうとするためである。しかし、物事はあっちか、こっちかで片付けられない。それぞれそれなりの存在価値があり、理由がある。ディベートで大切なのは、そうした両者のもつ内容を学べる機会として意味があるのではないだろうか。しかし、二元的モノの考えでは、やはりどちらかを有利にするために、データを持ち寄り、証明することに必死になる。その競争に目をくらませてしまえば真実が見えにくくなる。見えたとしても、見てみぬ振りか、それを隠そうとするか、別の解釈で反転させるのである。歴史的な哲学闘争も、一つのものの見方が発表されれば、それに反対する理論が浮かび上がり、その繰り返されてきた。何かをしってしまおうとすると、どこか知ることができない空間が見え始める。これは、次々に現れる不思議の世界は、知ってしまおうという欲深い人間に与えられた試練なのかもしれない。
 問いに決着をつけるのは、自分自身であるような気がして成らない。いくら分析し、答えを出したからとて、生命が誕生し、亡くなり、ゆったりと流れ自然のサイクルは変わらない* 33 。人間の思考がどれほど進もうとも、自然の謎は範囲をもたない。自然の中で生きることは、分からないものがある敬虔な姿勢を学ぶ。敬虔さは、あらゆるものから学び、感じ取るこころを育てる。人間は、自然の流れに身を任せ、そのなかの一存在であることを自覚し、自然の中にある存在として生きることが大切なのである* 34 。そのことを感じるには、《こころ》が凝り固まっては無理である。凝り固まった現代人の《こころ》を、《感じるこころ》であるよう活性化させなければならない。
《感じるこころ》は、自然的存在者である人間に具わる自然である。常に開かれていることがその本来の状態であり、そうすると自然におおらかな人間としてゆったりと生きることができるのである* 35 。 それは、環境を、他の人の空気を感じ合い、繋がりを以って共に生きることができるからである。



9、最後に 

私は、色々な文献を読み知識を得る中で、様々なことに驚き、不思議が広がる体験をした。今まで見なかったことに目がいき、感じなかったことを感じるようになった。が突然、自分が見ているもの、感じること、考えること全てを疑うことになった。自分が感じていること、考えること、全ての認識は人間の認識能力の範囲内で捉えているに過ぎないことを知ったからだった。何もかもが信じれなり、身体が固まった。それでも、思考は止まるところを知らなかった。確実に自分が存在していると確信できることを探し始めた。確かに様々なものに囲まれ「生きている」と感じる。息をしている、見ている、考えている、戸惑っている…。しかし、このような疑問も意識上のことでしかないことに気付き、どうしてこのようなことを考えようとするのか、悩み、戸惑った。容赦なく疑問の連続が思考の中で進んでいくことが怖く、自分の頭を刻みたくなった。そして、こうして考えることまでが、自分が考えられる思考能力の範囲であるかもしれないと思うと、今まで軸と成っていた認識が突然、当てにならないものになり崩れ去ってしまったように感じられ、途方にくれてしまった。
 更に、'途方にくれる'という気持ちがどうして生まれてくるのか?という留めない疑問の世界へ引きこまれていった。この果てしない思考の世界を抜け出すために、限られた認識を自覚し、何かを仮定し、それを信じることから始めることしかないと考えた。
考えられずにいられない私達人間は一体何なのか。
生きるとはどういうことなのか、という問いが頭を巡った。
 現代文明の危機を見、対話的思惟の重要性を通じて人間のあり方を問うたマルディン・ブーバーは『我と汝』でこう記している。
「世界の成り立ちとその消滅は、わたしのなかにあるのではない。しかし、わたしのそとにあるものでもない。およそ、これらは存在するとは断言できない。…わたしが心の中で世界を<肯定する>か<否定する>かによってそうなるのではなく、世界にたいするわたしの心の態度が、生命へと向かうかどうか、いいかえれば、世界に働きかける生命となり、それが真実なものに生命が高まるかどうかによるのである。」* 36<われ>と<なんじ>の全人格的な呼びかけと出会いを通じて、全てが生きるのである 。
『我は我と我が環境なり』というオルデガの哲学の基本的原理はこうである。
「生が根本的現実であると規定することは、生が自我及び事物に先行するものであることを意味する。即ち、自我も事物も生に対して二次的であり、生の構成要素であり、生から派生した、あるいは、生に根ざした現実なのである。」「生とは、自我と事物である。…生は私に与えられたものであるが、既成のものとしてではなく、逆に、継続的に為すべきものとして与えられたものである」これは、環境と自我の作用が相互補完的に関係することで現実になる。つまり、相互補完の関係の中で「私と私の環境」が存在するのである* 37
 私は、文字からの知識、環境との関わりを通して、疑問を持ち、考え始めた。そこから驚いたり、怖がることが生じ、感じたことを考え始めた。そして、伝えようとする行為を通して、不思議の世界を《感じる》存在を自分の内に認めた。最初に、外界から感じることがあったから全てのことが生じた。私は、このような循環の中で「生きている」ということを実感した。
 現代社会には、刺激はあるが、内部に考えることを訴えるものではない、或いはそうさせない消費に全てを促す仕組みが成り立っている。だから循環がうまく働かないのである。個々人は、自分で生について感じ、考える機会を持つ余裕を与えられていないのである。故に、私は考えることを導く《こころ》の活性化を考えた。
 「自己の態度をたんに〈体験する〉だけにとどめ、心の中だけに終わらせてしまうひとは、どのような深い思索にひたろうとも、世界は存在しないのである。 自己の内部でのみ解決を求めているかぎり、ひとは世界を愛することも、悩むこともありえない。* 38
  世界が存在しないというのは、全てが存在しない、生きないということである。故に、私は思索したことを一生懸命表現し、全ての存在を証明しようという'想い'が生じた。その想いとは、考えることを倦厭する現代社会における多くの人々が人との繋がりに「生きている」ことを実感するために《感じるこころ》の活性化が必要であるということである。凝り固まった《こころ》を《感じるここと》に育てことが、受け取ったものを、深く考え、表現し、伝えていくという人間にとって自然な行為 * 39を導く。そして、その循環が人と人を繋げ、繋がりに「生きる」喜びとなる。
 世界が広がりを持つ時代において、私達は多様な価値を認め合い、共存することが求められている。共存とは、全ての存在が相互に関わることで、お互いの存在を自覚し、繋がりの中で共に生きることである。人と人・人と自然の関係がそれぞれに存在を自覚ししながら、関係において一つとなる。人々が人・自然と対話するなかでお互いを感じ合い、響かせ合うことが、世界を生かす。「世界のいぶきに触れ」* 40、思索、表現の活動から全てを繋げるのは、《感じるこころ》とそこから生じる’想い’である。こうした連関の中で、私たちは自然の一部である自然人として「生きる」第一歩を踏み出すことになるのである。





- 脚注 -
* 1 日本経済新聞 味文化 小池昌代(詩人)『語るということ』1月《本文
* 2 老子の「無為自然」的存在である。カントの言う人間知で規定された自由意志に従う理性的存在者に対して、自然の流れがゆく道に従い、自然の一部として存在する人間を「自然人」「自然的存在者」と呼ぶ。《本文
* 3 マルティン・ブーバー(植田重雄訳) 『我と汝』  「関係の目的は、関係する自体にある。たんに自己のうちにだけでも、またたんに自己の外だけでもない存在と分かち合うのである。すべて現実とは、わたしが多の存在ととともに分かち合う働きであり、わたしだけで自分のものとすることはできない」p、80 《本文
* 4 同上p、119  「内への集中と外への活動、その双方は、一つにして他であり、また一つであることを真に必要としているのである。」世界は、<われ−それ><われ−なんじ>という人間の取る二つの態度でわけられれ、私達は、<われ−それ>の世界(外への活動)を通して、内への集中「転換」によって、<われ−なんじ>の世界が開ける。その世界に気付くことが、真理や本質に近づくことであり、神の側からの救いを意味するという。《本文
* 5 同上 「愛は<われ>と<なんじ>の<間>にある」《本文
* 6 同上 本質行為について、 「芸術化は、自分の周りにあるものから、声のない声を聞こうとする。そのために自分のできるかぎりの力を注いでいる。(p、17)」 「転換とは、注意点を再認識すること、<自己を再び方向づけること>である。このような本質行為においてこそ、閉ざされた関係の力が再び人間によみがえり、全ての関係の波は生き生きとした本流となって、われわれの世界を新しくするのである。(p、126)」《本文
* 7 同上 p、107 《本文
* 8 S.フロイト(中山元訳、竹田青嗣編)『自我論集』ちくま学芸文庫 p、217
 フロイトが描く内的構造は、知覚システムが自我の上にのっている範囲に 限って自我はエスを覆っており、自我とエスの間に明瞭な境界はなく、自 我は下の方でエスと合流しているという。  理性や分別と呼ばれるものを代表する自我は、情熱を含むエスという奔馬 の旗手であり、統御しているようで、エスの意志に従う事が多いという。 《本文
* 9 マルティン・ブーバー(植田重雄訳) 『我と汝』 岩波書店 
  「〈言葉〉は本質的に啓示の中にある。」p、150   「転換が行われるとき、神の<言葉>がこの地上に生まれ、自己の存在 の拡大にふけるとき、神の<言葉>は、宗教という一個の となる。また 新たな転換が行われると神の<言葉>は、再び を得て飛翔するのである。 」p、146‐147 《本文
* 10 アルノ・バルッチ(鎌田康男訳)『操作万能の自 由』p、3 近世の自由の本質は、自律の原則にあり、「操作できるもの 作万能の自由」」であると表現した。そのありかたには「近世に準備され、 現代に至って大勝利をおさめた「自由」が脈打っている」という。《本文
  * 11  ウェーバー 『プロテスタンリティズムの倫理 と資本主義の精神』 p、121参照 《本文
* 12 日本経済新聞 2002年1月27日 「海亀熟とクレオール」参照 宮内勝典 《本文
* 13 山川出版(全国歴史教育研究議会編)『世界史B用語集』 p、57参照 《本文
* 14  同上 p、133参照 《本文
* 15 カント(篠田秀雄訳)『道徳形而上学原論』 p、147 《本文
* 16  同上 p、155参照 《本文
* 17 アルノ・バルッチ(鎌田康男訳)『操作万能の自由』人間存在論1995第一号 p、2参照 《本文
* 18 同上p、9 《本文
* 19 S.フロイト『自我論集』(竹田青嗣編、中山元訳)ちくま学芸文庫p、222-223 《本文
* 20 アルノ・バルッチ(鎌田康男訳)『操作万能の自由』p、9 《本文
* 21 カント(篠田秀雄訳)『道徳形而上学原論』岩波文庫 p、149 《本文
* 22 同上 表紙参照 《本文
* 23 オルデガ(高橋徹編)世界の名著68『大衆の反逆』中央公論社 p、420参照 《本文
* 24 《感じるこころ》とは、対話の姿勢を持ち、何かを感じ取ろうとすることである。  鷹田清一さん(哲学者)の記事より。(日本経済新聞2001年1月)  「聴きたいことほど、聴けないという話をあるホスピスのベテランさんから聞いたことがある。聴くというのは本当にむずかしい。聴き過ぎてもいけないし、聞き流してもいけない。ひとはこんとうに苦しいことは口にしないものだし、自分にとって本当に大事なことを語る前には深く黙り込むものだ。つまり、辛抱強く待つ耳があってはじめて、言葉が生まれる。それでも聞くことが大切なのは、ひとが苦しみについて語りだすとき、…これまでとは違った仕方でかかわろうとしているからだ。…ホスピスの看護婦さんは、言葉を待つときに、そっと蒲団の上に手を当てておられる…耳でなく手で聴こうとなさっているのだろうか。」 《本文
* 25 岡野守也 『自我と無我〈個と集団〉の成熟した関係』p、26参照
「日本では、西洋の影響をうけて明治の自由民権運動や大正デモクラシーがあったとはいっても、敗戦を経てようやく、なかば強制されて」「個人には独自の尊厳・権利があって個人が共同体にまったく埋没してしまうことは、いいことでなければ、人間のあるべき本質でもない」という西洋で近代以降に広まった自由と平等を掲げた民主主義の精神が社会全体の意識に広まった。 《本文
* 26 土居健朗 『甘えの構造』  明治以前から日本人の道徳観を形造ってきた義理人情が甘えの心理を中核にしたものであり、敗戦後の被害者意識が甘えと密接な関係を持つという。 《本文
* 27 田中久文 『日本の「哲学」を読み解く』p、16参照
「世界というものは絶対ない、無である。しかし、無であるということそれがすなわちわれわれの個物を成り立たしめるところの意味をもっている本当の世界である。」(「現実の世界の論理的構造」) 《本文
* 28 同上 p、68,69参照
「人は絶えず他者からしてある、負い目を持っている、他者に依存している、従って人の自性は否定されねばならぬ。その意味で人の本質が食うであるということは当然の帰結である。」(『弁償法的進学と国家倫理学』)《本文
* 29 般若心経 空:実体として、主体として、自性としては捉えるべきものはない。これを空と言う。縁起:全てが関係し、繋がって存在する状態。空に繋がるもの。《本文
* 30 孔子(貝塚茂樹訳)世界の名著3 p、80
  「子曰く、古きを温めて新しきを知る、以って師と為すべし」《本文
* 31 藤原雅彦(数学者)日本経済新聞 2001年11月9日夕刊『日々ひらめきD』
「世の中には絶対正しいとか、絶対誤りということはないが、論理的に正しいものはごろごろある。どれを選ぶかを決めるのは結局、情緒。もののあわれがわかり、美しさに感動する心を育てる教育こそ総合的判断力を養うのに重要となる。」「数学は美と真理を追究する人類の重要な文化だが、私は知的喜びを無邪気にもとめてきただけです。しかし、論理構造を見ぬく訓練だけはしてきました。最近の日本はいたるところ美辞麗句で飾られています。だから、せめて数学で培った構造を見ぬき本質に迫る力を社会に還元したいと思う。」  自分が取組んでいるものに‘想い’が生じたとき、転換という本質行為が生じ、人は人との繋がりを求める作業をしようと思うのではないだろうか。《本文
* 32 広辞苑 第四版(新村出編) 岩波書店 p、1751
ディベートdebate:あるテーマについて無作為に肯定側と否定側とに分かれ、同じ持ち時間で立論・尋問・反駁を行ない、ジャッジが勝ち負けを宣する討論。《本文
* 33 孔子(貝塚茂樹訳)世界の名著3
 「天は何を語るだろう。それでも四季は運行し、万物が生育する。天は何を語るだろう」師の説明を求める弟子に、天の運行の規則性などを手がかりにして自分で学び取るよう、自然の営みの中で天命の問題を根本的に考えていた孔子から出た言葉。《本文
* 34 マルティン・ブーバー(植田重雄訳)『我と汝』
ゲーテの豊かなわれ:「自然と純粋な関わりをなす<われ>である。…自然は彼に見をゆだね、たえず彼に語りかけ、その神秘を明かに示しはするが、けっして自然の神秘を欺くことはなかった。ゲーテの<われ>が自然を信じ、」自然に語りかけた場合、彼の<われ>が自己の内面に心を向ける時、現存の精神が彼のもとにとどまり、…死して成る静けさへと人間を導くのである。p、85参照 《本文
* 35 オルデガ(高橋徹訳)
『オルデガに置ける人間は、それぞれが他と交換できない、不可還元的な「単独者」として「徹底的な孤独」のなかに生きると同時に、個人は他に向かって「開かれた」存在として、「共存」に向かってのこれ、また「徹底的な憧れ」の中に生きるものであった。』 《本文
* 36 マルティン・ブーバー(植田重雄訳)『我と汝』 岩波書店 p、118、表紙参照 《本文
* 37 世界の名著68(高橋徹訳)『マンハイムとオルデガ』 p、80(神吉敬三訳)参照 《本文
* 38 マルティン・ブーバー(植田重雄訳) 『我と汝』 岩波書店 p、118 《本文
* 39 同上 p、119  「ただ世界を信ずるひとだけが、世界とともに自己のなすべきことが分かる。」
* 40同上 p、119 《本文






− 参考文献 −
ウェーバー(尾高邦雄編) 世界の名著61『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』   
 中央公論社 1998年6版発行
オルデガ(高橋徹編) 世界の名著68 『大衆の反逆』 同社 1999年8版発行
孔子 孟子(貝塚茂樹編) 世界の名著3 『孔子』 同社 1999年7版発行
カント(篠田秀雄訳)『道徳形而上学原論』 岩波書店2001年 第57版
マルティン・ブーバー(植田重雄訳) 『我と汝』 岩波書店 2000年 第31版
S.フロイト『自我論集』(竹田青嗣編、中山元訳)ちくま学芸文庫 2001年6刷発行
老子 上扁 ゼミ配布プリント
般若心経 中村元、紀野一義訳注 岩波文庫 33−303−1
アルノ・バルッチ(鎌田康男訳) 『操作万能の自由』 人間存在論1995第一号
田中久文 『日本の「哲学」を読み解く』 ちくま新書 2000年第一版 
岡野守也 『自我と無我』 ちくま新書 2000年 第一版
土居健朗 『甘えの構造』弘文堂 平成13年 新装版第一版
広辞苑 第四版(岩村出編) 岩波書店 1991年第四版第一刷発行





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